西域遊記
西域遊記 1985/08/19−31 (その1)
東京−北京−ウルムチ−カシュガル−ウルムチ−トルファン−ウルムチ−上海−東京
7年ぶりの北京
1985年8月19日、月曜日。16時45分成田発北京行き中国民航CA930便のジャンボジェット機はほぼ満席だった。乗っているのはほとんどが日本人である。夏の中国は日本人観光客で賑わうとは聞いていたが、これほど多くの人が中国を訪れるのかと軽い驚きさえ感じる。そういう私自身もそのひとりなのだ。
今回の私の旅は突然実現したようなものだった。2年間単身赴任した大阪勤務が終わって、8月16日付で東京の本社へ戻ることになった。そのための約1週間の転勤休暇ともう1週間の夏休みをまとめて取ることを、直前になって部長が許してくれたのである。私にしても1度に2週間もの休暇が取れるというこんなチャンスは、これからは当分はないだろうと思うと、せっかくの機会を逃す手はないとの思いに駆られた。
6月ごろから家人は、この夏にはどこか外国へ旅行する計画を立てていた。その候補のひとつが、このシルクロードの旅であった。私は降って湧いたような休暇に、なんの準備もなく家人の計画に乗ったのである。
上海を経由して北京に着いたのは午後9時50分。時差は1時間だから、6時間かかったことになる。
私が中国を訪れるのは2度目である。1978年5月に、総評の訪中団について2週間中国を旅行した。このときは横浜から「日本丸」という船で天津に行き、汽車で北京へ。北京市内や八達嶺などを回って、天津に戻り、また船で上海へ行った。上海では黄甫江に接岸したその船をホテル代わりにして宿泊し、帰りはそのまま博多へ戻った。
あのころの中国は華国鋒主席の時代で、江青ら極左的な4人組が逮捕されてまもなくだった。どこを訪れても人々は4人組の被害を口々に叫んでいた。このときの印象は総評の機関誌「月刊総評」に書いた。
それから7年。北京の空港は今度が初めてだが、日本の協力で建てられたという空港ビルは立派なもので、夜遅いにもかかわらず、ビルの中は人があふれていた。荷物が出てくるまでに1時間はかかり、バスでホテルに向かったのは深夜だった。
北京市内までの長い自動車道路を過ぎて、街に入ると長安街の広い通りに出た。暗い夜中なのに道端にたむろする人影が見える。家の中が暑いので涼を求めて戸外で夜を過ごしているのだ。
バスのそばを単車の後に女の子を乗せて腰につかまらせた赤いシャツの若者がものすごいスピードで走り抜けて行った。聞いてはいたが、7年前と大きく変わった中国がうかがわれた。
ホテルは北京市の南西郊外、一面の畑のなかに建っていた。京豊賓館といい、人民解放軍のホテルである。ここへ着いたのは深夜12時を過ぎていた。広い食堂のすみに用意された軽い夜食を摂るのも早々にして部屋へ入った。家人と2人で部屋に入るとシングルルームであった。フロアディレクターに2人用の部屋に替えてもらうように頼みに行ったが、言葉が通じない。ツアーコンダクターの井本さんを探して、彼女から話してもらい、落ち着いたときには午前1時半を回っていた。
翌朝6時に目が覚め、部屋の窓から外を眺めると、中国特有の靄がかかったような朝だった。畑のなかの道を通勤の人々が急ぎ足で歩いていく。
食堂へ下りていくと、テーブルはすっかり埋まり、宿泊客が朝食を摂っていた。やはりほとんどが日本人である。北京にも数多くのホテルが建てられつつあるが、夏の間はどこも満員でホテルが足りず、ここのような解放軍の施設までが観光客用に臨時に転用されているのだという。その旅行者の大部分が日本人なのである。
この食堂で思わぬ人と偶然出会った。作家の真継伸彦氏である。浄土真宗の仏教者でもある彼は知り合いの寺の人たちとやはりシルクロードへ旅行するのだという。再会を約して別れたが、これだけ多くの旅行者がいるなかで知人に会うというのも、日本人の多さを思わせて思わず苦笑させられたのだった。
私たちのグループは13人だった。教師が多く、ほかに退職した医師、編集者もいた。女性が7人、男性は6人である。この朝、飛行機で北京からウルムチへ飛ぶことになっていたが、8人分しか座席が予約できておらず、5人が北京にもう1泊することになった。私たち夫婦は残ることになった。先発隊は朝食を終えると早々に出発して行った。
彼らが出て行くとまもなく、中国旅行社から若い2人のガイドがやって来て、わびを言った後、タクシーで北京市内を案内してくれることになった。2台のタクシーに分乗して市内に向かった。途中の道端で青空市場が開かれていて賑わっていた。中国ではこれを「自由市場」と呼び、最近各地で開かれるようになったそうだ。農民の生産性を上げるために、自留地を持つことが認められ、そこで作った農産物を自由市場で売って、利益を個人の所得にすることができるようになったのである。それまでは売ったものを直接個人の所得にはできず、所属する人民公社の収入になり、個人は人民公社から給料として決まった額がもらえるだけだった。
