沖縄・与那国島サトウキビ刈り援農隊

ニライの海を超えて 与那国島サトウキビ刈り援農に考える   藤野雅之
     沖縄の郷土月刊誌「青い海」第83号(1979年6月号)掲載



与那国島にCTS設置か

 与那国島にCTS(石油備蓄基地)の建設が計画されているという報道を知ったのは、二ヵ月にわたるサトウキビ刈り援農が四月上旬に終わり、東京へ帰って一週間後のことだった・わたしはこの報道に大きな衝撃を受けた。が、同時に最初に感じたのは「やはり、そうだったのか」という思いであった。と言っても、わたしは事前にその計画を知っていたのではない。むしろまったく知らなかったのだ。
 四月初めの一週間、わたしはキビ刈り援農の終了に合わせて与那国島に渡った。その滞在中にもCTSの話はまったくなかった。あとで聞くと、三月の町議会で質問が出たらしいが、それさえ援農隊のだれも耳にしてはいなかった。
 それでもなお、わたしが「やはり、そうだったのか」という感慨を抱くのは、この四年間、毎年援農隊とともに島へ通い続けてきたからである。わたしたちが単に旅行者として島を訪れたのならもっと別の感想を持ったかもしれない。この四年間、わたしが与那国島を訪れるたびに、また東京での日常のなかで思いをめぐらし続けてきたことがある。それは国家と辺境という問題として設定してもよいかもしれない。辺境は国家の鏡ではないかということである。国家の矛盾の集約的な表現が辺境には顕著にあらわれている。与那国島で見たのはそのことだった。その矛盾のひとつが、わたしを援農隊というかたちで島へかかわらせる契機にもなったのだ。

 日本復帰の七二年同時に日中国交回復の年でもあった。日中国交回復は与那国島にとっては台湾との国交断絶ということ以外のなにものでもなかった。それまで長年、与那国島に多くの台湾人がキビ刈りの出稼ぎに来ていたのだが、この時を境に途絶えたのである。その代わりに考えられたのが、復帰特別措置による韓国人労働者の受け入れであった。しかし、それも三年プラス一年で打ち切られた。

辺境・与那国島から日本が見える

 かつては一万人を超える人口をもっていたこの島も、近年は急激な過疎化によって二千人余に落ち込んでいる。この過疎化自体が、辺境の矛盾そのものであるのだが、一衣帯水の目の前に見える台湾との交流が断ち切られていることに、わたしは八重山の、とくに与那国島の現況のひとつの本質が隠されているように思う。わたしのわずかな八重山の歴史の知識によっても、この辺境の島々が台湾からどれほど恩恵を受けて生活を築いてきたか。台湾からもたらされた水牛やパインが島の農業にどれだけ役立ってきたか。帰化した台湾からの入植者たちが八重山の農業に与えたインパクトははかり知れないものがあるだろう。

 八重山は日本という国家からみればひとつの辺境の離島群にすぎないが、たとえば与那国島に立ってみると、与那国島の人たちは心のどこかで台湾人の出稼ぎ労働者に対して、自分たちとは異なる人々という目をもちながらも「彼らはよく働いてくれる」といって親近感をも語るのが思い起こされる。それはちょうど対馬の人たちが朝鮮半島の釜山や金海の人々に示す親近の情にも通じる。逆に言えば、それは辺境の人々ほど、辺境同士で結ばれた地域のつながりのなかで、お互いの交流をつちかってきた歴史をもっていることのあらわれであるのかもしれない。わたしはこれをインターナショナルなものの根本だと考えたい。
 ところが近代的な国家関係は、その関係の真っ只中に国境線を引いて分断する。これにより地域同士の自立的な関係において育ってきたものが、地域、ここでは与那国島の人々の生活と無関係に断ち切られてしまうのである。それを辺境にあらわれた国家の矛盾のひとつと言えないだろうか。
 そのような関係をそのまま認めていくと、辺境は単なる辺境にすぎなくなっていく。そのような状況を余儀なくされた与那国町農協が苦肉の策として思いついたのが、本土への援農隊の要請であった。

