隅田川・向島界隈散歩
向島界隈を歩く
秋晴れの好天に誘われ、隅田川七福神の辺りを散策した。車で出かけ、言問橋を渡り、業平橋に出た。業平塚があるはずと家人がいうので近辺を探したが見つからなかった。業平橋の下は川ではなく、子どもの遊び場になっていた。遊歩道のわきに腰を下ろしてサンドイッチを食べていると、鳩の群れがいっせいに集まってきて餌をねだった。
三囲(みめぐり)神社が隅田川の東にあり、そこへ行ってみた。ここは隅田川七福神の最初で、境内には句碑などが所狭しと林立している。
遊ふた地や田を見めぐりの神ならば
芭蕉の高弟、其角の句である。元禄6(1693)年、旱魃に苦しむ土地の人たちが雨乞いをしているところへ、其角が門人をつれて吉原へ遊びに行く途中に立ち寄ったときに詠んだ句という。この句を詠んだ翌日に雨が降ったと「五元集」にあるそうだ。水神なのだろうか。
隅田川ベリに出ると、川のそばを首都高速道路が頭の上を走っていて風情を楽しむ景色はない。墨堤通りを北へ歩いた。道路わきにはホームレスの住処が並んでいる。その一つにきれいな猫を4匹飼っている人がいた。道端に並べた座布団や毛布に猫がのんびりと寝そべっていた。首輪をしている。
さらにしばらく行くと、右側に長命寺があるが、鉄筋コンクリートのお寺で、これも風情どころではない。その裏手の桜餅の店で3個包んでもらい、家人が梅若塚のある木母寺はどこかを訊ねたら、店番の中年女性も知らないらしく、この辺りの町歩きの案内図をくれた。
桜餅の店の横の墨堤通りを渡ったところには言問団子の店があった。こちらでお茶と言問団子2人前を頼んだ。ここから墨堤通りをさらに北へ進み、白鬚神社にもうでた。江戸の捕り物帖などが趣味の家人は、白鬚神社には前から一度行ってみたかったようだ。境内では社務所の窓障子を氏子のおかみさんが洗っていた。ここにも詩碑や句碑が並んでいる。黒人塚と書かれた碑もあった。これが何を意味するのかはわからない。この辺りは江戸時代は寺島村といって寺島茄子の産地だったそうだ。
さらに北へ行くと、鐘ヶ淵に出た。鐘ヶ淵紡績発祥の地なのだが、家人はそれより「剣客商売」の秋山小平衛が住んでいた所だったことの方が感慨深い様子だ。ここを左折して水神大橋の手前をさらに左折すると、木母寺があった。
地元の地域功労者顕彰碑の除幕式が行なわれているようで、境内には多くの人が集まっていた。その後ろを歩いて境内の奥に行くと梅若塚があった。謡曲「隅田川」のゆかりの地である。本当はこの場所より少し東のところにあったそうだが、そこは今は巨大団地ビル群が林立しており、こちらに移したのだと説明板にあった。石を集めて人の背ほどに盛り上げた塚で、その東側に祠があり、東側から祠の中を透かして塚を拝めるようになっている。祠のわきには浄瑠璃塚もあった。ここにも石碑がたくさん並んでいた。
墨田区の向島から墨田、墨堤通りのこの一帯は今は昔を偲ぶよすがは神社仏閣か、石碑の類しかないが、明治以後も文人たちが住んだり、通ったりした。永井荷風の「墨東綺譚」の玉の井も近いし、森鴎外や堀辰雄も一時この近くに住んだ。吉行淳之介の「原色の街」もこの辺りがモデルである。
隅田川神社に立ち寄った。藤棚があって太い藤の木が棚の上へ伸びていた。ここには水神と書かれた木札があったが、やはり高速道路に遮られて隅田川を眺めるべくもなかった。この神社と東の団地ビルの間は子ども野球場やテニスコートの広場が広がっていて、ユニフォーム姿の子どもたちが白球を追っていた。それを眺めながらひと休みした後、白鬚橋から明治通りを行き、赤羽の先から志村坂下へ通じる道路があったので、それを行くと。30分ばかりで帰り着いた。 (2003/10/19)
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Last Update:2004/10/19
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