「ゆうな」は沖縄の浜に咲く喬木です。"おもろと沖縄学の父"伊波普猷によれば、与那国の名は「ゆうな」の転訛したもので、島ではさらに訛って「どなん」と呼んでいます。
来年も行くぞ、太鼓叩きに、三味線弾きに 栗田武司
君も小生も出発点は同じ援農舎で、君は援農舎の計画に沿って与那国島へと向かったが、小生はほかに目的もあって、ひとり西表島にやって来た。もちろん作業は君と同じキビ刈りである。2週間を過ぎた今日、君からの第1便を受ける。きびしいキビ刈りの最中に、便箋6枚以上にもわたる長文の手紙に感謝する。
さてその長文の手紙だが、冒頭から作業が予想を超えてきびしいこと、「キビ刈りなんぞは他の農作業に比べると、スポーツも同然。とにかく体験することだ」という小生の勧めに乗ったグチ、それでも懸命にがんばっているのも、援農隊という立派な看板を意識したがゆえ。だが、今ではその看板の文字もはげ落ちて、代わりにアンコ(俺たちの世界では、仕事を拾いながら渡り歩く労務者の意)という文字が浮かび上がる。受け入れの与那国島側にしても、それわれの存在を数のまとまったキビ刈り労務者として受け止めているのではないだろうか、との疑問。だから島民から「援農隊の人」と呼ばれたりすると、救われたような気持ちになると君は言う。そこで、われわれが「援農隊の人」と呼ばれるからには、アンコとは決定的に違った位置づけが必要だ、と君は考える。
手紙の内容はだいたい以上のようだ。
Y君、君の手紙を読んで、小生は降り出しに戻ったような気持ちになった。つまり、援農舎は過去4回にわたって与那国島へ援農隊を派遣してきたが、毎回必ず隊員の幾人かは君と同じ疑問なり不満を訴えているからだ。「俺たちは援農隊なのか? それともアンコなのか?」
さて、手紙の核心から若干それるようだが、キビ刈りはもちろんスポーツどころか、きびしい農作業にちがいない。キビを刈るというよりも、ナタを地面に力いっぱい叩きつけていると言った方がふさわしい。からだ全体を動かすわけでもなく、絶えず使う筋肉も決まっている。背筋、肩、それに握力だ。小生もある夜など背筋が突っ張って眠れずに、床の上に正座し通したことがある。握力、これは疲れてくると、ナタを持つ手を少しゆるめたくなる。するとナタを振り下ろしたとたん、手からするりと抜け落ちる。そして、ナタを振り下ろすスタイルとそのときの筋肉活動は、あたかも力いっぱいバチを太鼓に連打しているのに似ている。(小生はかつてあの勇壮な太鼓の音に魅せられてバチをさばいた経験がある)。また葉落としはどうか。キビをあの独特のカマの上からサーッと引き下ろすスタイルは、三味線弾きに似いてはいないか。
小生は西表島からの帰路、首里に住む友人を訪ねた。話題はキビ刈りとなったが、彼らはキビ刈りとは言わずに"首落とし"と表現するのだ。本島のキビは、八重山とは品種が違うらしく、わりと真っすぐに伸びているせいもあって、彼らはいきなりキビの首をハネるそうだ。それゆえ、キビ刈りのことを「首落としをする」と言うそうだ。太鼓叩きに、三味線弾き、それに首落としか。いろいろと表現方法もあるものだ。
さて君は「俺たちは援農隊なのか、アンコなのか」と自分たちの行動そのものを、四角四面になんらかの言葉に当てはめようとしている。少しきびしい言い方になるが、君は単に「言葉と遊戯」をしているとしか小生には受け取れない。キビ刈り労働のために、遠路、しかも今までの生活を断ってまで与那国島にやって来た。この行動そのものに大きな意義を見出して、君が好んで用いたあの辞典的解釈から脱皮するための転機として、この機会をとらえてもらいたい。
「国境の島」というロマンチックな表現に魅せられて来る単なる旅人との違いは、その土地で生活することにある。生活とは必ず労働が伴っていて言えることだ。土地の住民との強力な人間関係を創り出す糸口として、土地の人とともに働く。これが最良の道である。
