追悼−東史幸氏のこと
  

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以下、すべて実話である。しかし、実名ではなく、すべての名称、氏名は仮名。しかし、5月28日現在、当時の記憶の細かいところはおぼろげである。それゆえ、詳細は、事実とは違っているかも知れない。その点はご容赦いただきたい。


 平成13年1月14日。その日はとても寒い日だった。私は自分が所属する、ジープの同好会の初詣イベントへ単身出かけていった。
 イベントと言っても何をするわけでもない。地元の神社へ初詣に行き、昼ご飯を食べ、そのあと、ドライブして帰って来るという、いわば、新年最初の顔合わせであった。
 私が所属するジープ同好会(以下、ジーピングクラブとする)は、発足からすでに15年あまり。新旧メンバー交代をしながら、現在30才から40才を中心にした20名ほどの倶楽部である。
 毒舌な私の妻から言わせると「マフィアみたい」と表現されるのだが、行動はしごくまじめ、善良で素朴で努力家で不器用な熱い男達の集まりだ。もっとも、仲間としての繋がり、団結みたいなものは確かに「マフィアみたい」と言われても仕方ないかなと、思うほど強い。「ファミリー」なのだ。
 私はクラブの中でも古参の方で、クラブの中に同じ会社の部下が3人いる。後輩としても、仲間としても大切な友人達だった。
 その内の一人。東史幸くんは30才。早くに親元から独立し、一人暮らしをしていた。3年ほど前、勤めていた会社を辞め、進路先を思案していたので、私の会社に途中入社しないかと声を掛けた。迷いもあったようだが、結局彼は私の部下となった。
 東くんは、純朴で優しい男である。が、優しいが故、優柔不断なところがあり、不器用でもあった。
 クラブ内でのイベントでは、役割の主要メンバーだけ決めれば、あとは現場主義で、クラブ員は自分の器量でそれぞれ役につき、イベントを進めつつ、自分も楽しむ。この時に、自分だけ楽しんでいると、先輩諸氏から叱咤が飛ぶ。
 こういうとき、すぐにその流れを掴んで、そつなくこなす奴と、何回繰り返してもなかなコツがつかめない奴が出てくる。東くんは後者のタイプだった。
 しかし、もとは熱い男である。クラブのこと、仲間のことを考えたとき、「おまえは甘い!」と言われても、自分のポリシーは貫くような奴だった。それで、意見が衝突して、同学年の仲間とは喧嘩もしたものだ。
 もちろん、意見の衝突があっても、友情は、仲間であると言うことは変わらない。喧嘩をしていた次の瞬間に、仲良く酒を酌み交わしていた。

 その日の昼。初詣を終えた自分たちは、食事をとることとなった。その席で、相変わらずの食欲を見せる東くんに「おまえ、また太ったか?」と誰かが言う。東くんは照れたように笑い「80キロ!」と言った。東くんは180センチ近くあるから、なかなかの体格だ。私も、背は低い方ではなく細くもないので、大きく見えるが、彼がそばにいると自分が小さくなったように思う。
 昼食後、ドライブをするわけだが、来た道を帰るのではなく、迂回し、軽い山道を走ることになった。
 結局7台・7名が参加。順番は、川瀬くん、東くん、私、倉田くん、坂口くん、松下くん、水野くんである。
 7人は順調に緩い昇り道を走った。途中、雪が降っていた。私たちの車は、ジープ、ラウンドクルーザー、ジムニーなどの4輪駆動車である。標高が低いとはいえ、山道を走るのだから、雪対策もしていた。
 案の定、降り始めた雪は、路面に降り積もり、積雪3センチほどとなった。
 
