沖縄・与那国島サトウキビ刈り援農隊
南南西に進路をとれ 1976与那国島サトウキビ刈り援農報告記 その8
「南南西に進路をとれ TBSラジオ座談会」
★ラジオ座談会「帰ってきました援農隊!!」
(この座談会は1976年6月23日午前2時−3時にTBSラジオの深夜放送「水曜パック」で生放送したものを編集部でまとめたものです)
出席者 恵畑幸男 大野説子 久保英二 久保洋 小林章 藤森民雄 藤野雅之
司会 林美雄(TBSアナウンサー)
林
呼び掛け人で企画をなさった藤野さんから、一体どういうことで、こういう呼び掛けをしたのかを、かいつまんで説明してください。
藤野
僕と同じ会社にいる黒田君、それともう一人、僕と黒田君の共通の友達の宮尾君というのがいまして、その三人がここ五、六年の間にそれぞれ自分の個人的な目的で与那国島へ旅行したことがあるわけです。向こうで知り合った人の中に与那国農協の組合長さんがいて、その人が去年、我々の所へ手紙をよこして、与那国では一月から四月ぐらいまでサトウキビ刈りをやるんだけれども、過疎化して人手不足で困っている、何とか力を貸してくれないかというので、それに応える形で、三人で「援農舎」というグループを作って、TBSの「土曜ワイド」を始め、「話の特集」だとか「面白半分」「家の光」、そういった雑誌、新聞、週刊誌で呼び掛けたのが直接やったことです。
林
与那国島ですけど、私も知らなかったんですよ。日本の最西南端ですか。天気がいいと台湾が見えるということなんですが。
藤野
地理的に説明しますと、九州があって奄美群島があって、その南が沖縄。その沖縄の南に宮古群島、そしてその更に南に八重山群島がある。その八重山群島の一番西南の端が与那国島。
林
東京・大阪間が五百`ぐらいでしょう。
藤野
鹿児島から那覇までが七百`。那覇から与那国までが五百`ぐらい。正確なことはちょっと覚えていませんけれども、東京・鹿児島間とちょうど同じ距離です。
林
昔は大変栄えた所なんだけれども、貿易港というか。
藤野
そうですね。明治時代は大阪の商人とか海運業者、九州の海運業者が台湾貿易というか、それの中継基地みたいな感じで栄えた所です。今は島の人口が二千人ぐらいですけど、一番多いときは一万人を超えた時もあるそうです。
林
前に与那国に行ったというのは藤野さんはどういう風な…。
藤野
僕は沖縄が好きで、まあ、好きって言うのはちょっとおかしいんだけども、沖縄のいろんな文化とか人の暮らしというものに関心があって、新聞記者やっていますから取材に行ったわけですね。その時に与那国島の印象がものすごく良くて、ずっと覚えてて、与那国の人と手紙のやり取りなんかを少しやったことがあるんです。そういうつながりがあった、ということです。
林
で、そういう呼び掛けのベースになるような運動とか、援農者的なことってのをやっていたのですか。
藤野
呼び掛けた三人というのは、黒田君と私とは会社が一緒だということもあるんですけど、関心が似通っていたわけですね。宮尾君と知り合ったのは「日本海時代の祭典」という一年に一回集会があって。それに参加して、その運営にかかわるということで知り合い、お互いに友達になったんです。
林
日本海時代の祭典というと。
藤野
説明しないと分からないと思うんですけど、一九七〇年の大阪万国博の時に、万国博というのは非常な国家をあげてのお祭りだった訳ですけれども、それに対してもっと自分達の祭りというか、そういうものを作ってみようじゃないかということから生まれた。日本海時代という名前が生まれたのは、万国博に至る日本の発展というものが太平洋岸を中心にしてあって、太平洋岸のそういう発展の形が、結局公害を生み出したとかいうふうにいろんな批判をされている。それに対して、太平洋岸から見れば日本海岸は遅れているというイメージがある訳だけれども、もしかしたら、その遅れている所にもっと我々により近い、なんか肌でじかに触れ合えるような感じというものが、あるいはイメージがあるんじゃないか、ということを象徴させた意味で、日本海時代となった訳です。
