寥川亭随筆
学生時代のある先輩の死
大学時代に私が4年間を過ごしたキリスト教の学生寮、早稲田奉仕園の友愛学舎のことは何度も書いたが、そこで2年先輩だった浦川行見さんが12月7日、69歳で亡くなった。学生時代以来44年間、私は消息を知らず、ついに会うことがなかったのだが、とても気になる人だった。早稲田奉仕園OBのメールで知って、今夜、通夜である前夜式に出席した。糖尿病から併発したがんによる死で、入院生活は2年間に及んだそうだ。
浦川さんは姫路市の出身で、私も同じ兵庫県出身で、友愛学舎では親しくしていた。彼は一見、白系ロシアの血が混じっているのではないかと思われるほど、日本人離れした容貌で肌の色も白かった。それに加えて、強烈な個性の持ち主であった。文学部の演劇科専攻で、シェークスピアの戯曲のセリフを英語で暗唱しており、興がのると、それらを朗々とした響きで振りまでつけて朗誦した。語学には天才的な才能があり、英語はもちろん、2年間、第2外国語で習っただけのフランス語も話せた。
ある時、米国から来た客員教授の文学の講義を聴きに行こうと誘われた。講義は英語で通訳もなかったので、私にはちんぷんかんぷんだったが、講義が終わると、彼は立ち上がって質問をした。もちろん英語でである。ところが、彼はその質問にドストエフスキーを引用するときはロシア語で、サルトルを引用するときはフランス語で、といった具合で、さらにドイツ語まで交えて質問するのである。これには私も吃驚したが、米国人の客員教授も面食らったようで、立ち往生してしまったのである。
また、彼は芸術や哲学などにも造詣が深く、それは大学生のレベルとは思えないほどのものだった。さまざまな本をじつによく読んでいた。芸術や哲学の議論をするときも、私などより数段レベルの高い論を展開した。早稲田の劇研や自由舞台の公演にも誘われた。のちに彼はある病気をして郷里の姫路に急遽帰ることになった。彼が帰京した後、部屋の荷物を送るために整理を手伝った。哲学や芸術関係、ロシア文学やフランス文学をはじめ芸術論の本が多かったのだが、最も驚いたのは、新聞の折り込みチラシの裏に外国語をぎっしりと書き込んだものであった。当時の大学生の大抵は大学ノートを使っていたが、いくら貧しかったとはいっても、彼のように、折り込みチラシの裏まで活用する学生はそうはいなかっただろう。そんな勉強の痕を示すチラシの山が、りんご箱数個分もあったのだ。これには心底驚いた。猛烈な勉強をしていたのだと知った。
当時、友愛学舎では、月曜日から土曜日まで毎朝7時から30分間、舎生による「聖書研究」があった。聖書の指定された箇所を調べたりして、それを輪番でみんなの前で話すのである。舎生にはクリスチャンもいたが、ノンクリスチャンもいた。聖書研究では、神学者の解説書を丸写ししたような話をする人も中にはいたが、浦川さんは彼独自の考えを話すことが多かったように思う。彼はノンクリスチャンだった。そして、キリスト教を素直に受け入れるというのではなく、惹かれながらも抵抗しているふうで、キリスト教と体当たりで格闘しているようなところがあった。
彼はまた演奏するのではないが、音楽にも造詣が深かった。私が、ボードレールの詩集「悪の華」をシャンソン歌手のレオ・フェレが歌にしたLPレコードを買ってきて粗末なプレイヤーで聴いていたら、そのレコードが気に入ったらしく、何度も何度も聴いていた。レコード喫茶にまで持ち込んで聴いていた。そして、「悪の華」について論じたりした。音楽でいえば、ベートーヴェンの交響曲の5番と第9の出だしについて彼が論じたことがある。「5番」の運命が扉をたたく音と「第9」の弦のピアニッシモの出だしを比較して、「第9」がいかに優れているかを解き明かすのである。詳しい論の詳細は覚えていないが、彼の論には私も「なるほど」と感心したことだけは今も覚えている。
