旅は道連れ

沖縄・西表島・辺野古の旅      2005/10/19−23 (その1)



2005/10/19  第1日

 10月に沖縄に行くことはこの3月に決めていた。石垣島の作家、仲若直子さんがこの3月に西表島星立(干立)で小さなホテルを開業した。3月に援農隊30周年で与那国島を訪れた際、石垣島で会った仲若さんに「今回は寄れないけれど、秋には行きますよ」と言ってあったのである。援農隊30周年記念式典では、私がツアーリーダーとなって、グループ旅行を組んでいたから、1人だけ別行動をとる訳にはいかなかったのだ。

 それに、今年は私が勤めていた共同通信社の那覇支局が開設されて45周年に当たる。秋にはその記念パーティーが那覇で開かれる可能性があった。これに合わせて西表にも行こうと考えたのである。その後、45周年記念パーティーは10月21日に決まった。毎週火曜日は大学の授業があるから、19日の水曜日から24日の月曜日まで空いている。ただ月曜日は授業の準備があるから、日曜日に帰京すればよい。そこでこれに沿った計画を立てた。

 航空機代は早く日程を決めれば、早割とか超割の安いチケットが手に入る。8月にANAの超割を申し込んだ。羽田−石垣直行便を使うと時間も有効に使える。航空機代は計3万7000円余りで済んだ。
 だが、超安チケットでは便が制限される。石垣直行便は羽田発が午前6時45分。自宅からは始発電車でも間に合わない。それで前夜は羽田に近い穴守稲荷のビジネスホテルに泊まった。そして、今朝5時に起きて羽田に行った。6時前に着いたのだが、構内はかなりの旅行者がいた。こういう早い時間なのにこれほど多くの人がいるとは意外だった。みやげ物店やレストランなどは開いていないが、弁当の店やコーヒースタンドなどはすでに開いている。弁当の店でトン汁と弁当を買って、チェックインした。

 飛行機の中では、外間守善著「私の沖縄と沖縄学」を読んで過ごした。石垣島には9時55分に着いた。快晴である。空港から西表島のホテルに電話したら、仲若さんは石垣島に行っているという。仲若さんとは携帯電話で連絡がついた。所用を済ませた後、昼過ぎに離島桟橋で落ち合うことになった。バスで離島桟橋に行ったが、友寄英正さんや八重山毎日新聞、東田盛正さんらにも連絡をとりたいと思ったが、会う時間がない。桟橋に近い山田書店で池間苗著「与那国語辞典」と大浦太郎著「密貿易島」を買い求めた。

 桟橋のベンチで外間さんの本を読んでいると、12時40分ごろ仲若さんがやって来た。弁当とお茶を買って、13時発の高速船あんえい11号大原行きに乗った。大原は西表島の東部の拠点である。
 星立に行くには、西部の上原か船浦が近いのだが、ここ10日ほど西部便は欠航が続いているという。10月に入って北風が強く吹くようになり、東シナ海の波が高くなったからだ。西表島は北東から西にかけて東シナ海に面している。大原のある南東側は東隣りに小浜島があり、南には黒島、新城島が並び、その間を行くので比較的波が穏やかだ。

 安栄観光の高速船は35分で大原に着いた。大原からは同社が島内各地区まで巡回送迎バスを出してくれる。星立地区までは車で1時間近くかかるから、これはありがたい。ホテルに着いてザックを下ろすと、すぐ目の前の浜に出た。リーフの中は波が穏やかに打ち寄せていたが、リーフには大きな白い波が立っている。浜にはグンバイヒルガオが一面に咲いていた。ゆったりと寄せる波の音を聞きながら、紫色のグンバイヒルガオの咲く浜を歩いていると、離島に来たという感じがしてきた。

 仲若さんが車でグルッと回ってくれた。彼女の愛犬ゆうも同乗した。西表島を訪れたのはじつは今回が初めてである。八重山諸島を初めて訪れたのは1974年だから30数年になるが、どうしたわけか西表島を訪れたことはなかった。敬愛する岡部伊都子さんのゆかりの深い島であるにもかかわらず、あの竹富島にもいまだに行ったことはない。私が八重山を訪れるのは、サトウキビ刈り援農隊の与那国島ばかりである。与那国島には毎年のように行っている。そのほかの島では新城島、小浜島、波照間島だけである。

