沖縄・与那国島サトウキビ刈り援農隊

ゆうな通信 第6号  1981年10月15日



3組のカップル

 1年ぶりの「ゆうな通信」です。ごぶさたしていますが、みなさん元気でしょうか。1年もブランクがあいてしまい、「ゆうな通信」もとっくに廃刊になったと思っている人もいるのではないかと想像しています。そう思われるのも当然でしょうが、こちらとして忘れていたわけではありません。こんな小さな通信でも出し続けるのはやはり大変なことだと思う今日この頃です。でも、出そうと思った時には、なんとかして努力してみることこそ大事なことなのかも知れません。それで思い出したような感じの今号となったわけです。

 援農隊は今年も第7回が行われました。参加者は20人で、今回は与那国町農協が過去6回の参加者に直接呼びかける形をとり、その事務作業を援農舎世話人が手伝いました。人数は少なかったのですが、参加者は経験も豊かな強者たちで、大いに地元の人たち喜ばれたようです。収穫高は4700トンで当初予想の50%でしたが、でき上がった黒糖は上質で売れ行きもよいそうです。

 ところで、7月末に私たちの援農を石垣島で支援してきた友寄英生氏が上京され、援農隊に参加した女性2人が与那国、波照間の青年と結婚し、さらに石垣島でももう1人が近く結婚式を挙げる話が進んでいるそうです。離島の過疎化は参加者ならみんなが知っている通りの現状ですが、一度は島を出た青年たちが島で農業をしようとUターンしてきても、嫁不足でまた出て行かなければならないというのが、八重山の離島の現状です。私も波照間島を訪ねた時、島の農業青年たちからその苦衷を訴えられました。
 農村の嫁不足は沖縄に限ったことではないのですが、島の青年たちの話を聞いているうちに、現在の世の中はどこか間違っているように思われてなりませんでした。そもそも離島が過疎化して、島の人たちだけではサトウキビの収穫もできない現状もそのひとつでしょう。人口の都市集中は、今の世の中の価値観が都市的なものにあるということの反映で、田舎の若い人がどんどん都会へ出て行くのは、ある意味ではやむを得ないことかも知れません。しかし、一度経験してみた都会の生活には人間的な手ごたえがないと知って島へ戻り、そこで農業を営み、島の暮らしを新しく作り変えようとしている青年たちは、島の生活の中に都会では得られなかった人間的なものを確実に育てつつあるように見えました。
 農業ひとつとってみても、サトウキビだけのモノカルチュアから複合農業へと変わりつつあります。これを進めているのは若い農業青年たちです。"シマおこし"の運動も石垣島や西表島、波照間島の青年たちによって進められています。ここには、先に私が感じた都市的な価値観とは異なるものが生まれているように思われます。それにもかかわらず、農家の嫁不足という問題はいっこうに打開される気配はなさそうです。

 女性の側から見ると、離島や農村のイメージは遅れたものと映るのかも知れません。そういう面は確かにあるだろうし、その変革もなされねばならないでしょうが、近年のウーマン・リブとかフェミニズムとかの女性解放の運動が、こういう地方に生きていこうとする人々への視点を欠いたものであってほしくないとも思います。
 援農隊を機縁にして3組ものカップルが生まれたことに、私はいま、より大きな責任が課されたような思いすら感じています。と同時に、彼らがそれぞれの島の青年たちに大きな希望を与えたのだろうと想像します。そして、そこで得た生活を大事に育ててほしいと願わずにはいられません。

砂糖きび畑から                       立松和平

 与那国島は日本の最西南端、台湾と国境を接する日本列島のはずれである。私がこの島を訪れてから1ヵ月余が過ぎた。毎朝8時に砂糖キビ畑に出て、キビの根元に手斧を振りおろし、倒れたキビの葉や皮を鎌で削っては藁縄でしばる。単調で苛酷な労働の明け暮れだ。
 島が狭いからというわけでもないだろうが、空模様はめまぐるしく変わる。雲は低く速く流れ、陽が照り輝いていたかと思うと、雨が横なぐりに降ってくる。雨合羽はいつも身近に置いておく。