地理的にはこのように遠く、中央からはほとんど忘れられたかのような離島の離島、与那国の島にとっては最も大切で、しかもきつーいキビ刈り。この体験を経てこそ、ロマンめいた言葉のイメージとはほど遠い島の現実のきびしさを知り得るであろうし、半面、都会では忘れられてしまったユーモラスなことも、ここでは平然と日常生活の中で生きていることも知るだろう。
君の訴える援農としての位置づけも、考えてみれば、君自身の意識の問題であり、島での生活姿勢の問題であり、その後の島への対処の仕方にあると思う。抽象的な観念や理論よりも、まずは実践を重視しよう。実践から体得した君の離島観は、いままで無関心であった人たちの関心を引きつける強力な武器となろう。
来年も行きます。太鼓叩きに、三味線弾きに。
(78年小浜島、79年西表島。京都市山科区西野山射庭ノ上町46−5)
与那国レポート 真壁信治
お元気ですか。こちらは、あついあついOKINAWAの夏の真っ只中にいます。援農隊の残留組も1人、2人と帰ってしまい、比川の川村君と2人だけになりました。3月終わりごろに植えた稲ももう刈り取られて、観光客もパラリパラリとしかやって来ないこの島は、夏の日ざしを浴びて、干からびてしまいそうです。CTS問題もさることながら、連日続いているナンタ浜での港湾建設工事はたいへんなもので、ハッパをかけてサンゴ礁をくだいて水深を深くする工事なのだそうですが、青い海にポッカリと浮かぶサルベージ船は異様です。
ぼくもあと1週間ぐらいで島を離れる予定です。とにかく今回、与那国に来てほんとによかった。今まで考え続けてきた問題が一挙に氷解してしまった。聖なるものと俗なるものの混然として入り乱れた状況は、エリアーデや構造主義者たちの分析をはるかに超えて、ここではどこからでも一挙に吹き出してくる。風景など信じてはいけない。都市がどうした、物質文明がどうした、公害がどうした、CTSがどうした。物質主義者ども、帝国主義者ども、融和主義者ども、ここまでは手が届くまい。聖なるものの聖なる噴出、"革命"もくそくらえです。
(1)
僕の「OKINAWA」体験は、小学校のころに始まりました。そのころやっていたTVの連続時代劇かなんかの中で、オキナワが舞台になって、あの三線の音と、オキナワ気分が画面にあふれてきたのです。ストーリーなどはぜんぜん覚えていないのですが、悲劇のヒーローとヒロインが(ヒロインはオキナワ風のキモノを着ていました)しっかりと抱き合うぬれ場にえらく感動して、涙を流して見たことを覚えています。話の前後はさっぱり忘れてしまったのですが、その場面だけがくっきりと脳裏に焼きついて離れなかった。これが「OKINAWA」体験の第1番目です。
(2)
第2番目の「オキナワ」は、政治的なものでした。1960年代後半の全共闘運動の時期に、安保−沖縄−大学をめぐっての闘いの中で浮かび上がってきたオキナワは、ベトナムがあるからオキナワがあり、オキナワがあるから安保がある、という一転突破のきわめて政治主義的な運動で、単純に「どうにかしなければ」の運動でした。おかげで大学も中退せざるをえず、片思いの恋人にふられた思いで大学を後にしたわけです。
69年秋、70年6月、71年三里塚、渋谷、72年5・15と連戦したにもかかわらず、視野からオキナワは沈んでしまい、再び浮上するのはそれから数年後、某集会で喜納昌吉の「島小ソング」を聴いた時。
(3)
