随筆
死をどう迎えるか
今年は身近な友人の訃報が相次いだ。そして、先ほど、会社時代の同僚だった鴨志田幹男さんが午後8時15分に息を引き取った、と同僚だったIさんが電話で知らせてくれた。
鴨志田さんは今年の初め、定年を迎えた。私の後任の部長になってくれた人だ。体はそれほど丈夫ではなかったので、いくらか心配な面もあったが、彼は責任を全うした。その後、前橋に転勤し、上州の山歩きを始めて「あの、鴨さんが」と思うほどに元気になった。谷川岳や赤城山を一緒に登ったのは2年前のことである。昨年末には、彼を含めた元文化部の4人で、来年は北穂高に登ろうと話し合った。
ところが、今年の正月に首にぐりぐりするものができたというので、クリニックで診てもらったらがんとわかった。そのクリニックの紹介で入院し、2月の定年の日に手術した。術後に見舞ったときは思ったより元気で、病院の食堂で話をした。そして、間もなく退院したのだが、その2ヵ月後に再発した。執刀した医者は新聞にもよく登場する有名な斯界の権威だったが、再入院したものの、やがて退院した。自宅の近くの国立病院にかわり、通院で治療を続けた。再発したものの、元気なときはたまに親しい同僚と自宅で酒を飲むこともあったようだ。
やがて夏になった。今年の夏は異常気象で暑かった。夏が近づくにつれて病状は悪くなっていった。この苛酷な夏を越せるかと心配したが、これはなんとか越すことができた。私は一度、自宅に見舞ったが、その後は、仕事の都合もあり見舞うことができなかった。彼の親友の同僚Iさんが親身になって世話をしてくれており、私は彼からの電話やメールでの連絡で病状を知ることができた。
そんな連絡の中に、当初はがんである自分を受け入れることができず、がんと闘っているという意識であったときは、それだけ痛みも激しく苦しかったが、自分の現状をありのままに受け入れることができるようになってからは、痛みも和らぎ、気持ちも穏やかになってきたといっているという言葉があった。この言葉には深い感動を覚えた。
そして、いよいよ死が近づいてきたと自覚したときの様子をIさんが伝えてきてくれた。先週12日のことである。前から会いたいといっていた妹さんに会うまでは頑張ろうと鎮静剤を控えてきた、その妹さんに会うことができた後、彼は思い残すことはない、このまま安らかに死を迎えたいと医師に言ったそうだ。このまま眠りに入り、そして死に至る処置をして欲しいと駆けつけたターミナルケアの医師に求めたそうだ。だが、医師としてはそれを受けるわけにはいかない。それで眠りに入るだけの処置をしてもらったというのである。ここしばらくは栄養剤の摂取も断っていた。
「自分の意思を最後まで明確にし、こんなに立派な人は珍しい」と医師は言ったそうだ。このメールを読んで、私は何とも言えない思いになった。この12日以来、私は彼のことが頭から離れず、落ち着かない時間が続いた。
鴨さんは私より6歳下である。私が部長のころ、部の運営のことで思い悩んでいると、私の発想とは異なる視点からさまざまな意見を言ってくれた。その態度には押し付けがましいところがなく、細やかな気遣いがあって、私に彼のアドバイスを受け入れやすいような言い方をするのだった。そういう気遣いは私にはできないことで、ひそかに彼を尊敬したものだった。
Iさんは若いころから鴨さんとは親しく、鴨さんががんになってからは献身的に面倒を見てきた。この2人の深い友情も私には真似のできないものだ。鴨さんはダウン症の息子さんを抱えていた。それだけに夫人も大変であった。Iさんがその夫人のそばについて世話をした。夫人には心強かったことだろう。鴨さんにひとつ心残りがあるすれば、息子さんのことだろう。 (2007/12/16)
感想などをメールでいただければうれしいです。メールは
こちら
まで。
Last Update:2007/12/16
©2003 Masayuki Fujino. All rights reserved.