加藤文太郎と吉田登美久
加藤文太郎と吉田登美久
1936(昭和11)年1月3日、雪の北アルプスの槍ヶ岳北鎌尾根で消息を立ち、遭難死した登山家・加藤文太郎は私の郷里の但馬、兵庫県浜坂町の出身である。文太郎の生涯は、新田次郎氏の小説「孤高の人」で書かれているが、この小説でその遭難死したときの同行者、宮村健のモデルとなった人物、吉田登美久の描き方について、進藤甲太という人が雑誌「山と渓谷」11月号で疑義を呈している。
私も「孤高の人」を読んだときに、最後の槍ヶ岳行での文太郎は宮村の強引な主張に引っ張れて、優柔不断な文太郎が危険な北鎌尾根行に引きづられて行ったという書き方に、冬山を知り尽くした文太郎がそんなに意志薄弱だとは思えず違和を感じていた。
文太郎と吉田は死の2年前、冬の伊吹山で出会った。そのとき文太郎はすでに有名な登山家で、吉田は彼の単独行による業績を尊敬して、自分も単独行をするようになる。その辺りは小説に書かれている通りであるようだ。吉田は岩登りが得意だったが、文太郎は苦手で下手だった。
出会ったその年の4月に、文太郎は吉田を誘って、前穂高の北尾根と槍ヶ岳の北鎌尾根を縦走する計画を実行する。文太郎はこのルートに「ひとりでは少々不安だ。…そう考えているとちらっと吉田君の顔が浮かんだ。吉田君は恐ろしく山に情熱をもっていて、山での死をすこしも恐れていない。その上岩登りが実にうまい。だから私は間もなく吉田君を誘惑してしまった」と「新編 単独行」に書いている。この季節の、このルートは当時の登山界としては画期的な計画だったと進藤氏はいう。
4月2日午前8時に上高地を出発して、その日のうちに白出のコルに至り、翌日は涸沢に下って前穂北尾根にアタックした。ここでの状況について文太郎は「岩登りの下手な私がブレーキになったので、第三峰の左のチムニーで露営しなければならなくなった。…吉田君は岩場で奮闘したため、手には凍った手袋が一組残っているだけだった。翌日の物凄い吹雪の中を前穂へ辿っているうちに、とうとう吉田君は手の指を凍傷してしまった」「吉田君は終日、僕を引っ張り上げるに苦心したためひどく疲れているのに違いない」と書いている。
これについて吉田は「私が不注意から凍傷に犯され、次の北鎌尾根を断念すると共に種々加藤氏に迷惑をかけ、徹頭徹尾手足まといに終わった事を、紙上を借り深くお詫び申し上げる」「体が今日のアルバイトに弱ってゐるのと、寒さの加減で余り食べられない、無理にでもと加藤氏が云われるので、何もかもコッヘルで煮てもらって口の中へ流し込んだ…夜中急に脚の先が冷たくなって、夢中で寒い寒いと言ってゐると、加藤氏が自分の体を私の上に乗せて暖を与へて下さった」と山行記録に書いている。
こうしてこのときの2人の計画は前穂北尾根だけで終わるのだが、進藤氏はこの「わずかな引用だけでも、ふたりともどもの謙虚な心根、お互いへの尊敬の念が、われらの胸をうつだろう」と書いて、ふたりの死の北鎌尾根行が「孤高の人」の宮村のような強引なパーティー支配はなかったといい、「私は思う。加藤文太郎と吉田登美久、このふたりは死に至るまで、お互いを信頼、敬愛する、無二のペアであった、と」と結んでいる。注目に値する見解である。 (2004/10/17)
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Last Update:2004/10/19
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