「ゆうな」は沖縄の浜に咲く喬木です。"おもろと沖縄学の父"伊波普猷によれば、与那国の名は「ゆうな」の転訛したもので、島ではさらに訛って「どなん」と呼んでいます。
与那国島サトウキビ刈り援農隊の経過と援農舎の考え方
1月16日付「沖縄タイムス」朝刊第2面に「キビ刈り要員不足に悩む与那国」という記事が出ました。沖縄の基幹産業であるキビ農業の収穫にあたり、特に離島では人手不足に悩んでおり、沖縄県としての対策が全く不足であるという趣旨の記事ですが、そのなかで本土からの援農隊について事実と異なる記述があるので、それを正すとともに、私たちの基本的な考え方を明らかにしたいと思います。
1. 与那国島キビ刈り援農隊派遣の経過
私たち「援農舎」は1975年秋に結成しました。新聞記者をしている2人が以前、与那国島に取材旅行で訪れたのをきっかけに、同島がキビ刈りの人手不足に悩んでいることを知り、与那国町農協から相談を受けたことが出発でした。1972年の日本復帰以後、韓国からの集団労務の提供を受けてきたが、風俗習慣のちがい、言葉が通じないことなどから、韓国人の事故死やトラブルが絶えず、本土の人たちに来てもらえないだろうか、というものでした。
私たちは以前から沖縄に何度か旅行し、友人も多く、本土と沖縄の関係についても考える機会が比較的多かったことから、与那国島がそんなに困っているなら、自分たちでできるかぎりの力になろうと話し合って、本土の若者たちに私たちの趣旨を、ラジオ、新聞、雑誌を通じて呼びかけました。
そのさい、私たちが考えたことは、援農隊は単なる労務の提供ではなく、与那国島でキビ刈りをすることによって。沖縄を、離島の現状を理解しようということでした。理解といっても、頭でするそれではなく、島で生活し、島の農業を実際に体験することで、それはより深まるわけです。
第1回の1976年、与那国町農協が必要としている人数は80人でしたが、私たちの呼びかけに応えてきた人は、実に3000人の多くにのぼりました。ところが、1月の出発直前になって"与那国町農協の不正融資事件"が起きました。農協は事実上"倒産"し、援農隊の受け入れは困難になりました。県は小学生を動員してでも島内で自力刈り取りをせよと行政指導をしましたが、それは不可能でした。多くの困難のなかで、最終的には与儀実弘県農協中央会長や当時の仲本宗裕町長らのあっせんによって援農隊派遣は実現しました。これによりキビの立ち枯れかと心配された収穫も無事4月15日に終わりました。
この年の援農隊派遣の経費は、農協の"倒産"もあって当初の見込みより大幅にふえ、約100万円かかったのですが、これは世話人たちの負担でまかないました。
第2回援農隊は1977年で、当初与那国からの要請を受けて組織しましたが、"倒産"問題の後遺症で、いったん要請してきた農協が受け入れを中止し、また援農隊は宙に浮きました。この年も結局、与儀中央会長のあっせんで、宮古島下地町農協に36人が行きました。
この年、与那国町農協は、片番操業(製糖工場の稼動を24時間から12時間にする)の方針で労務人口を減らし、期間を長くして島内でまかなうという考え方だったのですが、これだとコスト高になり、現実的ではありません。私たちは前年の経験から片番操業は不可能だと考えたのですが、県の行政指導もあり、与那国町農協は援農隊の受け入れを中止したわけです。
ところが、宮古島へ援農隊が出発したあとになって、与那国島から「片番操業をやめ、完全操業をするので、やっぱり援農隊を」と再要請がきたのです。援農舎内でのさまざまな討論の結果、急拠再募集して、2月はじめに60人が島へ渡りました。この年の経費も世話人で負担しました。ただ世話人の交通費(東京・与那国島間)の一部を農協から支出してもらった程度でした。これが第3回です。
第4回は1978年。この年は約30人が製糖工場要員として援農しました。この時から募集の直接経費を与那国町農協で負担しています。直接経費とは、切手代、紙代、電話代、事務所の家賃、世話人の交通費(東京・与那国島間。ただし往路は団体渡航の添乗員なので無料)です。事務局には援農隊経験者がボランティアで奉仕してくれています。彼らは電車賃なども自分で負担して事務所に詰め、応募の問い合わせに答えたり、さまざまな事務の作業を手伝っています。
この年工場への援農とは別に、過去2年間続けて参加した人たちを中心に5人が独自に与那国島へ自主的な援農をし、農家の畑作業を手伝いました。彼らの努力が島でたいへんな評判となりました。それまで援農隊は民宿に泊まったり空き家に合宿したりする方法で、工場と畑で作業をしてきたのですが、作業能率は必ずしもじゅうぶん上がりませんでした。とくに畑は、農家より農協所有の農場で、農家の人たちといっしょにキビ刈りをするわけではなく、畑に出てもキビの刈り方などの指導をじゅうぶん受けられませんでした。島の人といっしょなら能率も上がるのですが、援農隊だけだと必ずしも島の人の満足のいくものになりません。隊員も世話人も農家の人といっしょに働けば、もっと満足できる仕事が可能だと考えていました。
5人の農家への自主援農の成果を受けて、1979年の第5回は、各農家に住み込むことになりました。約60人が農家に分宿してその家の畑で働き、10人が民宿に泊まって希望の工場で働きました。この年は農家の人たちにじゅうぶん喜んでいただけたと思います。そして第6回の今年もこの農家住み込み方式で援農を行ない、3月10日に終了しました。
ところで援農隊派遣の経費ですが、この3年間、原則として直接経費を与那国町農協に負担してもらっています。昨年からは北海道からの参加者が半数近くになっていますので、経費もその分多くなっています。北海道からの参加は、沖縄の農繁期と北海道の農閑期がちょうど重なるから、与那国島でも2ヵ月から3ヵ月近くになることもあるキビ刈り期間を通して働いてもらえる北海道の人への期待が高いからです。このため北海道新聞などの協力を得て、同紙で呼びかけ、札幌で説明会を開催していますが、この経費のほぼ全額を農協が負担しているわけです。
