沖縄・与那国島サトウキビ刈り援農隊
五年間の汗 キビ刈り援農運動が提起するもの 援農舎世話人一同
沖縄の郷土月刊誌「青い海」第92号(1980年5月号)掲載
わたしたち援農舎の呼びかけで、与那国島へのサトウキビ刈り援農運動が始まってもう五年が過ぎました。光陰矢のごとし、といいますが、実に月日のたつのは早いものだ、というのが実感であります。わたしたちがキビ刈り援農を思い立ったそもそもの初めが1974年のことだから、沖縄の日本復帰の2年後でした。
約1年半の準備と試行錯誤を続け、第1回の援農隊が与那国島に渡ったのは、1976年1月末のことでした。それから5年間に本土からの青年たちが6回にわたって与那国島をはじめ宮古、八重山へ渡り、サトウキビ刈りに汗を流してきました。その間、地元の農協、農家の人びとを始め、沖縄県農協中央会、沖縄のマスコミや琉球海運、有村産業の海運会社やさまざまな人たちの協力を受けてきたことも忘れることはできません。県庁のなかにも、離島の現状を憂え、わたしたちの運動に好意を持って迎えていただいた方も何人かありました。
そして、まがりなりにもこの5年間の援農隊派遣を続けることができたのですが、今年になって、わたしたちは思いもかけない声を沖縄から聞くことになりました。与那国島への途次、援農隊60人が那覇に着いた日に、沖縄のある新聞で、わたしたち援農舎が、県の離島へのキビ刈り労務に無策であるのにつけいって、本土の新聞に広告を出し、労務者をあっせんしてリベートを取っているかのごとき報道がなされたのです。
たしかにわたしたちの援農運動には問題があります。東京でサラリーマンをしている人たちが集まって行なっている運動であり、厳密にいえば法的な問題もあることは確かですが、この運動でわたしたちが金銭的利益を受けたことは一度もないだけに、この報道には大きな衝撃を受けたのでした。
そこで、このさい、わたしたち援農舎の基本的な考え方とこれまでの運動の経過を沖縄のみなさんに明らかにしておくことがぜひ必要なことであると考えます。
以下は、4人の援農舎の世話人と過去6回の援農隊に参加した人の中からの有志で確認したものです。
(1) 与那国島キビ刈り援農隊の経過
わたしたち「援農舎」は1975年秋に結成しました。新聞記者をしている2人が、以前、与那国島に取材旅行で訪れたのをきっかけに、同島がキビ刈りの人手不足に悩んでいることを知り、与那国町農協から相談を受けたことが出発でした。1972年の日本復帰以後、韓国からの集団労務の提供を受けてきたが、風俗習慣のちがい、言葉が通じないことなどから、韓国人の事故死やトラブルが絶えず、本土の人たちに来てもらえないだろうか、というものでした。
わたしたちは以前から沖縄に何度か旅行し、友人も多く、本土と沖縄の関係についても考える機会が比較的多かったことから、与那国島がそんなに困っているなら、自分たちでできるかぎりの力になろうと話し合って、本土の若者たちにわたしたちの趣旨を、ラジオ、新聞、雑誌を通じて呼びかけました。
そのさい、わたしたちが考えたことは、援農隊は単なる労務の提供ではなく、与那国島でキビ刈りをすることによって。沖縄を、離島の現状を理解しようということでした。理解といっても、頭でするそれではなく、島で生活し、島の農業を実際に体験することで、それはより深まるわけです。
第1回の1976年、与那国町農協が必要としている人数は80人でしたが、私たちの呼びかけに応えてきた人は、実に3000人の多くにのぼりました。ところが、1月の出発直前になって"与那国町農協の不正融資事件"が起きました。農協は事実上"倒産"し、援農隊の受け入れは困難になりました。県は小学生を動員してでも島内で自力刈り取りをせよと行政指導をしましたが、それは不可能でした。多くの困難のなかで、最終的には与儀実弘県農協中央会長や当時の仲本宗裕町長らのあっせんによって援農隊派遣は実現しました。これによりキビの立ち枯れかと心配された収穫も無事4月15日に終わりました。
この年の援農隊派遣の経費は、農協の"倒産"もあって当初の見込みより大幅にふえ、約100万円かかったのですが、これは世話人たちの負担でまかないました。
第2回援農隊は1977年で、当初与那国からの要請を受けて組織しましたが、"倒産"問題の後遺症で、いったん要請してきた農協が受け入れを中止し、また援農隊は宙に浮きました。この年も結局、与儀中央会長のあっせんで、宮古島下地町農協に36人が行きました。