 初めて来た西表島は他の島に比べると、大陸の風情を感じさせる。山並みが遠く幾重にも重なって眺められるからだろう。浦内川や仲間川は豊かに水をたたえている。県木の琉球松が多いのが目についた。琉球松は黒松で、沖縄本島では北部に行くと多いが、多くは松喰い虫の被害に遭って激減してしまった。
 以前、仲若さんが石垣島にいたときに、彼女の父君が戦後早くに琉球松を植林した山に彼女の案内で行ったことがある。沖縄県の最高峰、於茂登岳に近い石垣島のサッカー場の近くであったと思う。豊かな松林の中を歩いて、鬱蒼と繁る琉球松に感嘆したものだ。

 道路には、イリオモテヤマネコとの共生を訴える立看板が各所に立てられている。自動車道路にはヤマネコに道路を横断するのに気をつけようという表示も多い。夜になると、山から下りてくるのだそうだ。イリオモテヤマネコを旅行者が目撃することはめったにない。

 イリオモテヤマネコの剥製などが展示されている野生生物保護センターに立ち寄ったが、午後4時で閉館していた。国道までの道で、犬のゆうを車から降ろして、鎖を解いたら、ゆうは大喜びで車の前を走り出した。道路わきの茂みに鳥を見つけて、そちらに駆けて行った。草むらを飛び跳ねて鳥を追う。まるで小鹿のようである。

 古見の近くにサキシマスオウノキの群落があった。板根と呼ばれる巨大な扇子を開いたような根をもつサキシマスオウノキは写真で見て知っていたが、実際に眼にすると迫力がある。湿地に生えるらしい。群落の入口に御嶽があった。神聖な植物なのである。御嶽は八重山ではオガンという。聖なる拝所のことである。サキシマスオウノキの板根は昔は船の舵にしたり、まな板などにして日常生活に利用したりしたそうだ。

 古見から大原は近いので、船着場に行った。今日の午後の便で、仲若さんが送った荷物が着いているはずなので、それを受け取りに行った。ホテルで使うものらしい。それらを積み込んでホテルに戻った。

 食事までの間、また浜辺を散歩した。夕方になって穏やかな天候になってきた。波は静かになり、浜の西側に祖納集落の先に岬が突き出ている。東側のヤエヤマヤシの群落がある星立自然保護区域に挟まれたこの浜は湾の奥に当たる。正面にリーフが一本の線になって、そこに打ち寄せる波が白い。夏は真っ赤な夕陽がその向こうの水平線に沈んでいくのが素晴らしい眺めだそうだが、今日は祖納の岬に沈んでいくのが眺められた。浜に坐って、ゆっくりと打ち寄せる波の音に耳を傾けていると、南の島のゆったりとした時間の流れに身をまかせている豊かな感情に包まれてきた。

 友人の森口豁さんが昔作ったテレビ・ドキュメンタリー『島分け・沖縄鳩間島哀史』を思い出した。鳩間島は西表島から近い。過疎化で子供がいなくなった小学校が閉鎖されるのを避けようとして、本島などから子供を預かり、学校閉鎖を免れた。そのことをテーマに、この島の暮らしを描いた森口さんの作品には、やはり浜にゆったりと打ち寄せる波に託して、南の島の悠久の時間の流れが見事に表現されていた。私は森口さんに初号を見せてもらって、そのことを感じたのだが、放送された作品は短縮されて、あの悠久の時間のイメージが薄まっていた。放送時間の関係で短縮されたのだった。

 この作品はのちにルポ『子乞い・沖縄孤島の歳月』となり単行本として刊行された。そして先ごろ、『瑠璃の島』というテレビドラマになったが、残念ながら見ることができなかった。南東の悠久の時間の流れをどのように表現しているのか、興味を引かれるのだが。
 南の島へはるばるとやって来て、この時間の流れを味わうのは最高の贅沢ではないだろうか。駆け足で島々を巡り歩くツアーでは決して味わえない、真の豊かさがそこにはあるように思う。

 今夜の宿泊客は、外国人のカップルと北海道・旭川から来たという若いカップル、それに私である。外国人カップルは夕食を外で摂るというので、客は3人だ。コックに暇を出したので、仲若さんが料理を作ってくれた。魚の唐揚げ、地元の山野草のてんぷら、マグロの刺身、おひたし、もずく酢などである。仲若さんの料理は初めて口にしたが、なかなかやわらかい味付けでおいしい。彼女と旭川の若者たちも一緒になって、泡盛で楽しい食事になった。海からは涼しいそよ風が顔をなでる。泡盛は石垣島の請福酒造のKANNA。25度の古酒である。2人で1本を空けたら12時に近く、そのまま部屋へ戻った。

