猫の死
猫の死
今朝9時22分、猫のヨタが死んだ。昨日、この日記に書いたのは虫の知らせだったのだろうか。
朝早く、家人が「ヨタが玄関で痙攣を起こしている」というので行ってみると、玄関のたたきに横たわって、ときどき体をピクッと震わせている。毛肌をさすってやり、声を掛けると、最初は弱々しい反応があったが、だんだんそれも小さくなって、ついに応えなくなった。それでもときどき、痙攣はおきた。
失禁していたので、いよいよだめだな、と思った。息を引き取る直前に、手足をぐっと伸ばした。そうしてこと切れた。死を看取ってやれたのが、せめてもの幸いだったかもしれない。
花屋に走って、切花をいくつも買ってきた。蕾でなく、なるべく開いた花を選んだ。戻ってくると、家人がダンボール箱にタオルなどを敷いてまるく横たえさせていた。花を箱いっぱいにちりばめた。箱の表に「Dear ヨタペエ Good bye with tear」とマジックインキで書いていた。
車で10分ほどのところにある東京家畜博愛院に連れて行き、火葬を頼んだ。8年前に肝硬変で死んだチャタもここに眠っている。いらい、家人はほぼ月に一度は墓参をしている。ときどき私も付き合う。
我が家にはもう1匹、雌猫のポンコが残っている。彼女も10歳を過ぎている。こちらは元気だが、ヨタがいなくなったことに、何かを感じているのだろうか。
私たちには子どもがないので、17年間をともに過ごした猫は、やはり家族の一員であった。
ヨタが入院したのは3月の末だった。入院する前の3日間、食事を摂らなくなり、水だけを飲んで、しかもその水を吐いてしまうので、近所の動物病院に連れて行った。
診察の結果、どうやら腹膜炎らしいが、ウイルス性かどうかはわからない。動物の病気の診察も人間と同様、検査、検査であった。すぐに採血し、血液検査。これは1時間ほどで結果が出た。ヨタは17歳の毛の長い雑種で、人間でいえば80歳近い。医者は見た目の状況からまず腎臓が悪いのではないかと疑ったが、血液検査の結果では、通常より数値がやや高いものの、許容値の範囲内ということだった。白血球はかなり増えているので、感染症の疑いがあるという。入院1日目は点滴で栄養を補給した。
翌日はまず普通のレントゲンを撮り、さらにバリウムを飲ませて再度レントゲン撮影した結果、胃と食道の間が膨らんでいたことから癌性の腫瘍かと思われたが、これはそうではないと後日わかった。腹部はほぼ全体に白く写っており、腹水がたまっているとこうなるのだそうだ。それでどうやら腹膜炎らしいということになった。それでも、檻の中の猫は1日目には乾いていた鼻も、2日目には濡れていくらか元気を回復していたので、好きなシニアキャット用のペットフードを持って行って与えるよう頼んだ。
3日目の午後、病院に行ったら休診日だった。夕方、医者から電話があって「ペットフードをまったく食べていない。腹膜炎はほぼ確実なので、もうしばらく入院させてはどうか」という。動物に医療保険はないから、かなり費用がかかりそうだ。費用はどれくらいかかるかと訊ねると、3万円まで入院治療して、これを超える場合は事前に連絡するという返事なので、お願いすることにした。
ヨタが我が家で暮らすようになったいきさつはこうである。
私が大阪勤務から東京の本社に戻った1986年の冬であった。雪模様の深夜2時ごろタクシーで帰宅したらマンションのロビーで目が開いたばかりの子猫が寒さに震えていた。これを哀れに思って連れ帰ったのだった。そして、翌日マンションの庭に放した。結婚しても間もないころ、飼っていた猫が交通事故で死んだことがあり、飼い猫の死を見るのはつらいと、ずっと飼わないできたからである。
庭に放した翌日、また雪が降った。早朝、出勤途次の家人が外から電話してきて「雪の中に放り出しておくのはかわいそうだから、探して連れ帰ってくれない」と言った。
私はエレベータでロビーに降りると、子どもたちが子猫を取り囲んでいた。子どもたちには「おじさんの家に連れて行くから、もう大丈夫だよ」というと、どうしようかと思いあぐねていた子どもたちは安心したようだった。
