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2003年7月より記録


'06 春の陣 '05〜'06 冬の陣 '05 秋の陣
'05 夏の陣 '05 春の陣 '04〜'05 冬の陣 '04 秋の陣
'04 夏の陣 '04 春の陣 '03〜04 冬の陣  '03 夏&秋の陣


11月29日 岩波『世界の戦場から』シリーズ、出版記念の写真展

この3月、ハイチに一緒にいった高岡さんに誘われて出かけた。
昨年単身トリニダード&トバゴに行ったときと比べれば、ハイチでは深くその土地や人々とクロスすることもなく終わった。そんな思いが残っていて、ハイチはかえって気になる国となった。
上記「世界の戦場から」の出版記念の写真展が二週間、世田谷明大前の小ホールで催されていたのだが、この日は出発前に読んだ『ハイチ目覚めたカリブの黒人共和国』の著者、佐藤文則さんのトーク・ショーの日にあたっていた。
フォト・ジャーナリストの佐藤文則さんは、'88年9月以来、約20回もの現地取材を繰り返しながら、西半球の最貧国と言われるハイチを内側から取材されてきた。
日本からはほとんど地球の裏側にあたるカリブ海に浮ぶ十数ヶ国の独立国は歴史も国情もそれぞれ違い、先進国のように情報網が機能しているわけではないから、カリブ全体をきちんとつかもうとするのは、とても難しい。佐藤さんのような取り組み方をしていらっしゃるかたの情報は、ほんとに貴重なのだ。
そのハイチは年明けに独立200周年を祝う盛大な祝典を予定している。西半球ではアメリカについで独立し、1804年に黒人初の共和国として誕生したのに、その200年の歴史は熾烈であった。世界一の強国と隣り合ったハイチは、どん底の貧しさにあえぎながら、米州機構の経済制裁や内政干渉の影を負ってアメリカとはくっきりとした明暗を分けている。

日本人シスターから診療を受ける栄養失調の女の子の足はぱんぱんに水ぶくれしている。
軍政派の武装団に殺された死体は放置され、豚と犬に食い荒らされて上半身を失っている。HIVの感染率の高さやコカインの中継地としても名高い。一日の生活費は100円といわれている。埋立地のスラム街「シテソレイユ(太陽の街)」には、どうやって生きているのか分からない20〜30万の人々が各地から集まってくる。
ショッキングな数々の写真のなかから、こちらを見つめるひとびとの目は暗い。
同じアフリカから連れてこられた奴隷の子孫でありながら、国のありよういかんでどんなに人々の命運が翻弄されるのかを、数々の写真は如実に語りかけてくる。

11月23日 今年の「地球の詩祭」は市ヶ谷アルカディア

わたしは学生途中で結婚した。そんなことは詩祭とは何の関係もないようだが、多少ある。
会場を例年の半蔵門ダイヤモンド・ホテルから移した市ヶ谷アルカディアはもとの私学会館だが、かつてここのマネージャーをしていた方に桂子先生という50代の和装の麗人がおられた。常陸の国のおひいさまの末裔だということで、どこか他の方とは違った風情をお持ちだった。一度も結婚したことがないのは、恋人だった将校さんが戦争で亡くなったからだそうだ。
その方と深いお話をしているうちに、不覚にもわたしは泣き出してしまった。この大泣きでわたしは結婚することになり、式はこの私学会館で行った。
えっ? 何ですって? いつものことだけど、話が見えない? そうだろうとは思うけれど「ここはそれで善し」としましょう。

地球賞の受賞対象は鈴木有美子さんの『水の地図』。
第二部のライブ《東京の川とその源流紀行》は個々のお話がとても面白かった。多摩川・隅田川とセーヌ河・妙正寺川・石神井川と神田川・野川・荒川の話。川はわが源流への遡行に通じ、それは詩作の原点に通じる。

  ……/リバーマンカエル/そうだ/リバーマンはKujikawa-River へかえればいいさ!/
  川男だもの/川へ!/川の上流へ!/叫んだ途端/真空の眠りの中へ飛び込んだ//
  かえろうよ わたしのリバーマン/Kujikawaを枕に眠れば/流れていくのは忘れてしまっても良いことばかり/…
                              (鈴木有美子『水の地図』「Kujikawa へ Rivaerman かえる」より)

リバーマンから祝電も届いた。
詩の身体性ということが最近よく言われる。身体性とはあまりにも今様だけれど、時代が変っても生きのびていくものなのかどうかは分からない。
めずらしく、山本さんと高岡さんがつきあってくださった。詩世界以外でご活躍の方々が寄ってくださるのは嬉しい。

11月16日 23日から台北で世界詩人会議   ベンガリ語  白い愛馬

数日前にインドのカルカッタからメールが来た。
わたしが保坂・松尾さん主催の『こだま』に3回連続で発表した『白い愛馬』の原作者、チャクラヴォルティ氏からだった。
氏の児童書は15冊を越え、ヴィジャヤサールというベンガル語で最高の児童文学賞も取っている。
来日した時に銀座でお会いし、そのときタイプして差し上げた詩にも忘れられない無垢な雰囲気があって、大の大人である氏の感性のどのあたりから出てくる言葉なのかと不思議な気がした。
この優れた作品がうまく出版に結びつけばいいけれど、さてさてどうしよう、と連載の最終回が掲載された『こだま』が送られてきて思っていた矢先だった。
メールは、あなたも台北にいらっしゃるといいんだけれど。そこでお会いしましょう、という内容だった。
先月うちにでも言ってくださっていれば、考えないでもなかったが、今からだと申し込みさえ間に合うかどうか分からない。
日本から出席する方々のうちの数人は存じ上げていて伺ってみたら、10月末に申し込みは締め切られているという。
23日の前夜祭当日は、市ヶ谷アルカディアで「地球の詩祭」も催される。
それが終わった翌日に出発するということもできるだろうが、いつも行き当たりばったりなのはもったいない、とここ数日考えあぐねていた。

庭に百ほども成った柿をもいで、用事で来宅した義妹と箱詰めしていたら、電話が鳴った。
A・チャクラボルティ氏だった。氏の台北出発に間に合いますようにと、『こだま』を送るため慌てて郵便局に走った。

11月14日 Good Luck!

