沖縄・与那国島サトウキビ刈り援農隊
南南西に進路をとれ 1976与那国島サトウキビ刈り援農報告記 その3
「南南西に進路をとれ 援農隊に参加して」
★恵畑幸男(東京都世田谷区・24歳)
与那国島での島人との交流は、民宿とキビ畑に、しかもそれとても僅かな範囲に限られていた。これは私だけに限らず、他の隊員にしても大差なかったように思う。愛惜の念を禁じえないが、手の指がはれて太くなったり、曲がったりするほど激しい肉体労働に従事していたことを思えば、致し方なかったという気もする。
そんな中で、私は畑でS氏と知り合った。S氏は身体つきががっしりし、スポーツ刈りで、常にサングラスをかけているので、初めは見るからに恐ろしく近づき難かった。しかし、畑で度々顔を合わせ、話をするようになると、意外にも神経の細やかさを備えた偉丈夫であることがわかり、やがて親しくするようになった。
ある日、畑仕事から帰り、何もする気になれないまま民宿の一室で横になり、他の隊員たちと駄弁っていると、突然S氏がやって来た。飲みに行こうと言う。私は疲れていたし、明日のこともあるので、ちょっと躊躇したが、せっかく誘いに来てくれたことでもあるし、他の二人の隊員とともにS氏の好意を受けることにした。
私たちは民宿から歩いて5分とかからない食堂兼用の飲み屋に入った。カウンターにつくと、各々注文した泡盛やウィスキーを飲みながら、与那国色の濃い種々の話題を肴にして語り合った。S氏は私たちに通じるように話すのに大分骨が折れるようで、さかんに頭をひねったり、途切れがちな言葉を不器用に継いだりしていたが、ユーモアだけは忘れなかった。
そのうち、私が話題をこの頃めっきり増えた旅行者のことにもっていったが、いちおうの受け答えをすると、S氏は急に黙りこんでしまった。思いがけない沈黙に、私は狼狽するとともに気づまりを感じた。
しばらくすると、自分の足元を見つめていたS氏が、やおら私たちの方に顔を向け、旅行者の中には、内地に住む優越感から、与那国や島民をさながらさげすむ言動をする連中がいる、ということをいまいまし気に言った。
「確かに、あんたたちは内地から来たんだから、内地のことは僕たちよりよく知っているだろう。だけどね、あんたたちはこの与那国のようなちっぽけな島については何もわかってやしないんだよ。だから、あんたたちの知っていることと、この島に住む僕たちの知っていることとは五分五分なんだ」と、S氏は満面に朱を注いで私たちに言った。さらに、「だからね」と彼は言葉を次いだ。「あんたたちは間違っても、自分は内地から来たとか、東京に住んでいるなんてことを、島の人に向かってひけらかしたりしてはいけないよ。そんなことをしたら、僕が承知しないからね」
S氏の「僕が承知しないからね」という最後の言葉はサングラスと相まって凄味があり、私たち三人は気おされたように押し黙っていた。
この時私は、与那国島に来て以来、自分は島人に対して優越感を抱いたことがなかったか、と考えた。少なくとも今までそれを言動に現すようなことはなかったし阿、明確に意識することもなかった。しかし、優越感を全く持たなかったとは断言できない後ろめたさが、私にはどうしても付きまとう。例えば、島人から「あんたはどこから来た」とよく聞かれたが、「東京です」と答える度に、心の中では誇らしさみたいなものが頭をもたげてきた。これもある種の優越感なのだろう。
とすると、私の心に生じる優越感はいったい何を根拠にしたものだろうか? 物質的な豊かさに満ちた首都たる東京に住んでいるからなのか、或いはS氏の言ったように島人よりも内地のことをよく知っているからなのか。私は偶然東京に居を構えているだけであり、私の周囲は確かに物質的に豊かではあるが、私はといえば島人より貧しい生活をしている。また、私は内地の何を知っているというのか。
こう考えてくると、私は与那国の人々に優越感を持つに足る何ものも所持していないことに気づいた。にもかかわらず、それを感ずることがあるのは、これが所謂"いわれなき低次元の優越感"かと考え及んだ。
いつの間にか、座は賑やかになっていた。皆かなり酔って猥談を始めていたのだ。私は、東京だろうが与那国だろうが、行き着くところは同じだな同じだな、と思いながら、身を乗り出して話に加わった。しかし、ひとつの疑問が私の念頭から離れることはなかった。それは『他の援農隊の連中は、島の人に対して優越感を抱くことはないのだろうか』ということだった。
その晩から数日が過ぎた。与那国島は珍しく終日晴れていた。三月とはいえ南島を照らす太陽は真夏の光彩を放ち、高い湿気と相まってかなり蒸し暑かった。その日は一区画のキビ畑で島人や援農隊や旅行者が入り混じり作業をしていた。他の人と同様に、私はカマで既に切り倒されたキビを一本一本適当な長さに切り、それを揃え、一定の量になると縄でキビの両端を結束するという作業を続けていた。
