美し水汲み

美し水汲み



梨木神社
  梨木神社の染井

 しばらく前から、車で5分ほどのスーパーマーケットで「美(うま)し水」というのを給水するようになり、数日おきに水汲みに通っている。4リットル用の専用ボトル(5百数十円なり)を買うと、水は何度汲んでも無料である。それまでは2リットル入りの「森の水だより」というのを6本入りの箱で買っていたのだが、これに切り替えた。
 「美し水」について店員に訊ねたら、ただの水道水であった。だが、水道水を1万分の1ミクロンの網で濾過したものである。これで大抵の不純物は除去されるのだそうだ。それで飲んでみると、たしかにただの水道水とは違って美味い気がする。

 水汲みといえば、1995年から3年間転勤で過ごした京都を思い出す。京都の水道水は琵琶湖から引いているが、これがおいしくない。当時、京都御所のすぐ南側の丸太町高倉を下がったところにあるマンションに住んでいた。
 御所の東側、丸太町から寺町を上がるか、御所の清和院門を東に出たところに、萩の花で有名な梨木神社がある。この境内にある井戸は「染井」と呼ばれて、醒ヶ井、県井とともに京都三名水の一つとされていた。それで毎週1回朝早く、ポリタンクを自転車に載せてこの水を汲みに行っていたのである。早い時間に行かないと、長い行列ができて待たねばならないからだ。近所の喫茶店の主人が汲みに来ていたり、時には大阪ナンバーの車の人がポリタンクを何個も積んで来ていたりした。

 私はこの水を汲んできて、お茶やコーヒーはもちろん、ご飯も炊いた。口に入る水はもっぱらこの染井の水でまかなった。水汲みに行くのは大抵休日で、御所のなかを通っていくのである。御所の庭には花や木が多く、季節の花を楽しんだりしながら通ったものである。御所のなかの東の方に上皇の御座所であった仙洞御所がある。その北側を東へ曲がると清和院門に出る。
 今ごろの季節には梨木神社の境内ではちょうど萩の花が咲いているはずである。短冊に和歌を書いて、それが萩の枝に下げられている。それを読むのも楽しかった。この水を使って境内の茶室で茶会が開かれていることもある。琴の音が聞こえてきたりした。冬になると、神社と御所の間の通りには落ち葉が降り積もり、それを掻き集めて焚き火をしていた。梨木神社への水汲みは私の京暮らしの楽しい思い出として残っている。

 そういえば、私が入っていたマンションには随筆家の麻生圭子さんがいた。一度、エレベータで顔を合わせただけだが、麻生さんはその後、京都の古い町屋を買い取り、そこに移って京暮らしを楽しむエッセーを書いている。
 マンションの裏手には日本画家の上村松篁さんの邸宅があった。上村邸とマンションは背中合わせになっているので、私が住んでいたマンションの4階のベランダからは、上村邸の庭や奥座敷の廊下などが見下ろせた。

 上村さんが文化勲章を受章したあとしばらくたって、お宅にうかがい、インタビューしたことがある。そのとき、アトリエで制作されている姿を写真に撮らせていただけないかとお願いしたら、ご機嫌のよかった上村さんはアトリエに入れてくださり、写真を撮らせてもらった。そのとき、彼がキャンバスに向かう(なんと日本画なのにイーゼルに厚紙の色紙のようなものを立てて梅に鶯を描いていた)その目が、それまで話をしていた時のおだやかなものとは打って変わって、ものすごく厳しいものに変わっていたのに、一瞬ギクッと胸を突かれたのを覚えている。

 上村さん宅と背中合わせに住むようになった時は、彼も90歳を超えていた。ということは、われながら因果な商売だと思うのだが、有名人の死亡は大きなニュースになるので警戒しなければならない。支局のデスクが私に「毎日、上村邸の様子を見て異変があったら知らせてください」といった。それで毎日1回はベランダから上村邸を眺めることになったのである。幸い私がここに住んだ3年間は上村さんは元気に過ごされていた。それで私は安心して、染井の名水でお茶を淹れたり、コーヒーを点てたりしてゆっくりとした時間を過ごすことができたのだった。今思い出しても、あの水は美味かった。 (2004/09/14)

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Last Update:2004/10/19
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