沖縄・与那国島サトウキビ刈り援農隊

南南西に進路をとれ 1976与那国島サトウキビ刈り援農報告記 その9



「共同通信記事より」                                                    塚本晃生
その1
「キビ刈りに与那国へ "体験"を求める若者たち」

 「与那国へサトウキビ刈りの援農に行こう」という"援農舎"の呼びかけに応じて参加した四十八人(うち八人は石垣島へ)は、二月初め四軒の民宿に分散宿泊、さっそく与那国町農協所有のサトウキビ畑で作業に取りかかった。
 鹿児島から約一千キロ。日本の最西端の離島"与那国"に、今回の参加者は、いったいどういう動機を持ってはるばるやって来たのだろうか?
 東京造形大美術学部二年のT・M君(二一)は「以前から日本の歴史や民族に関心があり、方々を旅行した。実際に自分の目で見、膚で感じ取らなくては何にもならないと思い、今回も参加した」と言っていた。

   喫茶店も開店

 「大学に通っていたが、得るものがないので与那国に来る前に退学した。体を動かしながら、その場に居合わせて、いろいろ考えてみたかったので、生活体験旅行ともいえるこのプランに参加した」と語っていたのは東京都小金井市前原町四ノ五ノ二五のK・S君(二二)。彼は現地に着くと、仲間たちに呼びかけ、民宿のなかにみんなための喫茶店「ユイマール」(沖縄の言葉で「助け合い」)を造り、コーヒーのサービスをして人気者になっている。
 女性は六人参加したが、そのうちのひとり茨城県北茨城市中郷町松井、Y・Kさん(二三)は「昨年八月まで八年間、東京で和裁の仕事をしていたが、その後郷里に帰っていた。これから生きていく目標というか、心の支えを見いださねばと思い、サトウキビ刈りに来た」と言っていた。大阪から参加した六人の若者は「お金が欲しくって…」と答えたり、各人各様の動機を持っている。
 この企画には、下は十八歳、上は三十九歳までの男女が参加しているが、共通しているのは、沖縄の西端の島、与那国とはいったいどんなところなのか?という強い好奇心を抱いていることだ。

   応募者は千人

 この企画をたてた援農舎メンバーのひとり石川栄一君(二三)=東京都渋谷区笹塚一ノ六〇ノ七=は次のように語っている。
 北は北海道から南は九州まで千人ほどの応募があったのですが、現地の要望は、工場労働者四十人、キビ刈り労働者四十人の計八十人でしたので、今回はやむなく他の人は断らざるを得ませんでした。だけど、与那国農協で突然不祥事が起こり、二転三転、結局、第一陣四十八人、第二陣二十数人、約七十人が与那国のサトウキビの収穫を手伝うことになったのです。
 収穫量は約五千トンですが、人口二千三百人、しかも若い労働力がなく、毎年サトウキビ刈りの労働者が足りないんです。沖縄の若者は、きついサトウキビ刈りを嫌うという傾向もあって、昨年まで二年間は韓国からの労働者に頼っていたそうです。来年は、一万二千トンほどが見込まれており、労働力不足はさらに深刻になるので、今後もこうした援農は続けたいと考えています。
 なお、参加者のうちE・K君(二八)は=広島県出身=と、T・K君(二六)=宮崎県出身=の二人が中心となって、このほどガリ版刷りの新聞「与那国」(十四ページ)を発行した。部数は二百部で、援農参加者と与那国の人たちに配った。内容は、参加者の自己紹介と参加の動機、参加者同士の結びつきと、与那国住民との興隆が発行の目的だ。

その2
「未知の島沖縄援農体験 キビ刈りを終わって」

 本土から"キビ刈り援農"の若者を迎えて行われていた沖縄・与那国島のサトウキビ収穫が、このほど無事終わった。「慣れない仕事を、最後までよくやってくれた」というのが、援農で来た若者に対する地元農民の一致した気持ちだが、いったい当の若者たちは、どのような感想を持っただろうか?

   毎日が必死だった

 「この春から園芸試験所に入るので、その試験のために最後までいられなかった。与那国で働いている間は、ともかく毎日が必死だったけど、島を離れ、少し冷静になって思うと、いろいろ人に会えて勉強にもなったし、貴重な体験をしたとつくづく思います。時間があったらもう一度行ってみたいほどです。いっしょに働いた仲間たちに対する懐かしさもありますし…」というのは、途中で引き揚げたY・U君(二三)=埼玉県秩父市=。
 彼の実家はブドウ園を経営している。長男の彼は当然、後継ぎだが、社会勉強のためにと高校を卒業すると、図書館形のセールスマンになった。
 「大体仕事もわかったし、会社自体にゴタゴタがあったりして昨年暮れに辞めました。これからは園芸の仕事をやっていくつもりですが、その方面の勉強はまだ足りないので、試験所に入ることにしたんです。その試験まで時間があるので何かしたいと思っていたところ、援農隊参加者の募集を知ったんです」とU君。
 彼は、参加するに当たって、基礎体力をつくっておくために、出発前の三泊四日、一日平均三十キロで東京・静岡間を歩き通したという。おまけに、与那国に出発する前夜は、秩父からは遠いというので、羽田空港で夜明かししたそうだ。

