私の宝もの
私の宝もの サトウキビ刈り援農隊
沖縄に通い続けて三五年になる。しかし、観光地にはほとんど行ったことはないし、海で泳いだことも二、三度しかない。沖縄には「命(ぬち)どぅ宝」という言葉がある。「命こそ宝」という意味である。わたしはこの言葉が好きである。
一九七三年に初めて訪れた与那国島は日本の最西南端の国境の島で、台湾まで一一一キロ。一二七キロの石垣島より近い。テレビドラマ「Dr.コトー」の診療所の舞台になっているので、ご存じの人もいるかもしれない。この島に通い続けるのも三〇年を過ぎた。
一九七五年、過疎化で島の農業の基幹作物のサトウキビ収穫ができないことに悩んでいた島の農協組合長に頼まれて、友人と二人、ボランティアで、全国の若者に呼びかけて「与那国島サトウキビ刈り援農隊」を結成、翌七六年一月末から四月中旬まで全国から集まった八〇人が厳しいキビ刈りと製糖工場の作業に汗を流した。
それから二九年、援農隊は毎年一−三月の二カ月半、与那国島に出かけている。わたしも世話人として、会社の休暇をとって出かけてきた。ただ、歳をとって会社で役付きになってからは、自由に休暇をとれないので、仲間が代わりに世話人として行ってくれた。
一九八〇年代になると、北海道の人が中心になってきた。キビ刈りの時期は北海道では雪で農家の人は仕事ができない。三三〇〇キロも離れているが、暖かい南の島で一度過ごすと、また行きたくなるらしい。何年も続けて参加してくれる人が多くなった。
島での仕事は想像以上にきつい。製糖工場はこの時期二四時間フル稼働で、働くのは一二時間二交代である。畑では雨が降っても刈り取りをする。いや、天気がよいと気温が高くなり、むしろ雨の方が仕事はしやすい。そんな毎日を多い年は一〇〇人以上、少ない年でも三〇人ぐらいが毎年島に通い続けてきた。
来年三〇年を迎えるのを機に、この秋に「与那国島サトウキビ刈り援農隊−私的回想の30年」(ニライ社刊、税込み定価一八九〇円)という本を出版した。三〇年間の島での体験と援農隊員らがどんな思いで過ごしたか、また島の人たちがどんな生活をし、何に苦しんできたかなどをわたしの目から書いたのである。わたしはただの世話人、呼びかけ人であるが、三〇年の間に見えてきたものもある。今年六三歳になったわたしの人生の半分を、仕事のかたわらではあるが、このボランティア活動を続けてきた。その意味でわたしの人生のひとつの総括であり、これこそわたしの宝物である。 (2004/12/28 「サンシティライフ」99号)
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Last Update:2004/12/29
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