離日するTabitaの荷物が多くて、成田まで送っていった。

昨日はU女史と濃霧の碓氷峠と志賀高原を通り、雨の野沢温泉に行って、外湯めぐりというのをやった。
U女が東急のなんとかいう応募に当たったということで、ありがたくもお相伴に預かったものだ。
湯ボケ(?)した体と心を引き締めて、タビタの家に急いだのだが、首都高の渋滞であわててしまった。5号線は高島平の付近でもうひどいのろのろ運転。
これでは目と鼻の先の板橋本町までどのくらいかかるのだろうか、と不幸な気分におそわれた。
高いお金を払って、瞬時にしろ不幸を買うのではたまらない。
ずっと慌てていたので、成田にはいい時間に到着したが、12日に二人でゆっくりした時間を青梅の隠れ家「井中居」ですごせてよかった。
二年間暮らした日本だが、いつも物価の高いことを悩んでいたから、会席料理も初めてだった。
煙を立てて檜の葉に盛られた鮎が運ばれてきたりすると、strange を連発しながらデジカメのシャッターを切っていた。
わたしもそんなTabita のstrange な光景を撮っておけばよかった。

Boarding Time までのひととき、最後のよもやま話をした。
ヒューストンで仕事を見つけたら、修士コースに入りたいそうだが、いっときは妹のアパートに転がり込むのだという。その妹から、今アメリカで就職口を探すのはほんとにシビアだとさんざん聞かされた、と不安そうだった。
駄目だったらまた日本に戻ってくるという。
Good Luck!と声をかけたら涙腺がゆるんで、それを隠すようにすぐに搭乗口に消えた。

11月6日 一生ものの予防接種

A・B型肝炎の三回目の接種をして、これで一生の保証を得た。予防は完璧、100%なのだそうだ。

2月末に第一回。ハイチ出発前日の3月14日に二回目のA・B型肝炎と破傷風の予防接種をした。
突発性アレルギーか何かが出そうに忙しかったから、熱でも持ちそうな気がしたが、東京検疫所から紹介していただいた秋葉原のインフォメディシスの先生のお話が楽しく気持ちがなごんだ。
先生は日本の女性大型詩人たちを複数ご存じで驚いた。主に吉原幸子さんや、新藤凉子さん・新川和江さんなどラ・メールに拠った方々だった。手持ちのカリブの訳詩集をさしあげたら、ジム・ハッサウェイ氏との実に豪華な連歌句集『梯』をいただいた。先生の雅号は、寒河江光。海外に長く勤務されたお医者さまだ。
自由書道というか、水墨イラストというか、チャーミングな画像がいっぱいで、今までみたこともない画集、いえ句集、う〜ん、とにかく名付けられない本なのだった。
A4大の分厚いこの本は、中が三段に分かれており、上段では二人は墨書された字や画の描き手として、中段では連句の作者として、下段では読み手として登場するという仕掛け。

破傷風は出発前の二回の接種で終わっていたが、効力は一年ぐらいしか持たないそうだ。
A・B型肝炎の予防接種が義務づけられていないのは、先進国では日本くらいのものだというお話をうかがった。
一生ものだし、接種の副作用がまったくないので、小さいときに国民全員が接種するシステムができないと嘘だと、この病気で苦しんでいる人にとっては臍を噛みたくなるようなお話だった。

11月3〜4日 タビタと送別旅行  厳島神社の鳥居、click ! 錦帯橋前で、Miss.T.L.

3日: 11月14日にヒューストンに向かって発つタビタの、日本での最後の旅行につきあって西へ飛んだ。
 タビタが計画した格安旅行で、羽田6:55分発の始発便、帰りは広島20:10分発のオフ・タイム。
 彼女はトリニダードの出身だが、奨学金でUSAのノース・カロライナ州で大学を終えたあと、しばらく仕事をして日本にやってきた。外人仲間でも人気があり、前日の晩も送別会で帰りが遅かったらしいから、早朝5時に浜松町にかけつけるのはたいへんだったようだ。わたしはわたしで3時起き。日頃ならやっと就寝、ということもある時間帯である。
 そんな思いをしたのに、3日は小雨模様。宮島行きを翌日に延ばし、姫路城まで出掛けるのは止めにして、市内ですごした。
 しかし文化の日のこの日、広島市内では文化施設のほとんどが入場料を無料にして訪問者の便をはかっていた。広島城も美術館も縮景園も。
 これだわ、とわたしは思ったものだ。日本はどこも入場料が高くて、短期滞在の外国の人たちは行きたいところにも行けないのを知っている。日本にきたとたん、生活に追われてどこも見ないまま帰国してしまう、そんな人たちがたくさんいる。
 全国一斉に広島の真似をするといい、と一人で納得し、なんとか滑りこめた縮景園でのお茶会をタビタに奮発することにした。正座をしている足は大丈夫かなぁ、と心配しながら40分。格調高いお茶会を堪能し、散会後は着物の美女たちともお師匠さんとも記念撮影ができた。
 タビタが広島にこだわった理由は、人づてに聞いた宮島の日本情緒たっぷりな美しさだろうけれど、いつか二人で行った東松山の丸木原爆美術館の印象にもよるだろう。平和記念資料館は英文訳の用意が十全だから、つぶさに事情を知ることができる。でも念を入れて読むのは辛い、途中で耐えきれない気分になる。
 わたしたちはひとしきり体験学習したあと、路面電車に乗って八丁堀で降りて宿へ行き、いったん手足をのばすことにした。
 早朝4時に家を出てから朝食も食べずに歩きつづけ、もう1時を廻っていた。

 タビタはとても頭の良い若者で、判断も的確だし情報もよくつかんでいて、ときどきこちらのほうが案内される。
 そのときどきで何が妥当で大事か、きちんと判断できるから、これからもうまくやっていくだろう。
 母親がアメリカで自分の人生を築くことを娘たちに望んでいる、と聞いているが、母国のトリニダードにはまだまだそう人生の選択の余地がないことを、娘を手放す親の感情を突き放したところで、よく見極めているのにちがいない。