昨年から、沖縄の農業についてあるいは沖縄について、みんなで考えていくために「ゆうな通信」を出すことになりました。これに対しては、さまざまな人たちから寄付やカンパ、購読料などのかたちで金銭的な協力をいただいています。与那国町農協からも5万円の寄付をいただきました。援農舎の世話人としての関係で、与那国町農協から支出されたのは、援農隊の募集、派遣に関係した直接経費(それも5回のうち最近の3回だけ)、世話人が現地で働いた期間の日当、そして「ゆうな通信」への寄付だけだという事実を断言しておきます。まして世話人個人の収入となるような種類の金が与那国町農協から支出されたことはまったくありません。
2. キビ刈り援農隊についての私たちの考え方
これについては、第1回援農隊が終わったあとで「南南西へ針路をとれ!」というパンフレットで明らかにし、その後も「沖縄タイムス」学芸欄や「青い海」誌上などで私たちの考え方はアピールしてきました。
援農隊はボランティア運動なのだというのが私たちの認識です。それでは、往復の旅費や日当をなぜもらうのか、という疑問が出てくると思います。これには逆に、そういう費用を自分で負担してまで出かけてきてくれる人がいるのだろうか、とかんがえてみればどうでしょうか。それに、キビ刈りは政府補助で成り立っているとはいえ、なによりも沖縄の経済の一部です。生産活動なのです。これを純粋の勤労奉仕で援農することは、理想的ではあっても現実的ではありません。
まして島で2ヵ月あるいは2ヵ月半の生活をするには生活費も要れば、往復の交通費もバカにはなりません。刈り取りが終わって自分の家に戻ってからの当座の生活費も要るでしょう。それに経済活動を純粋の勤労奉仕でまかなうのは、経済のあり方として健全ではありません。そもそも援農に参加してくれる本土の若者たちは、援農の心意気こそあれ、経済的にはそれほど恵まれてはいない人も多いのです。大企業に勤めてお金も持っている人が、離島に無料奉仕で働きに来てくれるわけはないのですから、援農隊員にとっても、また将来の農業の発展をめざす地元にとっても、最低の報酬が支払われてこそ健全なキビ経済の発展があり、また報酬によって援農隊員の労働への責任も明らかになるのではないでしょうか。
私たちは以上のように考えます。そして、その上で農家や農協の経済的負担はできるだけ軽くしなければならないと考えます。かつて韓国から労働者が入っていたときには、労働者を呼ぶための経費(渡航費、滞在費、日当は別)が1人当たり4万円近くかかったと聞いています。そのなかには、あっせんする韓国側の期間がとるリベートも入っていたと聞きます。これを負担する農家、農協の経費もバカになりません。私たちが考えたのは、このような経費の面で知恵を働かせて、農家の負担を少なくすることでした。アイデアを働かせて直接経費をできるだけ切りつめようというのが援農舎の考え方です。そして、それを私たちは実行してきたと確信しています。
今年は4人の世話人が勤務の都合で事務局に常駐する体制がとれませんでした。過去の隊員のボランティアも、それぞれの仕事やアルバイトの都合で、出番を組んでだれかが常駐するという昨年までのような体制を組めなくなったため、学生アルバイトを頼まねばなりませんでした。ここにも5年が過ぎて援農舎の運動の困難な問題が表面化してきています。それはともかく、このアルバイトの経費9万円を農協で負担してもらいました。しかし、そのために他の部分を切りつめ、農協の負担が全体として昨年より上回らないような努力をしたのです。
次に職安法の問題です。援農舎のやり方は厳密にいえば職安法違反になるかもしれません。しかし、それは参加者が全国にまたがっていることからくる職安の事務手続き上の処理が現行では不可能なためです。仮に与那国町農協が全国の職安に募集通知を出し、それによって人を集めようとしても、集まることはないでしょう。それはキビ農業にいちばん身近な沖縄でさえ、職安では集められないことをみても明らかです。まして全国にそれを広げてみても、職安事務の煩雑さを増すだけで効果はまったくないでしょう。
次に、援農隊は職業あっせんに当たるかという問題です。もし職業であれば、労働大臣の認可を得なければなりません。これも厳密にいえば、というより官庁的常識に従えば、そうかもしれません。しかし、失業者が職安に職を求めてくるのは、安定した職であり、離職したときに失業保険がもらえるような仕事でしょう。ところがキビ刈り援農は長くて2ヵ月半ていどであり、終わっても失業保険の対象とはなりません。このような仕事が職業に値するといえるでしょうか。まして畑での労働のきつさを考えると、失業者を対象として募集しても集まらないのは、沖縄県内だけではなく日本全国どこでも同じでしょう。
私たちが基本的にボランティア運動だと考える理由のひとつはここにもあります。援農隊の内容と目的を説明して、それに賛同してくれた人たちの離島での生活体験であるわけです。第1回援農のとき、私たちは沖縄県職安課を訪れ、事情を説明しました。当時の比嘉労働商工部次長、長島職安課長から一応の了解を得てあります。そのときの沖縄県の回答は「厳密にいえば職安法違反になるが、援農の主旨はよく理解できるので県としては黙認する」というものでした。そして、この援農が世話人の金銭的利益を得るものではないということも確認し合いました。
過去5年間の援農が、沖縄と本土の関係にとってもたらしたものは計り知れないものがあると思われます。与那国島という名は、それまで本土ではほとんど知られていませんでした。しかし、援農に行った人たちやその家族にとってはいまや"第二の故郷"と言っても言い過ぎではないでしょう。過去6回の援農で、1度ならず2度、3度と参加する人が多いのは、そのことを証明してはいないでしょうか。私たちはこのことを大事にしたいと思うのです。
私たちは沖縄の離島のキビ刈り労働の人手不足を、単なる労務問題と考えていたのでは、この不足を満たすことはできないと思います。それは、この3年間、各離島の農協が本島の職安を通じて募集した結果がじゅうぶん証明しています。しかし、県の鳴り物入りの募集によっても、失業者は離島のキビ刈りに行ってはくれませんでした。その理由はすでに述べました。失業問題は、もっと別の角度から対策すべきでしょう。それは失業者にとって生涯の職業としうる安定したものでなければなりません。2ヵ月や3ヵ月の短期間のキビ刈りではありません。仮に失業者が離島に行ったとしても、2、3ヵ月後にはまた元の状態に戻ってしまうわけなのですから。