雨中がかえって楽

 晴れ渡ると、キビ畑には炎熱が立つ。草いきれで息が苦しくなる。灼熱の底で黙々とキビを倒す。サングラスが汗で水中眼鏡のようになる。サングラスをはずせば眼が痛い。キビは乾けば皮が剥きにくく、無理に削ると皮が硬い棘になって顔や首筋の皮膚にささる。思い合羽を着なければならなくても、雨の中の作業の方がはるかに楽である。
 今年の砂糖キビは出来がよくない。昨年6月より旱魃が3ヵ月つづき、さらに8月27日に台風12号の直撃を受けた。横倒しになったキビから痩せた横芽が伸び、収穫は予定の半分以下である。肥料代と人夫代が出ればよいほうだといわれている。櫛のはいらない髪のようにもつれた細いキビを引っぱりだして削るのは、能率がひどく悪い。
 大東結びという独特の縛り方により、砂糖キビを15キロほどの束にしていく。その束を水牛の曳く荷車で道路端まで運ぶ。最初、水牛は象のように大きく、野牛のように獰猛に見え、私はそばに寄れなかった。それが、いつの間にか、ホイッ(歩け)、ダァッ(止まれ)と叫び、私は水牛の手綱をひいて荷車を操っている。水を飲ませに沼までひいて行ったり、切り落とした砂糖キビの葉を運んでやったりするたびに、無表情で静かな水牛がかわいく思えてくる。

 キビ畑の仕事の合間を縫って、水田にも行く。キビ刈りと田植えとを同時にしなければならず、過疎で人手不足の島はまさに猫の手も借りたい忙しさである。灌漑設備がなく天水を利用する田は、水の一滴も無駄にはできず、泥が沼のように深い田がよい。一本でも余計に植えるよういわれ、かつて稲の苗に触れたことさえない私は、泥田の深みに命を吸われるような気持ちになりながら、膝まで泥につかって田植えをする。
 泥をかぶり汗をかくごとに、頭の中に巣食っていた虫が出ていく気分がする。泣きたいほどにきつい重労働だが、気分は爽快だ。作業はちょうど折り返し点に立ったところで、残りの1ヵ月足らず、何とか最後までやれそうだと安堵している。畑から帰ると食事をし、泡盛を飲んで寝る生活をくりかえし、ようやく原稿を書く余裕が出てきたというわけである。
 私が援農隊に参加して与那国島に行こうと決めたのは、きわめて私的な理由からである。早い話、肉体労働がしたくなったのだ。身体を動かして金を稼ぐという単純な自然さの中に、もう一度自分を置きたかったのだ。これは小説家として私の、いわゆる作家の生活への、危機感である。

「作家の現場」求め

 原稿を書くのが作家の生活のうちの主要な時間であり、私もこの数年間、机にへばりついてきた。寝ても醒めても自分の紡いでいる妄想に悩まされ、苦しみ、一字一句文字を刻んでいくと、小説というものが出来上がる。それが読者という他者に通じる言葉なのか、伝えるに足る作品なのか、常に不安がつきまとう。また不安がなければ、作品は前作より一歩も深まっていないことになる。そうして追われるように書きつづけていくのが、作家の生活なのだ。
 何年間か、私はまさに机の上で生活するようにしてきて、作家の現場とは机ではないと、当然すぎることを思い知らされた。生きるというその場所が、作家の現場なのである。生きるという悲しみ、苦しみ、些細な感情のわだかまりや、手足が勝手に踊りだしてしまいそうな喜びや、そうしたなまなまとした人間の生きる姿は、当然のことながら机の上にはない。
 もともと私の文学は、労働や放浪や人間が当たり前に生きている場所から出てきた。それがいつしか私は机の上の人となっている。机こそ特殊な場所なのである。