 お昼はクーポンを手に入れて、「よっちゃん」という広島焼きの名物店でスペシャル・メニューを食べた。
 夜はホテル脇の居酒屋で一緒にキムチ鍋をつついたが、白身のたらを追加注文すると、手持ちがなかったらしく、かわりに水槽から掬ってきたかわはぎを皿に盛ってきた。


4日: ホテルで宮島までの路面電車、連絡船&ロープウエイの往復が含まれているクーポン券を買う。厳島神社ではお誂えむきに生演奏の雅楽が奏でられ、綿帽子をかぶった花嫁や神主、巫女とすべてが完璧にしつらえられた婚礼の儀式の最中だった。
 鹿のたくさん出ている紅葉谷公園を通過して、1.1KMおよび0.6KM山道のロープウエイを乗り継いで獅子岩駅に着いたが、ここから弥山の山頂まではさらに30分歩かなければならない。
 だがわたしたちにそんな時間はない。岩国を回って今日のうちに東京につかなければならないのだ。
 早々にもと来た道を引返して、JR山陽本線に乗り込むべく、フェリーで対岸の広電宮島口にもどった。
 時間ばかり気にしながら錦帯橋を見、市内バスに乗り、山陽本線に乗って広島へ。そこからシャトルバスで50分もかかる広島空港に向かった。
 どこでも時間にゆとりはなかった。
 一泊くらいがちょうどいい。それ以上時間をかけるとお金ばかりかかる、とタビタは言う。
 身のあるお金の使い方だといいけれど、落とすために使う、といったことが実際多すぎる。
 堅実にがんばっている外国人との交流は、そんな自分たちが見えてくる。

 だが困ることも多々あった。カナダ人のジャマール&ジャスミンと京都旅行をしたときは、日本人の人種意識のことで言い合いになった。ジャマール自身、必要以上にブラックだということを意識していて、ものめずらしげにふりかえる日本人の視線にたえず被害意識を感じていた。
 日本人は慣れていないだけで、侮蔑ではないといっても、あなたには理解できないと引かなかった。タビタにはそんな卑屈さはみじんもない。プライドを維持できる素質のせいか、アメリカナイズされている若者だからか、大らかな気質のためかは分からないけれど。
 ホワイト・カナディアンのジャスミンの徹底したベジタリアン(菜食主義)にも困惑した。
 かつおだしもかぎ分けてしまうとなると、ほんとに日本では食べるものがない。京都妙心寺の精進料理さえ、煮だし汁も天ぷらのつけ汁も駄目なのだ。
 インターナショナルな都市のレストランは、もうそろそろベジタリアン・メニューも考えたほうがいい。
 色々な外国人から「ベジタリアンのメニューがないのは、世界でも日本だけだ」と言われてしまう。
 京都では台所のついた外人向けの安宿に泊まり、市場で野菜や卵を買って持ち込み、京都料理にも縁がなく毎日ジャスミンの作った卵サンドばかり食べていた。熱さと長距離の運転もあってわたしは旅から2キロ落として帰ってきた。もちろん、減量には異存はなかったけれど。
 
 
10月30日 決死の、西沢渓谷

 関越→秩父路→橋本鍾乳洞→栃本の村落→雁坂トンネル→西沢渓谷、このコースもわが「勝手にエージェンシィ」のおすすめの一つとなった。
和光市駅10時は少々遅く、渓谷到着は1時半。前夜は2時間しか寝ていないというU女ふたたび、それに苦手な吊り橋が心配なK女、こんなはずではなかったとぼやくN女とで必死の遡行。
 それでも4時には五段の滝まで辿り着いた。心臓に自信のないN女は大丈夫かなぁ、と思いつつ最後尾を受け持ったわたしに追い立てられた彼女。わたしも内心はらはらしていたが、時間どおりに踏破できたんだからすごい。
 びっくりした心臓が、すこしだけ軽くなったとしたら、とても嬉しいけれど。
 
10月25日 第2回「詩と創造セミナー」     ←click !  

 2時より神楽坂エミールで、青樹社の丸地守氏を中心に今年度の「詩と創造セミナー」がおこなわれた。
 今年の「現代ポイエーシス賞」は原子修氏の『受苦の木』。
 「詩と創造賞」は古賀博文氏の『人魚のくる町』。
 『柵』で連載執筆しておられる古賀さんとは、こんなに若い方なのだと妙に感心した。歯切れのいい物言いが新鮮だった。
 講演は大学の一、二年時に教えていただいた清水茂先生の「イヴ・ボヌフォワとジャコメッティー」で、学生当時とても複雑で暗かったわたしに優しい言葉をかけてくださったことが、いつまでも心に残った。
 この日の講演に感激した後輩の星乃真呂夢さんもまじえて、懇親会で少しお話を伺ったのだが、先生は「僕も暗かった」とおっしゃっていた。人の痛みをとてもよく理解できる詩人らしい方なのだ。

 現代詩フォーラム「現代詩はどこへゆくのか」にパネラーとして出られた河津聖恵さんとは、京都を話題にしばらく立話をした。息子が二人とも京都なのよ、ということから話は始まったが、アメフトの応援で京都通いした当時がなつかしい。みんな何物にも替えがたい、可愛い子供たちだった、あの頃は。
 気持ちがこんなに通じないものだとは思わなかった、あの頃は。