寺に入ったのが1973年の春。仏教のドグマティズムと観念主義的な世界解釈に閉口していた矢先に聴いた喜納昌吉の歌とボブ・マール・アンド・ザ・ウィラーズなどのレゲエ・ミュージックは80年代に向かっての可能性でした。惰性化を突破し、中間主義的な一切を振り切る論理は、もちろん仏教哲理が得意とするものなのですが、現実の場では、どこか不徹底なものを残して膠着してしまう。ここをどうにかしなければ、と絶えず思っていたわけです。"インド"、それもよいのですが、どうもそこには飛躍がありすぎる。すぐに向こうに吹っ飛んでしまっては何にもならないわけで、そこにひとつの"歯止め"を打つ必要がある。それが"オキナワ"だったわけです。
(4)
こちらに来てから、オキナワ関係の本をできるだけ読んでみました。谷川健一、大城立裕、新川明、金城朝夫さんなどいろいろと。結論的に言ってしまえば、オキナワはひとつの問いではなく、「ひとつの答え」だとしか思えない、ということです。国家と辺境、中央と地方、近代化と土俗性などの二項対立的発想には意味がない。国家の及ばないところに阿、まさに辺境はあるのだし、地方性とは集権されることにない在り方のことなのですから。
では与那国は辺境であるのか。それは間違いなく辺境だと思います。しかし、その辺境性は地理的なものだけによるわけではない。それはむしろ地理的に隔絶されることによって醸成されたものなのだ。日本国の最西南端にあるから辺境なのではなく、中央集権的文明社会から遠く離れていたことによって、彼らが醸成し、血とし肉とした文化。生活倫理、体質などなどが、文明を拒否するだけの力を持っているからだろうと思うのです。
与那国の島にも飛行機がやってくるし、車もたくさんある。インスタントフードやネスカフェ、コカコーラからテレビゲームまであるのですが、実にそれらは貧弱にみえる。まるでヤマトからの観光客のように貧しくみえるのです。ちょうどキビ刈りの時、国吉さんという農協の職員と東江(あがりえ)君とでキビ積みをやっていたのですが、そこで驚いたのは、国吉さんはまるで荒馬にでも乗るようにトラクターを乗りまわすのです。大声をはりあげてキビ畑に突進する姿は、まるで騎兵隊に向かって突進するアメリカ・インディアンのようでした。僕はその時「国吉さんはヨナグニ・インディアンなのだ」と思ったのです。
アメリカ・インディアンは大地をうばわれ、生産手段をうばわれ、虐殺されていった。ヨナグニ・インディアンは大地を保ち、生産手段をいまだに保持している。物質文明はこの島をおおってくるけれど、次々とそれらを風化していってしまう。「この島には物質文明や日本資本主義の矛盾が集中的に現われている」といった友人がいましたが、僕はそうは思わない。物質文明も中央集権的な国家主義も、出来そこないの民主主義も、ヒューマニズムも届かない一領域がここにはある。"ニライカナイ"へと突き抜けていく一領域を共有し合った島人たちがいる。太田竜だったら狂喜して喜びそうな状況が日々、現前している。
風景として与那国島をながめても、おそらくは何も見えないのではないか。写真を撮ったり、フィルムを回してみても何も映らない。そのようなものだけが美しい! そして、それが唯一のエネルギー。三里塚は撮ることができても、与那国は撮れない。オキナワは語りえても、与那国ついては口ごもる。そのようなものが、ここにはあります。
僕自身の問題としては、このような与那国島の生活体験は、寺で考えていた問題にひとつの結論を与えてくれたように思います。「空手還郷」。何も持たずに与那国から出発する。そのように僕もここから旅立ちたい。出会うものに出会ったのです。帰るところに帰ったのですから。(79年与那国。京都市南区八条内田町46、東寺館)
私にとっての沖縄とは 新里愛蔵
東京の中で生活している私が、ニンテン、サミテン(寝ても覚めても)想うことは、沖縄のことばかりである。といっても、これはただのノスタルジア的な意味ではなく、現実的、日常的な生活としての問題なのである。