こうして我が家で暮らすようになったが、当時、私たちは共働きだったから、一日中家に閉じ込めておくしかなかった。ベランダへ通じる窓をすこし開けて外にも出ることができるようにした。それでもすこし大きくなるとストレスがたまるらしく、おなかに円形脱毛症が出てしまった。
仲間がいれば治るかと思って、家人が銀座の有名なおでん屋からもう一匹を譲ってもらってきた。茶色の毛の短い美しいオスで、チャタと名づけた。ヨタはチャタが子猫の間はかわいがり仲もよかったが、大きくなるに従って、喧嘩をするようになった。去勢手術はしてあるが、2匹ともオスというのがよくないのではないかと思った。今度は家人がメスの子猫を拾ってきた。
これにはポンコと名付けた。家人の愛読していた女流推理作家の飼い猫の名を勝手にもらったのである。ポンコは、姿はよいのだが、右目に薄く白い膜が垂れ下がって眼球を半分ほど覆っていた。常盤台の動物病院で除去手術したら、医者が手術に失敗して右目がふさがってしまった。
小さなポンコが加わったことで、雄の2匹の喧嘩はおさまり、しばらくは3匹仲よく暮らしていた。だが、ポンコが大きくなると、チャタがポンコのいじめに遭うようになった。
チャタは気が弱くて、洗濯機の上の籠の中にこもりっきりとなってしまった。
私が京都に単身赴任していたときに、このチャタが肝臓病にかかり、黄疸が出た。帰京した折に常盤台の病院に入院させたが、治療の甲斐なくチャタは入院一週間後に死んだ。家人はそれ以来、月に1度チャタを埋葬した東京家畜博愛院に墓参をするようになったのである。
ヨタは一度、家出したことがある。
マンションのベランダには両隣りの家へ行けないように金網を張ってあるのだが、ある日、網の隙間を縫って出てしまい、エレベーターで8階から1階に下りてしまったらしい。張り紙などして探したが、数日たっても見つからないのであきらめかけていた。
そんなある日、仕事から戻ってエレベーターに乗ろうとしたら、どこからか猫の鳴き声が聞こえてきた。その声の方を探してみると、はたしてヨタが裏口の軒下に泥にまみれてうずくまっていたのである。
私を見ると、安心したような小さな声を出した。抱きかかえて家に連れ戻った。それ以来、ヨタはあまり外へ出ようとはしない。
今回、食事を摂らなくなってから、電気温水器の下の暗がりにうずくまったりしていた。猫は死期を悟ると、目立たない暗がりに隠れて独り死を迎えるという。17歳ともなると老衰に近い。治療しても長くはないかもしれないと思った。
結婚して猫を初めて飼ったのは、新婚のころに住んだ石神井公園のアパートでだった。神田にある広告会社に勤めていた家人が神保町の洋品店からもらってきたのである。部屋に閉じ込めて志賀高原にスキー旅行に行き、その間、友人に世話を頼んでおいたが、帰宅してみると、座布団が咬み破られ、綿が部屋中に散らかっていた。 この猫にはタンタンという中国風の名をつけていた。私が大阪に転勤し、阪神甲子園近くの社宅で1年を過ごし、さらに大津支局に転勤して京都・山科に家を借りた。東京から西宮、京都とタンタンもいっしょに移り住んだ。
山科の借家は勧修寺に近い田んぼのそばにあった。京都の郊外の山科も、やっと開発が進み始めたころだった。自宅には電話を引けず、会社との連絡には隣りの不動産屋さんに借りるしかなかった。このころの山科はまだ田舎で、電話も交換手を呼び出してつなげてもらう時代だった。借家から数十メートル先に自動車の往来の激しくなり始めた外環状道路が通っていたが、庭が広く猫が暮らすにはよい環境だと思われた。
2月になって恋の季節になると、タンタンは毎夜、恋を求めて出て行ったが、明け方までには戻ってきていた。
ところがある夜、家を出て行ったきり朝になっても帰ってこなかった。早朝、探しに出てみると、外環状道路でトラックに轢かれて、ぺしゃんこになって死んでいた。
猫は夜、光を見ると一瞬立ちすくんでしまう。それで高速で走る車に轢かれたらしい。遺体は道路のあちこちに千切れて飛び散っている。
そんな光景を家人に見せることがためらわれた。私は「君は来るな」と言って、自動車が激しく行き交う合間を縫って、ひとりで遺骸を拾い集め、借家の庭の隅に埋葬した。
それからは死を見るのがつらいからと生き物を飼うのはやめようと思ってきた。私の転勤などに伴って、大阪枚方市の香里団地、横浜・戸塚の上倉田団地、東京は高島平と住居を替わり、1979年に今のマンションに移ってきた。その間は猫を飼わないできた。
