随筆

晩秋の鎌倉散策



 去年に続き、12期会の仲間と晩秋の鎌倉を散策してきた。去年の錦秋の古都の風情があまりに見事だったので、またそれを味わいたいと思っていた。8時17分池袋発の湘南新宿ラインで3人と合流し、鎌倉駅に着いたのが9時20分。他の仲間は先に来ていて総勢14人。朝方は冷え込んでいたが、雲ひとつない絶好の天候である。案内は鎌倉在住のKさん。12期会の鎌倉散策は4回目だが、今回は今まで歩いたのとは別のコースを考えてくれていて、また新しい鎌倉を知ることができて楽しくすがすがしい1日となった。

 若宮大路を材木座方向に歩き、本覚寺のわきから大町の住宅街に入って東へ行くと比企谷の妙本寺へ至る。日蓮宗の寺院である。鎌倉は日蓮と関係が深い。ここは元は比企能員の屋敷だった。能員は頼朝の挙兵の時から側近として功を上げた。能員の伯母比企局は頼朝の乳母であり、妻は二代将軍頼家の乳母であった。

 1199年、頼朝が亡くなって、18歳の頼家が二代将軍となった。能員の娘の若狭局は頼家の妻となり、能員は将軍の外戚となって権勢を振るい始めた。若狭局は頼家の子一幡を産んでいた。頼家は当然、自分の後を継ぐ三代将軍に一幡を充てようと考える。だが、これを快しとしなかった北条時政は1203年、自分の娘で頼朝の妻である政子と謀り、頼家を廃して、政子の子千幡(実朝)を将軍にすえようとした。時政は仏事と称して能員を自邸に招いて謀殺、さらに兵をこの屋敷に差し向けて比企一族を皆殺しにしたのである。炎の燃え上がる館で6歳の一幡と若狭局は運命をともにした。この比企一族の悲劇が襲ったのがこの場所である。

 頼家は伊豆の修善寺に幽閉されるが、時政が送った刺客によって1204年に暗殺される。23歳の非業の死であった。岡本綺堂はこの頼家暗殺を材に名作「修善寺物語」を書いた。その映画化された(1955年)のを、私は子供の頃、有楽館で見た覚えがある。高橋貞二、淡島千景が主演し、板東蓑助が夜叉王を演じていた。1203年、11歳の実朝が将軍に就いたが、1219年、実朝もまた鶴岡八幡宮の石段下の大銀杏の陰に隠れていた頼家の子公暁によって殺害される。

 その後、生き残った能員の末子の能本が鎌倉で布教を始めた日蓮と比企一族の霊を弔うためにお堂を建てたのが、妙本寺の始まりだという。妙本寺となったのは1260年だという。境内には比企一族の墓があり、あたりには山茶花が白い花を付けていたが、紅葉はまだであった。妙本寺から出てきた角に比企幼稚園があって、子供たちが保母さんと遊んでいる。その庭に小さな蜜柑のような実がたわわにみのっていた。蜜柑にしては小さいが、金柑にしては少し大きい。いったい何の実か。誰かが近所の人に訊いて橘とわかった。

 幼稚園の角を材木座の方に行くと、左に常栄寺、八雲神社がある。常栄寺は別名「ぼたもち寺」と呼ばれる、やはり日蓮宗の寺である。1271年、日蓮が法難に遭い、江ノ島の近くの龍の口刑場に引かれて行く途次、この寺の前を通った。この地に住んでいた桟敷尼が日蓮にぼたもちを捧げたのにちなんでこう呼ばれているのだそうだ。寺の創建はこの故事の400年も後の慶長年間である。帰宅後、調べてみたら、境内の碑には「これやこの法難の祖師に萩のもちささげし尼がすみしところ」とあるそうで、「牡丹餅」ではなく「おはぎ(萩餅)」であるところが面白い。「牡丹餅」も「萩餅」も同じものではあるのだが。

 八雲神社は八幡太郎義家の弟、新羅三郎義光が鎌倉に疫病が流行したため、京都の祇園社を勧請したのだそうだ。この社の裏山は祇園山と言われているのはそのためらしい。八雲神社を過ぎて間もなく浄土宗安養院に出る。季節は異なるがツツジの生垣が見事で、その生垣の隙間から大きな槙の木が見えた。安養院は北条政子の法名である。政子が頼朝の菩提を弔って1225年に建てた寺で、政子像が安置されているそうだ。槙は樹齢700年と言われ、天然記念物に指定されている。

 安養院からしばらく歩くと、安国論寺に出た。この辺りは松葉谷と呼ばれる。安国論寺のある所には、鎌倉時代の初めには北条時政の館である浜御所があった。1253年、日蓮がここで「立正安国論」を書き上げ、時の執権北条時頼に建議したが、容れられず、その後の法難に遭うことになる。境内はそう広くはないが、やはり白い山茶花の大きな木が印象に残った。ここに来て初めて楓の紅葉が朝の陽光を受けて鮮やかに輝いていた。山門を入ってすぐ右のわきの急な狭い石段を登ると富士見台へ出た。上も狭いが、眼下には材木座海岸から由比ガ浜、長谷や稲村ガ崎が一望である。天候はよかったが、次第に気温が上がり、富士山は望めなかった。
 妙法寺は日蓮が1253年、安房から初めて鎌倉に来てこの松葉谷に初めて草庵を結んだところである。妙法寺、安国論寺などのあるこの松葉谷で日蓮は20数年を過ごしたという。