2005/10/20  第2日

 目が覚めたら8時だった。浜を散歩し、朝食を済ませて、9時過ぎに車にゆうを乗せて出発。今日は午前中、浦内川を観光船でさかのぼり、軍艦岩から山道を歩いてマリュウドの滝とカンピレーの滝を見に行くのである。旭川のカップルも同行した。浦内川河口に近い乗船場は車ですぐである。観光客30人ほどがすでに乗船を待っていた。雲はあるが、日が照って暑くなりそうだった。

 若い女性が船を操りながら、マングローブなどの眺めを説明してくれた。ヒルギのマングローブやヘゴの木など、いかにも亜熱帯特有の植物相が目立つ。浦内川は河口からしばらくはゆったりとした流れが続いている。途中、切り立った断崖の中腹に見事な琉球松が、崖にへばりつくようにしていた。

 30分ほどで観光船の終点、軍艦岩に着いた。岸の岩を利用した小さな船着場である。ここから上流は急に岩が多くなり、船はこれ以上上流へはさかのぼれない。ここで船を下りた。ここからは山道を歩いて40分ほどでマリュウドの滝に出るという。最初は石灰岩を敷いて登山路が整備されていた。

 5分ほどのところにトイレ付きの休憩所もある。月が浜に先ごろ開業したリゾートホテル「ニラカナイ」の研修生という名札をつけた若者数人が休憩をとっていた。月が浜の近くの道路には、「西表の自然を壊すニラカナイ反対」という大きな立看板が何箇所かに立てられていたのを見た。問題の施設である。若者はいずれも本土出身者らしく、そんな島の事情は知らないで就職したのかもしれない。

 私たちはそのまま山道を進んでいった。ゆうは楽しそうに軽快に歩いている。ゆるやかな登りで快適ではあるが、だんだん暑くなってきた。明け方の雨のせいか湿度も高い。ハブはいそうもなかったが、わきの潅木にヤマヒルがいた。赤みがかった大きなミミズのようだ。触らないように注意した。

 40分ほどで肩に出て、右へ階段を登って行くとあずまやがあり、そこからマリュウドの滝が遠くに一望できた。心地よい風が吹いてくる。マリュウドの滝は「日本の滝百選」にも選ばれている。その最南端の滝である。幅は40m、高さは15mぐらいだろうか。左岸には断崖が迫っている。

 写真を撮って、今度はカンピレーの滝をめざした。10分ほど行くと、マリュウドの滝への道との分岐に出たが、そのままカンピレーの滝へ向かった。15分ほどで岩場に出た。川には岩場が広がっており、その向こうに高さはないが、幅の広い滝がゆったりとした感じで広がっていた。上流の方向には西表の深い山並みが幾重にも重なっている。西表の山々が深いことがよく分かる。

 そばを蝶々が何匹も舞っている。仲若さんがリュウキュウアサギマダラだと教えてくれた。10分ほど眺めを楽しんで、来た道を戻った。マリュウドの滝の方へ下りてみた。ここも両岸に岩が広がっている。濡れているので滑りそうだ。2つの滝を眺めて、軍艦岩の船着場に戻ったのは正午前だった。ちょうど2時間の山歩きである。汗拭きようのタオルを忘れてきたので、私は汗びっしょりだった。

 迎えの観光船で下っていくと、2人乗りカヌーの大群が下流から登ってきた。修学旅行の女子高校生のようである。上手に操っているのもあれば、うまく櫂を操れず、どんどん遅れるのもいる。それでも私たちが手を振ると、向こうからも手を振って応えてくる。そういえば下山の時に、男子高校生のグループとすれ違った。男子生徒が山歩きをし、女子生徒がカヌー体験をしたのだろう。修学旅行にこういう企画を加えるのもいいものだと思われた。

 船着場から車で5分ほどの星砂海岸の食堂で昼食にした。食事を終えて、旭川のカップルと別れた。彼らは今夜は大原に泊まり、明日那覇に戻るという。私たちは船浮に行こうと白浜まで行ったが、午後の船が出た後で、この後は夕方までない。それで、浦内川河口に近いところに工房を開いている石垣金星・昭子さん夫妻のところへ行った。