渡したが沖縄という場合、それは現地(沖縄)だけを意味しているのではない。ある意味では、東京の中にも沖縄があるのではないか、とこのように思うからである。それはどういうことかというと、東京の中にも沖縄県出身の人びとがたくさん生活しているからである。そしてそこには沖縄の文化が生きているのである。
たくさんの沖縄県出身者の中では、必然的、自然発生的にウチナーグチ(沖縄語)が使われ、また毎年大きな沖縄民俗芸能の発表会なども行われている。また沖縄民謡コンサートや東京で働いている若者や、あるいは勉強に来ている学生など、沖縄の若い青年たちによる7月エイサー(沖縄の盆踊り)などの催しも行われる。このようにさまざまな形で、東京にも歴然とした沖縄文化が創造および継承され、力強く根づいている。
東京でのこのような現状の一方、され現地沖縄ではどうかというと、いまさまざまな問題が渦をまいている。認識不足でこと細かくは知らないけれども、私がある程度知っているだけでもいろいろな問題がある。たとえば、CTS問題。これは政府が日本のエネルギーの120日分の原油を備蓄しようというもので、その原油備蓄基地の巨大なタンク群が土地の少ない沖縄にまで建設されているというものである。そして、あの美しい沖縄の島々を切り崩し、青い海を埋め立て、沖縄の自然や資源を破壊している。
また米軍基地問題。いま沖縄には、日本へ復帰後の現在も、東洋一といわれている膨大な軍事基地群がある。その沖縄の米軍基地の中には、人類およびあらゆる生物を破滅させることのできる大量の核爆弾が隠されているという。また、これに付随した問題として、米軍の実弾射撃演習の問題。105ミリ戦車砲弾の落下、米兵による民家への機関銃の乱射事件など。米軍から返還された沖縄の基地がそのまま日本の自衛隊に取られて自衛隊の基地に使用されている問題、等々。このような沖縄の問題を数えあげるときりがないほどである。
それと同時に、沖縄人がもう少し沖縄の島の問題を、もっと多面的に考える必要があると思う。何も知らない私がこのようなことを言うのはおかしいけれども、このままで行くと、なんだか沖縄の将来の自然環境について、ものすごい不安を感じるのである。
というのは、沖縄のような小さな島で、島の緑が毎年減少していくことがあるからだ。沖縄の緑の問題はすなわち水の問題でもある。水のない島ということが、沖縄のあらゆる産業に重大な影響を及ぼしている。いま私たちは、永遠の宝である水を緑と大地を破壊しているのではないだろうか。
私が想うには、その最大の根源は、沖縄という小さな島に確実に殖え続けている人間なのではないだろうか。それと同時に、島の53%を基地にされ、その残りの土地でしか生きていけない沖縄の人びとにとっては、自分たちの足元の大自然を破壊しないかぎり、また開墾しないかぎり生きてはいけない。いずれにせよ、沖縄にとっては、一日も早くこの人口問題を解決する方法を見つけることが必要であろう。そして、この問題は沖縄だけでなく、地球的な課題でもある。
最後に、いま話に聞く沖縄の経済問題は、日本政府から交付された国庫補助金に頼るところが大きいというし、早く沖縄があらゆる意味で自立できることを私は願っている。このような沖縄の問題は、同時に日本全体の問題として皆で考えていかなければならないと思うが、いかがだろうか。(沖縄民謡家。東京都中野区上高田)
東崎(あがりざち)から陽は昇る(3) 藤野雅之
与那国CTSと農業
4月14日付「琉球新報」の1面トップに、政府系の資本が与那国島の比川にCTS(石油備蓄基地)を建設する計画を進めているという衝撃的なニュースが報じられていました。私たちが与那国島にキビ刈り援農でかかわり始めてからの5年間、与那国島はいつも歴史の激動に大きく揺さぶられてきました。そしてまた。CTS建設の話が持ち上がってきたのです。日本の最西南端の小さな孤島が、こんなにも大きな歴史の波に揺さぶられ続けることに、私はいま深い運命のようなものすら感じてしまいます。
