「ゆうな」は沖縄の浜に咲く喬木です。"おもろと沖縄学の父"伊波普猷によれば、与那国の名は「ゆうな」の転訛したもので、島ではさらに訛って「どなん」と呼んでいます。
第5回援農を終わって
今年の援農は4月5日に無事終わりました。与那国島の今年のサトウキビ生産量は約7700トン。60人の援農隊諸君の懸命な努力もあって、当初の予定より10日も早く終わりました。長いつらい2ヵ月間ご苦労さまでした。また与那国の人びとにも、今年は各農家に住み込ませていただき、本土の青年たちに貴重な体験をさせていただいたことを心より感謝いたします。
2ヵ月もの間、寝食を共にし労働をするということは、農家にとっても援農隊員にとってもよそ行きの付き合いではすまされず、それぞれに本音が飛びだして、ある時は議論になったり、喧嘩になったりということもあったと思います。しかし、それらを経てなおかつ同じ目的のために生活と労働をやりぬくことは、あとに大きな収穫を残すことと思います。
与那国島という辺境の島の農業をとりまく状況は実にきびしいものがあります。北海道から参加したある人は、農業近代化の面で与那国は北海道に比べて30年近く遅れていると言っていました。与那国のキビ農業を見ると、機械化、近代化はやはりどうしても進めなければならないと痛感します。しかし、日本全体で見ると、砂糖は輸入した方が安いという問題もある。そこからさまざまな問題が出てきます。遠い離島では流通の障害もあり、それらのさまざまな困難のなかで島の人びとは農業を営んでいるわけです。
本土から来た私たちには、気の遠くなるような現実を目の当たりにし、なおそこで驚くことは、島の人たちのおおらかな暮らしぶりではなかったでしょうか。表面的には粗野とも見える島の人たちが、死者の正月である十六日祭やサニティ(3月3日の浜下り)の行事などの伝統のなかで、近代化されてしまった本土では忘れられたような豊かな心を今も育てているのは、それらが本土化の並みのなかでしだいに変わりつつあるとはいえ、私たちになにものかを考えさせてくれます。
この2ヵ月のキビ刈り体験は参加してくれた1人1人の長い人生のなかでしだいに大きな意味を表わしていくのではないかと期待します。
《往復書簡》 3300キロを隔てて
● M君からU君へ 2月28日与那国島発
お便り随分と遅くなって申し訳ありませんが、その後お元気ですか。キビ倒しが始まった1週間目〜10日目頃は、身体がキシんで大変だったのですが、最近は身体の方も慣れ、毎日元気で汗を流しております。
農家分宿は今回が初めてとはいえ、受け入れ体制等まだ不充分な面もあり、不満もあるのですが、みんな元気で頑張っているようです。不満といっても生活、風習の違いはあって当然なのですが、我々が少なくとも本土では考えられないくらいの労働条件でやってきていることとか、本土での生活リズムをこわして(1年のうち2ヵ月余りとはいえ、やはり安定した生活という意味からはこう言えると思います)来ていることなど、全くと言っていいほど島の人たちには関係なく、ただの人夫であり、安い労働力だということです。なかには理解してくれる農家もあることはあるのですが、ただこういった問題は、各農家に入った人たちが生活と労働を共にするなかでいろいろと話し合って理解を深めていかない限り、いくら(援農隊同士で)内輪で話していてもどうしようもないでしょう。
援農舎の発想としてはいまだに呼びかけ人でしかなく、ただ頭数をそろえて送り出せば責任を果たせるみたいな感じでしかないような気がします。こういったことは現地に来ると、より痛切に感じます。現地での苦労を実感とともに味わったことがない人には理解しがたいことだと思われます。今後の援農隊をいかに組めばよいのかとの結論はまだぼくには語れないし、ぼくの立場上こういった援農舎なりを利用した方が沖縄に来やすいという状況もあります。ただ1つの案として久保英二さんの言うところの、自分で仲間を集めて、お互いが少なくとも責任をもって農家なりにかかわっていく方法とか、いろいろあると思われますが……
不満めいた話が多くなりましたが、ぼく個人としては、わりと楽しく毎日を過ごしています。というのも、毎晩のように他の援農隊の入っている農家を回っていろいろと話しているので、何やかやと刺激を受けたり、勉強になったりしています。
まだまだ書き足りないことも多いし、今まで書いてきたことがくつがえされる変化も起こるかも知れないし、という今後の長い生活がありますが、今回はこの辺で。それではまた、お元気で。
● U君からM君へ 3月16日札幌発