 2ヵ月ばかり見知らぬ土地に来て百姓仕事を手伝ったくらいでどうなるものでもないことは、楽天的な私とはいえ、百も承知だ。しないよりましだという程度のことかもしれない。つまり私的な小さな人間回復の衝動なのである。  33歳という私の年齢は、若さを誇るわけにはいかないが、老け込むほどではない。だが、初めてする炎天下の過重な労働はつらい。身体がきついという一点のため、ひたすら自分自身と向き合うことになる。キビの根元にむかって力をこめる手斧の一振りごとに、陽力な肉体がうらめしく、島の人たちが黙って耐えている労働に音を上げそうになる柔な精神力が情けなく、結局は自分の弱さばかり見つづけることになる。それでも日を重ねるごとに筋肉が作業のリズムをのみこんでいき、重労働も苛酷とは思わなくなる。作業の手も速くなっている。そんな自覚は嬉しいものだ。

田んぼに寝る主人

 ここまで書いて、私は住み込んでいる農家の主人に呼ばれ、トラックの2トン車を運転して水田に行ってきた。午後11時である。今年の春は雨が少なく、場所によっては田植えが危ぶまれている。主人の田も底の泥が見えているが、畦を破られ水を盗まれていると、電話で知らせがあったのだ。人口2千人余りの小さな島なのだから、みんな仲良くすればいいのにと思いながら、私はズボンを脱ぎパンツ一枚になって田に降り、懐中電灯の明かりを頼りに泥を盛り上げて畦を補修してきた。こぼれるほどの星明かりが、田の中からふと顔をあげると、流れる雲に覆われていた。
 私の入った農家は、主人60歳の夫婦2人きりである。私は着いたその日から貴重な働き手だ。食事も風呂も寝る場所も家族同様の待遇を受け、弁当と水筒を持って畑や田に出かけて行く。田にかかりきりの主人に、砂糖キビ畑はお前にまかせるといわれているのだ。毎朝私がトラックで迎えに行く人夫は、70歳近い老夫婦と64歳の婦人である。野球グラウンドよりはるかに広い1町余の畑に、老人たちと慣れない私だけではいかにも覚束ない。
 水を盗まれた田を見て、家に帰り、私は自分の部屋に落ち着いたが、主人は1人でふたたび野良に出かけて行った。夜中にまた畦を切られるのが心配なのだ。田んぼに寝るといっていた。私はいったん床に入ったものの、なかなか寝つけない。夜半、珍しく激しい雷雨である。醒めやすい熱情のように雨は束の間通り過ぎてやんだ。私は主人のことが案じられて目が冴え、起きだして本稿を書き上げた。(作家)
(宇都宮市下栗町在住。今年の与那国島援農に参加。4月9日付「朝日新聞」に掲載された体験記の転載です。)

与那国島から                        中村 修

 沖縄与那国島サトウキビ刈り援農にかかわるようになってから五年がすぎた。
 この体験を通して、私は岩手を再発見したことになる。自分が根をおろす場所として岩手を選んだ、という意味である。
 盛岡生まれの盛岡育ち。高校を終えるまで盛岡から生活範囲をひろげたことのなかった私は、なんとなく時代遅れの古くさい(当時そう思っていた)盛岡を棄てたつもりで東京に進学した。
 あこがれの東京生活もこんなものか、と二年目にして感動も湧かないほど都会の無表情さに同化しかけていた。そんなとき、「南の島で砂糖キビを刈ってみませんか!」という、ちょっと風変わりの呼びかけに誘われたのだ。それ以来、大学三年間、一年のうちの二、三ヶ月を日本の最果ての島、与那国で暮らすことになった。