CTSは、本島の金武湾で建設が進められ、地元民たちは反対運動を展開しているのですが、3月の那覇地裁判決で、原告(反対する会)が敗訴して控訴中です。西銘県政は、国策にそってCTS建設を進めるという方針をとっています。宮古の多良間島では、やはり本土資本の建設計画に対して、村が一致して反対を決議、建設計画は中止になりました。
与那国島では、2千人の島民がいま、誘致派と反対派に真っ二つに分かれて大きな問題になっています。過疎化する孤島に石油基地を誘致して島を近代化し、経済的に豊かにしたいというのが誘致派の主張のようで、これに対して反対派は「石油基地をつくれば島の自然が破壊され、海も汚染される。先祖から伝えてきた島の豊かな自然を子孫にも伝えよう」と言っています。
与那国島はこれまでも、選挙では島内の対立が激しく、キビ刈りに行く私たちは、そのことに胸を痛めてきたものです。今度また石油基地問題で島が割れることに言いようのないつらさを覚える人も多いことでしょう。キビ農業と漁業で島の人たちは生計を立ててきたのですが、今の日本の農業政策ではそれは思うように進まない。それなのに本土化の波はどんどん侵入し、島の経済は消費拡大にまっしぐらに進んでいるわけで、そこに離島の悩みもあるわけです。そのことが石油基地問題の背景にあると思います。
今年の春、外間町長は町議会で、5年後にはキビ生産を3万トンに増やし、製糖工場も現在の含蜜糖から政府の補助金の多い分蜜糖に転換したいと抱負を述べました。しかし、ここには難しい問題が残っています。ひとつは、キビ収穫労働力の問題です。現在の8千トン程度の生産でも援農隊60人、そしてそのほかにも島外からの労働者を招かねばなりません。それが3倍以上になればどうするのかという問題です。刈り取り機のハーベスタの導入を促進することが最大の解決策ですが、これには機械に合うように畑を基盤整備しなければなりません。そしてその整備事業は少しずつ進められているとはいえ、まだ島内の畑地面積の10%にも達していないのです。機械化と畑の基盤整備をどうやって促進するかが大きな焦点になります。
それに労働力をどう確保するか。今、沖縄県は高い失業率を離島のキビ労働に向けようと指導していますが、離党の労働条件は本島に比べると非常に悪い。だから職安を通してきた労働者の定着性が問題になっています。しかし、離島に労働条件をよくせよと求めることにも無理があります。これは長い時間をかけねばなりません。
離島を単純に失業者の受け入れ先とみなすのではなく、離島の事情を理解しようとする意識を持つことが大事なように思います。そうした人たちが先駆的に出かけて行けるような運動を沖縄県でも起こすことではないでしょうか。
二つ目の問題としては、今の政府が沖縄のサトウキビ生産を育てようという意志を持っていないことです。日本は資源がないので、一次産品を発展途上国から輸入し、工業製品を輸出しなければ経済が発展しない。そのために原材料や農産物を輸入しているわけですが、サトウキビもそのひとつで、沖縄の砂糖生産を減少して外国から輸入したいわけです。だから離島の製糖工場も補助金の少なくてすむ含蜜糖のままに押さえて、分蜜糖を増やしたくないのです。
しかし、これでは離島の農業は発展しません。島で農業をしている人がどんな希望と将来を持つことができるのか。そのことを行政にたずさわる人をはじめ、みんなが考えていかねばなりません。与那国の美しい自然が、島の人の生活の貧しさを代償として存続するのではなく、美しい自然も、島民の豊かな暮らしも、と願わずにはいられません。
"どなん"を思う 崎原史江
