深大寺の観月会
深大寺の観月会
「月の会」を主宰している志賀勝さんに誘われ、調布・深大寺の十三夜を愛でる観月会(かんげつえ)に行った。
午後は曇り空だったが、天気予報では夕方から晴れてお月見は大丈夫だろうという。午後3時ごろ、板橋の家を出て、電車で調布まで行き、駅前で深大寺そばを食べたあと、深大寺まで住宅街を歩いた。
鬱蒼としたケヤキ並木の甲州街道を超えて布多天神社に寄った。広い境内では市が開かれると説明板にある。豊臣秀吉は小田原攻めのあと、動揺したこの地の民心を安定させるために、楽市を奨励したのが始まりという伝統のあるものだ。そんな説明版を読んで、境内の横からさらに住宅街を抜けて、中央高速道をくぐると雑木林に出た。このあたりは武蔵野の名残をかすかにとどめる雑木林が多い。中央高速道沿いに林のそばを少し歩くと、深大寺東参道にいたる坂がある。門前に着いたのは5時過ぎだった。
志賀さんはすでに来ていて、茅葺きの山門前の茶店の軒下で、月の会の女性が月の暦と志賀さんの著書「人は月に生かされている」を売っていた。山門前の石段に赤い毛氈が敷かれ、三方にお団子や果物が供えられている。青竹を斜めに切って立て、そのなかにろうそくが灯されている。石段の両わきにはススキが生けられていた。山門前の広場には参会者のためのベンチが並んでいる。
開会の6時が近づくにつれて、三々五々近所の人たちが集まり始めた。すっかり暗くなった開会のときには150人ぐらいになっていたであろうか。深大寺の僧侶が7人、山門から現れ、天台声明が始まった。石段下から山門越しに眺める空には雲がかかっている。声明の声が近くを流れる水の音に交じって幽玄な雰囲気が深まっていった。
声明のあとに志賀さんが会衆に向かって十分ほど話をした。月の文化を復活させようという趣旨であった。
日本の歴史は今では西暦年で語られることが多いが、詳しく何月何日までになると、大抵の人はそれを太陽暦の日付けとみなしてしまう。だが、本当は明治以前になると、ほとんどが太陰暦の月日である。そうであるとすると極端な場合、季節がまったく違ってしまうことになる。
松尾芭蕉が奥の細道へ旅立ったのは「弥生」だが、これは太陽暦の3月ではなく、5月である。もっといえば春ではなく、晩春または初夏になるのだ。
干支についても、1月生まれの人は旧暦でいえば、前年の12月生まれである場合が多い。干支は旧暦でこそ意味があるので、それを知ると自分のこれまでの干支に違和感を覚えることになり、旧暦で自分の干支を知って始めて納得するということになる例も多いという。
志賀さんが話し始めたとき、東側の大きな樹木の上に見事な十三夜の月が昇っていた。会衆のいる場所からは見えないので、私はベンチから立ち上がって月を眺められるところまで移動した。早い雲の流れの合間にくっきりと白い月が照っていた。その右の方に先日再接近した火星が一段と明るく輝いていた。
志賀さんの話の後、龍管と薩摩琵琶の演奏があり、これも観月に興を添えてくれた。
観月会が終わって、月の会の会員たちと門前の店で温かいうどんを味わい、10数人で、調布の田上さんというメンバーの案内で、近くの森まで真っ暗な中を散策し、森の中の広場に腰を下ろして十三夜月を眺めた。月を愛でるには満月より十三夜のほうが美しいと昔の人は思ったのがわかるような気がした。
森の広場から田上さんのお宅に移って、あとはパーティーとなった。出席者の簡単な感想つきの自己紹介が終わると11時近かったので私は辞した。こんなにゆっくりと月を眺めたのは何年ぶりのことだろうかと思った。 (2003/10/08)
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Last Update:2004/10/19
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