長瀞散歩
長瀞散歩
定年を迎えた会社時代の同僚だったS君と宝登山と初秋の長瀞を散歩した。文化部時代の同僚で、私が1984年に大阪に転勤した1年後、私が彼に「大阪に来て一緒に仕事をしないか」と声をかけたのに応じて家族同伴で転勤してくれたのだった。
彼は埼玉県上福岡市に今は細君と2人で暮らしており、山歩きはしないが、奥武蔵辺りをよく歩いているようだ。この6月にリタイアし、挨拶状をもらったので電話し、東武東上線から秩父鉄道沿線を歩いてみようということになったのである。
朝6時半に家を出て、8時に東武東上線富士見野駅で待ち合わせた。私はリュックサックを背負っていたが、S君は手ぶらであった。寄居から秩父鉄道に乗り換え、長瀞に着いたのは9時過ぎ。
秋日和で駅から宝登山神社へまっすぐに伸びている参道を歩いた。神社に向かって左側は桜並木、右側は松並木が続いており、舗装された感じのよい道であった。この道は「人間道路賞」とかいう賞を受けたと石碑にあった。参道沿いにはまだみやげ物店や食堂などはまばらで、初秋の晴れた土曜というのに観光客の人影はほとんど見えなかった。秋の七草を目玉にした七つの寺からなる七草寺があり、それを回る観光バスが1台見えるだけだった。秋の七草にはまだ少し早いのかもしれない。
参道を10分ほど歩くと宝登山神社に着いた。これを右に見て山道を登っていくと、ロープウェーの山麓駅に出た。ロープウェーは5分で山頂駅に着く。50人乗りというが、30人も乗ればいっぱいになりそうな小さなゴンドラである。山頂駅から5分ほどのところにレストランがあり、そこから山頂へ登る道がある。そのまま行くと動物園に出ると標識がある。
山頂へのゆるやかな道を登って行くと、山肌を利用した蝋梅園があった。12月下旬から2月下旬が見ごろだそうだ。さらに15分ほど歩くと、なだらかな丘のような山頂497mに出た。東から北にかけては樹林で展望はないが、北から西にかけてはなかなかよい展望が開けていた。
眼下に長瀞から荒川の流れが伸びており、西に目をやると秩父盆地が一望できて、町並みがその盆地を埋めていた。その向こうの正面は武甲山である。天気はよく、ひんやりした風が心地よかったが、その向こうの奥秩父から奥多摩、甲武信ヶ岳や両神山はかすんではいたものの、山容をくっきりと影のように見せていた。昼には早いが、ベンチでおにぎりを食べた。登山者も何組かいたが、軽装のハイカーが多い。
山頂のすぐ下に宝登山神社の奥宮があった。ここも平らな草地で、小さな祠が建っていた。切妻の妻入りが正面になる簡易な住吉造りとでもいうような白木の祠が和むものを感じさせた。奥宮の前にお札などを売る、やはり小さなバラックの社務所があって、老人が「ご苦労様です」と通りすがりの私たちに挨拶した。
昨日の雨の湿気がまだ地面に残っており、木漏れ日がさわやかで森林浴をしている気分になった。ここから神社の石段ではなく、わきの山道を10分ほど下ると動物園に出た。猿と鹿がいるらしい。正午に出るロープウェーで下山した。
参道を戻り、長瀞の河原に出た。こちらには観光客らしい人が多い。長瀞ライン下りの舟が水辺に泊まり、客が乗り込んでいた。岩棚といわれる幾層にもなって重なったような岩がつらなり、そこを上流へ向かって歩いていった。
川の水量はここ数日の雨で増えているようで、流れも速い。そこをライフガードを着けた男女が10人ほど乗ったゴムのゾディアックボートがかなりのスピードで下っていった。カヌー教室も開かれているようで、若い男女が流れに逆らって櫂を漕いでいた。陸に上がってきた人を見ると、ウェットスーツを着ていても全身びっしょりと濡れている。そのなかには西洋人の若い女性もいた。
上長瀞に近い川沿いに養浩亭という旅館があり、駅前の案内所で頼んでおいた風呂に入った。入浴料800円。じつはS君はしばらく前に細君と愛犬を連れてこの宿に泊まったのだという。風呂は小さいが、白木の露天風呂もあり、そこからは緑の木立越しに川の流れを望めて、風情がよかった。
風呂を楽しむと、その後は当然ビールとなる。川原を望むテラスで秋空の下、美味くないわけがない。
