寥川亭随筆

海鳴りのなかを−詩人・金時鐘の60年



 NHKハイビジョンで「海鳴りのなかを−詩人・金時鐘の60年」という1時間50分の番組を見た。在日朝鮮人詩人の金時鐘さんとは古い知り合いである。番組の解説には「1929年生まれ。戦後、動乱の故郷・済州島を逃れて大阪へ密航。長編詩『新潟』『猪飼野詩集』『光州詩片』など、数々の傑作詩を生み出してきた。済州島4・3事件、吹田事件などに深くかかわった金さんの半生は、朝鮮半島と日本の陰の戦後史を写しだす。済州島出身者たちの戦後の大阪での暮らしを交えながら、「在日」を生きた詩人の、詩と生の軌跡をたどる」とある。

 時鐘さんは日本語で詩やエッセーを書いてきた。その日本語はわれわれが何気なく使っている日本語とは大きく異なる。あの屈折していながら妙に力のある日本語は、日本語を自明のものとしている日本人の日本語に対して痛烈な批評性を持っている。

 時鐘さんは植民地下の朝鮮で熱烈な皇国少年であったという。1945年8月15日に解放の喜びを表した同胞の姿に、17歳の時鐘さんは違和感を抱くほどだったそうだ。だが、解放された朝鮮は古い朝鮮の復活だった。いったい何から解放されたのかという疑問を抱いた。

 朝鮮半島は38度線の南を米軍に、北をソビエト軍に分割占領された。1948年、南の李承晩政権が南朝鮮単独の選挙をしようとしたのに対し、済州島ではこれに反対する運動が起こり、これを北の朝鮮労働党の指導によるものとして李承晩は弾圧した。島民は一斉蜂起し、李承晩政権は米軍、警察、右翼団体などを動員して島民を虐殺した。島民たちはパルチザンを組織してハルラ山に立てこもり抵抗するが、虐殺では島民3万人が犠牲になったという。時鐘さんはパルチザンのレポとして活動していたが、逮捕の危険が迫り、1949年、日本に密航した。ほかにも日本に密航した人は多く、済州島では事件前には28万人だった人口が1957年には3万人に減ったという。その多くが日本では大阪の旧猪飼野に住んだ。

 1950年には朝鮮戦争が始まる。日本は朝鮮特需に沸き、これを戦後復興の礎とした。猪飼野の在日朝鮮人たちの中には、米軍が使う爆弾などの軍需品の下請製造に従事する者も多かった。時鐘さんは同胞を殺害する軍需品の製造をやめさせる運動の活動家として活動し、米軍の軍需物資を運ぶ鉄道の運航を止めようとする吹田事件にもかかわった。

 私が時鐘さんから直接聞いた話では、1950年ごろだろうか、大阪城近くの旧陸軍造兵廠跡の鉄などの金属を掘り出すアパッチ族のことである。これは開高健の「日本三文オペラ」や小松左京の「日本アパッチ族」という小説になっている。いつだっか、時鐘さんと梁石日さんらといっしょになった席で、時鐘さんは当時の話を楽しそうに語ってくれた。石日さんの「夜を賭けて」も同じ題材である。ただ石日さんはアパッチ族では、時鐘さんの子分として参加していた。アパッチ族にはいくつかのグループがあり、時鐘さんはそのうちの一つの親分だったのだ。夜、警察の目を盗んで造兵廠跡の鉄を掘りに行き、それを売って金に換えたのだが、そのたくましい生のありようは小説に描かれている通りだろう。

 大阪で在日の仲間と「ヂンダレ」という詩の同人誌を始め、時鐘さんは詩を書き始める。当時、朝鮮総連の活動家でもあった時鐘さんは、北朝鮮の社会主義の教条的な詩のあり方に疑問を抱き、自分の内発的な自由な詩を意識するようになる。それは植民地下の朝鮮で習い覚えた宗主国の言葉、日本語を使いながら、かつて皇国少年だった自分と対峙し、その後、日本に渡り在日として生きる自分をも見極める文学としての詩であった。

 番組では、両親の墓参りに済州島へわたった様子も映されていた。時鐘さんが吹田に住んでいたころ、私も大阪に勤務していて、ある日、ご両親の命日に自宅に招かれたことがあった。両親の写真に朝鮮式の拝礼をしたことがあった。従兄弟たちと墓に詣で、憑依した坐堂から亡き父親の言葉を聞く儀式を受けるシーンでは、吹田のお宅でのことを思い出し、胸が熱くなった。

 私が時鐘さんと親しく交わるようになったのは、1984年に大阪に転勤して、小栗康平監督の映画「伽耶子のために」の大阪上映運動で時鐘さんの協力を得るようになってからである。その前にも、京都の鄭詔文さんの花見などの集まりで会ってはいたが、「伽耶子のために」で親しく指導を受けたことは忘れられない。 (2007/09/25)

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Last Update:2007/09/25
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