 妙法寺を後にして、釈迦堂口切通しのそばを通って山道に入った。日当たりのよい所で小休止。10分ほど山道を登ると、衣張山へ通じる台地に出た。数十メートルの高さだが、紅葉はいくらか進んでいる。衣張山と反対方向に巡礼古道を行き、さらに少し登るとパノラマ台に出た。ここも狭い見晴台だが、眺めはよい。稲村ガ崎の陰に江ノ島がわずかにのぞいている。

 先ほどの広い台地に戻り、広々とした草地を過ぎて、少し下ると、旧華頂宮邸に出た。邸内の庭でまた少し休んだ。浄明寺の店に昼食を予約している時間には少し間があったからである。
 華頂宮邸から金沢街道へ出る途中に報国寺がある。竹寺と呼ばれ、竹林の庭が知られている。寺の入口の向かいに大きな銀杏が黄葉していた。浄明寺川に沿って金沢街道を右へ行く。浄明寺川の水が澄んでいて大きな鯉が泳いでいる。茶道宗偏流止観亭の塀越しに見事な紅葉が見える。しばらく先の反対側には「雨寶庵」と書かれた小さな門の上には、これも見事な紅葉である。この辺りの庭の紅葉が今日一番の盛りであったようだ。
 金沢街道から少し入った山すそに料理屋「青砥」があった。この辺りの主婦たちが集まって地元の食材を使って出している食事処である。青砥御膳2800円。素朴な料理だが、味も見た目も品がよい。

 昼食を終えると、午後1時過ぎに浄妙寺へ。ここは前にも訪ねた。春で花が多かった。この季節には花は多くないが、境内の山の方に、これもまた見事な銀杏の黄葉があった。午後の日に照らされて輝いている。銀杏は2株で、大きな壁のようでもある。その左に葉が茶色になった巨大な樹木が伸びている。これが何か、なかなか名前が思い出せないでいると、通りかかった若い女性が「メタセコイア」だと教えてくれた。

 浄妙寺からまた住宅街を抜けて行くと、護良親王の首塚へ出た。ここには私には思い出がある。1970年11月25日、三島由紀夫が市谷の自衛隊で自決した。この大ニュースに、私は作家の高橋和巳氏のコメントをもらおうと、すぐに電話をした。高橋氏は二階堂のこの首塚のそばに住んでいた。当時、彼は病気で、古い家だった。このお宅に駆けつけると、やはり作家の夫人和子さんが玄関に出てきて「今、お医者さんが往診中で、20分ほど時間を置いて来ていただけませんか」という。それで首塚で時間をつぶしたのだ。もう一度訪ねると、庭に面した薄暗い部屋で高橋氏は布団に伏せていた。私はその枕元にノートを広げて、天井を見つめながら話し続ける高橋氏の三島論を必死でノートした。三島由紀夫を太宰治と比較して論じたものだった。そして、三島が「豊饒の海」を書き終えると、彼はどうするのだろうかということが気になっていたと言った。「豊饒の海」を完成したら、彼にはもう書くことがなくなってしまうのではないかと思われたと言うのだ。

 高橋氏の話を聞き終えると、私は高橋邸を辞して、待たせてあったタクシーで鎌倉駅に戻り、近くの喫茶店に飛び込んで、メモした話を2000字ほどの記事にまとめて、電話で本社に送稿した。この記事は河出書房から出た「高橋和巳全集」に共同通信の記者がまとめたものとして掲載されている。高橋氏は翌年5月3日に39歳で結腸癌のために亡くなった。私が三島について聞いたとき、彼は自分の病気を肋膜炎だと言っていた。

 辺りを見回して高橋和巳の旧居を探したが、みつからなかった。どこも住宅が新しく建て替わっているのだった。二階堂川に沿って上流に上がっていくと、鎌倉アルプスの天園に至る山道に入った。この先に獅子舞谷という鎌倉随一と言われる紅葉の名所があるのだ。緩やかな登りなのだが、道はぬかるんでいて歩きにくい。ハイカーたちと行き交うので、「紅葉はどうでしたか」と誰かが訊ねたが、ハイカーの中には「紅葉なんてあった?」という人もいる。20分ほど登ると、もみじの林に出た。紅葉はまだ淡く盛りではないが、広々とした林に木漏れ日が注いでいて、のどかな気持ちになる。しばらくたたずんで下った。

 二階堂には永福寺跡がある。「ようふくじ」と読む。頼朝は鎌倉に3つの寺を建立した。鶴岡八幡宮寺、勝長寿院、永福寺である。現在も残っているのは鶴岡八幡宮寺だけである。頼朝の奥州攻めで亡くなった義経や藤原泰衡らを鎮魂するために建立したのが永福寺である。平泉・中尊寺の二階大堂を模したとされ、二階堂を中心に左右に薬師堂・阿弥陀堂を配し、回廊でつなぐ大伽藍の前には浄土式庭園も確認されている。東西100m、南北200m以上の大寺院で1194年に建立されて、幕府の御願寺として保護されたが、1405年に焼失したという。西の丘を背にして庭園があったと思われる野原にはススキが秋の陽を浴びて白く広がっていた。

 鎌倉宮に出て、ここからバスで鎌倉駅に戻ると午後4時過ぎであった。若宮大路角の井上蒲鉾店の2階で蒲鉾でいっぱいやり打ち上げ。電車で大船に出て、女性陣や遠い人とはここで別れ、湘南組と藤沢に出て、居酒屋で飲んだ。10時前の小田急線で新宿へ出て、帰宅したのは深夜だった。
 今日の鎌倉は初めてのところが多く、じつに楽しく鎌倉の歴史を偲ぶ1日だった。

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Last Update:2006/12/01
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