 緩い下り坂だった。対向2車線の普通の道幅。左手が山。右手は崖のようになっていて、下には川が流れていた。緩いカーブが右左と続いたあとの直線。目線の先には再び緩い左カーブがある。
 交通量は少ないため、新雪同様である。この程度の雪なら、4駆に入れ、低速で無理のない運転をすれば、問題なく走れる。私はそれでも慎重にハンドルを握り、ゆっくりと走行していた。
 その時の光景は忘れない。今でも、はっきりと思い出す。夢であってくれと思うほど。現実とは思いたくはなかった。
 前を走る東くんのジープがいきなり頭を振った。雪道ではよくある、軽いスリップのように見えた。こういうことは何度も経験しているはずで、焦らずにいれば、ハンドル操作だけで立て直せる程度のように、私は思った。
 だが、東くんのジープは、対向車線を横切り、ガードレールとガードレールの間から、道の下へ落ちていった。
「落ちた!」
叫びながら私は車を路肩に寄せた。川瀬くんは気がつかずに先へと行ってしまった。後ろから来る倉田くんと坂口くんを止め、私はガードレールへと駆け寄った。
「東が落ちた!」
「なにやってんにゃ、どんくさい。」
「お〜い、大丈夫か?!」
それぞれに叫びながら、下を覗いた私たちの目に、小さくジープが映った。思ったよりも深い崖。70度くらいはありそうな傾斜。見た目に5,6メートル。
 3人とも、それぞれに不吉な予感に目を合わせる。それは一瞬だったが。
 倉田くんと坂口くんが、脱兎のごとく、その崖を駆け下りた。「大丈夫か!?」と叫びながら。
 後ろから来た松下くんも下へと降りていく。
「返事がないーーーー!」
「運転席におらん!!」
最後続の水野くんが追いつくのと異変に気がついた川瀬くんが戻ったのは同じくらいだったか。
「おい!どうだ!」
「あかん!水につかっとる!意識がない!息してへん!!!!」
「東!東!起きやんか!!」
怒号が響く。
「おい、水野!救急車とレスキュー!」
私はそう叫んだ。水野くんは無言のままうなずき、車へと走っていった。ここは山の中。電波が通じない場所だったのだ。水野くんは、車で電波の届く場所まで行き、119番通報した。途中、電柱に書かれている所在地を頼りに、救急車を誘導したらしい。
 倉田くんの話によると、東くんは落ちたジープの下側で川に浸かっていたようだった。手と足の位置から頭を探したが目視できなかったため、倉田くんは深さ50センチほどの水の中に入り、手を突っ込んだ。最初のひと探りで東くんの頭を見つけた彼は、その体をぐっと引き上げた。水は冷たかった。普通なら、痛くて、浸かっていられなかったろう。
 倉田くんは180センチ、75キロほどの屈強な体格の持ち主だ。同じく下に降りていった坂口くんも175センチはゆうに超える身長と、腕っ節の強さが自慢のごつい体格の男だった。その二人が渾身の力を込め、引き上げても、東くんの体はジープの下からは出てこない。
「ウィンチ!車をあげないと!!」
下からの叫び声にウィンチのワイヤーの先にソフトロープをつけ、それを川瀬くんが体に巻き付け、崖を降りていく。私は松下くんの指示でウィンチのコントロールをした。
 東くんの体を引きずり出すが、東くんはぴくりとも動かない。
「東!東!なにしとんのや!目えさまさんかい!!」
叫び声が聞こえてくる。私は、他の通行車両を誘導しながら、川瀬くんの3才になる子供の安全を確保しながら、出来る限りの手を考えた。
 レスキューが来る前に、東くんを上へ上げることにした。川瀬くんが東くんをおんぶした。だが、意識のない人間の体はくたくたなのだ。東くんは川瀬くんにおぶさることが出来ない。結局水野くんも駆けつけ、4人がかりで70度の斜面を登ることとなる。
「あかん!もう、あかん!」
「あほ!!あかんて、俺らが決めることとちゃうぞ!あきらめるな!!」
そして。。。。倉田くんと坂口くんは交互に人工呼吸を行った。が、彼の意識は戻らない。
 レスキューが駆けつけ、彼を病院へ運ぶ。私は付き添いとして、同乗した。電気ショックを試みても、東くんの体は反応しない。電気が流れると心電図は動くのだが、止まると、つーっと横一本の線になってしまう。「だめなんじゃないか・・・。」絶望と希望とか入り交じった感情のなかで、考えることも出来ずに私は東くんの名前だけを呼んでいた。
 病院に着き、東くんは手術室へと運ばれた。どのくらいの時間がたったろうか。私は、東くんの家族とクラブの仲間に連絡を取った。
 家族の方になんと話そう。どういったらいいのだろうか。。。。しばらくして、留守をしていた妹さんから連絡があった。
 何を、どう言ったか。妹さんが「本当に兄なんですか?」と言った声だけが、今でも残っている。
 「心臓の中で血が固まっています。」医師の説明の中にはそんな言葉があったように覚えている。死因は心不全。溺死でも打撲によるものでもなかった。冷たい水の中に放り込まれ、心臓が動きを止めたらしい。
 1時間、2時間。次々と仲間が集まってきた。信じられないと言う顔つき。怒ったような顔つき。泣きそうな顔つき。そして、私は、警察の事情聴取のため、事故現場へ戻ることとなった。
 事故現場では、事故の目撃者として、同行していた他のメンバーが拘束された状態だった。レスキュー隊が来るまでに東くんの体を現場から動かしていたことが、犯罪の可能性があると取られたらしかった。
 倉田くんと坂口くんは、水に浸かって半身ずぶぬれであるのに、私が現場に戻るまで外で待たされていたようだった。倉田くんは本年度のクラブの会長をしていたので、代表となって警察に事情を聞かれていたらしい。
 事情聴取を終えた私達は、もう一度、東くんのいる病院に戻った。その頃には東くんのご家族も駆けつけておられ、何とも言えない気分だった。
 びしょぬれの倉田くんと坂口くんのために、病院の人がストーブを貸してくれた。誰かがコンビニで3足1000円の靴下を買ってきてくれたので、彼らがそれに履き替えている。ふと気がつくと、背の高かった東くんの遺体は足だけが毛布からはみ出していた。裸足の彼の足を見て、「おい、残っている靴下、はかせてやれ。」と誰かが言った。
 そうして、東くんは、実家へと帰っていった。