この年、与那国町農協は、片番操業(製糖工場の稼動を24時間から12時間にする)の方針で労務人口を減らし、期間を長くして島内でまかなうという考え方だったのですが、これだとコスト高になり、現実的ではありません。わたしたちは前年の経験から片番操業は不可能だと考えたのですが、県の行政指導もあり、与那国町農協は援農隊の受け入れを中止したわけです。
ところが、宮古島へ援農隊が出発したあとになって、与那国島から「片番操業をやめ、完全操業をするので、やっぱり援農隊を」と再要請がきたのです。援農舎内でのさまざまな討論の結果、急拠再募集して、2月はじめに60人が島へ渡りました。この年の経費も世話人で負担しました。ただ世話人の交通費(東京・与那国島間)の一部を農協から支出してもらった程度でした。これが第3回です。
第4回は1978年。この年は約30人が製糖工場要員として援農しました。この時から募集の直接経費を与那国町農協で負担しています。直接経費とは、切手代、紙代、電話代、事務所の家賃、世話人の交通費(東京・与那国島間。ただし往路は団体渡航の添乗員なので無料)です。事務局には援農隊経験者がボランティアで奉仕してくれています。彼らは電車賃なども自分で負担して事務所に詰め、応募の問い合わせに答えたり、さまざまな事務の作業を手伝っています。
この年工場への援農とは別に、過去2年間続けて参加した人たちを中心に5人が独自に与那国島へ自主的な援農をし、農家の畑作業を手伝いました。彼らの努力が島でたいへんな評判となりました。それまで援農隊は民宿に泊まったり空き家に合宿したりする方法で、工場と畑で作業をしてきたのですが、作業能率は必ずしもじゅうぶん上がりませんでした。とくに畑は、農家より農協所有の農場で、農家の人たちといっしょにキビ刈りをするわけではなく、畑に出てもキビの刈り方などの指導をじゅうぶん受けられませんでした。島の人といっしょなら能率も上がるのですが、援農隊だけだと必ずしも島の人の満足のいくものになりません。隊員も世話人も農家の人といっしょに働けば、もっと満足できる仕事が可能だと考えていました。
5人の農家への自主援農の成果を受けて、1979年の第5回は、各農家に住み込むことになりました。約60人が農家に分宿してその家の畑で働き、10人が民宿に泊まって希望の工場で働きました。この年は農家の人たちにじゅうぶん喜んでいただけたと思います。そして第6回の今年もこの農家住み込み方式で援農を行ない、3月10日に終了しました。
ところで援農隊派遣の経費ですが、この3年間、原則として直接経費を与那国町農協に負担してもらっています。昨年からは北海道からの参加者が半数近くになっていますので、経費もその分多くなっています。北海道からの参加は、沖縄の農繁期と北海道の農閑期がちょうど重なるから、与那国島でも2ヵ月から3ヵ月近くになることもあるキビ刈り期間を通して働いてもらえる北海道の人への期待が高いからです。このため北海道新聞などの協力を得て、同紙で呼びかけ、札幌で説明会を開催していますが、この経費のほぼ全額を農協が負担しているわけです。
昨年から、沖縄の農業についてあるいは沖縄について、みんなで考えていくために「ゆうな通信」を出すことになりました。これに対しては、さまざまな人たちから寄付やカンパ、購読料などのかたちで金銭的な協力をいただいています。与那国町農協からも5万円の寄付をいただきました。援農舎の世話人としての関係で、与那国町農協から支出されたのは、援農隊の募集、派遣に関係した直接経費(それも5回のうち最近の3回だけ)、世話人が現地で働いた期間の日当、そして「ゆうな通信」への寄付だけだという事実を断言しておきます。まして世話人個人の収入となるような種類の金を与那国町農協から支出されたことはまったくありません。
(2) キビ刈り援農についての考え方
これについては、第1回援農隊が終わったあとで「南南西へ針路をとれ!」というパンフレットで明らかにし、その後も「沖縄タイムス」学芸欄や「青い海」誌上などでわたしたちの考え方はアピールしてきました。
