ギリシャの空は青いか

ギリシャの空は青いか



 アテネ五輪で連日の日本人選手の活躍に目を奪われる毎日だが、五輪会場の観客席には空席が目立つようだ。女子マラソン・コースの沿道にもアテネ市内はともかく、郊外の多くは人影もまばらであった。

 22日の女子マラソンを実況解説した有森裕子さんは、選手としての自分の体験をもとにしたわかりやすい解説で好感を持った。
「アレム選手の視線が下がったきたでしょ。こうなると腰が落ちて速度がにぶる」とか「先頭を走っていると、後が気になる。沿道の声援で追ってくる人が近いか遠いか判断するんです」「下りでは前傾姿勢のほうがスピードが落ちない」とかを聞きながら見ていると「なるほど」と思うことが多い。

 その有森さんが新聞のコラムで、アテネで会ったあるギリシャ人の言葉を伝えていた。
「五輪開催を正面切って反対はしない。でも、あまりにも商業主義。お金が動きすぎていて好きになれない。興味もない」
「日本に帰ったら伝えてほしい。ギリシャ人が何を考えているのかを。本当のギリシャの姿を」。
 そしてアテネ五輪のマラソンコースについて「アテネの歴史をたどるコースだが、それは素朴で飾り気のないこの国の人の気質に重なって見える」と彼女は書いている。

 私がギリシャについて知っているのは、古代ギリシャの哲学・思想と悲劇や喜劇、新約聖書の世界、そして商業主義が宣伝する青い海のエーゲ海である。それに船舶王オナシス、さらに言えばアメリカ移民の娘であった歌姫マリア・カラス。

 ギリシャを代表する映画監督テオ・アンゲロプーロスの「旅芸人の記録」(1975年)は、それらとはまったく異なるギリシャを描いていた。海は青くはなく、いつも灰色の雲に覆われている。人々の暮らしは貧しい。一見、未来も希望もないように見える。それでも人々はそこに暮らしているのだった。アンゲロプーロスの作品は「アレクサンダー大王」(1980年)「シテール島への船出」(1984年)「永遠と一日」(1998年)を見ているが、そのどれも海は重い曇り空である。

 ほかにギリシャを描いた映画ではマイケル・カコヤニス監督の「その男ゾルバ」(1964年)が印象に深い。クレタ島の寒村が舞台であった。アンソニー・クイン演じるゾルバは少々粗野ではあるが、ギリシャダンスが好きな心優しい男である。女たちにも優しい。戦争体験からくる屈折した内面を持ちながらそれを表には出さない。

 ゾルバがギリシャ人のひとつの理想像であるなら、ジュールス・ダッシン監督の「日曜はだめよ」(1960年)でメリナ・メルクーリが演じた娼婦は底抜けに明るく自由に生きる女だった。しかし、そういう明るく自由に生きるのは、逆説的に言えば、この娼婦のような社会からはじき出されてしまった人間にしかできないことだったのかもしれない。

  ダッシン監督では「宿命」(1957年)という作品も忘れがたい。ギリシャの文豪カザンザキスの長編小説「キリストはふたたび十字架に」が原作で、トルコに支配されていた20世紀初めのギリシャの僻村が舞台である。トルコ軍に村を焼かれた難民が、司祭に率いられて、ある村へとやって来る。
 しかし村の人々はかかわり合いを恐れ、難民を村に入れようとはしない。難民たちはやむなく村の外れでキャンプ生活を始める。ところが村の気の弱い一青年が難民たちのために動き始める。当初は頑なだった村の人々も、徐々に彼の行動に感化され、難民たちに心を開き始める。

 ところが、村の顔役連中はそれが面白くない。そこで青年を暗殺する。そしてついに村は、難民を排斥する顔役たちと、暗殺された青年の遺志を継ぐ人たち、それに協力する司祭を中心とした難民とに二分される。村の支配者たちはこの異分子を殲滅するためにトルコ軍を村に招き入れるというところで映画は終わっている。
 こういう映画から教えられたものを除いて近代ギリシャの歴史を私はほとんど知らない。 (2004/08/24)

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Last Update:2004/10/19
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