話していると、S君は40年近い記者生活で大阪の2年間がいちばん楽しかったという。S君は秋田生まれ、細君は盛岡生まれ。盛岡支局時代に知り合って結婚した。2人とも関西は初めてだった。私は千里丘陵の山田駅に近い社宅の独身寮に単身赴任で入っていた。S君は細君、小学生のお嬢さん2人を連れての転勤で、同じ社宅の家族寮に入った。
当時の大阪支社文化部は部長、デスク、記者各1人という小所帯で、私はデスクを務めていた。小所帯だから部長もデスクも取材に出かけ記事を書く。デスクはそれらの記事すべてに目を通し、問題点があれば書き直しを指示し、完成した記事は整理部を経て加盟新聞社へ配信する。私はS君に、私が書いた記事すべてについて、整理部へわたす前に読むように頼んだ。デスクといえども、自分の書いた記事を自分で点検するだけでは、思い込みによる間違いなどを発見するのは難しいと思ったからだ。
「読んで気づいたことは何でもいいから言ってくれ」と私はS君に頼んだ。部下だから上司である私に遠慮して言わないのがいちばん困るのだとも付け加えた。2人ではそういうふうに仕事をした。
ところが部長は自分で取材して書いた記事を、デスクの私が留守の間に勝手に整理部に出してしまうことが度々あった。そして、帰ってきた私が加盟社に配信されてしまった後の原稿を見ると、明らかな間違いがあったりするのである。それで私は部長に抗議することになる。私はこの部長とはうまくいかなかった。
あるとき、こういうことがあった。弘法大師空海入定1150年というので、「空海の風景」を書いた司馬遼太郎さんと空海の伝記小説「曼荼羅の人」を書いたばかりの陳舜臣さんとの対談を私は企画した。その連載対談は多くの加盟紙が掲載したのだが、私が書いたその連載第1回目の記事の前書きを、私の留守に部長が勝手に書き直し、帰社した私が見たら、やはり間違っていた。
私は空海を「日本密教の開祖」と書いたのだが、配信された記事では「日本」がなくなっていた。密教はそもそもインドで始まったものであり、開祖は金剛(中国名)とされている。その何代目かの教祖が恵果和尚で、空海は長安でこの人に師事して密教を学んだのである。だから「日本」が付くのと付かないのとでは、意味がまるで変わってしまうわけだ。このときも私は抗議して、訂正を出す羽目になった。
私と部長の反目について、私はS君に「僕の味方はしなくていいよ。ぶつかったときには、ただ2人の言い分をよく聴いておいてくれればよい」と言っていた。私はそのうちに部長との争いが整理部長や支社次長が乗り出してくるような事態に発展するかもしれないと思ったからだ。その時に客観的な事実関係をS君が証言してくれればよいと思ったのである。
そんな状態だから、毎日仕事が終わると、私はS君と2人で会社の近くの飲み屋で軽く飲み、同じ社宅に帰ることになる。独身寮の私はまっすぐ部屋には帰らず、S君宅に上がりこみ、細君が手早く作ってくれた酒肴でまた一杯とあいなる。料理の上手な細君には本当に世話になった。
大阪在勤2年間で1度だけ風邪で熱を出し、会社を休んだことがある。会社に出ているS君に電話して事情を話し、部屋で寝ていると、S君の細君が昼ごはんを作って持ってきてくれた。これには吃驚して、私は慌てて布団を揚げたのだった。S君が細君に知らせて、昼食を持って行くように言ったのである。これはありがたくいただいた。
その後しばらくして、日曜日に私が独身寮の台所で貧しい食事を作っているのを見たS君が「日曜の昼食だけでも女房に作らせて持って行きましょうか」というので、私は「それだけはやめてくれ。食べさせてほしいときは、僕の方からお宅へ行くから」と断った。
部下の奥さんに食事を作らせるなど、私にはできることではなかった。だから何回かはお宅へご馳走になりに行った。それで、中元や歳暮のもらい物はほとんどを、日ごろのお返しにとS家へ持っていったのだった。
当時、小学生だった上のお嬢さんは、大学を出てシンガポールやロンドンに留学し、今は結婚して、夫君の仕事で北京に移り中国語を勉強しているという。 (2003/09/27)
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Last Update:2004/10/19
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