旅は道連れ

ベニンホフの足跡を訪ねる      2007/04/20



 私が学生時代を過ごした早稲田奉仕園のことは何度もこの日記で書いている。来年2008年11月に早稲田奉仕園は創立100年を迎える。その百年史の編纂を1昨年から手伝っているのだが、今日はその創立者H・B・ベニンホフ博士の足跡を奉仕園百年史の編集にかかわっている仲間と歩いた。

 ベニンホフは1907(明治40)年に米国バプテスト同盟の宣教師として、また東京中学院(現・関東学院大学)の教授として来日した。そして、築地の外国人居留地(現・明石町)30番地の米国バプテスト教会に住んだ。夫人は外国人学校(現・アメリカン・スクール)の教師となり、その後2度にわたってアメリカン・スクールの校長を務めている。

 ベニンホフ博士は東京学院の教師を務めるかたわら、自宅で3Lクラブと称する聖書研究会を始めた。偶然知り合った早稲田の学生が英語の勉強をかねて聖書について学ぶ集まりだった。3LとはLoyalty、Love、LibertyのLである。この会が縁となって、翌1908年11月、早稲田鶴巻町の東京YMCAの寄宿舎が閉鎖されることになり、それを利用して早稲田の学生のための寄宿舎「友愛学舎」を開いて舎監となった。キリスト教主義の寄宿舎で、これが早稲田奉仕園のスタートだった。

 ベニンホフが早稲田に友愛学舎をつくったのは、安倍磯雄の紹介で大隈重信総長に会い、大隈候から早稲田の学生のために米国の大学と同じような学生生活を過ごせる環境をつくってほしいと依頼されたとされるが、それを具体的に示す史料は見つかっていいない。しかし、友愛学舎の設立は翌年来日したシカゴ大学のバートン教授に高く評価され、教授は大隈候と図って、新しい友愛学舎の建設を計画する。シカゴ大学はベニンホフの母校であった。こうして、1911年、友愛学舎は牛込弁天町に移り、早稲田奉仕園という名称で、理事会を設置するなど組織的も整備された。初代理事長に安倍磯雄が就任している。

 その後、早稲田大学に近い穴八幡神社の隣りに土地を購入、1921年、米国のJ・E・スコット夫人の寄付5万ドルでにより教会堂と集会室などを備えた赤煉瓦建てのスコットホールが完成した。スコットホールは1923年の関東大震災でもほとんど被害に遭うことはなく、今は東京都の文化財に指定されている。翌年にはエドマンズ夫人とマサチューセッツ教会員の寄付により、スコットホールと同じ敷地内にやはり赤煉瓦建ての地下1階、地上2階建ての友愛学舎が建てられた。外壁には蔦の這う瀟洒な建物だった。この友愛学舎から多くの早稲田の教授を輩出し、児童文学者の坪田譲治や小出正吾、ソニーの創立者井深大なども学生時代を友愛学舎で過ごしている。私もここで大学4年間を過ごした。だが、この友愛学舎は取り壊されて、キリスト教会館になって今はない。友愛学舎はコンクリート造りのビルとなり、留学生のための寄宿舎などと同居している。

 午前11時に築地の聖路加病院前で落ち合った。まずはベニンホフが来日して最初に住んだ築地の外国人居留地を訪ねることにした。聖路加病院のそばに中央区立郷土天文館があり、ここの常設展示で築地界隈の歴史を概観した。関東の外国人居留地はいち早く開港した横浜が最初だが、東京の開市で明石町と鉄砲洲が居留地になった。欧米のキリスト教各派の教会やミッションスクール、病院などが相次いで開かれた。外国人の往来が盛んになるのを当て込んで西洋風の立派な築地ホテルが1867年に開業したが、5年後に火事で消失した。そのホテルの写真が展示されていたのが印象深い。