 ザクッザクッと手斧を南国の太陽の下で降りおろす。大人の手首ほどの太い、パリッと張りつめた一見竹にも似た砂糖キビがザッと倒れる。長いもので三メートル以上もある。それが沖縄名物の台風のたびに吹き倒され、その回数分だけ折れ曲がって伸びている。いくら畑を整備したところで、とても機械は入れない。人の手だけが頼りなのだ。
 本土でコメが基幹作物であるのと同程度かそれ以上に、沖縄・八重山では砂糖キビが中心的な存在である。本土ほどよい水に恵まれていないことも理由のひとつであろうが、島嶼からなる八重山は台風のたびに潮をかぶる。
 山の陰で湧水を利用してわずかのコメを作り、平地にはある程度潮に強い砂糖キビを作る。離島には他になんの産業もないのだ。

 日本列島を南に下がり、そのはずれ、台湾島のすぐそばに与那国島はある。この南海の孤島から、キビ刈り援農の依頼が舞い込んだのだ。
 与那国島はかつては台湾や南洋諸島が日本の領土であった時代、日本本土との中継地、密貿易の島として栄えた。現在では人口二千人を割ったが、当時は周囲二十七キロの島に二万人以上が生活していたという。
 日本が現在の範囲に収縮するとともに、与那国島は辺境となった。米軍政下から日本の統治下に復帰すると、本土でもまれな速さで島の人口が減った。人口の減少は、沖縄の伝統的労働力確保の制度ユイマールの崩壊を意味した。
 島には美しい赤瓦の家並みがつづくが、ポツポツと空き家が見られるようになった。もはや島内部の労力だけでは砂糖キビが収穫できなくなったのだ。
 きびしい労働が二ヵ月以上もつづくキビ刈りは、本土の田植えや稲刈りとは根本的に違う。片手間ではできない。また季節労働者を確保するにも、本土や本島から遠くはなれ、娯楽施設もない。仕事はきつく賃金も安い、ということではあまりにも条件が悪かった。
 私にはかえって、この離島の青い海と風しかない自然が魅力的に思われた。なによりも思いっきり汗を流してみたかった。
 甘い青さと透明な風、そして白い砂浜。そういう観光ポスターのような風景が確かにそこにはあった。しかし、島で暮らすうちに、この美しい豊饒の海が、かえって島民の桎梏となっていることに気づいた。

 本土にいて沖縄を考えている限り、その切実な島民の気持ちはわからない。これは都会にいて農民を眺めるのと同じである。
 島の若者は都会にあこがれる。若者の中にも島に居つづけ、島の生活を守ろうとする人も同時にいる。そこに島の現状であるジレンマがあるのだ。
 沖縄の離島では今後も砂糖キビ農業がつづく。日本の根本的な農業政策の変更と、沖縄に適した新しい農産物の発見がない限り、それはつづくと考えられる。いまの日本の方向が変わらない限り、人手不足もつづくだろう。私はこの島でキビ刈り農業を体験し、土に生きる者のもつ共通の体臭に気づいた。
 今日が昨日と変わらないように、明日も変わらないものであるかのように、土に根をはった島人が黙々と畑を耕すのを見た。
 私はふと自分の存在を考えた。大地に根をはることもなく、ただのデラシネとしての自分をである。
 盛岡は土の香りのする街である。沖縄の体験を通して、いま私は、その香りを当然のものとして享受している。私は当分、岩手に太い根をおろす覚悟で生活をつづけるつもりでいる。また、沖縄とのつながりも、自分を見直す鏡としてより深めていきたいと考えている。
 援農隊は、今年も二月中旬に与那国を訪れる。そして来年も。
 来年こそは岩手の人たちに呼びかけをしようと思っている。参加する人が、その後どこで生活をしようと、自分の存在について考えてもらうよすがとして。
(岩手県農協中央会農政部勤務。この文章は、盛岡のタウン誌「街・もりおか」1981年2月号からの転載です。)

