旅は道連れ

小田原・曽我梅林      2006/02/16



 曽我梅林に行ったことはあるが、ここへ観梅に行ったことはない。文芸記者時代に、作家の尾崎一雄さんが曽我谷津に住んでいた。雑誌に連載していた「あの日この日」という文学的回想録が単行本になったので、インタビューに小田原の自宅を訪ねたのである。年表を見ると。1973年に単行本が出ているから、もう33年も前のことである。尾崎さんは1983年に亡くなっているから、その10年前である。あのときの記憶はもう定かではないが、林の中にお宅はあった。奥さんと2人暮らしであった。縁側で日を浴びながら飄々とした尾崎さんの話を、2時間ほど聴いた。奥さんがつくった梅干を甘く煮たようなものを出されたと記憶している。

 そのときのおぼろな記憶から、お宅の周りには梅の木がたくさんあったように思う。それで曽我梅林はたくさんの梅の木がまとまって、大きな林をつくっていたように思っていた。それいらい、いつかまた梅花の季節に曽我梅林を訪ねてみたいと願ってはきたが、その機会はずっとなかった。

 この1月に高校時代の同級生3人と、正月開けの景信山に登って、シモバシラノキを見て、陣馬山へ縦走、相模湖畔の藤野へ下りた。そのときに、同行の京極さんから2月に曽我梅林に梅を見に行こうと提案があった。そして新松田の松田ハーブガーデンに早咲きの河津桜も楽しもうという。私ともう1人の同行者堀内さんは一も二もなく賛成した。そして、田中さんに企画をお願いしたのである。田中さんは快く引き受けてくれて、今日の散策となった。

 ところが、開催中のトリノ五輪のテレビ中継を見ていて、床に就くのが遅くなってしまった。目覚まし時計を6時にセットしたはずだったが、何を間違ったのか、鳴ったのは7時だった。8時10分新宿発の小田急線急行に乗ろうと、堀内さんと川越から来る宮崎さんと待ち合わせていた。これでは、とても間に合わない。顔も洗わず、その辺にあるものを手早く身に着けて、家を飛び出したのは7時10分。さいわい、最寄り駅でも乗り換えの巣鴨でもホームに着くと同時に電車がやってきて、7時55分には新宿駅に着いた。キオスクで朝食用のおにぎりと弁当を求めて、小田急線のホームに上がった。雨模様である。

梅花
  曽我梅林で尾形さん撮影

 9時36分、新松田着。JR松田駅に行くと、田中さんがいて、まもなく10人がそろった。岩沢、川上、小林、水口の4人は直前に体調不良などで不参加。金澤さん、百合岡さんとは久しぶりだ。駅前から松田ハーブガーデンへの送迎バスが出ているが、桜が咲いていないのでライトアップはしてないという。河津桜は諦めて、タクシーで曽我梅林に向かった。タクシーを降りると、低い山の山麓に集落が広がっている。家々の間のあちこちに小さな梅林があり、梅は六分咲きといったところだろうか。集落を中の道をぬって山の方へ上がっていくと、瑞雲寺に出た。本堂の前に売店があるが、雨模様で観梅客の姿もなく、売店はシートをかぶっていて開いてはいない。本堂に入ると、初老の男性がストーブをそばに坐っていた。地元の人たちの墨絵などの色紙を展示販売している。境内には、蝋梅や龍舌蘭など珍しい木が植わっている。上の墓地に楊柳があると書いてあるので行ってみたが、みつからなかった。

 集落の道には、「Bコース」という張り紙がある。舗装した道だが観梅をかねたハイキングコースになっているらしい。中河原梅林では白梅、紅梅があちこちに咲き、近くにはみかん畑もあって、夏みかんの大きな実がさがっている。三島神社からさらに原梅林、別所梅林をめざして歩いた。宗我神社の裏に出た。曽我郷の鎮守で郷社とある。曽我神社でなく宗我神社とあるのは、社殿に置かれていたしおりによると、祭神にちなむものだとある。祭神は宗我都比古、宗我都比女。1028年の創建で、奈良橿原曽我の式内社宗我都比古神社を勧進したものらしい。小田原の曽我は、蘇我氏の部民がこの地に定住したことによるものだそうだ。

 宗我神社の大鳥居のそばに、尾崎一雄さんの文学碑が立っていた。「虫のいろいろ」の一節である。

 「富士は天候と時刻によって見じまひをいろいろにする 晴れた日中のその姿は平凡だ 真夜中 冴え渡る月光の下に 鈍く音なく白く光る富士 未だ星の光りが残る空に 頂近くはバラ色 胴体は暗紫色にかがやく暁方の富士」

 大鳥居をくぐって左へ行くと、城前寺がある。ここは1193年、父の敵工藤祐経を討った曽我兄弟の菩提寺である。境内のあちこちにその記念碑が立っている。今から811年前の建久4年(1193)5月、源頼朝は、白糸の狩宿に宿所を置き、今の御殿場市から裾野市一帯で富士の巻狩を催した。その巻狩の最中に、曽我十郎祐成と曽我五郎時致の兄弟が父の敵工藤祐経を討ったのである。降りしきる雨のなか十郎・五郎兄弟は、工藤祐経の宿所に押し入って祐経と王藤内を殺害した。兄弟は騒ぎを聞きつけて集まってきた御家人に捕らえられ、十郎は新田四郎忠常に討たれ、五郎時致は女装した五郎丸によって捕らえられて翌日処刑されたという。

