沖縄・与那国島サトウキビ刈り援農隊

「自著を語る」 島びとの独立心の支えに 藤野雅之



 日本の最西端にある与那国島を初めて訪れたのは一九七三年の夏だった。石垣島からセスナ機で一時間かけて降り立ったのは、まさに絶海の孤島。当時は観光客もほとんど来ることはなく、忘れられたような島だった。

 このとき島の古老から聴いた話に強い印象を覚えた。この島では古来、男女とも十五歳になると一人前の人間として、村の決めごとなどに参加していたという。それはまさに完全な直接民主主義ともいえる村の運営システムだった。明治三十六年まで続いた、あの悪名高い人頭税に苦しんだ島民の知恵が生み出したものではないかと思われた。

 島の人口はこのころ二千三百人。十年前の六千人から急激な過疎化が進んでいた。農業の基幹作物はサトウキビで、復帰前までは台湾から季節労働者が来ていたが、日中国交回復でそれも途絶えて、島の農家は人手不足に苦しんでいた。町長や農協長の要請を受けて始めたサトウキビ刈り援農隊はそれから三十年間も続くことになるとは思いもしなかった。

 昨年十月、与那国町は石垣市、竹富町との合併について住民投票をおこなった。これには八十人の中学生にも投票権が与えられ、あの直接民主主義の伝統が今も生きていることをうかがわせた。結果は圧倒的多数で「合併しない」を選択した。投票した中学生が「合併すると石垣市に埋没してしまうのが嫌だった」と言っていたのが印象に残っている。それほど与那国島の人たちは独立心、自立心が強いのである。

 島には高校がないから中学の卒業生はほぼ全員が島を出て行く。昨年末、三十年にわたる援農隊の足跡を本にして、いちばん喜んでくれたのが与那国島の人たちだった。島を出て那覇や東京や外国で暮らす人たちが、この本に登場する島の人たちの縁者に連絡を取って消息を尋ねて回ってくれたのである。島から出て行っても島のことを忘れてはいない。この本への、こういう思いの寄せ方を、書いたときには想像もしなかっただけに、わたしには意外でもあり、たいそううれしくもあった。

 援農隊の参加者にとっても、若き日に隊員として島できびしい労働に汗を流した体験を再確認する機会になったようだ。自分たちがそれなりにがんばり、いしずえとなった援農隊が三十年も続いたことで、人生を改めて振り返り考えてみる契機にもなったようだ。

 今、島はさらに過疎化が進んで、人口は千七百人強。海底遺跡の発見や「Dr.コトー診療所」の舞台となって観光客も増えてきたものの、自立の道を選んだ島民は、これから先、島の将来をどうするか、困難な未来が待っている。だが、北海道をはじめ全国から三十年間に二千人を超える若者たちが島に渡って働いてきたことを思うと、この島には格別の魅力があることもたしかである。そんな島の未来を切り開くために、今後もなんらかの形で援農隊を活用してもらえればいいのではないかと、わたしはひそかに思っている。

(略歴)1941年兵庫県豊岡市生まれ。早稲田大学法学部を卒業後、共同通信社に入社、おもに文化部記者として取材に当たり、文化部長、京都支局長を経て、2002年、株式会社共同通信社取締役出版本部長を退任退職。フリージャーナリスト。援農舎代表世話人。共著「日本遺跡発掘物語」。(東京新聞・中日新聞夕刊 2005/01/13)


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Last Update:2005/01/14
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