林
そうすると過去五年のそういう動きがあった中で、ひとつの継続として今回の援農活動っていうのが…。
藤野
ええ、直接には関係ないんですけれども、その呼び掛けた三人の中にはそれぞれ自分の個人的な関心の発展として出てきたということはある訳です。
林
それで、その呼び掛けがあった訳ですが、今夜ここにいらっしゃる多数の若い人達は「日本海時代の祭典」とか、あるいは藤野さん、黒田さんたちの思いというか、途中経過を知らずして、とにかく行こうという呼び掛けをラジオなり雑誌で知ったという訳ですね。それで順番に聞きますけども、上田正樹みたいな風貌の久保英二さん(二八歳)はどういう動機でこの援農活動に参加した訳ですか。
久保(英)
去年の十二月までバイトやっていて、それで十二月いっぱいでやめる予定でいたもんで、雑誌で募集の案内見て、これは面白そうだなと思って来たのが直接の動機なんです。暇になったら旅行したいなと思っていたんだけど、独りでパッと出るのは億劫な所がありますでしょ、それで、皆がワーッと行くんだったら、こりゃ面白いなていう…。
林
もうひとりの久保洋さん(二三歳)。あなたは石垣の農家でキビ刈りしたあと遅れて与那国に来たので、あとから来た新久保さんと呼ばれているんですが、今回の応募のきっかけというか、触発されたものというのは…。
久保(洋)
僕はサラリーマンだったけど、去年いっぱいで会社を辞めて、しばらくブラブラする予定でいたんです。そしたら十二月にちょうどTBSラジオで呼び掛けを聞いて、行って見たいなってすごく思いました。一番の動機は、今まで東京でばかり生活していたから、農業っていうものを体験できるっていうのが、すごい魅力だった。それが一番の目的だった。でも今は一緒に行った人達も含めて、いろんな人に出会えたっていうのが一番大きな収穫じゃないかなって僕は思っています。
林
恵畑さん(二三歳)は与那国の民宿で一緒にお酒飲みましたね。あなたの動機は。
恵畑
僕は外国へ行きたいっていう気持ちが強かったんです。そしたら、こういう呼び掛けがあったんですけど、初めは全然信用していなかったんです。友達にもそう言ったら、きっと東南アジアかどっかに売り飛ばされるんじゃないか(笑い)、強制労働させられるんじゃないかとか言われたもんで、もう売り飛ばされても何でも自分の知らない外国のような与那国に行けりゃいいと思って(笑い)、それでまあ一応応募したら、意外とまともに(笑い)行けましたんで、外国ではなかったけれど一応外国旅行したような形で…。
林
与那国島の予備知識とか、あなたの中で大きな位置を占めていたということというのは…。
恵畑
僕もTBSラジオで聞いたんですが、その時まで与那国っていう島は全然知らなかったんですよ。ですから、そういうのも手伝って、どっかに売り飛ばされるんじゃないかって(笑い)。
林
次は少年と呼ばれていた小林章さん(二五歳)。
小林
僕の場合は、やりたい仕事が見つからなくて、大学卒業しても就職しなかったんです。二年ぐらい前から農業に関心持ち始めまして、いわゆる共同体っていうようなところへ行ってみたりしていた。その時たまたまこの企画を知りまして、キビ刈りっていうものにあこがれたみたいなのがあったんで、すぐ応募しました。
林
藤森さん、一番の若手です。二十一歳。全体の参加者の中で一番若い人は何歳だったんですか。
一同
十八歳。
林
一番上の人は。
一同
六十五歳。
林
六十五歳……ハアー! で、藤森さんの動機ですけれども。
藤森
そんなにはっきりした動機はないんだけれども、僕も沖縄の民俗とかに興味があって、一応行って見たいと思っていた。行くとなっても学校へ行っているし、暇はあっても金銭がないっていう状態で、ちょうどこういう機会があったわけです。それから心を動かされたのは、農業問題。農民はどこにおいても虐げられている今の状態で、僕たちがそんなことをやってもしようがないっていう意見もあるけれど、やっぱりひとつの何かになるんじゃないか、ということで行ってみたんです。