 懇親会では、日本の詩人たちが金光林氏に捧げた詩のアンソロジー、「韓国のユリシーズ キム・クヮンリムへ」(青樹社刊)の贈呈式が行われた。新川和江さんが献辞を述べられ、白石かずこさんが朗読をした。ふと思いついて受付に残っていた本のページをめくってみると、大石規子さんが地球に発表された゛世界を抱きしめたい゛が載っている。
 もう何年も前に「地球の詩祭」翌日のバス・ハイクで秩父に行ったことがあった。そのときわたしが着ていたブラウスは東半球の世界地図だった。
 そこはさすがに言葉の妙味を知っている詩人たちの集まり。言葉遊びがとびかって、こんな結果となったのだったが、ゼミナール当日、たまたまわたしは柄違いの西半球の世界を着ていた。
 ブラウスの胸をつまみ、コトの顛末を話題にしながら「詩のタイトルを書いてほしい」と金光林さんにサインを求めた。少しも偉ぶらない氏が書いてくださったのは、たくみな日本語を一字だけ脱字した弘法の筆のあやまり。「わたしは世界を抱きしめた」となっていた。
 ご当人が気づいていない間違いを、「ホホホ……」と楽しく眺めているのは、たった一人わたしだけ。

明日26日は、圏央道鶴ヶ島IC近くのどこかで、「ジャンビィ隊」の会。三連続の外出と他のことも重なってパンク状態。鶴ヶ島が終わったら、渋谷宅。その足で池袋でタビタとの約束がある。こなせるだろうか?

10月24日 詠み芝居なるもの、「鶴八鶴次郎」

 池袋芸術劇場小ホールでの壌晴彦氏率いる劇団『座』の公演に、山本さん・宇野さんと出かけた。
 演し物は第一回直木賞を受賞した川口松太郎の『鶴八鶴次郎』。
 パンフレットによると、この作品は'34年のアメリカ映画『ボレロ』からヒントを得て、川口松太郎が書きおろしたものとのことだ。
 '34年にはじめて映画化されたときには山田五十鈴が演じた鶴八および長谷川一夫が演じた鶴次郎を、金子あいと演出も兼ねている壌晴彦がこなした。舞台の鶴八は美しかったし、演技もそれらしく板についていた。
 人間国宝で新内語りの名手、鶴賀若狭掾も共演した。芸人同士の恋の物語で、舞台には日本文化の古い伝統が盛られていて、日本を離れるタビタを連れてくればよかったと悔やまれた。

 壌さんが鋭意推進しておられる名作の原文を忠実に生かした詠み芝居=現代浄瑠璃のは、今年のはじめに紀伊国屋ホールで初めてみたが、表現にこだわるわたしたちには嬉しい手法だ。本にばかりしがみついているより、読むための努力と時間を惜しみながら原文の味わいを立体的に楽しめるぜいたくさ。
 預けてあるシナリオはどうなったのか、昨年来の活動を無にしないためにこれからどのように先につなげていけばいいのか、頭の痛いところだけれど。

10月16日 幻の実行委員会余燼の秋色

 U女とT女をご案内して谷川岳へ。
 旅行エージェントよろしく、人の案内を名目に自分を許して、お気に入りのスポットに出掛けた数は裕美子がいた富士方面とどちらが多いだろう。
 先週末から週はじめにかけての雨続きで洗われたのか、赤城高原SAからの谷川岳も榛名も今までにないほどくっきりしている。逆にそれだけ、一の倉の幽玄味が薄れていたかもしれない。トレーニングがわりのハイキングも幽ノ沢までくらいだと効果薄だ。土合駅の400何十段は往復する時間がなかった。
 でも、途中でU女へ仕事の依頼が入り、なんとか帰京できたようだから芝倉沢まで行かないでよかった。
 東京へ引き返す彼女を水上駅まで送ったあと、T女と宝川温泉に行ってみてやはり卓抜したスポットだと思ったが、それにしても今年の紅葉はぱっとしない。

 「紅葉」というと何といっても、'94年9月末に行った涸沢の紅葉を思いだす。
 その年はひときわ熱い夏で、10年ぶりだといわれていた。白籏史朗氏の写真展ももよおされていた涸沢山荘では氏の姿を見かけたし、写真コンクールも催されていたから、混雑もひとしおだった。
 ゴルジュ下方で涸沢のパノラマが見えたあたり、九州からの松子さん、珍しくも悦っちゃん、典子さん、朋ちゃん、みんなで息をのんだことを思い出す。
 それ以来、もう一度あんな紅葉が見たい、と思うとどんな秋色も褪せてみえる。

 温泉好きのラニガン氏に宝川温泉を紹介したいけれど、内湯と一番奥の摩耶の湯をのぞく4ヶ所がみんな混浴なのは困りもの。

 U女ともT女とも、カリブのノーベル賞詩人D・ウオルコット招聘を一緒に盛り上げようとして知り合った仲だから、燃えかすも紅葉の華やぎとなった、というところ。

10月7日 わたしたち「昭和っ子」、初めての再会

7日: 昭子さんと和子さんに新宿でお会いした。身近な人たちだが、戦後は会う機会もなく初対面に等しい。
 二人の名前を合わせると「昭和」となる。わたしたちはほんとに昭和の落とし子なのだ、と表しがたい気持ちになった。
 二日違いで生まれた、とときどき聞いていた昭子さんとは赤ん坊のころに対面したはず。妹の和子さんは、伯父に当たる父上が中国で戦死されたときは、まだこの世に生まれていなかったことになる。
 9月に大分県に行ってお墓参りしたときの、「31歳」という文字・鴨居にかかっていた紅顔の写真が二重写しになった。そのそばに飾られた佐藤栄作元総理の名が入った勲章授与の賞状も虚しさを添えていただけだ。
 一番上の伯父は長寿だったけれど、早逝した同い年の従姉には一度だけ、その弟には会うこともなかった。
 わたしって、ほんとに血縁に縁が薄い命運なのだなぁ、と思う。それでもわりあい自足できるところがあるのは、救いなのか救われないところなのか、自分でもよく分からない。