援農隊はボランティア運動なのだというのがわたしたちの認識です。それでは、往復の旅費や日当をなぜもらうのか、という疑問が出てくると思います。これには逆に、そういう費用を自分で負担してまで出かけてきてくれる人がいるのだろうか、とかんがえてみればどうでしょうか。それに、キビ刈りは政府補助で成り立っているとはいえ、なによりも沖縄の経済の一部です。生産活動なのです。これを純粋の勤労奉仕で援農することは、理想的ではあっても現実的ではありません。
まして島で2ヵ月あるいは2ヵ月半の生活をするには生活費も要れば、往復の交通費もバカにはなりません。刈り取りが終わって自分の家に戻ってからの当座の生活費も要るでしょう。それに経済活動を純粋の勤労奉仕でまかなうのは、経済のあり方として健全ではありません。そもそも援農に参加してくれる本土の若者たちは、援農の心意気こそあれ、経済的にはそれほど恵まれてはいない人も多いのです。大企業に勤めてお金も持っている人が、離島に無料奉仕で働きに来てくれるわけはないのですから、援農隊員にとっても、また将来の農業の発展をめざす地元にとっても、最低の報酬が支払われてこそ健全なキビ経済の発展があり、また報酬によって援農隊員の労働への責任も明らかになるのではないでしょうか。
わたしたちは以上のように考えます。そして、その上で農家や農協の経済的負担はできるだけ軽くしなければならないと考えます。かつて韓国から労働者が入っていたときには、労働者を呼ぶための経費(渡航費、滞在費、日当は別)が1人当たり4万円近くかかったと聞いています。そのなかには、あっせんする韓国側の期間がとるリベートも入っていたと聞きます。これを負担する農家、農協の経費もバカになりません。
わたしたちが考えたのは、このような経費の面で知恵を働かせて、農家の負担を少なくすることでした。アイデアを働かせて直接経費をできるだけ切りつめようというのが援農舎の考え方です。そして、それをわたしたちは実行してきたと確信しています。今年は4人の世話人が勤務の都合で事務局に常駐する体制がとれませんでした。過去の隊員のボランティアも、それぞれの仕事やアルバイトの都合で、出番を組んでだれかが常駐するという昨年までのような体制を組めなくなったため、学生アルバイトを頼まねばなりませんでした。ここにも5年が過ぎて援農舎の運動の困難な問題が表面化してきています。それはともかく、このアルバイトの経費9万円を農協で負担してもらいました。しかし、そのために他の部分を切りつめ、農協の負担が全体として昨年より上回らないような努力をしたのです。
次に職安法の問題です。援農舎のやり方は厳密にいえば職安法違反になるかもしれません。しかし、それは参加者が全国にまたがっていることからくる職安の事務手続き上の処理が現行では不可能なためです。仮に与那国町農協が全国の職安に募集通知を出し、それによって人を集めようとしても、集まることはないでしょう。それはキビ農業にいちばん身近な沖縄でさえ、職安では集められないことをみても明らかです。まして全国にそれを広げてみても、職安事務の煩雑さを増すだけで効果はまったくないでしょう。
次に、援農隊は職業あっせんに当たるかという問題です。もし職業であれば、労働大臣の認可を得なければなりません。これも厳密にいえば、というより官庁的常識に従えば、そうかもしれません。しかし、失業者が職安に職を求めてくるのは、安定した職であり、離職したときに失業保険がもらえるような仕事でしょう。ところがキビ刈り援農は長くて2ヵ月半ていどであり、終わっても失業保険の対象とはなりません。このような仕事が職業に値するといえるでしょうか。まして畑での労働のきつさを考えると、失業者を対象として募集しても集まらないのは、沖縄県内だけではなく日本全国どこでも同じでしょう。
わたしたちが基本的にボランティア運動だと考える理由のひとつはここにもあります。援農隊の内容と目的を説明して、それに賛同してくれた人たちの離島での生活体験であるわけです。第1回援農のとき、わたしたちは沖縄県職安課を訪れ、事情を説明しました。当時の比嘉労働商工部次長、長島職安課長から一応の了解を得てあります。そのときの沖縄県の回答は「厳密にいえば職安法違反になるが、援農の主旨はよく理解できるので県としては黙認する」というものでした。そして、この援農が世話人の金銭的利益を得るものではないということも確認し合いました。