失業対策とキビ刈りとが一致しない理由は、@安定した仕事ではないA失業保険の対象にならないB職安を通すために離島で働いている間、逆に失業保険の給付を止められるC労働がきついD離島には娯楽施設がない−など数え上げればいくらでもあります。
しかし、離島のキビ刈りのこのような不利な条件を逆にプラスの要因にすることもできます。本土の若者や農家の青年にとっては、このような沖縄の離島がたいへんな魅力でもあるのです。それは@自然が豊かであるAきびしい労働に自分を試してみたいB離島の生活を体験してみたいCキビ農業を勉強してみたいD都会の生活を反省してみたい−などです。
そうであれば、本土の青年たちのそんな期待に応えるとともに、それが離島の農家にとっても同時に人手不足を解消となる方法が、ここから考え出せるわけです。援農舎の目的はここにあります。そして、本土の青年と沖縄の青年がいっしょに働いて、生活をともにすれば、それは沖縄への理解を深める意味でもすばらしいことではないでしょうか。そして、沖縄県や県農協中央会、県教育委員会が離島の町村役場、農協、町村教育委員会といっしょになって計画、実行すれば職安法上の問題もなくなるでしょう。これに4Hクラブや地域の人たちの協力を得れば、これはひとつの新しい"シマおこし"ともなるのではないでしょうか。
私たちは県が率先してそのような運動を進めてくれることを期待し、そのための問題提起として援農運動を進めてきたつもりです。すでに5年になる私たちの運動の実績は、全国に400人近いキビ刈り経験者をもっており、本土各地の地方の4Hクラブや農協青年部などに呼びかけたいという希望を持つ人もいます。しかし、私たちサラリーマンが個人で自発的に行なう援農舎では、職安法問題はもちろん、私たち個人の時間的、経済的負担にも限界があります。できることなら、県や農協で、私たちが作り上げてきた方法を利用し、さらに発展させていただくことを期待しているわけです。
西銘知事は、再度、台湾からの労働者受け入れを提唱しておられるが、これは法的に不可能であると思われます。日本の労働法は、外国の無技能単純労働者の受け入れを認めていないからです。復帰特別措置による韓国からの受け入れは例外措置だったし、今ではそれも打ち切られている現状はすでに知られているところです。現在、八重山などではパインの女子労働者が入っているようですが、法的にはさまざまな問題のあるところです。
沖縄が日本に復帰してやがて10年になる日も近づいています。こういう現状では、復帰特別措置の復活も不可能でしょう。まして沖縄県は、本土の各県と今後肩を並べていかねばならない折から、離島の問題にしても、失業対策の問題にしても、県内だけで解決していくことは実情に合いません。本土と沖縄の往来がこれほど激しくなってくれば、より広い視野から両者の相互協力で解決していくべきではないでしょうか。
1980年1月30日 援農舎世話人(黒田勝弘・稲垣一雄・松井孝夫・文責・藤野雅之)
援農隊有志
「沖縄タイムス」(1980年1月16日朝刊)の記事から
操業計画狂いそう 県の労務対策に強い不満 援農隊で急場をしのぐ
キビ刈り労務要員の確保は毎年深刻度を増しているが、今期も与那国では職安を通して募集したものの、人員が確保できず、操業計画が大きく狂いそうだという。県外からの援農隊によって何とか急場をしのぐ見通しはついたが、具体性のない県の労務対策に強い批判が出ている。援農隊のなかには、規定の手続きを踏まずに派遣されている職安法違反もあり、キビ刈り要員の確保をめぐって援農隊のあり方、受け入れ問題について今後大きな論議をよびそうだ。
今期製糖期におけるキビ刈り労務の募集は、県内5つの職安を通して行われた。12月末までに本島内は確保されたが、離島の与那国などは応募者が少なく、人員確保にやっきとなっている。八重山の離島では、こうしたキビ刈り要員の確保は毎年困難となってきており、製糖期の悩みの種。県労働渉外部を通して職安に求人を依頼しても離島ということで敬遠されがち。このため要員を県外に要請している。
しかし、援農隊のなかには、もぐり業者によって派遣されてくるものもおり、県は明らかに職安法違反と知りながら黙認せざるを得ない状況にある。ここ2、3年こうした"もぐり援農隊"が増える傾向にあるという。県外からの援農隊(県内の通勤距離外からの援農も含む)は、労働大臣の許可を得る、つまり職安を通し、正規の手続きを経て派遣されるのが本来の姿だが、離島の人手不足に乗じ、広告で"援農隊"を募って送り込み、リベートをもらう違法があるといわれている。
県ではこうした違法業者から送り込まれた援農隊は認めない。また農家に対しては就業を認めないよう行政指導を行っているが、人手不足のため、行政指導も単なる形式的なものにしか受け止められていない−というのが実情だ。今期も県外からかなりの援農隊が送り込まれ、なかには違法性の強いものもあるという。キビ刈り要員の確保が難しい離島では「県が人員確保できなければ、このような援農隊の就業もやむを得ない」と県の製糖期の労務対策に強い不満をみせている。
西銘知事は、製糖季節労働者の確保対策として、将来は台湾から導入する方針を明らかにしているが、しかし、労働省の方針として、無技能労働者を国外から導入することは認めておらず、台湾からの導入は困難視する見方が強い。抜本的な対策をたてない限り、基幹産業であるキビ産業におよぼす影響は大きく、具体的な労務確保対策が望まれている。
最初はどうであったか 黒田勝弘
援農舎の歴史についてちょっとばかり書いてみようと思う。歴史というには、沖縄のキビが決して「過去」ではなく、依然「現実」そのものであるため、ためらいが伴うが、このところ「初心」が気になっているので、振り返ってみる気になった。
援農舎の正史(?)によると、援農舎の歴史は1975年9月、当時の与那国町農協組合長、仲里正徹さんから寄せられた援農要請の手紙に始まるとなっている。これは、第1回援農隊レポート『南南西に針路をとれ!』に収録された資料でもそうなっている。しかし実は、この75年までに「前史」があるのであって、いまそのことを思い出しているところである。