10月5日 国際協力フェスティバル
    (持ち帰った砂漠のバラと三葉虫の化石の写真は、「風の通り道」の「詩の種」にサムネイルとして貼りつけた

 10月4日、5日は日比谷公園で国際協力フェスティバルが行われた。
 手が足りない、という声がかかってのぞいてきたが、テント・サイトの数は見おおせないくらい多い。
 国際協力市民団体(NGO)・政府・国際機関・自治体・民間団体など、約200団体の参加で開催されたのだそうだ。
 知らなかったが、10月6日は国際協力の日。日本でも1997年から毎年、大勢の人たちに国際協力とは何かを知ってもらうとともに、理解と参加を呼びかけようと、このような「しあわせ地球村」は設置されてきたとのこと。
 若者を中心に、こんなに多くの人たちがマイノリティの文化やかれらのおかれている困難な状況に向き合おうとしているのかと思いながら、展示物を手にとった。一同に会しているからといって、あふれるばかりの情報を一どきにつかめるはずもないままに。
 物質主義の先進国の文化にあまり刺激を受けなくなった目は、あちこちのサイトの出品物にいちいち気をひかれて忙しい。わたしのことばかりではなく、テントをのぞくたくさんの目がそう言っている。
 わたしはモロッコのブースで、悠久の時間と空間を感じて詩情を誘う小さな「砂漠のバラ」を一個と、これも小さな三葉虫の化石を買った。

 後ろをふりむけば、ベトナムのブンボーフエ(麺料理)・ネパールのチャー(ミルクティ)・フィリピンのパンシット(焼きそば)・ボブズアラビー(アラビア風ホットドッグ)・タンザニアのマンダジ(揚げパン)・ピザンゴレン(揚げバナナ)...珍し好きのわたしは珍しい名前にも雰囲気にも誘われる。
 手伝いどころか邪魔にしかならないのに、食べ物にはとてもそそられて、これ以上はわが身の危険だと逃げ帰った。

10月1日 HOME PAGE をアップ

 ついにホームページをアップした。「ついに」というのも、思いついてから一年半が経っているため。
 さらにその数年前も、考えないではなかった。そのときは公私の線引きがけっこう難しい、と現実化するのを先送りにした。
 英語リーディング・グループがスタートしてからは、公共の場をつくろうとみんなと約束したのに、カリブの訳詩集を出したあとも国際カリブ年の行事やその後の流れでカリブっていて、時は流れた。
 HPデビューについては、HPをすでに運営している方たちをはじめ、ページを開いてくださる方たちも、みんな心暖かくて感激している。
 しかしまだ分らないことだらけだ。PC環境が違う受け取り手のことがまずは分らない。だからどんな発信をしているのか、自分が分らない。でも密室の作業が即座に人目にふれることになるから、ページ作りにも言葉にも無神経ではいられない。その点、今ばかりは緊張している。
 今日、「詩と思想」10月号を手にとったら、時評のところに「いとうさん」が「インターネットの閉鎖性」と題してネットのマイナーな面をいろいろ書いておられるのに気がついた。いとうさんって? そうかなぁ、と思いながら読んだところが多いが、いとうさんはインターネット擁護者のようだから、連載の次回は思いがけない展開をするのだろう。
 わたしからしてみれば、ここまできたネット環境はもう後戻りできない、ならば方法はあるだろう、と感じるすべり出しなのである。

9月17〜20日 宮崎→大分→フェリーで神戸

 義母の法事で宮崎へ、感じるところの多い旅だった。4〜5篇の作品となったが、こういうところがホームページの効用なのかもしれない。
 「詩種」の箱がまだ空だ、と思えば採集してくる材料はいろいろある。日頃いかに種を種のまま捨てているかということを改めて自覚した。
 しかしこの4〜5篇以外にもまだ作品化できないものは多い。いつものことだが枝を刈るのはたやすいが、幹や根っこごとエッセンスのところをもぎとってくるのは難しい。作品化すると、旅日記に書く必然性は吸収され、饒舌は寡黙へと変わる。→cf. [詩の種]

9月13日 日本詩人クラブ例会&朗読

 入会以来、初めての出席となった。あまり詩の世界に出ていかなくなってからずいぶん年月が経っていて、なつかしい顔にも会えたし、二人の講演がなかなか楽しかった。
 木村恵子さんの父親を語る話は、木村孝氏の詩人らしい素顔と会話が生きていて、詩論を聞くより直にひびいた。
 この度、『嵐のちから』によって第39回短歌研究賞をとられた阿木津英さんは「恋歌とフェミニズム」というタイトルをベースに具体的な短歌をあげて、使われている言葉とジェンダーとの関係を聞き手といっしょに意識的にとらえなおす試みをされていたが、現代詩と他分野とのコラボレーションは現代詩の特性を知る機会となる。
 最後に筧槇二氏が言及されたのは、元来が主語のはっきりした外国語からの輸入品である現代詩の、和歌とは違う過剰な「わたし」意識。
 カリブの、特にオラル・トラディションから照らして、詩のダイアローグの魅力を短いコメントでまとめたかったが、考えてみたらわたしが朗読した「地図のはずれで」と「弔辞」の二篇も、他者に呼びかけるダイアローグ形式でありながら、自分について語る対峙者を配すことによって、やはり強烈に「わたし」なのである。
 自分から離れて世界を書くとは?----と、しばし考えるきっかけになった神楽坂参詣。

8月22日 マルセル・デュレ大使とハイチ

 原書を読む会の仲間たちと八ヶ岳に合宿に行き、その荷も解かないうちに、横浜に出かけた。
 バナナ・ペーパー・プロジェクト国際協力の会の前事務局長・高岡美智子さんからお声のかかった、在日特命全権ハイチ大使デュレ氏の送別会である。デュレ氏の滞日は12年間にも及んだとのことで、その間には本国ハイチの政変もあり、ご本人の感慨はひとしおにちがいない。

