名残の月
「…卯月初旬、ということになりました」
感情の伺えない、凛とした声で彰紋が宣する。
有明の月を眺めながら、花梨は彼の冷たい指をきゅっと握った。やがて緩やかに解けたそれを彰紋は揺らして、小さな笑みを浮かべる。
「貴女の手は温かいですね」
「うん」
「………花梨さん」
「左大臣さんのお姫さま、だっけ?」
「はい。二の姫です」
「優しい、人だといいな」
花梨の、白い夜着の膝にはたはたと雫が零れた。
「彰紋くんのお話を沢山聞いてくれる、そんな人がわたしはいいです」
「僕も、そう思いますよ」
ふと、東宮の表情が憂わしげになる。俯いて流れる花梨の髪から、彼の与えた香がふわりと上り、彰紋を包んだ。
どこまでも清浄な、神子の気。降ったばかりの雪にも似たそれはいとも簡単に彼の色に染まっていく。
ごく他愛ないものからほの暗いものまで、彰紋の想いを吸い取り、虚空へと放つのだ。
だから、無駄と知っていて、繰言を彼は言わずに居られなかった。
「貴女以上に僕をわかってくださる方はいないと思いますが」
「大丈夫」
花梨はちらと彼を見る。
「彰紋くんに出逢ったとき、慣れなくて色々大変だったけど、一生懸命京で暮らし易いように気を配ってくれてること、わたし気づいたよ。とっても嬉しかった」
「………」
「きっとそのお姫さまも、彰紋くんを好きになる。わたしの、初めて好きになったひとだもの」
「花梨さん…」
静かに降りてきた唇を、龍神の神子はそっと抑えた。
「…今までありがとう」
呟いてから、自分で優しく口付ける。
そして霞む月は、暁の輝かしさの中へ消えて行き。
****
数日のち。花の香漂う、春宵。
「あまり口が堅いのも考え物だね」
端近から前栽を望む彰紋の耳へ、笑い含みの声が届いた。
「それで、神子殿は天へと還られたのかな」
「…はい」
東宮は振り返って、兄帝を仰ぎ見る。
史書の進講は口実であったらしく、美々しく装丁されたそれはとうに閉じられていた。
「本日、花の宴を催す前に浄めるからと、神泉苑を封しまして」
「ほう。それはあの疑い深い方もお気づきではあるまい」
「………だといいのですが。とりあえず今夕は泉水殿をお召しになり、笛の音を楽しまれているとか。
…北面の者より報せがございました」
「治天の君の厄介なことよ」
嘯いて帝は口を噤み、檜扇で手を軽く叩く。
「彰紋。神子殿は何もご存知なかったのだろう」
「はい」
「貴方もともに行きたかったのではないかと訊ねるのは、あまりに酷だろうか」
「………いえ」
「しかし。意に染まぬ縁を受けてまで策を弄し、欲する娘をむざむざ還したと聴いて、あの院は貴方にどのような感情を抱くだろうね」
「院の…父上の己を通される御気性は、乱れた京を立て直すに相応しいとお見上げしています」
伏せ勝ちな、薄い色の眸を瞬かせ彰紋は微笑った。
「帝王であった方らしく院は強いもの、美しいものがお好きです。
花梨さんを欲せられるのは当然であり必然でしょう。でも」
あの柔らかな人を踏み躙ることだけは、と呟く。
帝がため息をついた。
「龍神の神子殿が貴方の傍にあれば、と思っていたよ。私たちの力になってくださるだろうからね。院の近臣として源の一族も力をつけてきて居る折ではあるし、神子の齎してくださった均衡を保つことこそ、国を安んじる道なのだ」
「存じております」
「院の気まぐれと、私の不甲斐なさを、恨んでいい。神子殿を守ることも貴方を手放すことも私にはできない」
「…時朝が院の御意向を密かに教えてくれたとき」
彰紋がふいに強い視線を兄へ向ける。
「僕…私は花梨さんを守ることしか考えられませんでした。京のことなどどうでも良かった。
だから……こうして花梨さんを無事逃がした上は、一生かけて父上と京に背いた罪を贖うつもりです」
「貴方の心の内を、神子殿は抱えて行ってしまわれたのだね」
「………」
「……貴方のことだから心配はしていないが、左大臣の姫ぎみを疎かにしてはいけないよ」
疲れたように帝は言った。穏やかに優しく、時に優柔さを謗られもする彰紋が、剛直な意志や激しい感情を持つ人間であるとようやく最近、彼は理解したのだった。ある意味、弟は真実父の子であるのだろう。
微かな痛みを帝は覚えた。弟の誇り高さを利用して、治世を全うしなければならないのなら、せめて彰紋に次代を繋げようと思う。
「…御前を去らせていただいても宜しいでしょうか」
御簾の向こうが微かにざわめき始めていた。夜御殿に移る刻限と見て、彰紋は静かに手をつく。
ああ、と頷いた彼の前で立つ弟の仕草は既に男のもの。知らず気圧される兄を振り返らずに彰紋は渡殿を往く。
彰紋の結婚を聴かされた花梨は、一言も彼を責めなかった。
自分の世界と京の違いを知った上で彼女は東宮を選んでいる。彰紋を、困らせたくなかったのだろうか。
どちらからともなく抱き合い、彼らは少し泣いた。
互いの幸せを祈った。故郷へ還りたい、還したいという意志は変わらなかったけれども。
一夜を過ごしてさえ、指を繋ぎ、睦まじく語らうだけだった彰紋と花梨。さすがは神子さま、女房達はままごとめいた恋だと笑っていた。真実の恋を知らず。
「…僕はもう、泣きません」
長い睫毛を瞬かせ、彰紋は微笑う。
「貴女の前でしか泣かないと決めたんです」
慰めるでもなく、阿るでもなく。顎の下で手を組み、彼の話をじっと聞く人の眼差しが浮かんだ。
花梨は素直な気性の少女である。
名残の月を見上げて、別れを哀しんで泣いてくれたのなら、それで十分だと彰紋は思う。
磨きぬかれた床の上に零れた雪柳の花がぼんやりと映っていた。
細い枝をそっと彰紋は撓めて触れる。
あの暁。花梨の頬を滑り落ちた涙のように白い花だった。
FIN