 この要請を受けたとき、わたし自身、そう深く島について考えていたわけではなかった。七三年に初めて与那国島を訪れ、当時の町長や初代町長でいまでは郷土史研究をしておられる浦崎栄昇氏らに話を聞いてまわった一旅行者としての体験をもつにすぎなかった。それは南島のもつ風土や風俗へのエキゾチシズム以上のものではなかった。だが、その時でさえ、島の伝統のなかにある直接民主主義といってもよいドゥライとドゥムティと呼ばれる政治の方法の話は、わたしの与那国島への愛着を一挙に芽生えさせたものだった。南の離島はほかにもそのような制度を長い時間をかけて作り出しているのだろうが、その時のわたしは知らなかった。
 この制度は、のちに同志会と呼ばれるようになり、地方自治制度の導入とともに、その力をなくしていく。そして今では選挙のたびに島中が激しい葛藤の渦に巻き込まれ、沖縄県内でも"激しい選挙の島"として勇名をはせるまでになっている。わたしは与那国島の選挙を保守対革新といった図式でとらえることに疑問を抱いている。日本の辺境はどこでも同じだが、とくに辺境の地方選挙には、誤解を恐れずにいえば、血縁、地縁、商縁による利害関係集団の仇討ち的な要素が通底しているといえるのではないかと考えている。与那国島の選挙も例外ではない。そして、この傾向は与那国島では年々激しくなっているようだ。それを加速している最大の要因は復帰によってもたらされた本土化の波であるだろう。

近代化に取り残された島の悲劇

 この辺境を吹き荒れる波のなかで、わたしたちは七六年一月に八〇人の援農隊を組織して島へ向かうことになった。しかし、そこでまた島を大きな嵐が襲ったのだった。「与那国町農協不正融資事件」である。組合員外から裏利息をつけて預金を集め海洋博関連事業に投資したところ、その会社が倒産、農協が二億五〇〇〇万円以上の負債を抱える結果になったのである。農協は事実上倒産した。
 この事件は何を意味しているのだろうかとわたしは考える。戦後三〇年近くをアメリカ支配下に置かれた沖縄にあって、とくに八重山の離島の農業は極端に近代化が遅れた。農業の近代化はいまでこそ本土の各地でそのゆがみを露呈しているが、沖縄、とくに与那国島ではまだ近代化以前といってもよい状況にある。農業の近代化を求めるのは島の農民に共通の悲願だといってもよい。その実現をめざして立てられた計画は、現状が遅れているがゆえに実行において性急にならざるをえない宿命をもつ。
 一方で過疎化も性急に進み、一〇年余で五分の一にも減少した。サトウキビ生産量も六五年ごろから減少しはじめ、第一回援農隊が出かけた七六年は原料トン数にして五七〇〇トンだった。最盛期には二万トンを超えていたことを思うと、農業近代化に性急になる心情も理解できるだろう。しかも、この前年、与那国製糖会社が島を引き揚げたのである。老朽化した製糖工場と職員を農協は引き取らねばならなかった。採算のとれない工場を閉鎖するのは資本の論理の必然ではあるが、サトウキビ栽培で生計を営む農家にとっては、工場を閉ざしたままにするわけにはいかない。工場を買い取って自主操業をしなければならない。辺境なるがゆえに受けねばならぬ孤島苦は、近代的な国家になるほど中央との落差においてそれが大きくなる。与那国町農協の事件は、復帰がこの島にもたらした第二の受難だった。

 その年いらい四年間、援農隊は島に通ってきた。しかし与那国島はその間によくなったのだろうか。その問いの前にわたしはいま、即座に「イエス」と答えることはできない。島ではこの四年間に大きな変容が進んでいることは確かだ。電話はダイヤル自動化し、NHKテレビも同時中継になった。食べものもイモからコメに替わり、台風に耐える鉄筋コンクリートの家がどんどん建つ。その変化には目を見張らせるものがある。
 しかし、近代化とはこのような変化のことなのだろうかという疑問がわたしには拭いきれない。この変化のなかで失われていくものもまた大きいのだ。しかもそれは目に見えない。それは島の人の内面にあったものだからである。与那国の島社会を見ると、近年、島人の間の貧富の差がますます大きくなってきたように、わたしには思える。近代的な豪邸と昔ながら赤瓦の木造家屋の対照が島の風景をあまりにあざやかに際立たせているからかもしれない。近代化、本土化がそのような格差の助長でしかないのであれば、それは本来島の人たちがめざしたものであったのだろうか。だが、現実はそのようなかたちで変容している。そういう島であるから、CTSの話を聞いたとき「やはり、そうだったのか」という思いが浮かんだのだった。

