沖縄・与那国島サトウキビ刈り援農隊

ゆうな通信 第5号  1980年9月1日



来期援農隊で与那国から申し入れ

 第6回の援農隊が終わってはや5ヵ月が過ぎました。みなさん、与那国島での仕事の疲れはとれたでしょうか。与那国町農協はことしのキビ収穫終了後、昭和54年度の決算をし、7年ぶりに単年度で黒字の決算を計上したそうです。金額はわずか170万円余でしたが、5年前の農協の"倒産"いらい、島の農家の血のにじむような努力もあって、ここまできたことに島では喜びもひとしおといったところです。
 さて6月に、与那国島の宮良博農協長が上京され、宿舎を訪ねて、来期のキビ刈り援農問題について話し合いました。与那国町農協からは、原則的に次のような申し入れがありました。
@ 来年も本土の援農隊を受け入れたい
A 各農家住み込みの畑作業と製糖工場の2本立て
B 呼びかけの募集主体は与那国町農協とし、県を通じて職安法問題については労働大臣の認可をとる
C 農協で援農隊経験者のなかから臨時職員として1人を10月から援農終了までの6ヵ月間採用し、実際の募集業務に当たり、援農期間中は現地世話係として働いてほしい
D 東京・札幌での募集など事務局業務については援農舎の協力をお願いしたい
 大体以上のような内容です。これは今回までの援農舎の状況を、与那国農協なりにとらえてこられた上での提案であり、申し入れであると思います。
 援農隊参加者の中には、1年ぐらい援農を休止してみては、というかなり強い意見があることは承知していますが、1日200トンのキビ刈り取りをしなければ成り立たない与那国島の現状では、島外からの援農隊を求めずにキビ刈りをすることは現状では不可能であることは参加者ならよく知っておられることと思います。今度の提案がそういう状況の上に立って、与那国農協が自立的に一歩前進しようとする考え方をもってなされたものと受け止めたいと思います。もちろん、これで援農舎の世話人の責任がなくなるものではありません。

 しかし、この提案のような形で援農隊はいつまで続くのだろうかという疑問を持つ人もいると思います。宮良組合長はこの提案と同時に、ひとつの計画を提示されました。それは、現在農協が経営している製糖工場の処理能力を1日200トンから100トンに規模を縮小するというのが主たる内容です。この数年間、年間約8000トン前後の原料サトウキビを与那国島は生産してきました。これを約50日で刈り取っているわけですが、工場規模が半分になれば、刈り取り要員も半分ですみ、また工場要員も少なくてすみます。そうすれば、援農隊に依存しなくても島内で処理できるわけです。
 宮良組合長によれば、この計画は県も乗り気で農業構造改善事業や農業近代化資金など国や県の補助金と20%の地元負担で実現したいと言っています。経費は約3億円かかりますので、地元負担は20%の約6000万円です。町財政からの援助や金融機関から借り入れて賄うことになるでしょうが、現在70人規模の援農隊と本島からの職安あっせんによる季節労務者の受け入れの経費総額が年2500万円(農協、農家の負担総額)にのぼります。とすれば仮に6000万円を地元で負担しても、100トン化が実現すれば3年で回収できることになり、4年目からは島内だけで刈り取りができることになるわけです。すでに工場の設計もでき上がり、一部の機械類は伊是名島の製糖工場が来年から分蜜糖化するので、それを譲り受けることになっているそうです。

 この計画を私たちはぜひ実現してほしいと期待しています。与那国島では、これまでサトウキビの増産2万トンなどが叫ばれてきましたが、キビ刈り取りの機械化も実用化のメドさえない現状では、増産=分蜜糖化という目標は砂上の楼閣にすぎないからです。一方で過疎化はどんどん進み、人口が2000人余にまで減っている現在、1万6000人の人工の時に造られた現在の製糖工場は島にとって大きな負担となっているからです。キビ刈り労働力の確保なくして増産のかけ声をかけても、それが不可能なのは与那国島の農家がよく知っているところです。現状では、与那国島の農家にとって工場縮小、いや人口に見合った適正化が最も有効だと思われます。
 サトウキビ1.8ヘクタールの農家の1年半の収入が150万円で、そのうち1/3が原料経費、1/3が援農隊経費も含む刈り取り労賃、そして残りの1/3である50万円が農家の実収入という現状です。キビ買い上げ価格が安いことがまず問題ですが、これでは刈り取りに全収入の1/3もかけなければならないのは、能力以上の工場を持っていることが最も大きな原因といって間違いないと思います。

 与那国町農協でも、このように島の農家が自立できる方法を考える中で、それが実現するまでの間、援農隊に頼らざるを得ないわけです。工場の適正化が完成すれば、その時、第4号で黒田氏が指摘していた初心が本当の意味で実現するのではないでしょうか。
 援農隊参加者の中で、10月ごろから来年3月のキビ刈り終了まで、与那国島の農家のために協力していただける方は申し出てくだされば幸いです。(藤野雅之)