過去5年間の援農が、沖縄と本土の関係にとってもたらしたものは計り知れないものがあると思われます。与那国島という名は、それまで本土ではほとんど知られていませんでした。しかし、援農に行った人たちやその家族にとってはいまや"第二の故郷"と言っても言い過ぎではないでしょう。過去6回の援農で、1度ならず2度、3度と参加する人が多いのは、そのことを証明してはいないでしょうか。わたしたちはこのことを大事にしたいと思うのです。
わたしたちは沖縄の離島のキビ刈り労働の人手不足を、単なる労務問題と考えていたのでは、この不足を満たすことはできないと思います。それは、この3年間、各離島の農協が本島の職安を通じて募集した結果がじゅうぶん証明しています。しかし、県の鳴り物入りの募集によっても、失業者は離島のキビ刈りに行ってはくれませんでした。その理由はすでに述べました。失業問題は、もっと別の角度から対策すべきでしょう。それは失業者にとって生涯の職業としうる安定したものでなければなりません。2ヵ月や3ヵ月の短期間のキビ刈りではありません。仮に失業者が離島に行ったとしても、2、3ヵ月後にはまた元の状態に戻ってしまうわけなのですから。
失業対策とキビ刈りとが一致しない理由は、@安定した仕事ではないA失業保険の対象にならないB職安を通すために離島で働いている間、逆に失業保険の給付を止められるC労働がきついD離島には娯楽施設がない−など数え上げればいくらでもあります。
しかし、離島のキビ刈りのこのような不利な条件を逆にプラスの要因にすることもできます。本土の若者や農家の青年にとっては、このような沖縄の離島がたいへんな魅力でもあるのです。それは@自然が豊かであるAきびしい労働に自分を試してみたいB離島の生活を体験してみたいCキビ農業を勉強してみたいD都会の生活を反省してみたい−などです。
そうであれば、本土の青年たちのそんな期待に応えるとともに、それが離島の農家にとっても同時に人手不足を解消となる方法が、ここから考え出せるわけです。援農舎の目的はここにあります。そして、本土の青年と沖縄の青年がいっしょに働いて、生活をともにすれば、それは沖縄への理解を深める意味でもすばらしいことではないでしょうか。そして、沖縄県や県農協中央会、県教育委員会が離島の町村役場、農協、町村教育委員会といっしょになって計画、実行すれば職安法上の問題もなくなるでしょう。これに4Hクラブや地域の人たちの協力を得れば、これはひとつの新しい"シマおこし"ともなるのではないでしょうか。
わたしたちは県が率先してそのような運動を進めてくれることを期待し、そのための問題提起として援農運動を進めてきたつもりです。すでに5年になるわたしたちの運動の実績は、全国に400人近いキビ刈り経験者をもっており、本土各地の地方の4Hクラブや農協青年部などに呼びかけたいという希望を持つ人もいます。しかし、わたしたちサラリーマンが個人で自発的に行なう援農舎では、職安法問題はもちろん、わたしたち個人の時間的、経済的負担にも限界があります。できることなら、県や農協で、わたしたちが作り上げてきた方法を利用し、さらに発展させていただくことを期待しているわけです。
西銘知事は、再度、台湾からの労働者受け入れを提唱しておられるが、これは法的に不可能であると思われます。日本の労働法は、外国の無技能単純労働者の受け入れを認めていないからです。復帰特別措置による韓国からの受け入れは例外措置だったし、今ではそれも打ち切られている現状はすでに知られているところです。現在、八重山などではパインの女子労働者が入っているようですが、法的にはさまざまな問題のあるところです。
沖縄が日本に復帰してやがて10年になる日も近づいています。こういう現状では、復帰特別措置の復活も不可能でしょう。まして沖縄県は、本土の各県と今後肩を並べていかねばならない折から、離島の問題にしても、失業対策の問題にしても、県内だけで解決していくことは実情に合いません。本土と沖縄の往来がこれほど激しくなってくれば、より広い視野から両者の相互協力で解決していくべきではないでしょうか。(黒田勝弘・稲垣一雄・松井孝夫・文責・藤野雅之)
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Last Update:2004/03/20
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