原初の志                          庄野 護

 10年ほど前に、その頃一番親しかった友人がキューバにサトウキビ刈りに行こうと私を誘った時、関心はあったが、自分の生活の中に、キューバに飛ぶことの必然性を見つけられなくて、私は日本にとどまり、友人を羽田に見送った。
 その頃、私はアジアについて勉強をはじめており、そのことにいそがしかった。もともと、私のアジアへの関心は、部落−>沖縄−>朝鮮への問題意識を通してアジアへ伸びていったものであり、当時は主要な関心を東南アジアの複合民族問題に向けるようになっていた。
 1970年前後のさまざまな運動の昂揚期に、私も幾度かデモに参加して、沖縄返還「反対」のあるデモでは、催涙ガスのたちこめる街路を官憲に追われて逃げまどうこともあった。その当時の私が、しかし、どれほど沖縄を理解したうえで行動していたかは、いま思い返してみると疑問なのだが、それでも当時は自分としてはよく知っているつもりだった。
 その後、3年ほど東南アジア各地を転々と暮らし、ひとつの目的を達成したあと、今度は日本の北陸の田舎町に移り住み、それまでの暮らし方への反省をこめて勉強をやり直そうとした。そしsて、私は私の世界で、沖縄への認識が大きく欠落していたことに改めて気づいたのであった。援農舎のキビ刈り援農隊に参加しようと思いついたのは、その時である。
 沖縄に暮らすようになって、私は原初の志に立ち返ることができた。私はいま、東南アジアでの生活体験と沖縄での暮らしを通して「日本」をみつめつづけている。
(大阪府堺市に転居)

東崎(あがりざき)から陽は昇る(6)             藤野雅之

     台湾と八重山

 この2、3年、沖縄の農業が大きく変わりつつある。サトウキビは依然として基幹作物であるが、野菜、花などの栽培が盛んになってきている。沖縄は年中暖かく、本土の端境期をねらって作れば、有利な農業ができることは以前から指摘されていた。そして今では、カボチャ、オクラ、スイカ、インゲン、トウガン、温州ミカン、ニンジン、スィートコーンなどの野菜が年間53億円、またキク、グラジオラス、リヤトリスなどの花卉が合計23億円もの県外出荷実績をあげている。野菜がこの一年で30%もの増加である。さらに来年には野菜で18%、花卉で102%増を沖縄県農水部は見込んでいるという。
 このほかに養蚕も見直され、クワの作付けもふえている。そして本島中部地区などでは、若い農業青年の活躍で年収1千万〜2千万円の所得をあげる農家も相次いでいるほどの発展振りである。

 一方、サトウキビは、今年が沖縄全県で当初の見込みが174万トンだったのに対し、実績で130万トンに収穫高が落ち、前年比で13%もの減少だった。去年はことに台風と旱魃、病虫害の多発など災害の影響も多かった。またもうひとつの基幹作物パイナップルが冷凍パインやグルーバルと呼ばれる輸入ものに押されて苦境にあえいでいる。来期のサトウキビの生産見込みは県全体で173万トンが見込まれているが、本島などではキビ作から他の作物への転換、農地の宅地転用で、全体としてはキビの増産は期待できないともいわれている。
 こうみてくると、キビ、パインのモノカルチュア農業から野菜、花卉、畜産などの複合化が急速に進んでいるともいえる。そして、これらは本土向けに出荷されるわけだが、たとえばカボチャがよいからといって、いっせいに各農家がカボチャを作れば価格が暴落してしまう。市場の動きをよく見て需給バランスに合った計画性も必要なのだ。そんな難しい問題を抱えながら、また輸送の面でマイナス要因を抱える沖縄が、気候的に暖かいためにコストが低くできる利点を生かして、いま沖縄農業は大きく変化している。

 しかし、沖縄農業の最大の悩みは農業用水である。ほとんど毎年のようにおきる旱魃にどう対処するか。この点で興味深い試みが最近行われた。この7月、東京と那覇で「東アジアの水と農業」というシンポジウムが研究者らによって開かれた。
 この会議の背景には、水に苦しむ沖縄農業の悩みがあったようだ。吹き今得の沖縄はアメリカ、特にハワイの農業をモデルにしてきたし、復帰後は本土をモデルにしてきたのだが、亜熱帯の島という自然条件や歴史的な条件が大きく異なるために、沖縄農業にとってハワイや本土の経験がすぐに役立つというわけにはいかなかった。むしろ台湾の方が条件に共通性があることから、台湾の学者を招いて議論したのである。