私は"どなん" がかけがえなく好きです。だから、"どなん"に興味を抱き、訪れる人に出逢うと、とても嬉しくなる。そして、"どなん"のために援農してくださるみなさま、援農隊の方々には感謝の念にたえません。援農してくださって4年目になりますが、毎年のごとくハプニングがあり、今年もまた期待を裏切り、事故があったと聞きました。受け入れる側の地元住民が災難を引き起こすとは――。とても悲しいことであり、援農してくださるみなさまに、お詫びのしようがありません。もう2度とこんなことが起らないよう願わずにはいられません。
ユナグニヌナサギ イクトバドナサギ
ヌテヌアルアイヤ トヤイシャビラ
大意)与那国の情 言い交わす言葉が情
命のある間は お付き合いしましょう
「与那国ションカネー」は"どなんの心"を唄ったものです。いつまでも唄い継いでゆきたい唄です。そして、いつまでも変わってほしくない、わが故郷"どなん"。
"どなん" ――嗚呼、懐かしく優しい響き。島をあとにして5年の歳月が流れた今でも、いつも思うは……"どなん"のこと。
夕陽を瀬に泳いだっけ―――ナンタ浜
手をのばせば星に届きそうな
野(夜?!)外宴会場のメッカ 東崎
そして 怒涛さかまくサンニヌ台は
優柔不断の私が 心機一転できる処
ひょっこり・ひょうたん島のような、波にぽっかり浮く"どなん"の至るところに、ささやかな私の思い出があふれている。
海に囲まれて育った私が、本土に渡ってまず耐えられなかったこと。海が見えない! もうたまらなくなって、友人に連れて行ってもらった海は……黒い砂、濁った海。
私にとっての海は、真っ白い砂浜があって、真っ青な空が映る澄んだ"海"だったのに……。
遠く離れた異郷の地で、「この空と海は"どなん"まで続いているんだ」って思うことを心の支えにしようと思っていたのに……。
(援農隊が毎年お世話になる民宿「さきはら」のお嬢さんです。保母さんをめざして勉強中。千葉県木更津市)
【ど な ん】
★ 今年の援農の終了後、引き続いて与那国島に残っていた仲間は、増田蔵三さん、春本文雄さん、羽太芳明さん、江田博樹さん、真壁信治さん(以上祖納)と川村勉さん(比川)の計6人。真壁さんからの手紙によると、CTS問題で島は一時たいへんだったが、6人は元気とのこと。7月には全員島を離れました。
★ 78年小浜島、79年与那国島に参加した庄野護さんは、援農終了後、本島名護市に移り、同市の「緑の街づくり」の運動に従事するかたわら、与那国島の方言をまとめた「与那国語ノート(1)」をまとめました。仕事のかたわら図書館へ通い、文献を調査して作ったもので、A5判、56ページ、青焼きコピーを製本した立派なものです。副題に「与那国キビ刈り援農隊のために」とあり、発行は関西援農舎。庄野さんの労作はすばらしいものです。連絡先は●●
★ 77年与那国のあと2年半、西表島在住の伊藤隆司さんは7月、埼玉県蕨市の自宅に元気で帰りました。
★ 79年与那国の浅間伸一さんは、札幌から東京へ移転。新住所は足立区梅田●●
★ 「ゆうな通信」へのカンパ、購読料などで、計190,340円を51人の方からいただきました。このうち5万円は与那国町農協からからの寄付です。2号までの支出は、紙代、印刷代、郵送料で計86,090円です。多くの方からご送金いただき感謝します。
★ 76年の第1回から4回参加した「ナベさん」こと渡辺和夫さんの住所が変わりました。新住所は茨城県猿島郡総和町●●
★ 4月から在京の参加者で続けている読書会は8月で5回を数えました。出席者は平均10人前後。毎月第3木曜の午後6時半からです。4月が「太陽の子」、5月「新南島風土記」、6、7月「まぼろしの祖国」、8月「なはをんな一代記」を取り上げ、8月には著者の金城芳子さんに出席していただき、話をうかがうとともに、会は金城さんのお宅に流れ、新里愛蔵さんの三線と沖縄民謡で楽しくやりました。9月はテキストを使わず、ゲストを招いて話を聞く予定。10月は儀間進著「琉球弧・沖縄文化の模索」(群出版、1500円)。