自由市場には、野菜や肉、卵、漬物、生きたアヒルや鶏、花などの農産物から、漢方薬、衣料品、靴やかばん、それにサングラスやスカーフまで、およそ日常生活に必要なものはほとんど何でもある。靴や傘の修理もしている。のこぎりの研ぎ出し屋もあれば、自転車のパンク修理屋も出ている。活気にあふれ、日本の地方都市の朝市とそっくりである。私たちも車から降りて、店をひやかして歩いた。
自由市場の出現は庶民の生活に活気とうるおいを与えているように見受けられた。
7年ぶりの北京はいたる所で大きく変わっていた。自由市場の出現もそうであるし、昨夜のカップルで単車を猛スピードで飛ばす若者の出現にも驚かされたが、天安門に近い西長安街の、かつて文化大革命の紅衛兵による政治的な壁新聞が張られていた掲示板のほとんどが、ソニーや東芝などの日本企業の派手な広告ポスターに代わっているのも驚きであった。これではいかに日本企業が「日中友好」を叫んでも、中国を経済侵略していると中国人に思われても仕方がないのではないかと思えるほどである。
中国政府としては、日本の進んだ電気製品やコンピューターなどによる未来のばら色の暮らしの姿を国民に見せて
「君たちももっとがんばって働きなさい。そうすればこんなにすばらしい生活ができますよ」
と、未来への憧れの気持ちを刺激して生産性を上げようとしているのだろう。しかし、これではあまりに露骨すぎて、かえって反発を招きはしないか。
数年前、映画担当だったとき「中国映画祭」が東京で開かれ、そこで上映された1本の作品を思い出した。題名は忘れたが、上海の若いOLの恋を描いた風俗喜劇で、彼女が住んでいるのは新しい鉄筋コンクリートのアパートで、家電製品を揃え、テレビの語学講座でフランス語の会話を勉強し、当時ではまだ珍しかったはずの華やかなドレスを身に着けていた。そんななかでいかにも中国的だと思ったのは、彼女が通勤に使っているのが最新型の自転車だったことである。
こういう生活がそのころの若い中国人のあこがれなのだろうとはよくわかった。日本でも終戦後この種の映画が数多く作られたし、戦後の貧しい時代にアメリカ映画で見るアメリカ人の暮らしにあこがれて、ああいうふうな暮らしがしたいという思いから、戦後の日本人は一所懸命に働いたのだった。そのために私たちは、あるときは外国からエコノミックアニマルとの不名誉な呼び方までされたし、今日までそうやって高度成長に邁進してきたのである。
そうは思っても、この中国映画を見たとき、その製作意図が透けて見えるのが私には気になった。それまでの中国映画にはたとえば少し古いが「白毛女」のようなすばらしい作品もあった。中国映画祭でこのとき見たのはそれほどの作品はなかったが、この映画を見る3年前に初めて中国を訪れ、文化大革命直後のこの国の人々の姿を見ていただけに、こんな映画を見させられる人々の気持ちのほうが気になったのだった。
1976年に毛沢東の死去後党主席となり、4人組の逮捕によって文化大革命に終止符を打った華国鋒が、復活したトウ小平に1981年に追われ、新しい体制になって、中国は社会主義建設の哲学を大きく変えたように見える。それまでのこの国の基本的な哲学は毛沢東のいう「自力更生」であった。そして、それは「質素」を価値としてきた。ここへきて今度は「贅沢」に価値観を転換した言えるかもしれない。
10億人の人間の生活を保障し、アメリカ、ソビエト、日本といった大国に対して覇を競わねばならない国際情勢のなかで、国の力を強めねばならないという問題もあろう。そのためには低い生産性を克服して上昇させなければ、国家の力は前進しない。生産性を上げるためには個人の物質的欲望を刺激するのがいちばん手っ取り早いと考えたのであろうか。
欲望で成り立つ資本主義社会では当然なことであるが、社会主義も結局は同じであったというのだろうか。
北京の変わりようを見て、そんなことを考えさせられたのだが、帰国してしばらくしたら、あの掲示板の日本企業の広告は取り除かれて、新たに生産性を上げるための政治スローガンが大きく貼り出されたという報道があった。9月に大学生らの反日デモが天安門前広場で行なわれ、中国人の国民感情を無視せんばかりの日本企業の広告に批判が出たようであった。
(続きへ)
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Last Update:2004/09/19
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