そんな浦川さんに影響を受けた後輩が何人かいた。私もその一人だが、私と同郷の千葉裕さんもそうだった。千葉さんとは今でも時々会うと「浦川さんはすごい人だったな」といった思い出を語り合う。私と同期のTHさんは理工学部に優秀な成績で入学した特待生だった。授業料が免除されていたのだと思う。彼は母ひとり子ひとりであった。それだけに母親の期待も大きかったと思うのだが、その彼が浦川さんに心酔し、演劇をやりたいと言い出して、理工学部の授業に出なくなってしまったことがあった。そんな彼を理工学部のI先生はたいそう心配した。その後、学部に戻り、1年遅れて広島県の化学会社に就職したが、浦川さんにはそれほど強烈な個性があったのだ。
浦川さんは4年生のときに、山本薩夫監督の映画「忍びの者」の撮影現場でアルバイトをした。どうやら助監督として映画会社に入りたいと考えていたようだった。だが、病気でそれはかなわなかった。私も浦川さんに影響を受けたが、THさんほどではなかった。
私は法学部だったが、法律の勉強をするより映画や演劇を見たり、クラシック音楽のコンサートやレコードを聴いたり、文学を読んだりすることのほうが好きになった。元々こういう分野が好きではあったが、浦川さんの影響でさらに深まったと言えるかもしれない。大学4年のときに郷里の先輩加茂菖子さんの芥川賞候補作小説「執炎」が蔵原維繕監督で映画化されることになった。この撮影を手伝うアルバイトの話があったとき、一も二もなく引き受けた。そして4ヶ月間、日活撮影所に通ったり、北陸ロケに同行したりした。蔵原監督や主演の伊丹十三さんとも仲良くなった。この経験は映画記者になったときに大いに役立ったのだが、これも、考えてみれば、浦川さんのことがあったからだと今にして思う。私は大学を出て新聞記者になり、そこで担当した仕事は文学、思想、映画、テレビなどだった。30年間を文化部記者として過ごした。浦川さんとの出会いは私の生涯を決めたとも言えるわけだ。
そんな思いがあったので、明日の告別式には出られないから、通夜に出させていただいた。通夜はキリスト教の前夜式だった。彼が若いときに友愛学舎で出合ったキリスト教である。奥さんによると、亡くなる1ヶ月ほど前に「家にある赤い表紙の聖書を持ってきてくれ」と頼んだのだそうだ。彼はそれをベッドで読んでいたという。若いときの彼はキリスト教に接してはいても、洗礼を受ける様子はなかった。ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」について話したとき、私には浦川さんが小説の中のイワンに重なって見えた。「大審問官」について話したのだったと思う。この章はクリスチャンに対する根源的な懐疑がテーマである。
その彼が人生の最後に「聖書」に戻っていったことには深い感慨を覚える。若いときの浦川さんは、鋭い感性の人というイメージが私にはある。若いときの夢をあきらめてサラリーマンになり、結婚して2人のお嬢さんに恵まれた。20代の若いお嬢さんは2人とも浦川さんの面影をかすかにしのばせる美しい女性だった。浦川さんは家庭では「変わり者」だったという。若いときのことはほとんど話さず、何も知らないと言われるので、私はご遺族や会葬の親族の方たちに先に書いたような学生時代の思い出を話した。皆さんが「そんなことは故人は話してくれなかった」とおっしゃり、いくつかのエピソードに大層驚き、かつ喜んでいただいた。
式場に飾られた遺影はひげを蓄えて、ややふっくらとした穏やかな表情の浦川さんが微笑んでいた。いい顔だった。私は彼について、あり余るほどの才能に恵まれながら、それを病気のために断念せざるを得なかった「悲劇の人」だとの思いを持ち続けてきたが、それとは別の人生の幸福を得た人だと改めて思った。 (2007/12/11)
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Last Update:2007/12/11
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