★ 6月25日、札幌で今年のキビ刈り参加者8人が集まり、話し合いが行われました。第1回参加の内山昌巳さんの呼びかけで、今年は北海道から27人もの参加があったので、ぜひ北海道で集まりを持とうという試みでした。
★ 与那国島を描いた記録映画や写真集が近く相次いで公開されます。写真集「与那国島」(葦書房、3000円)は大阪のカメラマン西浦宏巳氏が昨年から今年にかけて撮影。与那国の懐かしい顔や援農隊のキビ刈り風景も写されています。記録映画「幻想のティダ」は2年をかけて撮影し、この8月に撮了、今秋には完成の予定です。東京のグループ、キネパックの作品。
☆手紙から☆
▼ 「ゆうな通信」ありがとうございました。読むまでは、沖縄の農業の厳しさとか援農隊員の方々の気苦労など思いもよりませんでした。沖縄の海とか灼熱の太陽とかにただあこがれていた私はキビ刈りの厳しさなどは考えもせず、「私も援農に参加してみたい」などと軽く口にしたことを恥ずかしく思います。今後沖縄のことを思う時、今までのイメージが大きく変化してゆきそうです。少しでも現実に結びつけて考えられるようになったこと、とてもよかったと思います。4月から読書会を始められたとのこと、私たちも1年あまり毎週公民館に集まり、雑談と読書の会を続けています。「ぼたん雪」という小冊子を出しました。(新潟県佐渡郡、K・K)
▼ 暑中お見舞い申し上げます。北見もようやく夏らしくなりました。皆さんも夏バテしないように元気でがんばってください。最近、与那国が懐かしくなってきました。また来年キビ畑で会いましょう。(79年与那国、北海道北見市豊地370、中川耕一)
▼ いかがお過ごしですか。私も松山に帰って4ヵ月になりました。仕事も毎日元気で頑張っております。与那国で知り合った友達とも文のやりとりを長く続けていきたいと思っています。(79年与那国、松山市別府町307−1、久津那幸雄)
▼ 「ゆうな通信」ありがとうございました。私は現在、岩手県農協中央会農政営農部に配属され、当分は盛岡です。キビ刈りで鍛えた体力には、それほどきつい仕事ではありませんが、かなり煩雑な仕事で毎日忙しく過ごしています。ただこの間、与那国での体験を省みることができず、ただ「参加してよかった」という気持が実感としてあるだけです。今年は(与那国で)他のメンバーとゆっくり話をする間もなく、顔見知りとなっただけで本土に戻らざるをえませんでした。が、鳩間組での生活は充分満足のいくものであったと思います。
与那国での思い出や魅力は、結局そこに集まった人間集団のかもし出すものであったと思います。南国の魅力は原色の輝きで、与那国で知り合った人たちを思い出す時、それに重なって各々が原色で生きていたような、少なくとも生きようとしていたような気がしてなりません。「参加してよかった」と思うのは、自分のあいまいだった進路を幾分なりとも明らかにしてくれたと感じるからです。
与那国に3度出かけて行って得たものは、私がかつて強烈に持ち、そして少なからず持っている中央志向によっては、結局何もなしえないし、得るものも自己満足だけではないのかということでした。沖縄は現在、その基盤が揺らいできているように思えます。しかし、大半の人たちはその大地に根を下ろして毎日を過ごしています。その現実を見て、私は自分が自分の手で自分の依って立つべき基盤を掘り崩しているのでは、と考えさせられました。(中略)
農協の仕事は外から思っていたより内容的にはずっとハードな仕事で、安易な気持では対応できない重要性を持っていることに気づき、とまどっています。しかしそれなりに頑張ってみるつもりです。キビ刈りシーズンが来たら盛岡でも「自分の存在を確かめるためにも沖縄に行ってみたら」と呼びかけるつもりです。(77、78、79与那国、盛岡市北山●、中村修)