遠く離れている者としては、現地の様子を想像しながらものを書くことに気をつかってすまう所ですが、きりが無いので思いつくままに書くことにします。
与那国島の人達に風俗習慣の違う土地から来た者に対する心遣いの少ないのは確かなようです。それは多分、住民がよその土地を訪ねることの少ない遥かな離島、ということが大きな理由ではないかと思います。例えば、石垣島あたりだと結構大きな街があって、農家の人達も都会人のことを心得ているので(そのような)傾向は少ないようだし、大きな街へ出る機会の多い島でも同じことだろうと思います。
それから、日本本土の人間が観光客としてではなく労働者として本格的に与那国に出かけるようになったのは援農隊が初めてのようで、それ以前に韓国や台湾から来ていた人達は、援農でも体験でもなく、家計を助けるための純然たる出稼ぎであり、極めてつつましくやっていたということでした。
だから与那国の人達に無意識にでも外国からの出稼ぎの人達と我々とを比較する気持があったとしたら、「援農」とか「体験」とかいう気楽な、時には優越感さえもった援農隊員たちの態度に与那国の住人たちがむしろ反発を感じても、それはそれで当然ということになってしまいます。
そうすると、今度は募集の仕方とか、援農舎と与那国との交渉の問題ということになってくるでしょうか。けれど実際のところ、理屈が多くては人は集まりにくいだろうし、交渉によって一朝一夕で与那国の住人の意識まで変えることができたら最初から苦労はない訳だし、まあ、乗せられて参加してしまった者がそれぞれにどういう時を過ごし、どう考え、呼びかけ人に文句のある奴がどう反発するか、といったところでしょうか。(中略)
藤野さんとしては、いかに多くの非難を受けても、事実、与那国から頼りにされている者としての責任感に支えられてやってきたのだろうと思うし、ぼくとしては今でも付き合っているからといって、決してすべて納得がいっている訳でもなく、未解決のジレンマを引きずりながらの付き合いであって、ただ、ぼくはぼくなりに、あくまでも参加者の立場をとり続けることで、何かとても大切なものを得ることになるような気がしています。
「南南西に針路をとれ!」にも書いたけれど、受け入れ側が「……何も特別なことをする必要はない。親せきや知人が街から手伝いにやって来た、といった調子でいい。そして土を耕し、家畜を育て家族を養って懸命に生きている様をありのままに見せてくれたらいい……」。要するに対等な付き合いということです。けれど、そのためには互いの間に誤った先入観のないことが条件になります。以前からこんな話を何度も聞きました。「二度目に訪れるとよそ者ではなくなる。」
子供の成長とか、植物の生育とかいったものは、毎日接する者にはその変化があまり感じられなくても、たまに見る者の目を見張らせたりします。与那国の人達の意識の変化にしても、一年ぶりの君と三年ぶりの久保洋君とでは感じ方が違うはずです。目に見える変化は期待しない方がよい。それよりも月並みだけれど、「一匹狼」として一人一人が自分の与那国滞在をより充実したものにしていくように努めれば、それが全体のよい傾向となって行くのでは、と思います。
ぼくが「南南西……」に書いた時、中学一年だった女の子はこの春卒業のはずです。内地者と付き合うことに慣れた、先入観の少ない若い世代が与那国社会の中堅を目指して成長しつつあります。そして、彼らの内地者に対する"新しい先入観"は現在じかに接している君たちが創りつつあるのです。
ぼくは衣食住の中で手仕事が減っていくことに大きな危惧を感じているのですが、北海道の牧場住み込みにしろキビ刈り援農にしろ、都会人が少しでも原始的な生活に体ごと自分を放り込んでしまう機会を持つことは、少々荒療治とはいえ、とてもよいことだと思っています。体験主義のぼくとしては、機会をとらえてできるだけいろいろなことをやってみたいという気もあるし、ぼく自身の性分として、ある場での精神的にも肉体的にも、最もきつい仕事をある程度やってからでなければ、その場について誇りを持って語ることができない、という気がします。だから与那国滞在の一日一日を心して過ごすことは、あとで呼びかけ人を攻撃する必要が生じた場合に有効な武器を磨くことになると思います。