 台湾に沖縄県や学者が注目したのは今年になってからであるが、最近ではこれらに先駆けて台湾に注目してきたのは石垣島の友寄英正さんである。彼が台湾に行き取材した時の報告を雑誌「青い海」で読んだ記憶があるが、友寄さんのねらいは正しかった。
 彼が台湾の農業にねらいを据えたのは、おそらく戦前から石垣島に渡ってきた台湾からの入植者たちの農業を見てきたからだろう。彼らはパインや水牛を八重山に持ち込み、今日の八重山諸島の農業に大きく貢献してきた。彼らは早くから農業の複合化を実践してもいる。水利についても独特の方法で対処してきた。

 今度のシンポジウムで、その台湾での感慨に大きく貢献したのが日本人の八田与一技師で、この人が台湾農業の恩人として、いまも尊敬されていることが報告された。植民地化という戦前の日本の悪政の中にも、ひとつくらい台湾のためによいことしていたと知ると巣食われたような思いもする。
 この話を知らせてくれたのも友寄さんだった。彼らは八重山でこの数年"シマおこし"運動を続けてきて、農業を核にした島の再生をめざしている。友寄さんのその尽きることを知らない情熱は、今年、沖縄県が台湾に送った農業視察団を派遣し、玉野井芳郎沖縄国際大教授らのシンポジウムにまで実を結んだ。その友寄さんは私たちの援農隊運動にもいろんな形で協力を惜しまない。だから私たちのキビ刈り運動もこういう応援があったからこそつづいてきたのだろう。

【なんた浜】

★ …第1回に参加し、翌年単身援農で積み込みをやった「ヘラクレス」こと藤森民雄さんが、「新制作展」で新作家賞を受賞しました。東京芸大大学院で彫刻を勉強中。
★ …第1回援農隊に参加した井上一男さんが昨年末から病気で入院療養中です。入院先は川崎市幸区の川崎幸病院201号室。井上さんは身寄りがなく、援農隊の仲間で闘病生活を励まし、カンパしています。
★ …第1回いらいの3回参加の久保洋さんが長野県大町市に転居。住所は●●
★ …援農隊呼びかけ人の黒田勝弘さんは昨年秋から共同通信ソウル特派員として韓国滞在中。住所・連絡先は●●
★ 東亜燃料の進出に反対して闘っている奄美大島の枝手久島や使用済み核燃料再処理工場建設計画に反対している徳之島でも、島の基幹産業であるサトウキビ刈りの援農を通じて、島の人たちとの交流を図ろうという運動が続けられています。鹿児島県大島郡宇検村久志の無我利道場の人たちが中心になって活動しています。

※※ 編集後記 ※※

☆ …与那国にキビ刈り行ってから3年以上が過ぎた。サトウキビの甘さも労働の苦しさもどんどん薄らいでいく。沖縄は私の中でどんどん遠いものになっていく。でも勝手な思い込みで沖縄を自分の中につくってしまうよりはいい。そして東京いるとやたらに目につく航空会社の沖縄キャンペーンを見ていてまた思う。沖縄はあんな写真のように汚くはないのだ。東崎で「どなん」を心ゆくまで飲むことをイメージしながら、キビ刈りに行って覚えた泡盛を今日もまた飲んでいる。(津葉本正憲)
☆ …5号までは多くの方からカンパを頂戴して発行してきましたが、すでに赤字も出ており、今後は小生の一存ですが、私の責任で発行し続けようと思います。津葉本、片岡両氏の助力でなんとか出し続けられそうです。よろしく。(藤野雅之)

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Last Update:2004/04/10
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