林
大野さん。与那国で皆さん新聞出してましたね。その中に、参加者の応募の動機とかが書いてあって、あなたのことも載っていて、キューバへ行ってサトウキビ刈ったとか、アルゼンチンとかスペインに行って何かをしたいみたいな事を書いてあって、すごく興味を持っていたんですけどもね。
大野
今回参加した理由ですが、私が前にキューバにサトウキビ刈りに行った時が、初めての農業体験だったんです。その時に、青空の下で汗を流して働く事がなんと気持ちの良いことかって思いました。向こうでは非常に楽しく仕事をやってたんですけれども、向こうで楽しくやれたっていうことが、日本に帰って来て今度は沖縄に行って賃金をもらってやった場合に、同じように楽しくやれるのかどうかというふうな問題もあって、そんなことを試してみたい、もうひとつは、長い間アメリカの占領下に置かれていた沖縄をこの眼で見てみたかったということ。それから特に離島の農家の人なんかと話をしてみたかったということもありましたね。
最も直接的な理由としては、私はキューバに行く前は極めてまじめに都会の近代的な冷暖房完備のビルの中で働いていたわけです。ところが冷房で身体を壊して、去年の秋非常にそれが悪くなって、なんか人生に絶望しかかっていたんですね。それが治療したりして良くなった時に、このまま東京にいてもだめなので思い切って荒療治をしてみようと思って、沖縄で思い切って汗を流せば良くなるのではないかっていう可能性、期待。同時にひょっとしたらもっと悪くなるかもしれないという危険性もあったんだけど、これに賭けてみたんです。その結果はまあ、荒療治が効を奏していまはとっても元気になりました。
林
大野さん、見たところ白石冬実に似てますね(笑い)。今回の応募の動機をまとめると、ひとつは沖縄という土地に対する興味、それから農業問題への関心、共同体体験、それに自分に何か、あるきっかけをつかみたいという動機が出てきて、sれぞれいろんな思いがあるんだけれども、言葉として出てきたのは大体こういうことですか。
藤野
若い人はやっぱりそうですね。少し年をとった方のなかには出稼ぎという感じもありました。日当をもらって働いたんだけれども、滞在費、向こうにいる間の衣類とか食費、あと帰りにちょっと他の島を回ってみたりっていうようなことにお金がかかって、結局日当と旅費だけでは足が出てるんですけどもね。
林
では、実際に与那国島に行ってやってみてどうだったんですかね。
小林
キビ刈りの説明会のじでは、与那国島という所は、風光明媚で、島の人達ものんびり生活していて、キビ刈りの作業も楽しみながらやっているという感じを受けて、そういう先入観を持って僕は出掛けたんですけれども、すごい厳しいわけですね。僕は面食らって。島の人達の馬力なんて物凄い。僕のような都会のもやしっ子と比較してね。すごいショックを受けました(笑い)。やっぱり仕事ってどこへ行っても厳しいもんだなって、つくづく痛感した。
林
サトウキビ刈りっていうと、大変な労働だってことは分かるんじゃないかって言う気がするんだけど、そんな甘い言葉がはかれたわけですか(笑い)。
藤野
最初から重労働ですよってことは言ってあるんですけれども、その重労働の中身は東京で言葉で言っても、それは分かりませんね。だからそう思っていても現実の仕事に接すると全然違う。沖縄の人はサトウキビ刈りを三日やると、もう一生やりたくないって、沖縄本島の人達が言ってますね。
小林
だから今ラジオ聞いている人達でも、聞いただけじゃなくて、実際に出かけて行ってやってみたらいいと思うんですよ。
林
畑と工場とに別れていたんでしょ。工場でやった人いますか。
久保(英)