自分の置かれた情況の変化によって、それまでの自分の考え方に疑問を抱いたり、考えが変わったりすることを気にすることはないと思います。ただ大事なことは、そういった心の動きをメモするなりして、余裕のできた時に客観視してみることです。若いうちに過去を振り返ることを否定する人もいますが、それではせっかくの「体験」の意味が希薄なものになってしまいます。過去のことを反芻するのは、体験をより消化して精神の血や肉にしていくことになるのじゃないか。サン・テクジュペリが童話「星の王子さま」の中で、自分が子供だったことを覚えている大人の少ないことを嘆いていますが、実際のところ同じに年をとっても「大人」とは言い難い大人の多いのは、体験を充分消化しないうちに排泄して(忘れて)すまいからではないかと思います。
気が向いたらまた手紙を下さい。体に気をつけて。
★与那国島の魅力★
援農隊に三度参加した。目的意識をもって回数を重ねたのならともかく、成り行きでそうなったという感じでカッコイイとは言えない。
強く印象に残っているのは、第1回と第2回の時の経験である。1回目は農協内部の混乱で操業が中止か否かという危機に瀕し、島での生活の違いやら、島の人のものの見方や感じ方の違いで非常に戸惑ったり、動揺したりした。2回目の時は、援農隊独自で農協の畑を担当したため、仕事がはかどらず島での評判はあまり芳しくなかった。それに空き家に分宿という集団生活だったから、農協との取り決め上のことでだいぶもめたりした。こういった面が印象深いというのは、多くの問題のぶつかり、かえってお互いの本音を出し合えたからではないだろうか。
先日、S氏から「与那国島の持つ魅力というのは、島の"閉鎖性""封建性"と言われるものと裏腹の関係にある」と言うのを聞き、僕の眼からうろこが落ちたようで、えらく感動した。合理主義の物質文明に毒された小生は、援農隊に関する件で島の非合理的と思われる部分に直面すると、やたら不平不満を口にし、早急に問題が解決することを要求したものだった。
現在、僕は東京で暮らしていて、都会の生活は行き詰まっていると痛切に感じているのだけれど、S氏の言葉以来、実は与那国島で非合理的と感じた諸々の部分にこそ、行き詰まりを打開するヒントが秘められているのではないかと考えるようになった。
そして今は、三度参加してよかったと思っている。1度だけなら良き思い出として心の片すみに残った程度だろう。この三度の体験で実にいろいろなことを学んだ。「援農」などと言われるのは恥ずかしくて、逆に与那国や沖縄から随分さまざまなものをもらったと思う。(埼玉県蕨市・小林章)
東崎(あがりざち)から陽は昇る(2) 藤野雅之
再び仲里さんのこと
ある大手マスコミの元那覇特派員をしていた記者が言いました。
「沖縄のキビ農業は経済的には自立できないモノカルチャー農業だから、いずれべつのものに取って代わるだろう。そんな農業に支援しても意味がないよ」
巨視的に見れば彼の言うとおりかも知れない。しかし、私はそれだけで済ませていいものかと思います。将来、与那国など八重山の離島が農業を基盤にして自立していくなら、今のキビこそその土台になるだろう。農業の複合化は与那国の現状から見ると、夢のような話ではあるが、そのためにはやはり現在のキビ農業は近代化によって安定させなければならないと思うのです。そうでなければ複合農業さえ実現しないのではないでしょうか。ことに与那国島についてはそうだと思います。
前号で与那国町農協の仲里正徹元組合長のことを書いたのは、実はこのことと関係してくるのです。人口2000人余の与那国島は石垣島からでも127キロも離れている孤島です。復帰前後から本土の観光客が八重山諸島に大量に訪れるようになったとはいえ、与那国島まで足を伸ばす人はそうはいません。一時の民宿ブームも島ではもう飽和状態。宿泊客は少ないのです。そこで島の経済生活を支えていくためには漁業と農業が中心になります。「農業さえ安定すれば」というのは仲里さんだけの悲願ではなく、島びとすべてのものだったでしょう。現実には農業だけでは食べていけないから、過疎化は進むばかりなのです。
外間町長によれば、この1年間、青年のUターンが島でも顕著になっていると言います。しかし、島に戻った青年は現金収入のために農業外に職を求めます。その職もあまりない。現状では農業に希望を持てない。本土や沖縄が不景気だからUターンが増えているということかもしれない。今、島にとってまず大事なことは農業を安定させることなのです。
仲里さんはそれをめざしていたのです。3年前の春、仲里さんの家を訪ねました。当時、農協はライスセンター、牛舎、ミルクプラントを建設していました。与那国島は沖縄県でも稲作の盛んな島として知られていました。モミを乾燥させ、精米し、そこで出た余剰のヌカやモミガラを利用して、牛舎の乳牛の飼料とする。そして牛乳やバターを島内で生産し消費するという計画で、合理的な設計がなされていました。また農業構造改善により畑地の土地改良をして基盤整備し、キビ作の近代化をめざしていました。キビとコメは与那国島の農業の中心だからです。その次は畜産だとも言っていました。