ところがどうもその記憶がはっきりしない。僕が初めて与那国に行ったのは70年秋である。沖縄が、72年の日本復帰に備え、日本議会に議員を送り込む初の"国政参加選挙"というわけで、国会議事堂から最も遠い有権者の声を求めて、取材に行ったときである。このとき、キビ伐採期の人手不足の話は聞いており、島で働いていた台湾人農夫たちの取材までしている。このあと75年までが、いわゆる前史であって、その間に「援農」のアイデアを温めていたことになるのだが、詳細の記憶はない。しかしとにかく、前史として指摘しておきたいのは、与那国援農の発想は、最初は実はこちらから与那国側に持ち込んだ話だったということである。
74年秋、キビ価格引き揚げ陳情団で東京を訪れた与那国農協の中里さんたちに「ひとつの沖縄体験」として援農プランを伝え、受け入れ方をお願いしたのだった。その年末、予備調査で与那国に出かけ、キビ農家に集まってもらって、受け入れ方を交渉したのだが、結局このときは農家住み込み案がうまくいかず、この年には援農隊は実現しなかった。
その後の正史は省くが、つまり初心というのは「援農させてもらう」であり、そのことによってこちら側は「沖縄体験」を得、与那国側は一時的に、そして部分的に人手不足を補い、この相互交流の過程で与那国(あるいは沖縄)が「自立」へのアイデアの一片でも得ることになれば、であった。
しかし現在、援農舎は職安代行機関みたいになってしまった。同人それぞれの生活(!)が忙しくなり、援農舎活動に充分時間が割けなくなったことから、援農隊募集期にアルバイト(!)まで来てもらう始末である。それに募集活動のための事務経費、旅費など同人のポケットマネーでは手に負えなくなったカネを、与那国側からいただくまでになっている。
請け負いは初心とは違う気がする。時間やカネなどを含め、今や援農舎は限界を超えたところまで来てしまった。初心に帰って「手づくりの味」で援農舎をやれないものか。援農舎は確実に総括の時期に来ている。
80援農私的始末記
膚に気持ちよい春風とともに一年でいちばん爽やかな季節になってきました。つい先日刈り取りを終えたキビ畑では、来年収穫するサトウキビがたくましく成長し始めたのではないでしょうか。
さて私は今年度も微力ながら東京の事務所の方で援農の手伝いをしました。今年は世話人のそれぞれの方が皆仕事で忙しく、現地に行くことはおろか事務所の方へもほとんど顔を出せないという状態でした。それだけにバイトで頼んだ学生2人の存在はとても大きいものでした。そして今後、世話人各氏が仕事でますます忙しくなることが予想される以上、一応軌道に乗りはしましたが、援農活動を一人一人が考えなおす時期に来ているような気がします。それは本号の中で黒田さんが述べられたことと通じるものです。
数年前から援農活動を続けてきて、とにかく現在のような形になって流れてきました。で、本年はさらにもっと先まで見通した今後の援農をどうしていくのか、難しい問題ですが、これは避けて通れないと思います。沖縄の側から見れば、来年もその次もキビ刈りは続くわけですから、手伝ってくれる人は欲しいし、その人数も多い方がよいでしょう。一方、援農舎の側から見れば、仕事が忙しくなったということを除いても、世話人の力量を超えた大きなものに援農活動がなろうとしています。ここまできたら、個人では無理で、やはりそれなりの組織を持ったところが引き受けていくべきではないかと思います。そして援農舎も今後どのようにかかわっていくのかを命題に、今までのあり方をきちんととらえ直す時にきていると思います。
以上今年も多少なりともかかわった者として感じたものです。(津葉本)
沖縄後、2年経て 津葉本正憲
東京では3月になって春風とともに1日1日と暖かくなってきましたが、先日は一転して雪に見舞われ、寒い日となりました。まさにこれが今冬の"名残り雪"となり、これを境に一気に春が本格化していくことでしょう。4月はじめには桜も咲いて、春はその頂点を迎えることと思います。が、そんな春の気配を感じて東京で喜んでいるころ、テレビで石垣島の海開きのニュースを聞きました。こちらでは海開きは夏を告げるものとしてあるので、今さらながら季節の感じ方の彼我の違いといったものを思いました。春の海開きなんて僕には絶対になじめないものです。そんな生活に密接にかかわっている部分での根本的な相違が、東京都沖縄がふれ合う時に、微妙な影を落とすのではないだろうかと感じました。
僕はキビ刈りを手伝いに2年ほど沖縄に行きました。1度は宮古で、そして1度は与那国で。そのどちらも実際に行っている時は、キビ刈りを中心にした生活の追われ、そこに置かれた自分を総合的にみる余裕はありませんでした。そしてそのことはそれでよいと思うし、そのまま沖縄に残って生活を続けたのならば、へんに醒めて客観的に自分を位置づけるなんていうのは思い上がりにも思えます。
しかしいま僕は東京で定職に就き、キビ刈りに出かけるのはこの現状に立つ限り不可能になりました。でも自分のなかに自分なりの沖縄体験というものはあり、行けなくなった今でも沖縄は、沖縄の人はどうしているかなあといった思いは消え去らずにあります。そんな訳で、少し沖縄について触れてみたいと思いました。したがって今の僕が書くのですから、過去の体験に基づいて客観的立場を装った評論風なものになってしまうのは充分自覚しているつもりです。
自分はもう丸2年以上も沖縄に行っていないのだから、最近2年間の僕の沖縄は、思い入れと間接的なものです。沖縄から帰ってきて初めて僕は本当に沖縄に興味を持ち出したと思います。ちょうど別れてからその恋人を本気で思い出すように。恋の場合は現実にはどうしようもないことがほとんどですが、沖縄への思いはそれなりに膨らませていけるのでいいです。沖縄に行っていた時、何もかもがあまりに自分に染み付いていたものと違いすぎるために、沖縄をわかろう、吸収しようというよりも、沖縄から自分を守ろうという防衛本能のようなものが働いてしまって、心が閉じる方へ動いてしまった気がします。今から考えると、とてももったいない気がしますが……。