 次の日の夜。主だった何人かで東くんの実家へと向かった。
「本当は密葬にするつもりだったんですが、本葬を行うことにしました。」と、東くんの親父さんが我々に告げた。
 親より先に死んでしまった息子だから、そっと送るつもりでいたそうだ。が、病院へ駆けつけた20人の仲間達の涙や気持ちを想い、この仲間達で送ってあげてほしいと思ったのだと親父さんは言った。
「家を出た日から、こんな日が来るかも知れないとは思っていましたが。。。」と、親父さんはそういうが。。。
ジーピングクラブの最古参である前田さんが、クラブの旗を持ってきた。
「お棺の中に入れてもらえますか?このクラブは、東くんに持っていってもらいたい。」
「よろしいんですか?」
通夜は明日の夜となった。私達は、明日も来るからと、東くんに声を掛けた。
 翌日。あまり目立つようにしてもらっては、まるで暴走族のようだからと言った前田さんの言葉に反して、クラブの旗は棺の足元に巻かれていた。
「一番、楽しい思い出のある仲間達と一緒に逝って欲しいから。」
そういう親父さんに誰も反対することが出来ずに・・・・。
泣いても、笑っても、悪態をついても、酒を飲んでも、東くんは黙ったままだ。誰かが「もうそろそろ起きてくるんちゃうか?」と言いい、誰かが東くんの頬を叩きながら「いつまで寝てるんや?!」という。
どれだけはなしても話は尽きない。東くんの思い出話をご両親は、泣いているような笑っているような表情で聞いていた。
 
 本葬の日。東くんのご両親の仕事関係の方、親戚、妹さんの仕事関係の方、たくさんの方がお見えだったが、式の進行の裏方は我々で行った。イベント好きが幸い?してか、この手の行事の段取りさえ、メンバーはうまくこなしていく。
 式が中盤にさしかかった頃になっても、誰かが小さく「まだ、起きやへん。」とつぶやく。とても死んだようには思えない。東くんの顔は、血の気のない顔色を覗けば、何事もなかったかのように眠っているだけに見えた。
 出棺の際、ジープクラブの力自慢達が棺を運び出した。
「重いなあ。」
誰とはなく漏らした言葉に、一瞬、空気が和む。生きているときも重かった。誰の顔にもそう書いてあった。
 
 東くんの葬式を終えて、2週目の日曜日、彼の遺品を引き上げに、現場へと行った。時折は我が家に遊びに来て、一緒に酒を飲んだこともある妻も行くという。
「死んでからも世話の焼ける。」
恋人もいないことを生前の東くんは嘆いていたが、30才であれば、恋人がいて、婚約者がいて、結婚していて、子供がいて、そのどれかであっても不思議はない。しかし、こんなことになって、残された者がいたら、どうしただろう。
 そう思えば、身ぎれいに逝ってしまった東くんを妻は「東にしては、きれいな死に様だったな。」と口の悪いことを言うが、本当にそうだ。
 その妻が、寂しげに言うのだ。
「死んでからも世話の焼ける。」
私は、しっかりとハンドルを握った。気を抜くと、涙が出そうで。