奥さんは町役場に勤めるかたわら、家庭では黒糖を使った漬物や保存食料を工夫し、島でとれる果物や山菜の料理を考えて作っておられました。それはおそらく与那国島の伝統や風土の根ざしたもので、他の家の主婦もそうしたものを作っているのでしょう。別の家でもまた違う独特の島のものを使った料理をご馳走になったことがあるからです。
話が反れてしまいましたが、与那国島はそういう方向をめざしていた島なのです。しかし、それが挫折してしまいました。そして島の農家はいままた新しい出発を始めています。そういう島へ援農というかたちで私たちは4年間出かけて行っている訳です。島の人たちが、何を望み、何を苦しみ、何を楽しんでいるか。それは通り一遍の観光旅行や大臣の視察などでは決してわかるはずもありません。農業の近代化にしても、たとえば八重山の離島の土地を本土資本に手放す人びとにしても、外からあるいは近代化されてしまった人びとの目から、いろんな批判もできるでしょう。しかし、それは所詮、現代の文明というものを享受している人の、ある意味でぜいたくなないものねだりという場合もあるのではないでしょうか。
「自然を愛する」と言います。しかし、それは自分にとって都合のよい自然であることがほとんどです。本当の自然に身を置くと、それに圧倒され、自分の居場所もわからない身の置き所のない感覚におそわれてsssっしまうのが、私たちのほんとのところではないでしょうか。与那国島のキビ刈り援農の体験は、そんななかで島の人たちがどう生きているかに直に接する機会になるのであれば、世話人のひとりとして、こんなにうれしいことはありません。そこにこそほんとうの交流も生まれてくるのでしょう。
「裏を返す」――援農から帰って 右近幸男
3月17日に無事帰ってきました。エネルギーを使い果たした感じで、さすがに疲れました。つらいことではありますが、農家に入り込んで、とてもよかったと思います。石垣島、与那国島の農家に入り、そのことを強く感じました。それで、これは大事なことですが、一度入った農家に二度目も入ってほしいということです。帰りにクドイように<来年も来い>と繰り返す心情のなかには、今まで来た者にはほとんど再び訪れる者がいなかったことが表われています。島の人たちのヤマトンチュに対する不信感もここらあたりに根があるのではないでしょうか。
援農で来た人たちのなかには「一度来てみたかった」「一度体験してみたかった」という人たちが多いと思うのです。それはそれで良いと思うのですが、受け入れる農家の人たちにとっては、一回限りの付き合いは、とても寂しくてやりきれないと思います。
援農に来る人たちのなかには、定職をもたない人が多いし、定職に就いたらなかなか来れないとは思うのですが、<裏を返す>のは必要ではないかと考えます。昨年お世話になった石垣島の農家へ行った時の、あのうれしそうな顔は忘れられません。増田君もちょっと寄っただけなのに、すごく喜んでくれて驚いたと言っていました。
いろいろなことがありましたが、みんな食事にはまいったようです。僕以外はみんな腹の調子をくずしていました。特にポークと言っている缶詰(ランチョンミート)が合わないようでした。また今年も雨が多く、初めての人たちは大変だったと思いますが、よく頑張っていました。祖納元精幸さんの所は途中からハーベスタが入ったこともあって順調に進み、僕が帰る時点で300トン近くまで搬入しました。今度の援農でもまた未知の人たちと出会えたのがとてもうれしかったです。これも援農のよさではないでしょうか。(兵庫県城崎郡竹野町金原、78年石垣島、79年石垣島・与那国島に援農、30歳)
【ど な ん】
★ 78年に石垣島の農家に援農した藤和三さんが今春、沖縄キリスト教短大に入学しました。20歳。藤さんは援農隊が終わった後、本島金武村の夢眠牧場で働き、その後琉球大の寮で受験に備え、今春の援農隊が那覇に着いた時には出迎えてくれて、元気な顔を見せてくれました。住所は沖縄県中頭郡西原村金久、●●方。
★ 77、78、79年と3回続けて参加の早大生中村修さんはめでたく大学を卒業。郷里の岩手県農協中央会に就職。おめでとう。新入職員は岩手でも辺境の久慈市で勤務とのこと。農協に就職したのも援農隊券の影響から? 地域農業の問題にがんばってください。
★ 世話人の黒田勝弘さん(共同通信社記者)は、昨年4月から1年間、韓国の延世大学に留学していましたが、3月末で終了。4月4日に元気で帰国しました。
