沖縄・与那国島サトウキビ刈り援農隊

与那国島サトウキビ刈り援農隊10年    藤野雅之
「沖縄タイムス」1986年2月4日−5日



(上)島の人たちの熱意に 倒産同様の農協が黒字へ

 与那国島では、1月27日に製糖が始まった。その翌日、農協の女性職員が東京の私の会社へ電話してくれた。
「いろいろ大変だったけれど、旅行者も含めてナイチャーが六十人ほど集まりました。畑に続いて製糖工場も夕方から操業を始めて、ことしは砂糖の品質もいいので一安心です。どうもいろいろありがとうございました」
 という声には喜びがあふれていた。私もうれしくなってきた。というのは、1976年から10年間、毎年欠かさず続けてきた援農隊が今年は行かなかったからである。援農隊派遣についてこの数年間、私たちは悩んできた。毎年数十人、多い年には百人近くの人が与那国島に出かけ、3ヵ月近くを畑でのサトウキビ刈りや製糖工場で働いてきた。この数年、島では援農隊はこの時期すっかり季節の風物詩のようになり、NHKや本土のテレビが放送したりしたものだ。
 私たちがなぜ悩んできたのかというと、ひとつには、この援農が本当に島のためになっているのかということであった。例えば、60人の援農隊が3ヵ月働けば3千万円以上の金がかかる。その半分ずつを農家と農協が負担するのだが、これは島にとってたいへんな出費である。それでも援農隊が来れば製糖が順調に進み、農協は少ないながらも利益を出してきた。
 私たちが初めて援農に行った1976年、与那国町農協は倒産同然の事態に陥った。当時、政府や県が鳴り物入りで宣伝していた海洋博の関連事業に預金を投資し、その事業が倒産してしまったのである。受け入れ団体のこの事態に、出発直前の援農隊は宙に浮いた。県当局は中止しろという。それでも島の人々の熱意と沖縄のマスコミをはじめ多くの人たちの支援で、第1回の援農は実現したのだった。
 しかし、沖縄県は失業率が全国平均より高いことを理由に、本土からの労働力を入れることはまかりならぬ、と援農隊を締め出しにかかった。島にしてみれば、沖縄本島の失業者は来てはくれない。来ても最後まで働いてはくれず、途中で帰ってしまうという。考えてみれば当然なのである。辺境の島の重労働は失業者の就職の条件に合わないだけのことである。失業者は永続的で条件の良い仕事を求めているのである。キビ刈りのような季節的な重労働には、お金だけではなく一種のボランティア精神が必要なように思う。
 県はそれでも本当で募集することを強要し、ある時期援農隊を入れると、町当局に始末書さえ書かせたのである。本当の失業者が島に来てくれればそれに越したことはない。しかし、それがかえって島に迷惑をかけることになるのでは、何のための行政指導であろうか。

 それから10年、倒産同様の農協は単年度収支では黒字を計上できるまでに回復した。私たちの願いのひとつは実現し始めた。私たちの最初の動機は、都会の若者たちにきびしい沖縄の農業を体験してもらって、復帰後の沖縄に理解を持ってもらおうというものだった。しかし、最初はなかなかとけ込めなかった島の人々とも、毎年通ううちに家族同様に思い合うようになった。
 しかし、これを計画運営してきた私たちは一介のサラリーマンであり、いつまでも続けることはできないだろうと思ってきた。それでも私は最低5年は続けようと思った。その間に農協の再建のめどがつくかもしれないし、島自身が私たちに代わって、援農隊の募集も世話もできるようになるだろうと期待したのである。
 だが、なかなかそうはならないものだ。キビ畑で働く人が農家にそれぞれ住み込めるようになったのは4年目からであった。住み込みで働けば、お互いに相手に愛着もわき、仕事も飛躍的にはかどった。そうすると毎年同じ農家に入る人も出てくる。自分が行けないときは代わりの人を紹介する援農隊員もいる。

 そうした方向が目に見える形になってきたのは、5年を過ぎてからであった。だがこの間、私たち援農舎の世話人の仲間が外国に転勤したり、それぞれの仕事などからボランティアとしての世話に直接に携われない人が出てきた。私も勤めで大阪に転勤した。この間、北海道の仲間が中心になって世話をしてくれたのだが、彼も40歳を過ぎて自分の仕事をしなければならなくなった。援農隊を続けるための世話人たちの側の条件も変わり、当初懸念したようにいつまでも続けられなくなってきた。
 だが、毎年続けていると、島の方でも製糖期が近づくと、私たちへ頼めばよいという気持ちになったとしても不思議はない。頼りにされるのはうれしいものでもある。

(下)さまざまな波紋広げる 新たに本土で呼びかけ

 この10年で島のキビ刈りのしかたも大きく変わった。以前は1日百トンの搬入ができないことも多かったが、いまでは2百トン近く搬入できる。畑で刈ったキビを束ねたあと、トラックまで運び、積み込む作業が機械化されてずいぶん楽になった。かつてのようにたくさんの労働力を必要としなくなった。
 だが、農家や農協は製糖が近づくと労働力の確保に不安がわくのだ。だから多めに確保しておきたくなるのである。辺境の島の人たちの切ない心であろうか。そうして現実はむだな出費をすることになる。
 こういう状況を考え合わせ、毎年参加してくれた仲間たちの意見もあって満10年を達成した昨年を最後に援農隊の活動に終止符を打つことにしたのである。去年の製糖が終わったあと、現地で世話人をしてくれたTさんが農協に伝えた。が、秋になって再び援農隊の派遣要請があった。しかし、残念ながらお断りせざるをえなかった。私も会社での立場から十分な時間を割くことができなくなった。

 このことを予想して1昨年から、農協が独力で本土からの労働力を集める手立ては伝えてあった。本土の新しい人に対する呼びかけは私たちでするものの、申し込みは農協が直接受け付け、種々の手配もするのである。女性職員のNさんは有能な人で、一手に引き受けてこなしてくれていた。
 その結果、ことしは農協が自分で募集し、60人の本土からの応援を確保できたのである。応援確保が順調に進んでいるか心配していた私は手紙で問い合わせたりしたが、その結果がNさんからの電話なのであった。

 この10年間の援農隊運動はさまざまな沖縄で波紋を広げた。私たちの活動が刺激となって、各地で沖縄の人々によるキビ刈り援農が行なわれたりした。北海道からの2人の女性参加者が島の青年と結婚した。子供も生まれ、幸せに暮らしている。八重山の離島ではきびしい嫁不足で40歳を過ぎても結婚できない人もいる。竹富町などは花嫁花婿相談員制度を設けて対策に懸命だが、成果はなかなか上がらないようだ。その中で与那国島の例は注目されていいだろう。
 また10年間で千人近い人がこの島で働き生活したことは、単なる観光旅行とは全く違う島の理解者を持ったことにもなろう。先日、東京で援農隊の仲間が久しぶりに集まった。新宿の沖縄料理店で泡盛を酌み交わしながら、苦しかった仕事のことなどを楽しい思い出話にして時を過ごしたのであった。思えば、実に多くの沖縄の人々の支援によってこの活動は続いてきた。その人々の顔が思い浮かぶ。これからは、与那国が自立した農業の島として発展していくことを希望する。それは困難な道のりではあるが、決してできないことではない。私たちはこれからも続く与那国島の歴史にたった10年間ではあったが、参加できたことをうれしく思っている。

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Last Update:2004/02/01
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