 2月4日。節分。
 私は当年とって41才。数え年で厄年となる。その厄払いに、ジープ仲間に来てもらって、厄落としのパーティ?をした。行きつけの店を借り切って、みんなで盛り上がる。店のママさんが、東くんの分のグラスも用意してくれた。
「なあ〜〜んか、正月から、ず〜〜っとこの顔とばっかりおうとるなあ。」
仲間の一人がそう言った。確かにと、苦笑と共にこみ上げるものがある。
 東くんが亡くなった日。通夜の夜。葬式の日。荷物の引き上げの日。そして今日。最低5回。乾いた笑いが、東くんの遺影を取り巻いた。
 酔いが回り、盛り上がったところで、記念撮影をすることになった。店の駐車場に置かしてもらっていた東くんのジープも一緒に撮すことになり、水野くんがエンジンをかけた。
 ゴオンとうなって、エンジンに火が入る。車は・・・、動くのだ。フロントガラスの枠とロールバーの歪んだ東くんのジープは、ゆっくりとみんなの中に収まった。

 飲み足らない仲間と2次会に出かける。カラオケも始まって、宴会はものすごい勢いだ。
 ついてきた仲間の奥さんの一人が「お酒は飲めないけど、ビールならいける!」と真っ赤な顔をして缶ビール一本を飲み干す。歌にあわせて、ストリートダンサーのごとく躍っている仲間もいた。ふと、気がつくと、ライブよろしく、妻がマイクを握り、若い連中をのせている。そののりにのっかった彼らは、カラオケの順番が待てずに、マイクなしに合唱をはじめていた。
 ふと気がつくと、坂口くんが、一升瓶を片手にやってくる。彼は葬式に出られなかったのだ。そのせいか、彼の中ではけじめが付かないようであった。
 それは。私も同じだ。けじめを付けることができない。口では「もう、終わった。」と強がってはいても。
 坂口くんのような、頑固で、筋の一本入った硬派な男が「俺の中では終わってない。」と心の内を吐露する。
 私は「終わらせやな、東が浮かばれん。」と言った。
 いいや、そんなことは、思ってもいない。本当は、今でも何故死んだと、目の前に東を置いて、問いつめたい。同じ死ぬにしても、何故、あんな死に方をしたんだと、恨み言も言いたい。もっと、みんなが納得のいく死に方が何故できないと、愚にもつかぬ事を言いたい。早い。早すぎる。
 坂口くんは言葉とは裏腹な私の心情をわかってくれるのだろう。そばにいた仲間と4人ほどで、湯飲み茶碗で酒をあおった。もう、何杯目の酒なのか、そんなことは覚えていない。どうでも良かった。
 ただ、言葉にせずとも、同じ気持ちをわかりあえる仲間と、飲めれば、それだけで良かった。

 いつ、宴会が終わったのか。いつ、うちに帰ったのか。どうやって、たどり着いたのかさえ覚えていなかった。翌朝、妻が何人かの名前を挙げ、「ちゃんとお礼の電話を午前中に入れておくように。」と私に言う。私は二日酔いで痛む頭を抱えて、仕事へと出かけた。


 早いもので、もう5月が終わろうとしている。今年の夏は東くんの初盆だ。今だって、思い出せば、「馬鹿野郎。何故死んだんだ。」と思う。
 けれども、49日がすんだくらいで妻が言った。妻の友人に霊感の強い人がいる。その人が東があの世へ行けずにいると言っているらしい。その言を受け、妻が言ったのだ。
「いつまでも、思い続けていると、良い場所へ行けない。ちゃんと送ってやるのが友達だ。」と。
そうだな。東。おまえ、もっとやりたいことも、行きたいところもあったろうけれど。彼女も欲しかったろうし。でもな。もう、行け。俺達は俺達のようにしか生きていられないし。
 妻が別の友人からもらったという「橘のお守り」を車につけてくれた。東くんの乗っていた車が遺品分けと言うことで、我が家へやってきて、私が通勤用に使っているのだ。
 その車に「お守り」をつけてくれたのだ。それから後、気分的なものもあるのだろうけれど、私の中でけじめが付いたように思う。
 東よ。まあ、見ていろ。なんとか生きていく。平凡で、退屈な毎日。それでも、幸せで希望の満ちた毎日を。
 おまえ、早く、いい場所へ行け。ちゃんと、幸せになれ。俺達も。そうする。

平成13年1月14日 東 史幸 くん 死去。享年30才。



 

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