★ 4月から毎月1回読書会をやります。76、77、78年と3回与那国島援農隊に参加した小林章さんの提案です。第3木曜日の午後6時半から、場所は当分、東京・内幸町、日比谷公会堂向いの日本プレスセンター8階、共同通信社分室(TEL●●)を利用します。第1回は4月19日。灰谷健次郎著「太陽の子」(理論社・1200円)。第2回は5月17日。新川明著「新南島風土記」(大和書房・1500円)
★ 「八重山の歌と踊り」という催しが4月29日午後1時、午後5時30分開演、東京・九段会館で行われます。八重山芸能研究保存会などの主催。入場料は前売り1500円、当日券1700円。連絡あれば前売券を確保します。TEL●●藤野まで
★ コザのアマチュア劇団「創造」の演劇「人類館」がこの夏、大阪で上演される予定です。「人類館」は昨年8月、東京で上演され、援農隊参加者も十数人が観賞しました。沖縄の近代百年の体験を沖縄人自身によって描かれた画期的な演劇で、東京上演は昨年の演劇界における大きな収穫として評価されました。
★ 「ゆうな通信」の題字が今号から新しくなりました。札幌在住の内山昌巳さんにデザインしてもらったものです。内山さんは与那国島でもよくスケッチしていましたが、絵のほか版画や写真などもクロウトなみ。紙面もぐっとよくなりました。
★ 世話人の稲垣一雄さんが「思想の科学」2月号に「なぜ島なのか」との題で援農について書いています。もう書店にはありませんが、援農舎に残部が少しあります。稲垣さんには、今回も3月初めから終了まで現地でキビ刈りをしながら援農隊の現地世話人をしていただきました。
★ 沖縄で世話になった方々にも、また隊員の知人で関心をもっている人たちにもこの通信を読んでもらいたいと思います。とくに援農隊を受け入れてくださった宮古島、石垣島など八重山の農家にはぜひ送りたいので、個人で送るか、あるいは当舎に送り先を連絡してください。
★ 創刊号に続き第2号の写真も世話人の松井孝夫さんの撮影です。本職のカメラマンなのです。
☆手紙から☆
▼ 創刊おめでとうございます。とても有益な仕事と思います。与那国を「ゆうな」「どなん」と発音するのをおもしろいと読みました。「渡り鳥」の表現すてきです。琉球諸島への興味や魅力で援農に応じた人が、イデオロギーなどというケチな了見ではなく、もっと高次な面で結び合えたらと思います。(新潟県佐渡郡畑野町宮川・本間雅彦さん)
▼ 創刊号御恵送賜り、有難く読ませて頂きました。(中略)フロントページの写真ビックリしました。記憶のある顔も見えますが、多は全く未知の方々ながら、ナントその人相風態の似ていることよ。「キビ刈り鳥」族は、時と所を隔ててやはり同類項を持っているものだということがトップを飾る写真で判然とします。(中略)僕はもうあの重労働に耐えられぬくらいトシをとりましたので、もはやキビの畑のザワザワという風には、そしてその甘味のしたたりにはナマでは触れられませんが、いまだにありありとヨナグニの島のすべてのたたずまいが脳裡に焼きついております。僕にとって輝く時間だった沖縄の体験をいくらかでも再確認しようと、首都圏内で催される沖縄イベントには殆ど顔を出しています。(中略)今年の援農隊は北海道の方が多いとか。北海と南海の気候、風土の差を自ら体験されて、通り一遍の観光ナンカでは得られぬ人間の生き様を、その交流のなかで、それぞれの感性で受け止められれば何よりのお土産になるでしょう。僕にとってもその後の人生観、価値観が変わり、ウロコが一枚落ちた眼で世間を眺められるようになったのですから。(川崎市幸区・井上一男さん。井上さんはその後死去されました)
編集後記
第2号を援農期間中に出すと約束しながら、大幅に遅れたことをお詫びします。創刊号を3月16日に速達小包便で発送したのですが、3月末になっても届かないとのこと。日本国内と言いながら、いかに与那国が遠いかを改めて思い知らされました。
今回は、現地の援農隊員と第1回に参加したOBとの往復書簡を中心に編集しました。真剣で率直な感想に、世話人としての小生のやってきたことなど、隊員の体験の重さに比べると何ほどでもないと痛感します。
今号から定価を付けました。郵送料は不定期刊行物なので50円です。年間購読として500円(送料込み)申し込みは現金か50円切って10枚でお願いします。
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Last Update:2004/04/07
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