たとえば僕は豚肉そのものはもともと好きではないので、今でも沖縄料理に入っている豚肉は食べませんが、東京の沖縄料理屋で泡盛を飲みながら沖縄料理をよく口にするうちに、本当に旨いと感じるようになりました。与那国で実際に食べたら最高だろうなあ。音楽にしてもそうです。三線で奏でられる音楽は、異国に来た気分にさせてくれるのでいいくらいにしか思っていませんでしたが、しかし、飲み屋のBGMや芝居のレコードなどで聴いているうちに、音楽そのものを心が少しずつ感じ取るようになりました。沖縄独自の音楽を残し、伝え、それが今日なお人々の心を打つものでるのはすばらしいと思います。
とまあ、以上今日の僕の沖縄への感想なのですが、若干沖縄を"よいしょ"したかなという気がしないでもありません。特に今年初めてキビ刈りに参加して、沖縄に強い不快感を生々しく持った人には何を美しいことを言っているんだと響くかもしれません。今の時点でのそのギャップはやむを得ないと思います。機会があったらそういう沖縄を酒の肴に話し合いましょう。
ただ僕もひとつだけ今年の援農隊に関して沖縄の側に批判があります。これは直接援農隊とかかわっている与那国に対してではありません。「沖縄タイムス」の1月16日付記事に関してです。確かに見方によっては援農舎なり援農隊をあのように悪くみることもできましょう。あれがまったくでたらめな記事だとは思いません。一般的に何かをやろうとする時、その波紋がそれを受けるすべての人々に喜んで受け入れられるのは難しいし不可能かもしれません。だからといって、キビ刈り援農を悪い面からのみとらえるのなら、お互いの関係は決してよい方向へは伸びて行かないでしょう。幸い直接かかわり合っている人々はそんなことは百も承知で、あの記事は残念だったということなので、それを聞いて僕も安心しました。どうやらあの記事は、訳知り顔で偉そうに言う人は本土だけではなく沖縄にもいるということの見本のようですね。
ともかく援農舎も5年続いてかなり疲れてきているようです。これからは島と援農隊が直接つながるように努力して、鴛鴦社の負担を軽くしつつ、援農舎の架けた橋を継いで、できるだけ長くこの交流が続いてほしいと願っています。
キビ刈りに参加して 春本文雄
第5回援農隊を乗せた船が、1月12日東京を船出した。出発にあたって援農舎世話人の黒田氏は、きつい仕事だろうが、援農精神を発揮してがんばってくれ、と挨拶した。
『援農』。その言葉の下で僕たちは昨年、与那国の農家に入って働いた。キビ刈りは経験のある僕にもかなりきびしい仕事だったし、初めて経験する人には想像以上につらい仕事だったにちがいない。さらに、援農隊が農家に寝泊りするのは初めてだったので、島の生活習慣や仕事の内容でいろいろな問題が出てきた。
仕事が終わった後、夜まで牛の世話をさせられるとか。食事がおかゆだったり、即席ラーメンとご飯だけだったりとか。畑仕事のない時に土建屋の労務の仕事したとか。キビだけかと思ったら田植えをさせられたとか。それでもいろいろな問題を農家と話し合ったところは少なかったようだ。それは援農隊だからという遠慮と、毎日寝泊りしている農家に気兼ねしてである。とにかく農家に入ってしまうと話しにくいのが現状だった。
知ってか知らすか、援農舎はそれらの問題に対して、まったく無力だったので、援農隊の中から援農舎に不満の声が出てきて当然だった。特に援農隊を送り込んだら、あとは勝手にやってくれみたいな無責任な態度に批判は集中した。
それでも援農舎としては、藤野氏がキビ刈りの初期に、稲垣氏がキビ刈りの後半に与那国に行き、農家や農協を回ったりして、いろいろな問題の解決に努力したと言うかもしれないが、キビ刈りを体験したのは稲垣氏だけで、それも後半、1日ずつ各農家を手伝ったぐらいで何がわかるというのだ。援農舎を名乗り、マスコミを通じて人を集める以上、もっと責任をもつべきではないだろうか。少なくとも援農舎自身、農家に入ってキビ刈りを体験するべきだ。農家と『援農』の板ばさみになりながらも黙々と働いている現状を見るべきだ。
キビ刈りも後半になって沖縄タイムスに援農舎世話人・藤野の署名入りで、沖縄の農業問題と援農に関係した意見記事が載った時に、援農隊の頭の上を素通りするような記事にみんな反発した。援農隊はたしかに今は、与那国のプラスになっている。しかし、援農舎・援農隊が人の好意という不確実なものを基礎にしている以上、キビ刈りに人手がなくなればいつでも援農隊が来てくれると思っている与那国の人たちにはマイナスになっていないだろうか。このへんでもう一度『援農』の本質を考えてみる必要があるのではないだろうか。
(77年、78年、79年、80年与那国)
☆手紙から☆
援農舎の皆様へ 崎原キヌ子
日本最西端の与那国町のために、遠方から応援に来てくださいまして大変ありがとうございます。雨の日も風の日も強烈な太陽の下でも、みなさんは一生懸命働いてくださいました。おかげさまでキビ刈りも無事終了することができました。大変ご苦労様でした。きっと中には初めての方もいらっしゃって、作業に手間取った方もいたでしょうし、また食事が口に合わなかった方もあったでしょう。でも、それも社会勉強のひとつとしてよい思い出になることだと思います。
また2度、3度と続けてきてくださった方々には深く感謝申し上げます。私は民宿を経営して、いろいろな人びととも知り合ってほんとうによかったと思います。私が本土に行った時にも、以前に泊まった援農隊の方々からお電話を受けて、大変うれしくなつかしく思ったこともあります。皆がみな信用のできる人ばかりの集まりを援農舎だと思います。2ヵ月間、皆さまを満足させることはできなかったと思いますが、皆さまのご協力で仲良く過ごすことができました。
最後に皆さまのご健康をお祈りし、来年も、いや末永く援農隊を続けてくださることをお願いいたします。
(さきはら民宿のおばさん。毎年援農隊がお世話になっています)
真の復帰への架け橋を 山内甲子
拝啓。「ゆうな通信」を初号よりお送りいただきながら、お礼状を差し上げることもせず、大変失礼を致しております。「ゆうな通信」の配達を受ける度に、さっそくお礼状をと思うのですが、文章を書くのが苦手なため、本日までペンをとることができずにおりました。改めてお礼を申し上げます。(中略)
