旅は道連れ

中山道・安中を歩く      2007/03/10



 会社時代のOB・OGを中心にした「気まま苦楽部」には「中山道を歩く会」がある。私はこの苦楽部のハイキングクラブに参加しているのだが、誘われて10日に「歩く会」に初めて参加した。昨年脚を痛めたので歩く機会を増やしたほうがよいと思ったのである。

 このグループは中山道の前に3年をかけて東海道を踏破している。その次は中山道ということで、昨年秋に東京・日本橋をスタートした。毎月1、2回日帰りで10数キロを歩き続けている。この日は9回目だそうで、安中駅から西松井田駅まで12キロの行程。すでにこれまで120キロを歩いてきており、中山道69次の全行程の5分の1を歩いたことになるという。この日の参加者は28人。ほとんどが顔見知りのOB・OGやその夫人だが、なかにはメンバーの同じ町内会の知り合いという人もいる。私は初めての参加なので、リタイア以来はじめて会う人が多い。

 天気予報がちょっと心配だったが、5時半に起きると、素晴らしい朝焼けだった。早めに家を出て、7:48赤羽発の電車に乗り、本を読んでいると籠原駅で数人といっしょになった。時間があったので高崎駅でコーヒーを飲み、信越線の電車に乗り換え、安中駅に10:30集合。朝は晴れていたが、薄曇りである。行程はすべて舗装道路である。安中駅から久芳橋を渡る。久芳橋からは浅間山と妙義山が眺められると感じが用意してくれたガイドにあるが、春霞がかかっていて、浅間山は見えない。妙義山が薄墨で描かれたように眺められた。駅のすぐ西側には東邦亜鉛の安中精錬所がある。県道は車の通行量が多い。

 下野尻の交差点か県道125号線に入ると、やがて安中宿。本陣はどこだったのだろうかと思いながら歩いたが、わからなかった。あとでガイドを見ると、今の郵便局がそうだったとあった。伝馬町を右に行くと、旧碓氷郡役所と安中キリスト教会が並んでいた。郡役所はいかにも明治の役所らしい木造の建物だが、教会は石造りの風格のある建物である。葬儀が行なわれていて、賛美歌が聞こえてきた。県道に戻ってしばらく行くと、今度は左折すると、曹洞宗龍昌寺がある。ここの境内で昼食。山門を入ると、参道の両側に小さな鐘が並んで吊るされている。合計百八個あるのだそうだ。山門のところに木槌があり、これで鐘を打つのだとあった。

 昼食を終えて12:20、再び歩き出す。県道に面して武家長屋というのがあった。茅葺の大きな長屋である。長屋というと江戸の粗末な町人長屋を思い浮かべるが、これはかなり立派なものだ。1戸は10畳の部屋が二つ。広い土間は台所兼用で、雪隠と洗面所という間取りである。庭には共用の井戸がある。風呂場はないから、行水だったのだろう。

 県道をさらに進み、磯部温泉に至る道を過ぎると、新島襄旧宅の案内板がある。これに従って行くと、住宅街の中に旧宅があった。これもかなり大きな造りの家である。新島襄は安中藩の藩士の子で、天保14年(1843)、江戸・神田の藩屋敷で生まれた。1864年、21歳の時に国禁を犯して函館から米船で海外に脱出。翌年ボストンに至り、ハーディー夫妻の援助を受けてフィリップス・アカデミーに入学。1866年にはキリスト教の洗礼を受け、24歳でアーモスト大学に入学した。27歳で卒業すると、アンドーヴァー神学校に入学。明治5年(1872)訪米した岩倉使節団と会い、欧米教育制度調査の委嘱を受け、1974年、31歳で神学校を卒業。アメリカの海外伝道の大会で、日本にキリスト教主義大学の設立を訴えて、5,000ドルの寄付の約束を得、11月に帰国した。

 翌年、京都に同志社英学校を開設した。旧宅の説明文によると、帰国した襄は、母のいたこの旧宅を訪ねたとある。英学校を大学にしようと、各地に寄付を求めて歩いている途中で倒れ、1890年、47歳で没した。京都・東山若王子にある墓碑は勝海舟の揮毫だそうだ。私は京都で3年過ごしたが、近くの御所東側に新島邸があった。だが、若王子の墓へ行ったことはない。同志社大学は早稲田大学と交流があるが、これは新島と大隈重信が親しかったことが背景にある。大隈もキリスト教に関心が深く、米国の大学がキリスト教に由来する学園の雰囲気を持っているのに注目していた。早稲田大学にもその環境を作りたいと考えていた。

 私が大学時代を過ごした早稲田奉仕園は、こうした大隈の考えに基づいて、関東学院の前身、東京学院の教授として米国から赴任していたベニンホフ博士が早稲田の学生のために創設した寄宿舎だった。この寄宿舎・友愛学舎からは児童文学者の坪田譲治、ソニーの創設者井深大や多くの早稲田の教授などを輩出している。新島襄旧宅に立っていると、そんなことが思い浮かんできた。

 県道に戻って、さらに西に進むと、杉の並木があった。ほとんどは最近植えられたものだが、中には大きな古い木も何本か残っていた。かつては700本もの杉が立ち並び、日光の杉並木と並び称されるほどだったという。これを過ぎると、安中市原市地区になる。日枝神社の隣りの自性寺は新島家の菩提寺だとある。さらに行くと、三叉路に妙義山常夜灯があった。これを右に行きさらに左へ逸れていくと松井田宿である。このあたりには道端に道祖神が多い。なかには男女が方を寄せ合った愛らし微笑ましいものもある。今日の行程はすっとかすかな登りが続いていたが、松井田宿あたりからは、その登りがわずかに急になる。ここまで来ると、平坦な道だから12キロの行程など大したことはないと思っていたが、多少疲労感も感じるようになった。そう思っているところに、西松井田駅への道路標識が見えてきた。今度は下り坂で、それを降り切ったところが西松井田駅であった。駅前には駐車場があるだけで、店の一軒もない。15:30着。次の高崎行きの電車は16:00という。

 30分待っていると、少し寒くなってきた。高崎で上野行きに乗り換えたら、小岩井さんが籠原で湘南新宿ラインに乗り換えようと言う。籠原駅始発の電車で待っていると、彼がいったん改札を出て、ビールや日本酒を買ってきた。大野、岩崎、宮島さんとの5人で車内で楽しく飲んでいたら赤羽に着いた。私は下車して帰宅した。

 次回の5月からは2泊3日の日程になるという。これからが中山道らしいところになるので、できるだけ参加したいが、仕事との兼ね合いもあってすべてという訳にはいかなさそうだ。

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Last Update:2007/03/10
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