デュレ氏にはじめてお会いしたのは、去年の信州でのカリブ・フェアのとき。
 2002年は、その前々年度に史上はじめて開催された日カリブ閣僚会議の決議書にもとずいた「国際カリブ年」だった。
 日本発のバナナ繊維でつくる製紙技術は、カリブとの新たな架け橋の一つとなった。
 フェスティバルでは日本の古典芸能の狂言(和泉元弥三姉弟出演)や大倉流和太鼓(大倉正之助)、津軽三味線(木下伸市)と、カリブの音楽や踊りとのコラボレーションが、たがいに底通するもののある土着の芸を見せてくれた。
 ハイチからはコンガ(タンブー)奏者の国際的第一人者アゾールと、ヴードゥーダンスと現代アフロダンスをミックスさせたショーを見せてくれるダンシング・グループ=アートコがやってきた。人なつこいダンサーたち一人一人の、手足が長くヒップのキュッと上がったしなやかな肢体には見とれてしまったが、ショーはあいにく荒れ模様の天候のために短時間で流れた。
 長野県飯縄高原大座法師池の水上ステージにむかって古代コロセウムの円形劇場のようにスリバチ状にゆるやかに下っている疎林の客席は雨に濡れ、観客はみんなスリバチの底にかたまっていたが、その一角に心配そうなデュレ氏の姿はあった。
 翌日、メイン会場に近い「アゼリア飯縄」で「バナナが地球を救う」と題された日カリブ共同のバナナ・ペーパーに関するセミナーが催された。
 日本発のバナナ・ペーパーの技術援助はハイチから始まったが、最初に手を挙げたのがデュレ氏だったとのこと。フェスティバルの開催地、長野県の田中康夫氏とともにデュレ氏もパネラーの一人だった。脱ダム宣言で世論をわかせた田中県知事は欠席だったが、自然環境を狂わせる森林伐採から地球を守るという発想の原点は、バナナ・ペーパーも脱ダムも偶然のように軸が一つなのだと認識した。

バナナ・ペーパーとは: 廃棄物であるバナナの茎から繊維を取り、和紙の工法を取り入れて作られる紙のことで、同時に地球環境を破壊する森林伐採をくいとめ、発展途上のバナナ生産国の経済支援につなげようという壮大な理念にもとずくもの。その具体的な活動『バナナ・グリーンゴールド・プロジェクト』は名古屋市立大学の森島紘史教授を中心にして現在進行形である。日本発の技術は外務省(ODA、カリブ室)や民間の支援で、ハイチ他、ジャマイカ、セント・ルシア、セント・ヴィンセントなどに輸出されている。

“ハイチ、カリブの鼓動”のビデオ上映会が、2002年11月、大崎駅前のしながわ夢さん橋向こうで行われた。そこでデュレ氏とアドゴニーさんにお会いした。大使館員のアドゴニーさんのヘア・スタイルは一度あったら忘れられない超個性派。大仏さまの螺髪のようなカリビアン・ヘアだから、和カリブ折衷のオリジナルなのかもしれない。カリビアンはずいぶん髪型に凝るというのは分かっていたが、現地でもこういうスタイルは見たことがない。メディア受けだってするだろうなぁ、思っていたら、すでに「さんまのからくりナントカ...」など、ときどきテレビでお見かけするのだそうである。
 ”カリブの鼓動”は大使が監修し、ハイチの文化・音楽・宗教を日本の文化と対比しながら紹介するドキュメンタリータッチの映画だった。わたしがどうしてそこに現われたのか、今では記憶も希薄だけれど、レセプションでお会いしたどなたかにご紹介いただいたものと思う。

2003年3月、ハイチに行くことになった。イラク戦争勃発前夜でもあり、ニュー・ハンプシャーに住む友人のジョイスとニューヨークで落ち合う予定を返上したあとでさえ、二転三転してほんとに決断できなかった。同行する高岡美智子さん、吉行くん、横浜在住で日本人妻になったハイチ出身の山田かりんさんと3歳のジョジアらとともに西麻布にある在日ハイチ共和国大使館を訪れ、いろいろアドヴァイスいただいた。訪問時に訪れたハイチのIFE(女性起業家協会)が母体になって運営しているバナナ・ペーパー工房も、日本の支援によりつくられたものである。

6月初め、練馬公民館で行われたアゾールの演奏会に行った。そこには客席にデュレ氏がおられ、遅ればせの帰国報告ができた。

8月18〜21日 熊騒動のオート・キャンプ   瑞牆山  乙女高原

18日: 塩尻ICで降りて木曽路を走り、〈寝覚めの床〉で息をついて、福岡ローマン渓谷オートキャンプ場へ向かった。
 このあたりは中津川・恵那峡・付知川と、さまざまに名称が変わるが、みんな木曽川水系なのだそうだ。
 雨つづきで付知川の水量は、川遊びをすれば流されてしまいそうな勢い。
 夜中、テントをたたきつける雨に起こされ、二つのうちの片方からは雨漏りがして、丑三つ時に車中に避難する騒ぎとなった。

19日: 曇り空の中央アルプス千畳敷。
 冷夏のためか花ごよみはそうとう狂っていて、いまだ蕾の花も多い。
 去年の奥飛騨を通って金沢→能登→越前とたどった初めてのオートキャンプはやたらに暑かったが、今年の夏はどういう異常気象なのだろう。一週間前に八ヶ岳に行った英語リーディング・グループの研修キャンプのときも、どしゃぶりの雨にたたられた。
 雨との闘いで夕食の後片付けもせずに寝た翌朝、犬かきつねか狸か、それともいたちか? ボールのなかの焼き肉だけが盗まれて..。

翌20日: 瑞牆山のキャンプ場では熊さわぎとなった、といっても熊が出没したわけではない。
 雨つづきの奥秩父の奥、利用客はわたしたちだけの灯り一つないし〜んと静かなキャンプ場。
 夕食が済んでお腹がいっぱいになるとエネルギーは充ちてきて、考えることもなくじっと見つめる闇の奥。二つの光る目が、けだものじみて見えてくる。ほんとは木立のむこうを走りさる自動車のテールランプだったのだけれど。
 「熊が出たらどうするの?」と言い出したのは誰!
 「無人のあの管理棟には鍵がかかっていないから、あそこのフロアで寝られる」と利口な頭を寄せあって、寝袋やマット、置きっぱなしにはできない刃物など、もろもろぶらさげ押し入った管理棟。
 二階に寝ていた管理人さんは、さぞびっくりしたことだろう。(管理人さんは常駐しておられます。それにこれは規則違反。施設は青少年育成プログラムの研修のためにのみ使われています。反省!)
 「なにぃ! キャンプに来て、キャンプがこわいだと? 熊なんか出ないけど、そんなことなら、まぁ、畳の部屋に寝たらいい」
 とやさしい管理人さんの異例のとりはからいで急に元気になった女三人。
 久しぶりのお客を迎えたと見える部屋を走りまわり、蚊取り線香のニオイをたきしめながら、種類豊富なクモやガガンボ(?)、カナブンなど、安眠をさまたげそうな虫たちをひとしきり昆虫採集したのでした。