☆手紙から☆

▼ …いつも「ゆうな通信」をいただきましてありがとうございます。援農隊のことには、さまざまな思いもかけないかたちの新聞を読み、胸がせつないことでした。とてもひと口には申せませんが、お元気でと祈っております。(京都市・岡部伊都子)
▼ …私は(今年も援農隊の終了後戻った)名護市の街づくりの仕事では、役所関係から一歩踏み込んで、有志の「やんばる共同農場」の建設の方も手伝っています。文化運動として面白いものです。ご注目ください。「やんばる通信」は沖縄県宜野座村松田2069上山方、山原共同農場へ。(名護市在住、庄野護)
▼ …「ゆうな通信」いつも送って下さってありがとうございます。毎回楽しく読んでいます。少しばかりですが、カンパしますので何かに役立ててください。これからもお願いします。片岡さんによろしく。(77年宮古。秋田県平鹿郡十文字町新関、小川澄夫)
▼ …「ゆうな通信」ありがとう。私は毎日せっせとカゴを編んでおります。どこにも出ずに終日仕事場にいます。性に合っているのか、いないのか、わかりかねますが、今のところは欲求不満にもならずにやっています。3月に弘前に行ってきました。「南島探検」や「十島状況録」の著者笹森儀助(大正4年没)の事蹟を訪ねてみました。宮良当壮は北に目が向き、儀助は南に行き、都会人はイナカに行きたがっています。おかしな具合です。(茨城県笠間市・稲垣尚友)
▼ …「ゆうな通信」4号を興味深く拝読させていただきました。援農舎の抱えている問題が決して安易な解決を許さぬものであることを知ることができました。実際に見知らぬ土地へ行って2ヵ月も重労働をするのは並大抵のことではありますまい。参加者の中からいろいろな不満の声が生じるのは当然でしょう。「共同体」を失ってしまった都会人にとって、そもそもこのような体験を抵抗なく受け入れるのは不可能に近いと言ってよいかもしれません。その意味で春本氏の文章はひとつの真実を吐露しているように思えます。しかし、氏自身すでに何回も援農に参加していることからもわかるように、不満を持ちながらも参加者はきっと大切なものを学びとっているのだと思います。(略)学問の世界と違い、こうした問題にどう対処していけばいいのかということは本当に難しいと思います。しかし、「ゆうな通信」に参加者の真実の声を載せることによって、援農舎の運動が活性化されるならば、展望はひらけてくるのではないでしょうか。(東京都練馬区、丸山真人)
▼ …「ゆうな通信」お送り下さり、ありがとうございました。非常にさまざまな意味においておもしろく読ませていただきました。本島に全くいろいろさまざまな意味において、です。実は買い物やら電車の中で立ちづくめで足を棒のようにして帰ってきてから、ご飯を作ったり、何だかんだして、さらに足を棒にして立ちづくめ、疲れた挙句、眠る前にとにかくせっかく来た郵便物なんだからと読み始めたのですが、ついに眠気に抗しながら全部読んでしまいました。援農隊主催者の考え方、参加者個々の考えていること、不満や問題点、あるいはよいことがすべて書かれているので面白いと思いました。祖の中で世話人の"生活"のための都市労働者としての多忙なんてのが問題のひとつに挙げられ、理念と現実とのひしめき合いが、はるか南南西の離島と本土との距離感=<総合的な異なり>と交差して、さらに大きな問題を引き出しかかっている、というような、何か悲愴なダイナミズムさえ感じました。「良心的軍事費拒否の会」のことでこのところ、私が直面し、すっと考え続けていることとたいへんよく似た問題を、この通信の中に感じたわけです。(中略)本島は"生活"そのものを、他の多くの人とのかかわりの中で、根本的にダイナミックに変えていくことをしなければ、自然破壊ひとつ食い止めることも、また軍事優先政策を食い止めることもできないだろうというふうに感じているのですが…。(後略)(東京都東久留米市、高畠まり子)

東崎(あがりざき)から陽は昇る(4)             藤野雅之

     伊是名島に末吉さんを訪ねて

 この夏、仕事で沖縄に行く機会があって、伊是名島に末吉正己さんを一夜訪ねた。5年ぶりで名護へ行ったからである。名護には援農隊の庄野護さんが去年から住んでおり、"緑の街づくり"というユニークな地方自治体活動で知られる名護市の、その街づくりを庄野さんは手伝っている。大阪の緑地研の人たちと合宿生活している庄野さんを訪ねようと、名護市役所の都市計画課に行ったら、若い男の人が
「車で送ってあげましょう」
と言ってくれた。この春、やはり仕事で波照間島へ行った折、第2回の与那国援農に参加した岡本幸一さんを石垣島に訪ねた時も、麒麟閣という台湾人の中華料理屋の息子さんが、岡本さんの下宿まで車で送ってくれたのを思い出した。岡本さんとも2時間ほど話して帰ったのだが、名護では庄野さんとは仕事の都合で1時間足らずしか話せなかった。名護市の街づくりややんばる共同農場の話や名護の民話の会の話などを聞いて別れたが、庄野さんは夜遅く旅館に訪ねて来てくれて、ちょうど一緒になった印刷会社を経営している松田豊昌さんと三人で街へ出た。