 曽我兄弟のあだ討ちの理由は次のようなものだ。工藤祐経は幼くして父を失い、その領地は従兄に当たる伊東祐親(曽我兄弟の祖父)が預かり、祐親は祐経から領地(伊東の荘)の実権を奪ってしまった。祐経は、そんな祐親の援助を受けて育ち、成人すると祐親の娘を妻として迎えた。やがて祐経は伊東の荘の正統な領主は自分であることを知り、祐親に領地の返還を迫ったが、祐親はそれに応じなかった。しかも、祐経は妻(祐親の娘)との仲も裂かれてしまった。

 そんな中で、安元2年(1176)10月に祐親が近隣の武士を集めて伊豆奥野で狩を催した。その帰り道で祐親をねらって、祐経は家臣の大見小藤太と八幡三郎に弓を射させた。矢は祐親には当たらず、傍らにいた息子の河津三郎祐泰に当たり、祐泰はその場で息絶えた。

 祐泰には五歳の一万丸と三歳の筥王丸の兄弟がいた。祐泰の死後、妻満江御前は兄弟を連れて曽我太郎祐信へ嫁いだ。曽我の荘で育った兄弟は、元服して兄は曽我十郎祐成、弟は曽我五郎時致と名乗った。父とは2人の実父河津三郎祐泰のことである。

 兄弟の仇工藤祐経は頼朝の寵臣であった。祐経を討つということは、頼朝を中心とする東国の武家秩序に対する反逆でもあった。母の満江御前はあだ討ちをやめるよう説いたが、2人の父への思慕は強く、あだ討ちへの志はやまなかった。2人のあだ討ちは死を覚悟しての行動であった。五郎は処刑の前に、頼朝の面前であだ討ちの理由を語ったと『吾妻鏡』は伝えている。

 「祐経を討つ事父の尸骸(しがい)の恥を雪(すす)がんがために、ついに身の鬱憤の志を露はしをはんぬ。祐成九歳、時到七歳の年より以降(このかた)、しきりに会稽(かいけい)の存念を挿(はさ)み、片時も忘るることなし、しかうしてつひにこれを果たす。」

 城前寺の境内には、著名な歌人や俳人の碑があった。

 曽我神社 曽我村役場 梅の中   虚子

 この句の子供のような天真爛漫さに思わず笑ってしまった。  城前寺をあとにして、畑の中を通っていくと、別所梅林に出た。この梅林が一番広いようだ。中央に売店や休憩所がある。食堂で甘酒を買って昼食を摂った。曇ってはいるが、もう雨は降っていなかった。ここからは晴れていれば富士山が眺められるそうだが、今日の天候ではそれはかなわない。

 昼食を終えて、梅林を散策しながら下曽我駅に出た。御殿場線の小田原行きが来るまでには30分ほど間がある。駅前に小田原駅行きの路線バスが停まっていた。運転手は若い女性である。小田原駅まで30分で行くというので、これに乗った。小田原からは電車で箱根湯本へ。湯本はウイークデーにもかかわらず、さすがに観光客が多い。

 田中さんが早雲寺の日帰り温泉「弘法の湯」に行くことを提案する。駅前の早川に架かる橋を渡り、右に行けば早雲寺公園に出るが、これは「健脚向け」とあり、左は「やや健脚向け」とある。右に道をとった。やや急な階段を10分ほど上ると、早雲寺公園に出た。林の中にあずまやもある。そこから少し下ると、早雲禅寺である。北条早雲の菩提寺である。臨済宗大徳寺派で、境内はきれいに掃除されていた。ここから「弘法の湯」は数分だ。湯客も少なく、ゆったりと湯に浸かって出てくると、ちょうど送迎バスが出るところで、これに乗せてもらったら、すぐに湯本駅に着いた。

だるま
  小田原だるまで=尾形さん撮影

 小田原に戻ったのは午後4時過ぎ、駅前からまっすぐに15分ほど歩くと、「だるま」に着いた。明治26年創業の老舗料理店で、唐破風入母屋造りの建物は国指定の有形文化財に指定されている。ブリ漁で設けた網元が開いた店である。小田原在住の作家川崎長太郎らがこの店を愛してよく通ったと聞いたことがある。以前に何度か来ていたが、また行ってみたいと、田中さんに声をかけておいたのだ。

 前に来たときは母屋の入れ込みの座敷であったが、今日は2階の書院風の広い座敷に通された。料理は金目鯛の煮付けにホウボウなどの刺身。甘く煮た、久しぶりの旬の金目が美味かった。風邪で梅林散策はキャンセルした川上さんが、百合岡さんに電話で呼び出されて合流した。彼が来ると座がにぎやかになる。おいしい料理に気の合った仲間とくれば楽しい時間を過ごすことができる。愉快な時であった。

 7時過ぎ、店を出て小田原駅でJR組と小田急組に別れた。利根川、宮崎、堀内、百合岡さんと小田急に乗ろうとしたら、相模原で人身事故があって、いつ発車するかわからないという。「えい、ままよ」とばかりに乗ったら、間もなく発車した。だが、新宿に着いたら午後9時を過ぎていた。

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Last Update:2005/06/22
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