 金星さんは不在だったが、昭子さんは広い庭の木陰で近所の女性や子供たちも加わって20人ほどで草木染の講習をしていた。私たちを工房に招き入れてくれて、しばらく歓談した。ドイツにいる私の姪・岩本順子が以前、ここを訪ねていろいろ世話になったとお礼を言ったら思い出してくれた。

 昭子さんは竹富島の出身だが、東京の美大を出たあと、京都の草木染の人間国宝・志村ふくみさんの下で修業し、その後、西表島で芭蕉布の織りと草木染の工房を開いた。本土からも多くの女性が習いに来ているが、ここではプロの染色家や織物作家を育てている。最近は島の女性も加わるようになって、島の自然や伝統にねざした文化活動にも取り組んでいるようだ。そんな彼女たちの活動はしだいに注目を集めるようになり、テレビでも取り上げられ、龍村仁監督の記録映画シリーズ「ガイア・シンフォニー第5番」にも登場している。30坪ほどの広い工房では、女性たちが染色や機織などをしている。庭の周りには糸を採るための糸芭蕉がたくさん植えられていた。

 やがてご主人の金星さんが戻ってきた。彼も東京の体育大学を出て島で教師をしていたが、本土や那覇の資本が進出してリゾート計画を立てたりして、島の自然環境が危機に直面するのを見かねて、教師を辞めて島の環境保護の運動をするようになったという。かつてイリオモテヤマネコ問題などでも活躍した。月が浜の本土資本ユニマットによるリゾート「ニラカナイ」についても反対運動を組織して「西表島の自然を愛する会」を結成して、自然保護のための裁判闘争を展開している。

 月が浜はウミガメの産卵地であるが、ニラカナイができてから産卵に来るウミガメがめっきり減ったという。裁判は近く結審するそうだが、自然環境を守るということが法的な権利あるいは義務として確立しておらず、判決の内容は楽観できないとため息をついた。

 かつて西表島の診療所に赴任した故下田正次さんのことも話題になった。下田さんは環境庁がかつてイリオモテヤマネコの保護区設定を計画した際、島民の畠や水田など生活を無視した計画を立て、島で反対運動が起こった。下田さんは島民の願いをかなえようと当時の皇太子(今の天皇)に直訴したことがある。ドイツの動物学者ライハウゼン博士がヤマネコ保護のためには、西表島の島民は全員島から出て行くべきだと進言したのに対応した環境庁の計画だった。これはその後、撤回された。

 下田さんは、医者としてのかたわら、焼き物をしたり、伝統工芸などの復活を試みたりしたが、竹富町からはなかなか理解されなかった。金星さんによると、当時から離島では高齢化が進んでいたから、そういうものを盛んにすることで島民の生きていく道を開こうとしていたのだという。しかし当時、下田さんのそういう考えを理解できなかったのだいうのである。それで彼は島にいられなくなり、島を出て石垣島で晩年を過ごし亡くなった。金星さんはそういう下田さんの数少ない理解者だった。

 「あの人は天皇主義者で、思想的には保守的だったが、島のことでは将来を見据えていろんな試みをしていた」と金星さんは言う。

 石垣さん宅を辞して、「ニラカナイ」を見ておきたいと思い、仲若さんに案内してもらった。月が浜の浜のすぐそばに、立派な4階建てのリゾートホテルが建っていた。鉄筋コンクリートのビルに沖縄の伝統的な赤がわらを配した、いかにも沖縄風の建物だが、140室もある、島にしては巨大なホテルだった。駐車場には何台もの車があって、客も入っているようだった。

 計画では、7階建てかのもっと大きな建物になるはずだったが、地元の反対で4階建てに変更したのだそうだ。だが、これでも私にはこの島では巨大に見えた。こういうホテルを八重山各地に10箇所造るという計画だったが、地元の交渉で一応白紙に戻したそうだ。だが、計画をやめるとは確約していないと金星さんは言っていた。

 星立の仲若さんのホテルに戻って、浜を眺めてながら、沖縄の離島のことを考えた。与那国島のことが頭に浮かんだ。あの島も離島の苦しみを味わい続けていることを思った。
 今夜の宿泊客は私だけである。仲若さんの手料理で泡盛を楽しみながら今夜も歓談した。昨日、田圃の畦で採集したエンサイのおひたしや彼女が釣ったというグルクンのから揚げ、豚のしょうが焼きなどだ。ヤマブキの甘酢漬けのようなスンというのも珍しかった。 (続きへ)

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Last Update:2005/10/20
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