遅くなってしまいましたが、援農隊の皆さまへお礼を申し上げたいと思います。皆様のご苦労の様子は、3回にわたる「ゆうな通信」を拝見して手にとるようにわかりました。さまざまな疑問や悩みを抱えながら、キビ刈りという大変な重労働を消化しなければいけない時、この小さな島へ来てしまったことに対する後悔や腹立たしさが湧き起こってくるのも当然のことと思います。しかし、皆様が島に残してくださったものは、援農という目的をはるかに超えた大きなものであることを、8年ぶりの帰省で感じました。
5月に私は8年ぶりの帰省をして参りました。8年の歳月は、島の町並みを変え、生活様式をすっかり変えてしまいました。しかし、何よりも大きく変わっていたのは島の雰囲気でした。農業と漁業で生計を立てている人びとの持ち合わせている、あの独特な空気がすっかり消えて、あの真っ青な空にピタリと一致する空気が島の隅々にまで行き渡っているのを感じました。島が明るくなった。それは何より私にとっては嬉しいことでした。
若者は島を離れて人口は減少の一途をたどる中で、島はもうすっかり年老いてしまったのではないかと思っていた私にとって、父や母や、また往来を行く人びとの顔が生き生きとしていることは驚きでもありました。長い間のご無沙汰を詫びに伯父や伯母の家を訪問すると、援農隊の皆様のことが必ず話題の中に出て参りました。
「もう、ほとんど帰ってしまったが、来年もまたここへ来ると言っていたよ」
と話す顔は、子供に取り残されてしまった寂しい親の顔ではなく、この島を守り抜いてやるという希望に満ちた顔でした。
以前は、この小さな島が日本の一部であることはわかっていても、身体がその事実を拒否してしまうアンバランスを消すことができませんでした。しかしそれも、今度の帰省では、この小さな島が日本の一部として堂々と位置づけられていることを感じました。それは単に沖縄が祖国復帰したということだけではなく、援農隊の皆様との密着した生活が、島の雰囲気を大きく変え、真の意味での祖国復帰の架け橋となっているのだと信じています。
沖縄が祖国復帰して7年。しかし沖縄には、本土に帰ることのできない部分がたくさんあります。それは沖縄の人びとの心であり、身体であり、視線であり、と一番大事な部分だけが返還された土地に取り残されていると感じる中で、援農隊の皆様の活躍が、真の意味での祖国復帰の架け渡しの足がかりとなっていることを、久しぶりの帰省ではっきりと感じて参りました。
生活習慣の違いからおこるさまざまな悩みに、ひとつだけお答えできるのは、与那国の人びとが感謝の言葉を素直に口に出さないことについてです。これは皆様を家族の一員として受け入れているということです。自分の家族に対して感謝の言葉を口に出すのは非常な勇気を必要とする与那国の人びとのテレ性のせいでしょう。
皆様のご健康とご発展を心よりお祈り致しております。わずかですが、カンパをさせて頂きたいと思います。私でもお手伝いできることがございましたら、ご協力させて頂きたいと思いますのでよろしくお願い致します。敬具。
(東京都板橋区蓮沼町、与那国島出身、主婦)
《沖縄・雑感》
沖縄の海は本当に美しいか? 庄野 護
1
私が初めて沖縄の海について聞いたのは、サイゴン(現ホーチミン市)にあった日本の新聞社の支局でのことであった。1974年8月だったと思う。
私はその日、南ベトナム中南部を一人旅してサイゴンに戻ったばかりで、旅の感動、とりわけ中部の海の美しさを誰かに伝えたくて、新聞記者の友人を訪ねたのであった。
海岸線を走るバスの中から、海中に遊ぶ幾種類もの魚や大海亀が、まるで水族館のようにながめられた南ベトナムの珊瑚礁の海は、私がそれまでみた世界で最も美しい海であった。
友人は私の話を聞いて
「沖縄の海より美しいかね?」とひと言たずねた。
残念ながら、当時私はまだ沖縄の海を知らなかったし、友人はベトナムの海を知らなかった。
そのころのベトナム戦争の戦局は、すでに大勢を決しており、南ベトナム傀儡政府は点と線を残すだけになっていた。サイゴンに陣取っていた新聞記者たちは、もはやサイゴンをほとんど離れることはなかった。新任の友人は、サイゴン以外の街を知らなかった。
私は、ベトナムの海の美しさから受けた感動を誰とも共有することができなくて残念だった。
そして私は、友人の話から沖縄の海は本当にそんなに美しいのだろうかと思いつつ、いつか必ず沖縄の海を見に行こうと考えるようになった。
2
二度目に沖縄の海について聞いたのは、1975年9月、三重県の山岸会という農業を基盤とする生活共同体が主催する特講という講習会に参加した時であった。
私と同様、特講に個人参加した沖縄出身の若い女性から、沖縄の海の美しさについて、うんざりするほど聞いた。そして、その海がCTS建設などによって破壊されつつあるということも――。
その女性の山岸会特講参加への思想的態度は、他の参加者と比べて、何か根本的に違うものがあるように感じられた。私にはそれが日本(やまと)と沖縄の違いではないかと思われた。そして、彼女の話す沖縄の海の美しさについても、美しさを感じるのは人であるから、人の自然に対する態度が日本と違う沖縄においては、海の美しさにも何か別の意味があるのではないかと私には思われた。
3
78年、援農舎援農隊の一員として、初めて沖縄に来た。小浜島でまる2ヵ月半キビ刈りをした。その間に、女性季節労働者への差別賃金問題をきっかけとして、地元農民と激しい争議を展開して勝利した。そのことによって私は、急速に沖縄に近づき、もはや離れがたいものとなった。
キビ刈りが終わって、与那国島に渡り、1ヵ月間、海だけ見て暮らした。
本土へ戻っても、沖縄のことばかり考えつづけていた。78年に沖縄についての本を200冊ばかり読んだ。
79年、当然のことのように再び援農舎援農隊の一員として与那国島に帰ってきた。
今年のキビ収穫期間中には、与那具の南西1700キロの距離の地域で戦争が起こった。中国とベトナムとの国家間戦争である。1700キロといえば、与那国・京都間の距離に等しい。爆音が聞こえるほどに戦争を身近に感じながら、この戦争は私<達>にとってどういう意味をもっているのだろうかを考えつづけていた。そしてまた、この戦争は沖縄とどうつながっているだろうかと――。