ヨタは神経質なところのある猫だった。夫婦で旅行に出かけるとき近くのペットホテルに預けたことがあったが、ホテルの女主人がいうには、住むところが変わると餌を食べなかった。4月に入院していた間も食べなかったのは、そのためかもしれない。
入院していたヨタは1週間あまりで退院したが、病状がよくなったわけではない。毎日、面会していたが、依然食事は摂らないし、腹水も減ってはいない。
腹膜炎は検査の結果が今日出て、ウイルスによるものではないとわかったが、それでは何が原因かとなるとわからない。増えていた白血球は減って正常値になった。入院していても一向に改善しないので、夜は自宅に連れて帰り、翌朝、通院して点滴を受けることにした。
医師によると、退院前に改めて撮影したレントゲンでも、腹部はやはり白く映っているが、状態は把握できないという。腹膜炎がウイルス性でないとなると、細菌によるものか、がん性かが疑われる。レントゲンではその程度しかわからないので、きちんと調べるには手術しかないが、高齢でもあり、麻酔をかけると手術中に死ぬ危険性もあるらしい。しかも、それで治るとは保証できないともいう。それで自宅に戻すことにしたのである。
一週間ぶりに自宅に戻ったヨタはかなり弱っていた。ポンコは玄関に出迎えたが、ベッドに寝かされたヨタがぐったりしているのを見て、牙を剥いて嫌悪を示した。病気が治らないと知っているのだろう。
それからは、食欲増進剤と抗生物質の投与を続けた。退院後しばらくは錠剤だったが、5月に入ると錠剤を嫌がるようになり、投与しても吐き出すので、シロップ状にして針のない注射器で口から投与した。
そのせいもあってか、一時的には食事を摂るようになったが、6月に入るとドライフーズは食べなくなり、缶詰も好きなものは食べていたが、これもやがてほとんど食べなくなった。牛乳を少しとほぐした焼き魚を少し温めてやると食べたが、量も極端に減った。
背中をさすってやると、背骨の節がゴツゴツと掌に当たる。すっかりやせ細ってしまった。手足も細くなってきた。歩くのもいかにもよたよたとしている。普段は台所の隅か玄関のたたきにうずくまったままであった。それでも洗面所に置いた砂入りのトイレには、よたよたと歩いて行って用を足す。トイレに入ったまま、砂の上にうずくまってしまうことあった。
これではいくら何でも可哀想だと、なるべく底の浅いカゴを出してきて、タオルを敷いて台所の隅に置き、そこに横たえさせると、そのままうずくまっていた。少しは気持ちがよくなったようで穏やかな表情になった。
これまで元気なときは、夜、私がソファに横になってテレビを見たり、本を読んだりしていると、ひざ掛け毛布の上に寝そべったり、揺り椅子の上に置いたカゴに入って眠るのが好きだったが、いまはそこへ跳び上がる体力もないし、飛び降りる気力もない。
動物病院の医者は「平均寿命より長生きしており、だからもう寿命で、入院して狭い檻の中に閉じ込めるより、自宅に置いた方が良いでしょう」と勧め、私たちもその方が良いと思っている。老衰でもあるが、この急激なやせ細りように、ガンではないかと聞くと、医者は否定はしなかった。やはりガンなのだろう。ただ猫は人間のように痛みを訴えることができない。ただ黙ってじっとうずくまって堪えているだけだ。そこがけなげでもあり、哀れでもある。
このころ家人が病のヨタを句に詠んだ。
桜逝く病に伏す猫今日はあり
行く春によろぼふ猫は今日もあり 臈
私の家に出入している電器の修理屋が猫好きで、私が拾う前のヨタの子ども時代を知っているという。彼はマンションの商業棟にあった電器店の店長をしていたときに、近所で見かけたというのだ。それで我が家に修理に来たときなど、床に猫と一緒に寝そべったり、四つんばいになってヨタとにらめっこしたり、話かけたりしていた。彼もヨタの死を悲しんでくれるだろうか。 (2003/6/18)
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Last Update:2004/10/20
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