   いまだ虚脱状態

 「帰りに石垣島と那覇に寄ったのですが、土地の人に、お疲れさまでした、ご苦労さまでした、と言われ、びっくりすると同時に、援農に参加してよかったと思いました。それに僕は、ああいった共同生活の経験がないんですが、最初会ったときと帰る間際とで、仲間たちの印象が変わっていくのが興味深かった。別れる時はみな、すごく大きく感じ、僕ももっと勉強しなければとつくづく反省させられたものです」
 与那国のサトウキビ刈りは予定より大幅に遅れ、この四月十三日に終わった。現在まだ二十数人が現地にとどまり、島巡りをしたり、魚取り、海水浴などをしてそれぞれ楽しんでいる。
 当初、このキビ刈りに参加したのは全部で七十五人(うち女性四人)。このうち最後まで残ってがんばったのは四十人近くだった。
 「ぐったりというか、がっかりというか、まだ虚脱状態です。これkらどうするかも、頭に浮かんでこないので、しばらくここでブラブラしているつもりです。飛行機や船の切符の手配をするのも面倒な感じで…」というのはE・K君(二八)=東京都葛飾区=。
 彼は東京工業大学の電気物理学科を二年で中退、その後、さまざまなアルバイトをしながら生活しているという異色の人。

   ロマンスの芽生えも

 「長距離トラックの運転をしたり、じゅうたん屋のアルバイトをしたり、いろいろやってます。大体、半年働いて、あとの半年は本を読んだり、そのほかの勉強に当てています。この援農に参加したのは、やはり沖縄に関心があったからです。大学時代に沖縄出身の友人がいたんですが、彼が冬、雪が降っているのを見て、ものすごく感激、一日中外にいて家に帰ってこないことがありました。泥んこの雪で"かまくら"を作って、その中に座って喜んでいたのですが、彼のその時の感激ぶりという、感受性にすごく打たれたのが忘れられません。彼が雪を見て感じたような、そういった体験を、僕はこの沖縄に求めてやってきました」とE・K君。
 「大学が面白くないので中退して援農に参加しました。自由な雰囲気のもとで、体を動かしながら、いろいろ考えてみたかった」といっていたK・S君(二二)=東京都小金井市=は、もうしばらく与那国で生活したいといって、友人二人と久部良に家を一軒借り、そこに住み着いている。
 援農の若者と島の若い女性との間にロマンスも生まれたらしい。約二ヵ月間の共同生活。しかも重労働の毎日、そこで感じ、体験を通じて得たものは、それぞれ違うと思うが、しかし、全員がこのキビ刈り援農を通して、何かを感じ、何かを得たことは間違いないようだ。五月下旬には、主催者の「援農舎」が呼びかけて、東京で総括集会を催すことになっている。その時になれば、また違った感想が聞けるかもしれない。

その3
「与那国からの速達便 感激のミニコミ3号 援農で貴重な体験」

 今春"サトウキビ刈り援農"のために沖縄に行ったが、当時の仲間の一人から、実に感動的な手紙が届いた。速達で、封筒の中には私信と、ガリ版刷りのフリープレス「与那国」第3号が入っていた。
 このフリープレス「与那国」というのは、援農参加の有志が、現地の与那国島で創刊したミニコミ紙。参加者同士、参加者と現地の若者たちとの意見の交換、交流を目的に発行したものだが、結局、毎日の重労働に暇がつくれず、四月十三日のキビ刈り終了までにわずか2号を出したにすぎなかった。そして、ほとんどの参加者は帰路についたが、なかには残留する者も数人出た。「与那国」の編集に携わっていた者も、四月末には最終のひとりが島を離れることになり、ミニコミ発行のためのカンパ四千五百円は、そのとき残留組に引き継がれたという。
 「やはりミニコミだめかなあ」「いまごろ居残り連中は、カンパで泡盛買って飲んでるんじゃなかろうか…」など、帰京組が集まったとき、こんなやり取りがあった。冗談めかしてはいたが、たぶんに皆本気でそう思っていたようだ。といっても、別にカンパで酒を飲んだからといって非難するような者は誰一人いなかったはずだ。なにしろ、みんな南国ボケして、お金に対する感覚は極端に鈍くなっていたのだから…。
 そうしたところへ二百円切手を貼った速達が来たからびっくりした。しかも「与那国」第3号の発行。半ばあきらめていただけに感激もひとしおというところである。
 編集後記を読むと、本人自身も相当感激しているようであった。「原稿用紙、封筒、郵送料…。ガリ切り中の現在、はっきりしませんが、もし赤字ならその分は小生からのカンパ…」と後記にはあったが、与那国からの切手代だけで一人二百円。それを七十五人全員にあてて出したのだから、これだけでもう一万五千円の勘定である。大赤字は一目瞭然だが、それを「もし赤字なら…」などとのんきなことを書いているところをみると、彼もまたすっかり南国ボケにやられてしまっていたのだろう。
 それはともかく、このミニコミに彼は"石垣にて"という一文を自ら寄せている。彼は最初、石垣島の農家で働き、そのあと与那国島へ来たのである。
 「支那事変直前、新天地を夢みて台湾から移住してきたおとう(父)の昔話を聞くと、台湾出身者たちの苦労話が、そのまま石垣の近代史の大半を占めるとさえ思えてくる。"内地の人間は一等国民、沖縄人は二等国民、僕ら台湾出身者は三等国民…"。終戦前後のころのおとうの印象だそうだ。そして"僕の故郷はここ。差別などとは言わせない"。そう言って目頭を押さえるのだ。この家の居間の壁には額に入った感謝状や表彰状が十枚ほども掛けられている。…僕には、他国からの移住者であるおとうの、世間に対して有無を言わせずに自分を認めさせてきた戦いの跡…とも受け取れた」
 と彼は書いている。彼はこの農家で、息子のように名前で呼ばれ、大切に扱われたらしい。
 「たぶん僕は来年も来ます。ただいま!と言って」とも書いているが、こうしてみると、彼は今回のキビ刈り援農では、実にうらやましくなるほど貴重な体験をしてきたようだ。もちろん、それ相当の身銭を払っているのだが…。

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Last Update:2004/01/07
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