ひとつの新聞写真を見た時に、これだという思いがあった。ベトナムのサトウキビ畑で休息する中国軍兵士たちの写真である。サトウキビ畑を荒された農民の視点でこの戦争の意味を問う時、何かが確かにわかってきた。
ベトナムの農民から学び、同時に、沖縄の農民に学ぶ時、あのベトナムの海と沖縄の海とがひとつの海として感じられるように思われてきた。
4
人が沖縄の海を美しいと言う時、その美しいという意味は、人によってさまざまであり、そう単純ではないことを、私は最近ようやく理解するようになった。
私の沖縄の友人は、本土の観光客が「沖縄の海は美しい」と言うのを聞くたびに腹立たしさを覚えるそうである。本土の観光客が求める沖縄の海の美しさと、沖縄で海を生活の領域として生きている人の海に対する感覚とは根本的に違う。沖縄でこれまで通算12ヵ月を超えて暮らしてきた私の眼には、人が沖縄の海の何を見て美しいと見ているのかが問題である。
沖縄でパイナップルをつくっている地域の海は例外なく赤土汚染があまりにひどく進行している。それらの地域で海を殺しているのは農民なのである。農民が海と無関係に生活するようになった結果、海をそれほど大事にしなくなったのである。
宮古も八重山も、オイルボールの被害を受けない海岸はほとんどない。原始のままの美しい海なんて、沖縄のどこをさがしてもないのだ。開発の時間的ズレが本土の人の眼には沖縄の海を美しいと感じさせているとすれば、それはただの時間の問題にすぎない。
西表島の「原始林」が、実は戦後の2次林あるのと同様に、沖縄の海の自然のままの美しさは、カッコ付きの「美しさ」でしかない。観光資本が満足する「美しさ」をこれからも保っていくとしても、そのような「美しさ」が何をはぐくむことができるというのか? 小さな製糖工場がひとつあるにすぎない波照間島でさえ、珊瑚礁は死滅しつつあるというほどの沖縄の海の醜さを人はどう見ているのであろうか?
5
与那国島では、沖縄最大であった田原川(たばるがわ)湿原をいとも簡単に埋め立ててサトウキビ畑に変えてしまった。生態系への配慮ということはなく、もはや自然をおそれず、自然とともに生きることを無意識のうちに拒否しつつある人々にとっては、行き着くところに行き着くまで、反省ということはあり得ないかもしれない。田原川湿原の埋め立てが、実はCTS建設につながっているのだということへの自覚は、どれほどの人々の心にあるだろうか。
山の豊かさ、海の豊かさとともに生きることをせず、金で生きようとすれば、人はみな貧しくなるだけだ。美しい山や海は現実には生産力が高い。それを利用して生産を発展させて生きるか否かは地域に住む人々に委ねられているのだが。
美しいということは、それ自体が豊かなことだと私は思っているのだけれど――。
(78年小浜、79年与那国。徳島市出身。)
美織所(ちゅらうぃんじょう)物語 末吉正己
沖縄本島の北西海上に伊是名島がある。その伊是名城の北西に島で二番目に高い地神岳がある。その山の南の麓に三坪ほどの硅岩の畳石がある。それが伊江島東江前の富豪の美しい娘と伊是名の美青年松金の悲恋物語の舞台、美織所である。
そこからは伊江島が眺められ、すぐ手前にはゴウラ岳が見え、そのはるか下の方には伊是名の部落が望まれる景色のよい所である。
美織所物語は、今から150年ほど前の話である。松金はサバニに乗って伊江島の恋人マカテに逢いに行くが、冬になって海がしけると、ふた月も三月も逢えなくなる。そんな海を中にはさんでの恋にマカテは耐えられなくなって伊是名に渡った。
ところが、松金の家に行くわけにもいかないので、美織所の畳石の上に小舎を作り、そこで布を織るようになった。
仲村渠(なかんだかり)まかて 七ひじ布や 伊平屋松金が 遊び手さじ
と歌われるほどに美しい布ができた。それが美織所の由来である。
しかし、その噂が島中にひろがり、マカテは伊江島に帰らねばならなくなった。マカテが帰ったあとも、松金は以前と同じように伊江島に渡り、伊江後浜で逢う瀬を重ねていたが、島一番の美女を他所者にとられた島の青年たちは、なんとか二人に憂さを晴らそうと、機をうかがっていた。
ある日、マカテは後浜に向かっていた。それを知った島の青年たちはマカテを追跡した。追いつめられたマカテは逃げ道をうしない、断崖から身を投げて女の操を守った。ひと足違いに恋人の死を知った松金もマカテのもとに身を投げた。あまりにも激しく燃えた二人の愛は、そのような形でしか結実しなかったのであろう。
伊江島の北海岸には、今でも二人の遺念火が現れるという阿。二人の悲恋物語を伝えて、次の古歌が残っている。
後浜(くしはま)の紫苔(しせ)や 取ゆるものあらん
仲村渠まかて 潮(うす)にむまち
(伊是名島出身)
東崎(あがりざち)から陽は昇る(4) 藤野雅之
沖縄通い
今年もサトウキビ刈り援農が終わった。1月20日から3月10日までの約50日、キビ刈り一色の与那国島で約60人の援農隊の諸君は慣れない仕事をがんばり通した。そして、この援農は参加した人たちに、島の農家に、そして沖縄の人びとに、さまざまな思いを残していったことだろう。
私はといえば、今年の援農期間に、呼びかけ人のひとりでありながら、与那国島の土を踏むことができなかった。それが何よりも残念である。キビ刈りの季節には、与那国島の気候はよくない。肌寒い季節風が吹き、雨もよく降る。そんな条件のなかで泥んこになって、あのきついキビ倒しや運搬の仕事をするのは大変な重労働である。なまなかな心がまえでは、50日の長丁場には耐えていけない。それに、沖縄のはるか南の孤島、与那国島は本土の人にとっては、同じ日本人と言いながら風土や文化の伝統が大きく異なる。第一に食べ物が異なる。そんな環境でほとんど落伍者もなく、みなよくがんばったものだとつくづく思う。
2ヵ月近い島の農家との共同生活と肉体労働の体験を通して、日頃の生活を振り返ってみるのは、その人に何かを残すのではないかと期待している。私たちは日頃、自分が生活している日常の状態を客観化して見ることはほとんどない。だから、当たり前だといつの間にか思い込んでしまっていることを、違った環境に自分の身を置いてみることで、自分に対して愕然とするようなこともあるのではないか。そしてそこから新しい自分を発見し、新しい生き方や考え方が生まれてくれば、この体験はその人にとって重要な意味を持つのではないかと思う。私にとっては5年間の援農隊の世話人という体験が、そのようなものであった。