工場は十二時間交代なんです。機械を止めると効率が悪くなるので二十四時間回しっ放しです。それを二交代に分けて十二時間ずつ働くわけです。工場作業は、畑から運ばれてきたキビを機械に詰め、それを高温で煮詰め、ろ過し、攪拌してドロドロになった黒糖が出てくる。それを固めて箱詰めにするというのが大体の製造工程ですが、それぞれの仕事を四十人で分担するんです。それで工場と畑に分かれて働いたけれど、十二時間労働で朝と夜の八時に交代する。畑は朝八時から午後五時までで、工場から見ると畑の仕事が羨ましいような辛さだった(笑い)。
林
僕も工場へ行ってみたけど、熱と臭いとでたまらないという気がしたんですけど。
久保(英)
機会から黒砂糖の軟らかいのがどんどん出てくる。工場ではいくらなめてもいいって言われて、どんどんなめていたけど(笑い)、次の日からはもう一口も口にする気がなくなった。
林
そうすると、今出た感想だと、ある種の幻想というか、自分の期待はぼろぼろに崩れていった。
小林
ええ、そうですね。
林
で、そういうものを乗り越えたのは何か。農業体験をしてみたいとか、自分の生活に何かのきっかけを、きつい労働をすることを通してつかみたいとかがあった。そして実際の労働の中で何かを得たっていう人はいるんですか。やっぱりいい体験をしてきたなあって言えるのは、宿舎へ帰って民宿で皆と話をするとか、地元の農民の方々と話し合うという交流しか考えられないですよね。
久保(英)
農業外かに大変なものかっていうことが、はたから見てるんじゃなくて、やはり島の人と一緒にやってみて初めてよく分かったんですね。やっぱり農作業がどういうものかということが分らなければ、農作業とか農業とかについて、これは簡単には言えないっていうような気がしてきました。それから、もうひとつ、やっぱり同じ作業をしていく中から、他の人達といろんな意味で知り合ったり、話をする機会なんかが生まれてきますから、そういう意味では非常に意義があったんじゃないかな。
林
大野さん、自分を荒療治して今非常に気分がさっぱりしているという、その荒療治というのを具体的に。
大野
そうですね。冷房で身体を痛めたなんていうのは、汗を流して身体を温めることが一番いいことだと思うんです。薬は副作用があるし、指圧やマッサージという方法もあるけれど、とにかく汗をかくっていうことが人間にとって一番健康を保つためにいいということがあります。でも東京にいると、そういうことをなかなかできないですね。それでも思い切って身体を動かそうと考えまして、それで田舎に行って農作業をやるのがいいだろうと思ったわけです。キューバでサトウキビ刈った時も、他の人達の中には、もう二度とあんなきつい仕事はやりたくないって言う人が多かったけれども、私にはどういう訳かとっても楽しかった。それで、ほとんど苦痛だとも思わなかったんです。そんなことがあって、今回また与那国に行ったんです。
やってみて、キューバと非常に違っている点は、キューバのキビ刈りの時期は乾期でほとんど雨は降らない。毎日真っ青な空で、何とも気持ちよくカラッとした気候の中でできるんですけれど、与那国は非常に雨が多くって、それは説明会の時にも言われたけど、まさかあれほど雨が多いとは思わなかった。合羽を着てやって、汗をかくと合羽の下でずぶ濡れになるんですね。休憩時間なんかも寒くて寒くて、もう馬跳びでもして動いていないといられない。それでがっかりしたようなこともなくはないけれど、でも私としては非常に気楽に仕事をやれて、とっても楽しかった。
与那国では普通は女性はサトウキビを刈らないことになっていて、葉を落として束を作って、それだけやればいいって言われました。でも私は狩ったことがあるので、どうしてもやってみたくて刈ってると、島の人が止めに来るんですよね。そういうのは女性のやる仕事ではない(笑い)。それも労わってくれるというよりも、それはもう女のやる仕事じゃないんだ、というふうな言い方で来るので、私はもうむきになってやってた(笑)。
