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4月30日 Ben's Cafe  
ニューヨークのライブ・ハウスやストリート・パフォーマンスの詩の朗読会などの話・友だちである盲目の黒人スティーブ・キャノンがやっている「tribes」というサイトの話などを聞いて、下の記事の翌日、夕刻からのBen's Cafeのオープン・ポエトリー・リーディングにも行ってみる気になった。アメリカ人BENさんが経営する高田馬場のBEN'S CAFEには以前二回ほど行ったことがある。
最後に行ったときには、ラジオ局やテレビ局が取材や収録に来ていて、参加者・一般のお客さんも一緒になって、狭い店内ばかりでなく、テラスもどこもごった返していた。
第五週は○○というアメリカ人の司会進行で、英語オンリーの朗読会なのだということは知らなかったが、当日はちょうどその日に当たっていた。しかも何度かに一回の散文がメインの夕べなのだという。それだけ聞きやすかったはずである。
日本人も外国人も取り混ぜて、あっと驚く表情豊かなパフォーマーたち。昨日は日本語の詩しか聞けなかった大友有子さんの堂々の英詩の朗読もあり、何人ものギャグのうまい語り部たちに、店内はテラスとのガラスの間仕切りをオープンにしてもむんむんとする熱気に満ちていた。
わたしも詩を二篇朗読した。誰よりダラチンスキー氏と大友有子さんが反応してくださったが、あたたかいみんなの拍手に迎えられたと感じたのは、気のせいばかりではないと思う。
本村さんの体験――ニューヨークでの朗読を想像しつつ、ニューハンプシャーで待っている友人のジョイス・ケンプのことが急に身近に感じられた。
4月29日 日米詩の交流会   ヒヤシンス・ハウス前で
所属誌『地球』の秋谷氏からお声がかかって、マンハッタンから来日中の伝説的ジャズ詩人、スティーブ・ダラチンスキー氏を囲む朗読会を、浦和の別所沼公園に市民の手で建てられた「ヒヤシンス・ハウスの会」主催で共に盛り上げることになった。
ネットでダラチンスキー氏を検索すると、たくさんの資料に行きついた。ラップにも通じるような即興性のある自由闊達な詩のどこで立原道造とつながっているのだろうと興味が湧く。ここは昨年11月、アジア環太平洋詩人会議の3日目のイヴェントでも野外朗読会の会場となったところだ。そのときに合わせて発行した二人誌『Le Petit Cadeau3』に収めた『Sunday』の中の二篇と、神保光太郎の詩に呼応するように新たに選んで訳した「小さな墓の上に」をバイリンガルで朗読した。
アレン・ギンズバーグやケネス・レクスロスとのこれまでの接点を紹介しつつ、歓迎の挨拶をした秋谷豊氏につづいて、ダラチンスキー氏の自由なスタイルの朗読があった。氏が「鳥、鳥、鳥……」と連呼すると、鳩が寄ってきて首をかしげる……「雨、雨、雨……」とリフレインすると、空がぽつりぽつりと雨粒を落とす……、そんな万物のスピリットを呼び込むような朗読で、その雨粒をピリオドの合図として、後半は会場を別所沼会館の和室に変えた。お世話役の本村さんや佐世保出身の奥さま大友有子さん、『地球』同人の朗読へとつづく、なごやかな会であった。
4月18日 上州・榛名へ
溜めるだけ溜めてしまった記事の数々。
しだいに覚束なくなる記憶力も手伝っていつのことか忘れていたが、球体のオブジェが前庭にも、隣接した畑にも転がるその場所はくっきりと覚えている。詩人の富沢さんが運営する「榛名まほろば」。
書架と喫茶店を併設した建物の内部は気持ちよく、覚えのある詩集の数々を手に取るのも楽しく、いろいろな顔と名前で出ている幾多の詩人がここを訪れるのもよく分かる。
http://homepage3.nifty.com/harunamahoroba/
近くを走る関越に乗って通過したことは無数にあるのに、いつも「どこだろう」と思いながら走りすぎた。
けれどひた走るばかりが能じゃない。来月初めの「ポエトリーステージ」には参加できないけれど、これからは寄り道の効用を切り捨てないようにしたい。
もう一つ忘れられないのは、連れと一緒にお昼にたべた手打ち風のおいしいうどん。現地は水沢うどんが名物の土地柄。ほんとのことは知らないけれど、勝手に「これは水沢うどん」の味だと納得したりして。
過日、ネットで見つけて出かけた足をのばした日本橋蛎殻町・水天宮駅に近い「自費出版図書館」でも、たくさんのことを感じた。そのへんの事情は最近書いた月刊総合誌の記事として盛り込んだが、NPO法人として図書館の運営をしているI氏は、長く大手の出版社にいらした方なのだそうだ。