自分の運命を自分の意志で拓く

 与那国島のCTS騒動は、復帰後の第三の受難であると言えるかもしれない。四年間この島にかかわってきた者として、今回の問題を避けて通ることはできないとわたしは思っている。とはいっても、東京の一介のサラリーマンにすぎないわたしが思う以上に、与那国島の人たちはいま、自分たちと子孫の将来にかかわる運命の選択の岐路に立たされている。先島ではすでに同じ問題に対して多良間島がひとつの選択をした。与那国島では復帰前後から何度か同様の問題が持ちあがったと聞く。その都度、島の人たちが選んできた選択をわたしは共感をもって受け止めてきた。しかし、これまで述べてきたように、与那国島の現実はあまりに抵抗力が弱いことである。それはなにも島の人々だけに責任を着せられる種類のものではない。
 与那国島の現在の最大の問題は、自分たちの運命を自分たちの意志と力だけによって切り拓くことのできない状況にあることだ。そのことにおいて、人頭税時代も、アメリカ世も、そしてこの大和世も本質において変わりはない。しかし、それでもなおかつ島がCTSを拒否して、農業と漁業を柱とした島を築いていく困難をあえて選ばなければならないとしたら、その困難はわたしの想像をはるかに超えるものになるだろう。
 一年にほんのわずかな期間滞在するだけにすぎない人間に与那国島の運命を語る資格はないかもしれないが、これはもはや資格の問題でもないだろう。私は東京に生活の基盤を置いているが、わたしのなかにはこの社会のさまざまな問題を対応するとき、東京という価値基準だけでものごとを見ることは避けたいという思いがある。そのときのもうひとつの基準として、わたしのなかに与那国島が育ってきつつある。近代化を達成してしまったといってよい東京にどっぷりと浸かっているかぎりでは、与那国島はたんに素朴で自然の豊かな島でしかなかった。しかし、その与那国島がわたしを照らし出すもうひとつの焦点として育ってきたとき、わたしはその焦点を基軸とした現実へのもうひとつの対応の視点を獲得する。それはわたしのなかで常に葛藤を引き起こす。その葛藤の行きつく果てを予測して、なおかつ与那国島のCTSは拒否されるべきだと思われるのである。そして、この四年間の島を見てきて、島の農業にかける思いの熱さに打たれてきたのだ。

 与那国島といえども、そこは人間が生活を営む社会である。さまざまな矛盾を抱えたきわめて現実的な社会である。むしろ個人主義的な東京などでは目にしなくてすむ社会の汚濁が露出していると言ってもよいほどだ。過疎化の背景はその汚濁にもあるわけだが、しかしこの汚濁を拒否して人間の生活などありはしないとも思われる。援農隊の運動にもしい意味があるとすれば、そのような露出した汚濁の体験にあるのかもしれない。農家に住み込ませてもらったのは、島の人の生きざまそのものを体験することにあったからだ。同時に島の農業の抱えている問題をわずかでも共有し、そこから現実を切り拓く構想をその人なりに考える契機を獲得することになる。
 若い援農隊員の多くが、与那国島に自分たちが暮らす日本の各地とは異なる理想をもし期待していたのなら、その理想郷は与那国島のどこにもあったではないかと、わたしはあえて言ってみたい気がする。ある隊員が「与那国島はあまりに現実的だった」と感想を漏らした。それはたしかにその通りだった。しかし、この世に現実以外のものがあるだろうか。理想は理想を求める彼自身のなかにあるように、与那国島の人たちもいまよりは少しでもよい状態を求める理想を心のなかにもって生きている。それをわたしたちは見なければならない。現実はあくまでも出発点なのだ。そして現実はいつでも苛酷である。

