山田風太郎記念館
山田風太郎記念館を訪ねる
4月27日朝、山陰本線八鹿駅に降りると、有本夫妻が車で迎えに来てくれていた。昨日までの曇り空から打って変わって、素晴らしく真っ青に晴れ上がり、すがすがしい天候である。
山田風太郎記念館へ向かっていると、有本さんのご主人正彦さんが「せっかくだからと、ヤマザクラを観に行こう」と、八鹿町から関宮町を経て大屋町につながる峠へ向かった。林道を登っていくと、素晴らしく景観のよい場所へ出た。
標高700メートルぐらいだろうか。左に氷ノ山、そこから東へ鉢伏山、妙見山が一望できる。すぐ下の谷にヤマザクラが80本ほどあるというが、標高の低いところでは咲いていたものの、ここまで来ると、まだ蕾だった。それでも眺望は素晴らしくじゅうぶん堪能できた。
そのまま、関宮の山田風太郎記念館へ。記念館は山田風太郎(本名・誠也)が通った関宮小学校の跡地を利用して建てられた、鉄骨平屋建て149平方メートルのこじんまりしたものだが、これができるまでには有本さんら地元町民の努力があった。
有本さんらは平成12年9月に町民有志15人で記念館設立を目的にして「山田風太郎の会」を結成した。しかし、その当時、関宮町では山田風太郎にはまったく関心がなかった。同町の出身と知らない人も多かった。風太郎の会の結成以前に、有本倶子さんは「風の会」をつくって山田風太郎の研究を始めていた。
倶子さん自身、風の会を始める前は、風太郎のことを「くの一忍法」のエロチックな大衆小説の作家ぐらいにしかみなしていなかった。しかし、その膨大な作品を読んでいるうちに、単なる大衆作家ではなく、もっと大きな文学者だと思うようになっていった。そして作家山田風太郎への敬愛の念が高まっていった。
彼女は晩年の山田氏を東京に何度も訪れた。家系を詳しく研究調査した家系図は山田氏も知らなかったことを明らかにしていた。出石の仙石家の家老職につながることを明らかにしていた。また母方は鳥取藩のお抱え絵師で、鳥取城の襖絵はすべてその絵師が描いたものだったことも調べ上げた。
風太郎の会には、同氏の小学校の同級生なども参加してくれた。有本さんのそんな努力を喜んだ生前の山田氏は、資料などの寄付の求めに応じてくれた。そんな資料を集めて「山田風太郎展」を地元で開き、作家の関川夏央氏を招いて講演会も開いた。年に1回の「風の会アンソロジー」は今年3月刊で6号を数える。
町当局は初めは記念館建設に積極的ではなかった。財政が逼迫しているというのがその理由だったが、正直なところ、山田風太郎に理解がなかったのだ。文化科学省に記念館建設の補助金を申請したところ、あっさり数百万円の補助金が付いてしまった。それで町当局も後には引けなくなったのである。昨年度に建設費の町予算がついた。それで昨年11月から建築工事に入り、3月末に竣工。4月1日開館の運びとなった。
今年度は光熱費などの予算だけである。完成した記念館には、山田氏や夫人から寄贈を受けた初版本やさまざまな資料が展示されているが、半数以上は倉庫に眠っている。予算がつかず展示ケースが足りないからだ。専任の担当職員もいない。風太郎の会の会員が交代で入館者の受付をし、説明をする。その意味では、風太郎の会の手作りの記念館である。あれもしたい、これもしたいという思いはありながら、それができないのが現状である。
だが、私はこの山田風太郎記念館は他には見られない意味があると思っている。それは地元の町民有志が集まって、その熱意だけで実現した記念館だからである。自治体からのお仕着せでもなく、地元の有力者や遺族の肝いりの施設でもないからだ。こういう記念館は珍しいと思う。
記念館の維持・発展にはこれからも苦労があると思うが、それを乗り越えて行ってほしいと思った。
有本さんと会員の小谷さんとで関宮町鵜縄のヤマメと山菜料理の店でご馳走になった。ヤマメを養殖しているそうだ。囲炉裏を囲んで食べる山菜やヤマメはなかなかよかった。 (2003/04/27)
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Last Update:2004/10/19
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