21日: せっかく来たのだからせめて瑞牆山を間近に仰いで帰りましょう、と歩き始めた矢先、[熊 注意]の立て看板が目にとまった。
 「やはり!」とばかり動かなくなった友を残し、勇敢ともいえない有閑な二人連れは前進したが、そのときガサガサッと熊笹の音。
 あらわれたのは熊ではなく、ただの人。ところが、「おはようございます」と何度挨拶しても返答がない。
 人里離れたこんなところでコミュニケーションが取れない人型というのはほんとに怖い。
 これまでのこちらの事情もあり、人の形をした熊の化身にも、人を捨てた人間にも見えてくる。
 「動物以上に怖いのは人間?」というリーダーの声に、ここまでとばかりに駆け足で引き返した。ところが半時たってすれちがった車の助手席に、 ニヤ〜ッとこちらに白い歯を見せて、なんとその人は座っていたのである。
 ちょっと人が悪いお方だけれど、勘違いしてごめんなさ〜い!
 以上は、力ずくでは勝ち目のない自然の脅威や闇が、人間の想像力をどのようにかきたてるかを、あらためて思い出したというお話です。

帰路は、クリスタル・ライン、雁坂トンネル、それに西沢渓谷を探訪できればいい、と思っていた。
 クリスタル・ラインとは山梨県高根町(清里)から始まり、県の北部で瑞牆山・金峰山・甲武信岳の山ふところを走る20路線もの県道、林道、農道、町道をつないだ山岳観光道路だ。
 全長68キロもある細い道で、奥秩父もほんとの奥だけに、この雨つづきのあとでは崖崩れなどのために走破することはむずかしいだろうと、半ばあきらめていた。地元のたしかな情報通によると、うれしいことに現在通行止めの箇所はないという。大半が標高1000メートル以上ある道路は狭いがしっかり舗装されているし、通る車もほとんどないから大丈夫だということだった。
 このルートをたどって、牧丘町で笛吹川と併走する国道140号と合流すれば、西沢渓谷は近い。
 山梨県増穂町と関越の花園を経て熊谷市を結ぶ140号は、かつては武田信玄の軍用道路であり、甲州と秩父をつなぐ旅人の道だったから、便利な車時代が道をせきとめたのだろう。秩父郡大滝村にある栃本の関所は往時の名残りである。
 わたしが小学校六年生のときの担任だった太田巌先生はそのすぐ近くに住んでおられ、秩父に関する数々の本を著していらっしゃる。平成10年4月、40年前から構想のあった全長10キロの雁坂トンネルやループ橋が完成し、「開かずの国道」はついに開いた。長い間荒川の上流で行き止まりとなっていた道は、山梨県の東部で立ち消えていた「幻の道」とつながって、高度の技術が新秩父往還を可能にしたのである。

 小学校時代、父親が監督をした入川沿いの川又発電所(現、東京発電栃本発電所)は廃業となったのか、秩父湖沿いの細い生活道路および急斜面の栃本の田畑はトンネル工事でどう変わったのか、二瀬ダムの上で三峰神社へ行く道と分岐する素掘りのトンネルは吸収されたのかなどなど確かめてみたかった。一週間前、八ヶ岳の研修キャンプの帰りにここを通ったときは、よく把握できなかった。
 実際は雁坂トンネルにつながる新140号はバイパスで、旧国道とは二瀬ダムの手前で分岐し、栃本の関所をすぎたところで合流している。

15年ほど前、母と訪れたこの地域のことは、板橋詩人会の詩誌『橋』にエッセイ「ぽえてぃっく・どらいびんぐ 秩父篇」として発表した。
 15年前というと、ちょうど父が亡くなった年に当たっている。
 瑞牆山を朝8時に出発して、東京に夜の9時に着くまで、走ったキロ数は相当長い。
 クリスタル・ライン途中の乙女高原ではまつむし草やわれもこうなど、夏と秋の花々がいちどきに咲き乱れ、ほっと癒される心地がしたし、西沢渓谷は水量が多く、とどこおっていたものをいちどきに洗い流すいきおいで流れていた。

8月14日 わたしはカリブりあん    カリビアン・ヘア   スティール・パンとパン・マン

 「板橋詩人会」で永年ご一緒だった詩人の小倉勢以さんから電話があった。
 今日の東京新聞紙面であなたの名前を見て驚いたわよという。一瞬、「何!」と身構えた。が、8月10日に中野サンプラザで行われたトリニダード&トバゴからやってきたスティール・パン・オーケストラ『エグゾダス』の演奏会のこと。そこにお誘いした元TBSアナウンサー、現フリーランスの宇野淑子さんが担当されたコラム『言いたい放談』のことだった。
 宇野さんにとっては始めて接する石油のドラム缶で創られた民族楽器の演奏に感じるところは大きかったようで、ほんとに良かった。
 一緒に出かけた十数名の方々も満足されたようすで、来られなかった人たちはかわいそう、という声まで聞いた。
 そのコラムを読みながら、わたしにとっては四度目の経験となった数日前のコンサートを思いだしていた。

 始めての経験は、2002年2月のトリニダードでのパノラマ・ナイト。カーニバルの前夜祭のような、その年の王座を決める決勝戦だ。
 夕方7時からはじまって夜中の2時ぐらいまで60人から100人で構成するオーケストラが延々舞台に現われる。
 どのチームも意匠をこらし、観客を飽きさせないから、最後には自分との体力戦になる。
 その模様は今年四月末、NHK-ハイビジョンで細かく放送された。