海のかなたの理想郷

 与那国島には「大与那国島(うふどぅなん)」あるいは「南与那国島(はいどぅなん)」の伝承がある。「うふどぅなん」あるいは「はいどぅなん」と呼ばれる理想郷が南方海上にあるという信仰は、ニライカナイの信仰の系譜につながるものだろうが、人頭税という苛酷な現実のなかで、現実から離れてどこか別の場所に楽土があると信じて船出する行為に、わたしは島人の想像力の言葉にならない悲惨さを感じる。
 しかも与那国島では、そう信じて船出したのが何百年も前の遠い昔の話ではなく、比川村の誰某氏のおじいさんであったという現実の話として語られるのだ。どう考えても明治になってからの、話す古老にはまだ記憶にある時代のことなのだ。その話をわたしは目の前にすわって話す老人から聞いたときの衝撃を忘れることはできない。島をとりまく海のかなたに理想郷を見ねばならないほどに現実と幻想を融合してしまう苛酷な状況に、実はわたしたちもあるのかもしれない。本土からキビ刈りに島へ来た青年もその意味では大与那国島へ船出したのだったのかもしれない。

 離島の人にしてもそれはまた同じであろう。孤島苦を逃れて那覇や本土に出て行った先には、果たして新の理想郷はあっただろうか。こうして人は現実以外になにものもこの世には存在しないと知る。しかし、人間は生きていかねばならないし、現実を何かひとつでも前進させたいと思う心の乾きもまたそこにはある。そういう人たちが援農隊の呼びかけに呼応してくれた青年たちだとわたしは考えている。そうであればこそ、本土の都市化された空間で生活している青年にとってはあまりにきびしい労働であるサトウキビ刈りに、たとえ二ヵ月とはいえ耐えてこられたのだろうと思う。その労働のなかで、彼らは現実を考え、自分自身をみつめ、そして現実に耐えていった。それは自己自身に課したひとつの試練でもあったのかもしれない。
 わたしはこの援農隊の世話人ではあるが、実際には畑にほとんど出ていないし、まして農家で起居をともにしたわけではない。だから援農隊は、わたしがひとつの契機になったかもしれないが、それを作りあげていったのは、援農隊員ひとりひとりと阿、彼らを受け入れてくれた与那国島の農家の人たちである。それらの人たちにはわたしとは異なる意見もあるだろう。援農隊運動の評価もさまざまであるに違いない。それらの評価をいまのわたしは否定して、自分の観念を押しつける根拠は何ひとつもってはいない。
 しかし、ただひとつ、わたしが言いたいのは、わたしはわたしなりに自分が出会った与那国島の体験を大事にするように、援農隊として体験した人たちも与那国島をそこに人間が生きている島として大事にしてほしいということだ。いまCTSで揺れている与那国島を体験しているのは、島に生まれた人とキビ刈り援農をした青年たちぐらいしかこの日本には存在しないからだ。

古代と近代化のはざまで

 近年沖縄を訪れる観光客は多い。一昨年が百三十万人、昨年は百五十万人を数え、今年は百六十万人を超えるだろうといわれる。しかし、そのなかの何人がこの辺境の島を訪れ、しかもそこに生活する人たちの内面にまで分け入っていっただろうか。また本土の学者や作家など知識人が島を訪れる。彼らは沖縄の古代を賛嘆した文章を書く。そのことはそれなりの意味を持つのだが、その時彼らの内部にある目は近代化された本土の価値にどっぷりと浸かってのものではないのか。沖縄の、離島の古代と近代化のはざまで苦しんでいる人々の苦しみを共にしようという姿勢の文章を、不幸にしてわたしはまだ読んだことがない。そういうわたしが彼らとどれほどの距離にあるかといえば自信もないのだが。他人に対してある言葉を発するとき、その言葉はつねに自分自身にも向けられた両刃の剣であることをじゅうぶんに知りながら、あえてわたしはそれを問わずにはいられない。それがわたしにとっての援農隊へのかかわりの証しなのだからである。(援農舎世話人)

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Last Update:2004/02/01
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