岡部伊都子さんをしのぶ会
岡部伊都子さんを偲ぶ会
31日の午後、京都の同志社新島会館で、4月29日に亡くなった随筆家、岡部伊都子さんを偲ぶ会が行なわれ、私も出席した。岡部さんについては、このサイトの「交友閑語」や「沖縄随想(ニライの海)」などに何度か書いたが、30年を超える付き合いがあった。私が最も敬愛する人の1人でもあり、偲ぶ会が開かれると知ってぜひ出席しようと思ったのだった。
会場は京都御所の東側だとは知っていたが、久しぶりの京都である。京都在勤のころ、御所のすぐ南側のマンションに住んでいて、梨木神社に水を汲みによく通った。あの辺りだったと勝手に思い、新緑の御所の中を通り抜けたのだが、どうしたわけか廬山寺の方へ行ってしまった。どうもおかしい。廬山寺の庫裏で訊ねると、丸太町通りを上がってすぐの所だと教えられた。雨は上がっていたが、湿気が強い。そんな中を歩いていると、喫茶店の中から手を振る女性がいた。旧知の陶芸家、金正郁さんだった。早く着いたので遅い昼食を摂っていたのだと言う。金さんは、生前の岡部さんに自作の白磁の骨壷をプレゼントした人だ。そのとき、私も出雲路の岡部さん宅で上田正昭さんらと同席して見せてもらったことがあった。12年ほど前のことである。
2人で会場に向かった。会場の正面にはたくさんの花が飾られ、左右に在りし日の岡部さんの大きな写真があって、参会者にかすかに微笑んでいる。祭壇はなく、中央のテーブルには岡部さんのお骨が置かれ、その周りに「花あかり」が点っている。「花あかり」はピンポン玉ほどの大きさの丸い蝋燭でである。そのそばに金正郁さん制作の白磁の骨壷があった。よく見ると、私が岡部さん宅で目にしたのとは違っているようだ。あの時見たのは蓋のつまみに魚の絵が染付けで描かれていた。今見ているのは、それではない。
正郁さんに訊くと、プレゼントした時、上田さんが「これは素晴らしい。骨壷にするのはもったいないくらいや」と褒め上げたことから、岡部さんは自分の骨壷にはぜずに、故鄭詔文さんが設立した高麗美術館に寄贈したのだそうだ。それで、その前にプレゼントしたのを骨壷とすることになったわけだ。「私はあっちの方を使ってほしかったのだけど」という。
上田さんの姿が見え、挨拶していると、何人かの旧知の人が次々に見えた。「北の百姓記」などを書いた山形の斎藤たきちさんは、昨夜7時半に奥さんと長距離バスに乗り、今朝6時半に着いたという。東京にいる息子さんも一緒だった。斉藤さんからは著書を何冊か恵贈いただいていたが、直接会うのは何年ぶりだろう。彼が30代のころに一度山形に訪ね、お宅に泊めていただいたことがあった。その後、私の東根市出身で洋画家の義兄が郷里の山形で個展をした際にお世話になり、義兄とも交友が続いている。
竹富島の郷土民俗資料館館長の上勢頭芳徳さんにも会った。今年1月、与那国島からの帰途、立ち寄り、岡部さんの容態について話したことがあった。上勢頭さんは岡部さんが建てて島に寄贈した「こぼし文庫」の世話もしている。偲ぶ会には竹富島から何人かが出席されるだろうと思い、私は上勢頭さんに会えるだろうと期待もしていたので、これもうれしかった。竹富島では2週間ほど前に「こぼし文庫」で岡部さん追悼会をしたのだそうだ。上勢頭さんは会場でその時に歌われた岡部さんを偲ぶ「とぅばらーま」のテープをかけて参会者に紹介した。
偲ぶ会では、岡部さんの幼少のころからの写真がスライド上映された後、上田さんが挨拶した。上田さんが岡部さんに初めて会ったのは1964年4月で、NHKの番組「女性手帳」で対談した時だったという。その時、上田さんは「なんと鋭い感覚を持った人だろう。そして、彼女の生きる姿勢は私と同じ方向を向いている」と思ったそうだ。その年の10月に岡部さんは神戸から京都の鳴滝に引っ越した。こうして上田さんと岡部さんは終生の友となった。
私は1970年代の初めに京都で季刊誌「日本のなかの朝鮮文化」を出していた鄭詔文さんを取材して新聞で取り上げたことから、鄭さんの活動を支援していた上田さんや岡部さんと親しく付き合いをするようになった。それでこの2人とは同席することも多かったので、2人の友情を身近に見てきたのである。鄭さんが亡くなって5年後に開催した「鄭詔文さんを偲ぶ会」は私の発案で、上田さん、岡部さん、金時鐘さんが呼びかけ人となって行なったものだった。また1998年の高麗美術館創設10周年記念事業も、お2人と私とで企画と準備を進めたのだった。この時、京都国際会館で岡部さんと2人で鄭さんについて講演させていただいたのを忘れることはできない。
上田さんの挨拶の後、岡部さんの死を看取った医師の島津恒敏さんから病状の経過報告があった。「私は学歴はないけど、病歴はたくさんあります」とは私も生前聞いたことがある。子供のときにかかった中耳炎で右耳が聞こえず、右側にいて話すと手を左耳に当てるしぐさをされたものだった。女学生のころには結核で何度も転地療養している。C型肝炎にかかっていることも聞いていた。私は1995年から98年まで京都で過ごした。会場で配られた年譜を見ると「99年に肝硬変で入院」とある。高麗美術館10周年の翌年のことである。その2年後に肝臓がんが見つかっている。2005年に出雲路から塩小路のマンションに移り、その後、2007年5月入院した時にはがんが転移しており、余命1ヵ月と診断されたが、亡くなったのはそれから1年後の4月29日早暁であった。今年3月6日が85歳の誕生日で、この時はまだ元気だったそうだ。
亡くなった日が4月29日であるこちに因縁を感じる、と誰かがこの後の挨拶で語った。というのは、前日が28日で、1952年のこの日は、前年9月に結ばれたサンフランシスコ条約が発効した日である。すなわち沖縄が日本から切り離されて米軍の支配下に置かれた日なのである。沖縄戦で婚約者を失い、戦後の沖縄を訪ねて、沖縄を自身の原点の一つとして生きてきた岡部さんが、日本人としてこの日を見届けて旅立ったことに岡部さんの強い思いを感じるというわけだ。そして、彼女を偲ぶ会が開かれた5月31日が婚約者の木村邦夫さんの命日でもあることに、参会者の多くがその縁を感じたのでもあった。
ほかに佐高信、志村ふくみ、斎藤たきち、佐喜真道夫、土井たか子さんらが岡部さんを偲ぶ言葉を語った。2階の会場は立錐の余地もないほどの参加者だったが、後で聞くと、階段から玄関を経て庭にまで献花の列が続いていたそうだ。 (2008/05/31)
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Last Update:2008/05/31
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