島からの便り

村八分
かねてから書こうと思いながら、筆を止めてきた。
書けば、田舎批判になる。
しかし、帰島して早3年。もう、遠慮の必要もないだろう。
「郷に入っても、郷に従わず」。
先進の気風など微塵も無い、橋を叩いて渡るどころか、人が渡って10年程したらやっと渡り始めると云う臆病な村である。
帰島当初、田舎の古き慣習や仕組みに対する批判、改善を口にすると、「そんなことを云っていると村八分になるよ」とよく云われたものである。
云う方は軽い恫喝のつもりか、言葉の意味を知らないで云ったのであろう。
その後の島での生活から受ける感じとして多分に後者である。
言葉は知っているが、言葉の意味が分っていない子供大人が実に多い。
何人から「村八分」の言葉を聞かされたことであろうか・・・
その都度、「有り難いね、是非、そうして欲しいよ」と、そして、「お前さん自身が既に村八分になっているのにね」とやり返したものだ。
多分、相手は云われた意味すら分っていないだろう。
村八部とは、葬式と火事を除いては他の付き合いは一切しないと云う事である。
他の付き合いとは、冠・婚・建築・病気・水害・旅行・出産・年忌の八つである。
むしろ、村八分は理想的な環境とも云える。
煩わしく意味のない付き合いから開放される。望むところである。
現に定年後、都市部から田舎に引越ししてきながら、その付き合いの煩わしさに都市に逆戻りした者すらいる。
昔は分業化が田舎では確立していない為に、家を建てるにしても、旅行にしても、村人の協同のもとにやったものだ。
大雨が降り、道が壊されると、関係する人間が道普請に協同してあたったものである。
葬式があれば、隣り10戸が炊き出しやお茶汲みに手助けしたものである。
火事があれば、半鐘の鐘を聞いて畑から駈け戻り、また、近所の人間が消化に当ったものである。
火事は多分に延焼を防ぐ自己利益防御の意味もあったのであろう。
現在はどうであろう。
火事や葬式すら官業、民業への分業化の中で葬儀社や消防署の仕事となっており、村人が手を出す領域ではなくなっている。
帰島して近くの1人暮らしの老婆の家が漏電(?)で火事になった。
近所の誰が会社から、畑から、役所から仕事を中断して駆けつけたであろうか?
帰島後、二軒隣り内で3軒の葬式があった。
近所の誰が手伝いをしたのであろうか?
全て、葬儀社お任せである。誰もいない!
彼らは村八分にあっている訳ではない。
「村八分」を口にする当人も含めて村人全てが分業化システムの中で彼らが云うかっての村八分どころか、村十分化状態に置かれているのに、言葉の意味すら知らず、また己の置かれた状態認識すら出来ていない為に、「村八分」なる言葉を未だに使うのであろう。
都市化を追求した結果、田舎的協業社会はとっくに崩壊し、孤立分断社会になっているのに、子供の頃に聞かされたものか、未だに「村八分」は怖いと云う亡霊的観念だけが一人歩きしているのかも・・・
元来、村八分は閉鎖的社会で、徳川時代から昭和初期まで行われたものの様である。
改めて書くことがあるかも知れないが、豊臣・徳川政権確立の中で敗者の立場に身を置いたこの島の人間を含め、近隣地域でもかっての仲間同士の間で排他的行為が昭和初期まで続いている。
早々と帰農した村上一族と最後まで豊臣政権に反抗した村上武吉に付いていった一族との間で。
かっての仲間を助けると同じ咎めを受けるのではないかと、村八分以上の扱いをしてきたようだ・・・
この辺りが臆病なる気質を生み出してきた歴史的背景かもと推論しているのだが、???
流石に最近は面と向って「村八分」などと云う人間はいなくなったが、陰で何と云われていることやらである。
母親はこの村で短歌会を約50年、主導してきた。
その間、多くの人間が我が家にやって来て歌会をやっていたが、その後の付き合いはどうだろう???
痴呆老人施設「潮の香」に入居して2年経つが、今でも、歌の書を毎日、読んでいる。記憶には留まらないだろうが・・・
その母親を見舞いに行った同好の士がいたであろうか。
縁戚の人間を除けば誰もいないようだ。
お互いに歳を取ったとは云え、車で行けば10分もかからない所である・・・
村八分ではないにしろ、村の付き合いは所詮、そんなものなのであろう!