 2度目は昨年夏、保谷市のこもれびホールで聞いたレネゲイズの演奏会。
 トリニダードが誇る有数のチームが海外遠征用に構成した『カリビアン・マジック・スティール・ドラム・オーケストラ』。
 20人に満たないバンドのメンバーで、あのパノラマの夜を再現できるのか? といぶかっていた懸念はコンサートの後、きれいに消えていた。屋外の仮設テントとちがい、日本のホールの音響効果が100人の演奏に負けない迫力を演出していた。
 チャイコフスキーから「もののけ姫」まで、ボブ・マリーから「すきやきソング」まで、デリケートな音からオーケストラの厚みのある音までをカヴァーしていたが、ファンたちも心得たもの。曲想に合わせて着席して静かに耳をかたむけたり、ディスコまがいに踊り出したり、会場と舞台とが一体になって、めりはりのある楽しい雰囲気をもりあげていた。

 3度目は外務省カリブ室が主催した国際カリブ年の「カリブ・フェスティバル」。
 時は'92年9月はじめ、所は信州戸隠のキャンプ場から三日間、日頃の疲れをいやそうという渋谷さんと通った飯縄高原の裾野にある大座法師池の水上ステージ。池面から吹き出す噴水と、コロセウムのように擂り鉢状に舞台に向かって傾斜した山の斜面を客席に見立てた演出は、台風の余波で逆効果となった。
 和泉元弥三姉弟出演のときに張った天蓋が雨も景色もさえぎっていたが、雨にも風にも負けずスティール・パンのファンたちは舞台と一体となって踊り狂った。宇野氏も書いていたように、彼らのピュアな目のかがやきが闇夜のなかでことさら印象的な光を放っていた。

 そして4度目は上記のとおり。
 5度目は昨年と同じバンドが埼玉県の「コピスみよし」に来るのを見にいくつもり。
 石油のドラム缶から創りだされた、20世紀で発明された唯一のアコースティックであるこの楽器を、かれらの苦難の歴史とともに鑑賞・紹介する機会になればいい。
 奴隷たちがアフリカ本土からもたらしたアフリカン・ドラムは支配者たちに使用を禁止され、そのかわりに生まれたこの民族楽器は、現在、世界とは言わず日本でも急速にその人気は広がっている。この楽器をその歴史とともに不屈の精神・生き残りをかけた闘い・無から創り上げるリサイクル・再発見や再創造のメタファーであると感じるとすれば、なぜ今スティール・パンなのかが分かるというものである。

7月19日 トリニダードからの便り         ←click

 昨年11月に上梓した『ポール・キーンズ・ダグラス訳詩集』に関して、その後も原作者と多少のやりとりがあり、メールを通して日本語と原語を交互に吹き込んだテープが欲しいと頼まれた。
 そう簡単にいわれても、個性の強い方言詩をうまく朗読する自信はない。
 それに現在日本に在住しているトリニダード人は、宮崎に住んでスティール・パンを制作しているMr. M・ロビンソンと、語学学校の先生をしているMs.T・ラダー以外に誰かいるのかどうかも分からない。
 しかたがないから、忙しいタビタに頼み込んでつきあってもらうことにした。カリブの多島海では同じように英語を使っている近隣の島国であっても、たとえばジャマイカのパトワ語とトリニダードの通用語のようにそうとう違うから、ややこしい。

 タビタはトリニダードの南方、サン・フェルナンド近くのPrinces Town の出身で、奨学生としてアメリカのノース・カロライナで大学を終え、仕事も少し経験したあと日本にやってきた。
 送ったテープは翻訳の出来具合いのカクニンなのか、たんなる記念なのかと思っていたら手紙がきて、オン・エアされたのだと書いてあった。
 あらら、そしたらもうちょっと「よそゆきスタイル」で朗読したかったのにと当惑する。「じゃ、出演料はただになったの?」と、土曜日に香取慎吾のスマ・ステーションに出てアルバイト料をもらっているタビタは言う。
 手紙には、「もし本がサーズ菌に冒されてなければ、6月19〜21日にカナダのトロントで行われるブック・フェアにサンプルとして出したいし、トリニダード・ジャマイカ・トロント以外の島々の図書館にも送りたいからもっと本が欲しい」と書かれていた。
 あわてて日付を見ると、この手紙が投函されたのは5月中、今は7月でブックフェアも終わっている。小さな封書が一ヶ月半もかかって着いたのだ。それにしても中国も日本も区別がつかないのは、文化人のダグラス氏にしても同じなのだ。
 同封されている三枚のコピーは、日本で訳詩集が出たという新聞記事、ジャマイカのウエスト・インディーズ大学の図書館とトリニダード日本大使館からの著書受領の挨拶状であった。
 訳詩集と新しくリリースされた彼のCDのことが出ている「トピックス」のタイトルは、「’Tanti’goes to Japan 」となっていてちょっと楽しい。
 タンティとは彼のお話に出てくるメイン・キャラクターで、とにかく人騒がせなオバタリアンである。
 生活のセンスが大いにずれていて笑える、日本にあらわれたおばさん、タンティはわたし……ではやはり困る。
 知らなかったが、この本は彼のデビュー30年目の記念になったのだそうである。

   「CELEBRATING 30 years as a writer and performer, Paul Keens-Douglaus is delighted to have his work on the international market. Some of his stories have been recently translated into Japanese and published.............
   Keens-Douglas who has been dramatising his work since 1973, first performed this dialect story on stage while he was a student at the University of the West Indies, Mona Campus, Jamaica. So how did tanti find herself in Japan? Chikae Taniguchi, a member of the Writer's Organisation in Japan, Japan Poets Club and Japan's Pen Club and Creative Poetry Magazine--CHIKYU,.......... became acquainted with Keens-Douglas' work through her son who once worked in the oil industry in Trinidad.
   ..............With a keen interest in Trinidad and Tobago's culture, Ms Taniguchi visited Trinidad during the Carnival season of 2002. While in Trinidad, Ms Taniguchi contacted Keens-Douglas indicating the publication of his work in Japan. Consequently, she proposed putting together a book of his work fully translated in Japanese.............The book was published by Seijusha in Tokyo.」