 築地7丁目の寿司屋で昼食を摂ったあと、明石町資料室を訪ねた。老舗の割烹料亭「つきじ治作」の近くの中央区明石町区民館の中にある。明石町資料室は明石町に40年暮らした清水正雄さん(85)が開いた築地居留地に関する資料館である。清水さんは「東京はじめて物語―銀座・築地・明石町」の著書もある。独力で築地居留地について調べ、集めた史料を展示している。ベニンホフ博士について訊ねると、夫人のM・M・ベニンホフがアメリカン・スクールの教師をしていたことをすぐに思い出し、さまざまな資料を出してきて米国バプテスト教会の場所なども教えてくれた。展示品の中には大隈重信が外務大臣のときに、靴の製造法を学ぶために渡米した職人に出したパスポートもあった。ベニンホフが奉職していた東京学院の市谷左内坂の校舎の写真も見ることができた。

 資料室を後にして、隅田川沿いを歩き、居留地跡の30番地を訪ねた。そこは今はマンションになり、かつての掘割も埋め立てられて往時の面影は微塵もない。

 地下鉄有楽町線新富町駅から市谷に出て左内坂を上がった。東京学院の跡を見る。ベニンホフはのちに東京学院の院長も務めた。防衛省の近くで、今は個人の住宅と会社のビルになっている。回りもマンションやビルであるが、明治の当時ならこの丘の上から神田川を挟んで都心部の眺望が素晴らしかったのではないかと思われた。市谷左内町から外苑東通りに出て、牛込柳町交差点を過ぎてさらに行くと、晴和病院がある。そこが弁天町友愛学舎があった場所である。写真で見ると、今の外苑東通りに面しており、道路から少し坂を登った台地に木造3階建ての友愛学舎と木造2階建ての洋館の宣教師館、庭にはテニスコートもあった。晴和病院も道路からわずかに坂を登るかたちになっており、それが当時を偲ばせてくれた。

 弁天町から鶴巻町へ向かう途中、早稲田通りの手前を左に入ると、夏目漱石終焉の地という小公園があり、そこで休憩。富永直樹のの漱石の胸像があった。ここは漱石が死ぬまでの10年を過ごした最後の居宅があった所だと説明板があった。

 最初の友愛学舎があった鶴巻町275番地は今は千代田館新館という集合住宅になっていた。周りは民家が立て込んでいる。早稲田大学の大隈庭園のすぐそばであった。ここからタクシーで諏訪町へ。諏訪町は戦争中に友愛学舎が苦難の時代を過ごした場所である。

 国際情勢が悪化して1940年にベニンホフ夫人が帰米し、翌41年にベニンホフも帰米することになる。友愛学舎の舎監は学生時代をここで過ごし、早大卒業後は奉仕園でベニンホフの仕事を手伝っていた向谷容堂氏がベニンホフの後を継ぎ、さらに17年に向谷氏は早稲田奉仕園総主事となった。前年末の日米開戦で、このままでは奉仕園の土地や建物は軍部に接収される恐れが出てきた。そこで奉仕園の施設を早稲田大学に売却することになった。早稲田大学は戦争の激化によって石油技術者を育成するために石油学科を新設することになり、その候補地として早稲田奉仕園が挙がったのである。友愛学舎の舎生の生活の場がなくなるので、諏訪町の橋爪邸を早稲田大学が買い上げ、友愛学舎はここに移転した。そして、戦後1947年、大学からの返還を求める交渉が始まり、1949年に早稲田奉仕園は今の地に戻ることができた。諏訪町友愛学舎は豪壮な日本家屋で敷地も大きかったという。諏訪神社の裏手、早稲田通りに近い場所であった。1945年4月13日の東京大空襲では、敷地内に焼夷弾が落ちて火の手が上がったが、舎生が協力して建物を守った。周りは焼け野原となっていたという。友愛学舎の跡地は高級マンションになっていた。

 私は学生時代に先輩から友愛学舎の歴史について話には聞いていたが、実際にその場所を訪ねたのはこれが初めてである。これらのことを調べている百年史編纂チームの村上さんに案内してもらったのだった。

 ちなみに私が友愛学舎に入ったのは、向谷容堂氏がここの総主事をしていたからである。向谷氏は今の兵庫県香美町射添の出身で、旧制豊岡中学の卒業生である。同郷で高校の先輩に当たる。中学から高校にかけて私は豊岡のキリスト教会に通っていたので、早稲田に入ったとき、教会の長老から向谷さんを訪ねて行くように勧められたのである。向谷容堂氏は1968年に亡くなった。(2007/04/20)

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Last Update:2007/04/20
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