それでもそれは強制されたことじゃないですから、気楽で、疲れたなと思えば束を作る方に行ったり、とマイペースでやれたので、私はとても面白くやることができたけれども…。
林
こういうことが分かったとか、知ったということだけじゃなくて、直接的に今、行ってよかったと、とにかく自分が、大仰に言って、生きている上でよかった、明日への起爆剤になったとか言う人はいますか。
久保(洋)
僕はやっぱり行ってよかったのひと言になっちゃう。ものを見る目が広がった…。自分で思い込んでいるだけかもしれないけれども。それから前に勤めていたせいかもしれないけれど、いわゆる勤め人とは違う人がいっぱいいたわけで、そういう人達と民宿なんかで話したりしていると、あっ、そうなのかなと思うようなことが多分にあった。それと、僕は石垣の農家に入っていたんです。畑で働いたり、農家の人達の話を聞いて、農業というのはすごく大変だなあっていうことを嫌っていうほど知った。
林
新久保さんね、あなたの顔はもう都会人の顔じゃないね。眼が輝いているもん(笑い)。都会人は眼が輝いていない。だんだんローカル的な、いわゆる生きてる顔になってきたんじゃないか(笑い)。それから、共同体体験。お互いに肩書きとかレッテルを取り外して、つまり肉体をさらしながら接していくなかに、そういう共同体感覚が生まれてきたのか、生まれたと思っているのか、あるいはその錯覚の中にいるのか、その辺りはどうなんでしょうか。
小林
七十人から八十人いましたからね。いろんな人がいて、様々な考えかたの人がいて、やっぱり、すごく自分にはプラスになったと思うけれど。
大野
それが共同体という所まではなかなか行かないですね。初めは農家の人ともっと一緒にやれるだろうと思ったのがそうじゃなくて、援農隊の中でやるようなことが多かったんです。共同体とまではいかなくても、ほんとに老若男女様々な人がいて、援農隊の中でもいろんなことがあって、それまで全く知らなかったことを知らされた。それと、いろんな問題が起こっても、結局は協力し合ってやっていくっていうことがその中でできますからね。そういう意味で都会の関係とは違うものが少しは見られたのじゃないかなと思います。
小林
時間がたってから、すごく残ってるね。
林
我々も組織の中でがんじがらめになっちゃうと、二、三ヵ月間どこかへ行きたくなる。だけどなかなか行けない。皆さんはたまたま職を失ったとか、意識的に職を失ったとか、割り合いと自由な中に身を置いている幸運というか、社会に一度出ながら、なおかつ自分の中に三ヵ月なら三ヵ月間、なんかの事に集中できる物理的余裕を持っている立場は、金に代えられない自由な時間だなと、皆さんを大変羨ましく思っているんですけどね。それで今日は、キビ刈り援農に参加した方達に、しゃべりたいことを話してもらうのが目的で、この際言っておきたいことがあればどうぞ。
久保(英)
作業を終わって感じていることですが、まだ一回きり、しかも二ヵ月くらいの作業を行っただけです。成果というほどのものは、もちろん考えれば出てくるけれども、まだ僕たちがひとつのことに取り付いたという感覚でしかない。まだまだ島の人達とも知り合っていきたいし、作業そのものももっとやっていきたい。沖縄についてももっと知っていきたいし、そういうことで今回の援農の体験は第一歩で、これからも続けていかなければ意味がないんじゃないか。
恵畑
今まで僕は全然沖縄に行ったことがなかったから、沖縄が全然わからなかった。だから今度こういう形で行って、やっぱり同じ日本でも違うなあという感じ。また与那国は沖縄の中でも特殊なところなんだけど、そういう島の人達の考え方なんかいろいろな面で僕らと異なるところがあるんですよね。まだはっきりとはわからないけど、そういうことを一応知ったということでも非常に意義があったと思う。
林
知ったことで、そこで納まっちゃうのか、ひとつのある種の継続をもって、あなたの中でつながって行ける、将来の予感とかは。