私は、沖縄に初めて訪れてから12年になるが、沖縄とりわけ与那国島との7年間の交流が、今になって私にいろんな意味で大きな存在となってきているのを知る。初めて与那国島へ行ったのは、ルポの取材だった。その時に出会った島の人たち、とりわけ女の人たち、老人との出会いは忘れられない。それは親切で素朴でおおらかな南の島の人たちという、単純といえば単純な印象であるが、その印象と久部良割りやトゥング田の悲惨な伝説とがからみ合って、私はたちまち与那国に魅せられてしまった。
しかし、キビ刈り援農というかたちで島にかかわり始めてみると、与那国島は東京に暮らしている私などが、束の間の訪問では気づかなかった苦しみを抱えていることが少しずつわかってきた。それはサトウキビ農業ひとつをとっても明らかだ。一度島で働いてみれば、島の農業がどんなにたいへんで、また島民がどんなじょうきょうに置かれているかがわかるはずだ。
なぜ与那国島がサトウキビのために援農隊を必要とするのか。過疎化のためと言えばその通りだが、そこには日本という国家のさまざまな矛盾が集約しているように思われる。そして、この島にもわれわれと同じように生きている人たちがいるのである。しかし、与那国島の人たちと日頃、東京で暮らしている私たちが連帯というか、本当の共感をもつのもまたたいへんに難しいことだというのが、私の実感である。
過疎化で島の農家が困っていると聞いて、怖いもの知らずの心意気から援農に出かけて行く。そこで私たちが見るのは、一年ごとに島が変わってきていることだ。わら葺の家はもうほとんどなくなった。赤がわらの家も減ってきていて、コンクリートの豪邸がどんどん建っていく。それだけではない。食べものも本土化し、缶詰や北方性の野菜であるラタスなどを島の人がスーパーで買ってきて食べている。公民館で民謡を歌うときの伴奏の三味線の音がカセットテープであったりする。近代化した東京から島に来ると、島の伝統を大切にしてほしいと思うのだが、島ではむしろ本土化、近代化がまっしぐらに進んでいるのだ。
自分たちはキビ刈りが終われば本土に帰る。そんな都会生活者の、これは甘えた感情なのかもしれない。与那国島にかかわることによって、私は自分が都会の人間であることを思い知らされる。それが私が与那国島とかかわり続ける理由かもしれない。
【ど な ん】
★ 79年参加の真壁信治さんは今年5月よりネパールの寺へ交換僧として1年半、修行に出かけます。78年小浜、79年西表に参加した栗田武司さんは、今年ヒマラヤで出かけるそうです。帰国したらぜひ2人の海外体験を聞きたいものです。身体に気をつけて元気で行ってきてください。
【なんた浜】
編集後記を依頼されたものの、あまり気乗りがしない。というのは、最近「ゆうな通信」に対して否定的で、今年キビ刈りに出かけ、その気持ちがなおさら強まったから。
援農舎の諸氏は、援農隊に参加した人たちが、どんな体験をし、そういった想いを抱いて与那国を後にするのかということに、もっと目を向けてほしい。それは「ゆうな通信」で肩代わりをすると考えているとしたら楽天的過ぎると思う。製糖終了時に来島した援農舎の某氏は、時間がないからと参加者に顔見せしないで帰ったのである。(小林章)
『会計報告』
| 収 入 |
| 与那国町農協から |
550,200 |
| カンパ |
141,280 |
| 収入計 |
691,480 |
| 支 出 |
| 電話代 |
88,900 |
| 切手代 |
35,000 |
| 札幌説明会宿泊費(3名) |
23,000 |
| 札幌説明会交通費(3名) |
105,000 |
| 説明会会場費ほか |
20,000 |
| 世話人那覇宿泊費(5泊) |
25,000 |
| 世話人東京与那国間交通費(2往復) |
192,400 |
| 現地世話人経費送金分 |
30,000 |
| 船内学習講師交通費 |
50,000 |
| 講師東京宿泊費 |
9,000 |
| アルバイト費用 |
90,000 |
| 光熱費、文具、そのた雑費 |
23,180 |
| 支出計 |
691,480 |
※78年第4回援農隊から準備にあたり全額ではありませんが、与那国町農協に直接経費を提供して
もらっています。
※与那国島での世話人の宿泊費等は農協より直接支払われているので記載されていません。
※事務所部屋代(準備期間の2カ月分)3万円を農協より受けましたが、電話代が多額だったため
これに充当しました。部屋代は世話人が負担しました。
編集後記
○ …昨年暮れに「ゆうな通信」の編集を引き受けて1月より着手し、やっと発行するまでにこぎつけました。早くから原稿を提出していただいた方々には、発行が遅れてしまったことにお詫びの言葉もありません。始めた時は梅の花も咲いていなかったのが、今では桜も散ってしまいました。あして与那国ではキビ刈りも終了し、援農隊の人もぼちぼち戻ってきています。皆さん、本当にご苦労さまでした。時期はずれになってしまいましたが、「ゆうな通信」一読してください。感想あるいは寄稿していただければ幸いです。(津葉本正憲)
○ …援農隊の間でも人気のある灰谷健次郎さんの小説「太陽の子」の映画化が進んでいる。昨年4月の第1回読書会でもこの本を取り上げた。その映画化を知って、ぜひよい作品にしてほしいと思う。監督は「キューポラのある街」の浦山桐郎さんだからうってつけの人だ。明日からそのロケを取材に波照間島へ出かける。八重山へはこの7年間何度も訪れながら、波照間は初めてだ。与那国と石垣しか知らない。仕事の都合でトンボ帰りだが、波照間ではまだキビ刈りが続いているはずだ。(4月11日夜、藤野)
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Last Update:2004/04/09
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