突然、「どこから来たのか」と、私の隣りで作業をしていた島の古老が話しかけてきた。古老の手は相変わらず素早くかつ規則正しく動いていた。「東京です」とさりげなく私は答えた。
蒸し暑さで身体がだるく、しかも苦手の単純作業ときているから、私は気が滅入って口を開くのが億劫だった。また、古老は、与那国語を全く解せない私を思って、標準語めいた言葉で話しかけてくるのだが、それとて私の理解できない言葉が頻繁に入ってくる。一方、古老の方も私の言葉をなかなか理解しなかった。そんな訳で、しばしば会話は食い違い、私をさらにいらだたせた。この場を今すぐにでも逃れたい気分に追いつめられたが、古老はそんなことには全く頓着しなかった。
「東京から群馬の安中までは、バスで何時間ぐらいかかるのか。うちの親戚が安中にいるんで、今度行こうと思っているんだが」と古老は誇らし気に尋ねてきた。
「安中まで行くのなら、バスじゃなくて、普通電車で行くんですよ。上野から二時間ぐらいかな」と言いながら、私は古老を一瞥した。次の瞬間『しまった』と思った。古老はカマを持つ手を止め、口をへの字に曲げ、私を凝然とした表情でにらみつけていたのだ。
この時私は何日か前にS氏の言ったことを思い出した。しかし、私は当然のことを言っただけで、決して優越感を持って、すなわちひけらかしてバスを否定したのではなかった。にもかかわらず、私の返答で古老は気を悪くした。少なくともその時古老の心に、電車に対して、というよりも電車を口にした私に対して、劣等感が湧き上がったことは否めないように思う。古老との間が気まずくなったので、私はそこを離れた。
与那国島でのキビ刈り援農を終え、隊員のほとんどが帰省したころ、ある沖縄の人より一通の手紙が援農舎に届けられた。その一節に『沖縄の人は内地の人に対して劣等感を持っています。ですから、再び沖縄に来られます時には、くれぐれもそのことを心に刻み、お互いに不快の思いをしないように注意していただければ幸いです』とあった。沖縄の人に限らず、一般的に言って、僻地に住む人は都会人に対して何らかの劣等感を抱くものである。そして、劣等感を抱く者はその部分に対して異常に敏感になるものだ。無意識に言ったことでも、相手の持つ劣等感を呼び覚ます場合がママある。キビ畑での古老とのことが、その好例である。そして、飲み屋でS氏が言ったことの底流にも、僻地に住む人の劣等感があった。
私はS氏によって呼び覚まされた優越感に後ろめたさを感じ、それを言動に現さないように細心の注意を払い、さらに劣等感を目覚めさせないように恐々として島人と対する生活に耐えられなかった。持つ根拠のない優越感をちらつかせる私自身の愚昧さが、そして持つ必要のない劣等感を小出しにする島人の卑屈さが、お互いの交流によって近い将来なくなるものとは思えなかった。私は次第に島人を避けるようになった。
キビ刈りという過酷な労働に肉体的に疲れ、島人との関係に精神的に圧迫され、文字通り心身ともに疲れきった私は、幾夜も全身に、熱を帯びる上にくすぐったさが走るので、なかなか寝つけなかった。早く島を離れたかった。そんな時私は、自身の援農運動に限界を感じた。援農と名の付く活動は、私にとって恐らくこれが最初にして最後のものとなるだろうと思った。それ故に尚更、私はキビ刈りを途中で投げ出すことはできなかった。
援農舎運動が真の援農を目指すものなら、一年限りのもので終わることはあるまい。そして、援農が沖縄農業の矛盾の本質的解決を理想とするものなら、島人との交流−すなわち援農隊と島人との相互浸透を抜きにしては考えられまい。なのに私には、再び、重苦しいキビ畑に入ることも、神経を尖らせながら島人とぎこちない上っ面だけの会話を交わすことも、自分の精神的愚昧さを曝け出すことになるので到底耐えられない。言い換えれば、私は、良きにつけ悪しきにつけ、今回の援農舎運動に参加して参加して良かったとは思っているが、近い将来再び与那国島を訪れようとは思わない。
キビ刈り援農が終了すると、私はすぐ与那国島を離れた。離島前夜、いろいろ世話になったS氏に挨拶に行くと、彼は「来年も必ず来いよ」と繰り返し言った。しかし、私はただ笑いを返すばかりで言葉が見つからなかった。 (完)
★Y.T(出身・年齢不詳)
「風に吹かれて」
ユラリ ユラリ
風に吹かれて
ボクだって そんな気に
でもボクはボクさ
何とかやっていけるだろう
風に吹かれているって
気持ちがいいもんだよネ
だから しばらくは
このままで いようか
そんな気持ちになって来た
1976.4.20
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Last Update:2003/12/26
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