恵畑 ですから、いろいろな人が同じ日本の中においてもいるっていうことを、自身で"体験して知った"ということ。それがもし他の何かの形に生かされたら、それはもう僕にとってこれ以上のことはないですけれどね。
林
藤森さんは彫刻やっているんですってね。
藤森
そうです。そういう面からの興味もあって行ったんだけど、やっぱり向こうの島はあまりにも文化的レベルが低いんですよね。どうしてそれが発展しないかということも問題なんだけど、同時に島では本当の自然といっしょに人間が生活している。まだ全然都会的になっていないし、ずっと昔の日本を思わせるようなところがあって、そこにまだ何かあるんじゃないか、というようなこと。
大野
藤森さんが、与那国は文化的なレベルが低いんじゃないかっていうことを言われたんですが、私はいわゆる文化が発展したといわれている東京とか、「日本海時代の祭典」の話に出たように、太平洋岸の考え方、そういう科学の発展とか文化の発展というものが、本当に人間にとっての進歩なのか、発展なのかということを、まずひとつ疑問に思って、それじゃあ、そうではない所にもっと人間の根源的な喜びとかなにか、そういうものがあるんじゃないかっていうことがあって、私がラテンアメリカに興味を持っているのも、そういうことがあるんですよね。で、与那国に行ったら、そういう我々が今まで持ってきた価値観だけで与那国を見るんじゃなくて、もう少し違う視点かとらえ返してみたりしたらいいのじゃないかな、と思うんです。
林
ただ僕は、与那国の漁村を回って、やはり過疎化が大変進んでいて、もう既に三分の二以上の人がいなくなって、残っているのが僅か数軒という村の子供たちが、港の岸壁あたりで遊んでいた。何もしないで、ただボーッと立っている。その子らは四、五歳から小学校六年生くらい。いったいこの子たちはどうやって生きていくのかな、ということにすごい引っかかりを覚えつつ、僕は与那国島を去ってきたんですけど、こちらから行った人間に対して、ああいう素朴なといわれる所は、すごくいいのかもわからないけれど、やはり与那国に住んでいる人達にとっての、子供たちにとってのあの状態っていうのは、ちょっと考えざるを得ないっていう感じがするんですけれども。今後よほど日本の農業事情が変わらない限り、援農ということは必要とされ、何らかの形で続いていくと思うんですが、今後こういった援農活動に参加する人達に、多少の忠告というか、こうして欲しいということを呼びかけ人の藤野さんにまとめていただくと。
藤野
直接答えになるかどうかわからないけれど、我々の援農が沖縄の過疎化する離島のサトウキビ農業の人手不足の問題を本質的に解決できるのかということについては、我々自身非常に疑問に思っているわけです。疑問を持ちながら、同時に何もしないというのではなくて、やはり援農を続けていく。そして最終的には援農をしなくてもよくなるようになるのが一番いい状態なんですね。それまで、できれば我々として続けていきたいという考えは持っているんですけども、それを我々だけでやっていくのでは、だんだん先細りになってしまう惧れがある。沖縄には今、自治労とか教組などの労働組合とか宗教団体や他のボランティア・グループの援農運動が起こってきていますが、それらも必ずしもうまくいっていない。ひとつの問題は、離島の受け入れ側と我々出掛けて行く側とがうまく一致しないと、なかなか援農活動はうまくいかないということです。そういう問題が残っていて、それらをこれから参加する人、現地の人たちとも一緒に考えながらやっていくしかないと思っています。 (完)
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Last Update:2003/12/26
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