 松田さんは灰谷健次郎さんの原作で浦山桐郎監督の手で映画化された「太陽の子」にロクさんの役で出演している人だ。私は本職の映画取材で、波照間島からの帰りに那覇で会い、東京の撮影所でも会って話をうかがったので、名護に行ったらぜひ会いたいと思っていたのである。
 松田さんは沖縄戦で片腕をなくしており、映画の中でも終幕のヤマ場でシャツを脱いで、その手のない腕を見せながら警官に向かって沖縄人の心を語る。あのシーンは圧巻で、真の勇気、新のやさしさが何かをとつとつと語る松田さんの言葉は、もう映画のセリフなどとういうものを超えてしまっていた。それほど説得力が強く、感銘を受けたのだった。

 松田さんと別れ、庄野さんと別れる時、私の仕事が終わったら、末吉さんに会いに伊是名島へ行かないかと誘われた。2日後に渡久地港から伊是名島へ渡った。
 末吉さんは、この2月まで東京にいて花屋さんをやったりしていたが、郷里に帰って花の栽培をやりたいとUターンしたのである。東京では援農隊の小林章さんの紹介で知り合い、何度かいっしょに飲んだり話したりした。
 伊是名島は琉球松がしげる美しい島だ。末吉さんはトラックで島を案内してくれた。分蜜糖化で工事中の製糖工場へ行くと、解体された機械の部品が片すみに整理されている。利用できる部品を与那国島へ回すためにとってあるのだという。与那国島の製糖工場を200トンから100トンに切り替える話を聞いていたので、手回しがよいなと感心したものだった。

 末吉さんは、郷里で花を栽培したいといって帰ったのだったが、この春から村役場に勤めている。
「分蜜糖化でサトウキビを増産しなければならないので、花を作る畑がないんですよ」
とつぶやく。でも彼は決して諦めているわけではないとも言った。夕方、縁側にすわっていると、気持ちのよい涼風が頬をなでていく。淡い夕焼けを眺めながら、ゴーヤ・ジュースのほろにがい味が快い。末吉さんは、青年団の人たちと展望台の掃除に出かけて行った。狭い島では、野球や会合など青年団の行事が毎日曜ごとにあり、
「普段もその準備やなにかで結構忙しいんですよ」
と笑う。

 過疎化はこの島でもみられ、末吉さんのように東京からUターンしてきた青年は、待ち構えていたようにいろんな活動に引っ張り出されるのだそうだ。
「今は映画の上映会をやっているんだけど、これから合成洗剤追放をやろうと思って勉強しています。島にはいろんな問題があって、考えていると何から手をつけていいのかわからなくなる。とにかくできることからやろうと」
 庄野さんが持ってきた本やパンフレットをうれしそうに受け取った。名護市にある洗剤問題の映画も島で上映したいという。
「親父は、農業では生活できないから勤めている方がよいというけれど、自分はやっぱり農業をやりたい。やり方によれば生活もできると思う」
というのが末吉さんの気持ちだ。そして、そんな気持ちを島酒の「ときわ」を片手に少しずつ話す。
 村の村会議長さんがやって来て、話の仲間に入り、そんな末吉さんを励ます。親父さんも話の輪に加わっていたが、いつの間にか眠っている。そんな光景を眺めていると、末吉さんがなぜ島に帰ってきたのか、少しばかりわかるような気がしてきた。

【なんた浜】

★ …灰谷健次郎原作の映画「太陽の子」(裏山桐郎監督)が完成、9月20日から公開されます。沖縄の人たちも多数出演しています。
★ …78年から79年にかけて与那国島比川に住み込んだ記録映画「幻想のティダン」が完成しました。8月に与那国島はじめ沖縄各地で上映、9月に東京でも上映されます。援農隊のキビ刈りの様子も登場します。与那国経験者必見の映画。製作したのは東京のキネパック・フィルム。平均28歳の若者グループです。関東上映は、9月13日午後1時半、5時半の2回、お茶の水の日仏会館ホール。19日6時半、豊島区民センターほか。10月15日6時半、川崎市中原市民会館、17日6時半、神奈川県立勤労会館など。前売700円、当日900円。連絡先は●●
★ …9月の東京援農隊読書会は20日午後6時半から、早稲田奉仕園セミナーハウス(地下鉄東西線早稲田下車)で。テキストは森口豁著「ミーニシ吹く島から」(アディン書房)。

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Last Update:2004/04/10
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