中央アジアを訪ねて
機会があって、この夏2週間ソビエトを旅行した。昨年5月に中国を訪れ、これで2つの社会主義の大国を訪れた。中国に行ったときも感じたことだが、ソビエトでも南部の中央アジアなどでは、どことなく沖縄と感じが似ているのである。なぜそうなのかは今もはっきりしない。しかし、人びとの暮らしの風景を眺めていると、みな実にゆったりとしている。
中央アジアでは、ウズベキスタンのタシケントとサマルカンド、タジク共和国のペンジケントという所へ行った。気温は40度という暑さだが、それほど暑いとは感じない。高原で湿度が低く、乾燥しているからだ。町の方々にあるオアシスの木陰にチャイハナという縁台のような場所があり、人びとはそこでお茶やビールを飲んだりしている。普通なら働いている時間なのに、いい年をしたおじさんたちが日がな一日、お茶を飲みながら世間話に花を咲かせたり、チェスをやったりしているのを見ていると、与那国島の夏の光景を思い出した。
みんなあくせくとしていないのである。中国でもそうだった。そして意外に人懐っこいのである。サマルカンドで乗り合いバスに乗ったら、乗客がいっせいに取り囲んできた。そして「どこから来たのか」と訊ねる。「日本だ」というと、いきなり左腕をつかんで引っ張る。何をするかと見ていると、「これは日本製の時計か」と訊く。日本の時計は世界で一番すばらしいのだそうだ。口々にそう言って、あげくの果てはポケットからありったけのお札をつかみ出して「売ってくれ」。そういうわけにもいかず、こちらは「ダメだ」と答えた。
中央アジアは、今もイスラム教徒が多い。郊外にはコルホーズ(集団農場)もたくさんあって、広々としたキビ畑(トウモロコシ)やタバコ畑などが地平線の果てまで続いている。人びとの暮らしは質素で、かつ素朴なものだ。社会主義といえば、われわれは一生懸命に働いている労働者の姿を想像しがちだ。そして社会主義国の政府もそう宣伝しているが、実際のところは、なかなかそうは行かないらしい。政府はそこで生産性を上げるためにさまざまな試行錯誤をしているが、私はむしろ、悠然と生活している人々にしたたかなものを感じた。
その点、沖縄の人びとはかなり本土化されているように見える。だが、世界の多くの人たちは、われわれ本土の人間のようにあくせくした生き方はしていないようだ。最近読んだ近藤紘一氏の「サイゴンから来た妻と娘」という本は、実に面白いが、そこでもベトナムの人びとは、むしろ沖縄や中央アジア、中国の庶民と同質の生活感覚で暮らしているように思われた。
外国を旅行したり沖縄に出かけたり、また外国の人びとの暮らしや文化について書かれた本を読んだりするのは、日本の東京などに住んでいる自分というものを振り返るためで、その点で私は沖縄やその他の多くの人びとに教えられることが多い。われわれが失ってしまったものを、そうして回復したいのだ。正確な日本製の時計などより。(藤野)
編集後記
第3号をお届けします。当初、6月末か7月に出したいと考えていましたが、大幅に遅れてしまいました。もう夏も終わりで「ゆうな通信」は一体どうなっているんだろう、などとお思いの方もあると思います。なんとかヨチヨチでも出し続けていくつもりですので、見守ってください。
今号は、うれしいことに原稿が増え、8ページとなりました。カンパ、購読の申し込みも相次ぎ、多くの人たちが関心を寄せて下さるのに責任を感じています。
感想などをメールでいただければうれしいです。メールはこちらまで。
Last Update:2004/04/08
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