エッセー
竹馬の友の死
大晦日で部屋の掃除をしていた昼ごろ、郷里の同級生からTさんが30日午後10時に亡くなったとメールで知らせてきた。Tさんは小学校以来の同級生である。私の実家と同じ町内の住人で、小学校から高校まで一緒だった。高校を卒業すると、彼は京都の大学に進み、私は東京に出たから、それから長くは会うことも少なかった。
彼は大学を出ると、郷里の高校の教師になり、私の姪は彼の教え子である。数年前に退職して、塾を開いて高校生を教えるかたわら、自家菜園の畑仕事などをしていた。高校を退職する時、一般に開放した「最終講義」をしたそうだ。姪は50代だが、久し振りに母校にTさんの講義を聴きに行ったという。大学では定年退官する教授が「最終講義」をする例はよくあるが、高校では珍しい。
子供の頃のことが思い出された。私たちは昭和23年に小学校に入り、29年に新制中学に進んだ。戦後の貧しい時代であった。町内には子供会という小・中学生の集まりがあった。中学生が兄貴分になって、小学生の面倒をみるのである。夏休みの早朝ラジオ体操の出欠を取ったりするのが主な役目だが、地蔵盆、秋祭りなどにも子供たちは参加する。たしか中学2年生の時に私たちの学年がリーダーの役割を受け持つことになった。町内にはTさんのほかにKさん、Mさん、Nさんなどの同級生がいた。
そこで私はTさんと語らって、夏休みの小学生の宿題を中学生が手伝ってやることにした。朝6時半のラジオ体操が終わって、朝食をすませると、町席(公民館のようなところ)に小学生を集めた。夏休み宿題帳を持って来させて、和室に机を並べて昼まで手伝うのである。その中心が、Tさんと私だった。当時は塾などもなく、どの家庭も貧しくて、親には子供の勉強を見てやる暇はなかった。子供に訊ねられても答えられない親も多かっただろう。親たちはたいそう喜んでくれた。私には懐かしい思い出である。この経験が、その後のボランティアの始まりになったのかもしれない。
Tさんにとっては、これが教師になるきっかけになったのではないかと、私は勝手に想像している。数年前にこのことを彼に書いて送ったのだが、彼は覚えていなかったのか、返信には、このことに触れていなかった。
私の郷里は、平成の大合併で10万近い人口になり、市域も兵庫県で有数の広さに拡大したが、当時は3万ぐらいの小さな市であった。市街地の子供は、小学校は一緒でも、中学になると、南と北に二分されて、それぞれ別の中学へ進む。そして、高校になると、ほとんどはまた一つの学校に進んだ。高校には周辺の町村からの生徒も加わるから、1学年450人という大所帯だった。私たちは、この新制高校の12期生に当たる。
12期の同窓会は隔年に開いている。幹事は郷里の豊岡、城崎、日高と京都、大阪、神戸の各在住者の持ち回りである。3年前は豊岡の当番で、日和山・金波楼で行なった。この時の実行委員長をTさんが務めた。私は翌日イベントの一つにハイキングを加えてほしいと提案した。ゴルフ、コウノトリの郷公園から久美浜町の豪商稲葉本家住宅のエクスカーション、それに日高町の阿瀬渓谷のハイキングとなった。ハイキング企画は初めてだったが、30人もの参加があった。梅雨時というのに晴れ上がり、快適な歩行とヤマメや山菜料理の昼食が楽しかった。
昨年6月には、東京の山歩きで霧が峰の八島湿原を歩いたが、これにTさんはKさんと2人で豊岡から参加してくれた。その時は大変元気だったのだが、半年後の今年1月に胃がんが見つかり、胃の全摘出手術をした。心配したが、回復に向かい、秋には氷ノ山の麓を10キロも歩くほどになった。
10月末に彼からメールが来た。それには次のようにあった。
「とても快調です。24日(火)は尾畑鉄男さんの世話で氷ノ山の『大段がナル』の下を往復10キロ歩き、せっかくだからと車で大段がなるに上がりブナの紅葉を見てきました。北に鉢伏山、西に氷ノ山を見て、一緒に行った垣谷先生、妻ともども感動しました。命がのびました。
29日(日)は大阪で『マタイ受難曲』を、30日には奈良正倉院展を妻と鑑賞してきました。『マタイ』を聞くたびに思うのですが、意気地なしで、泣き虫のペテロをはじめとする使徒が迫害にもめげないでキリスト教を広めていけるのはなぜなのか。宗教的信念が鋼のように強いとは思えない。人間的な、鶏の鳴く前に3度も師のことを 否定し、それに気づいて激しく泣く、あまりにも普通の人間と思える人たちが…。いつも感動してしまいます。
豊岡は霧がでて、10時ごろまで日が差しません。鴨が少し20.30羽くらい来ています。アヒルと同じ声で賑やかに鳴いています。」
今年の同窓会は6月に神戸であった。この次の2008年は、私たち東京組が主催して箱根で行なう予定である。神戸で会ったTさんは「東京には必ず行く」と言った。郷里の友人によると、がんは肝臓に転移し、12月になって脳にも転移していたことがわかったのだという。あんなに元気を回復したのに、あまりにあっけない最期に言葉もない。合掌。 (2006/12/31)
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Last Update:2006/12/31
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