利潤追求が基準で推進される出版より、いま自費出版が面白いという氏の視点には認識の盲点をつかれた思いだった。20年前にピークを迎えた戦争の記録を集めているという書架で何げなく手にした一冊に、知友の亡夫の日記を見つけて目を疑った。その図書館からさっそくその詩友にケータイしたのだが、これなども書くということの・文字として遺すことの意味を深く伝えるドラマである。
4月8日 お裾分けの杯を重ねて春気分
長いあいだどこの詩団体にも所属していなかったのに、幻のデレク・ウオルコット招聘文化交流の委員会を推進しようと思うあたりからあちらとこちらに入会し、その後も欠席ばかりしていたのに、昨年の後半あたりから出席率がよくなった。どういう風の吹き回しか自分でもよく分からない。
人生いろいろ詩人もいろいろ……だが、やはり同じような居場所に流れついた者同士、言語や意識の領域がどこかで重なっていて、ときには自分の延長線上に触れることになる。そこが詩人たちと袖ふれあう醍醐味かもしれない。この日は三賞の受賞式に行ってみた。
http://homepage3.nifty.com/japan-poets-club/event/2006/2006even.htm
新人賞『切通し』の竹内さんは戦後生まれ。その戦争体験・熊本弁は意外性の魅力。『ゴドー氏の村』ゴドー氏はGODだという川島さんの日本詩人クラブ賞、一度は系統だててつかまえたいと思う佐藤さんの詩界賞『日本近代象徴詩の研究』。気分が良かったためか、パーティばかりでなく、次のカラオケにも流れていった。聞き惚れるばかりの歌い巧者たちのなかで聞き役に徹するのは悪くはないが、ソファにしがみついていた分、そこでもアルコールとつきあうことになる。翌日まで響いて気分が悪く……という体験は、10年振りかそれ以上なのだと強調しておこう。
4月4日 今年の桜  はい、ポーズ
例年より早まった今年の桜は、ばたばたとしているうちに見のがしてしまうところだった。
以前から九州大分産の三人と出かけることになっていた靖国神社と千鳥ヶ淵は、せっかくなら花見時にしようと話していたのに、なかなか調整がつかなかった。大分県から帰京するA子さんを待って出かけたが、花はちょっと廃れてくると不思議に迫力がかける。それでも今しかないと思い切ったのは、遊就館ももう一つの大事な目的地だったからだ。しかし、小泉首相の靖国参拝が問題化して以来、靖国神社に行こう……と思うだけでなんだか気がひける。
仲間は、それぞれ事情は少しずつ違ってもみんな父親を戦争の時期に失った人たちだ。そんなことをさして意識もできない小学校中学年のころ、あるいは物心もつかないうちに別れたきり、数年前に思いがけない再会や出会いがあって、今さらのように国の犠牲という言葉を身近に感じたのだった。
わたしが前回ここを訪れたとき、何より印象的だったのは、読み応え見応えのある館内をめぐった出口近くの一室だった。そこには、若くして戦争で散った遺影がところせましと飾られていた。従軍慰安婦の写真もあった。恋人と結ばれることもなく去った若者への慰霊の品である幾体もの花嫁人形が、壁面いっぱいの白黒写真とともに不思議な空間を作っていて、その部屋を出るときにわたしはやがて誰の記憶からも忘れられる同世代の父親への思いを呼び覚まされていた。
明治15年に開館して以来、長いあいだここは軍国主義をあおるばかりの軍事博物館だったにちがいない。けれど思ったより軍国色とは関係のない客観的な史実に基づいた貴重な資料の展示に、再訪をそそられた。史実の一つ一つは深く重く、通りすぎるほどの数時間では汲み取りきれるものではない。今回もまた、次回は時間をかけて一人で来たい……という思いが残った。
父親を中支で亡くしたA子さん、湖南省で亡くしたS子さんが遺影をここに……と気づくのはもう少し早かったほうが良かったのか、希望者はどんどんふくらんで、今や別室がもうけられて以前のような展示とは異なるものになっている。
桜のピークはすぎていたものの最後の花見とばかりに人出も多く、能楽堂では三日間、宝生流、観世流、そして野村萬作・萬斎親子の狂言師が揃う贅沢な演能が行なわれる予定で、長蛇の列が出来ていた。鳥居前の広場では猿が人を集めている。若い女性の猿使いにテレビで厳しい修行ぶりを見た話をすると、「あれはわたしと同門の後輩です」という返事が返ってきた。想像を超える猛特訓だったが、その成果はさすがにお見事。写真用のポーズも堂にいった限りなく人に近い演技だった。
4月2日 地場産野菜とネット・カフェ
久しぶりで関越を花園インターで降りて、初めて熊谷方面の篭原に向かった。
途中、140号沿いにあった道の駅「かわもと」の、少し顔が違う野菜たちが気に入った。
地場産の野菜は血糖値を下げる菊芋だとか、庭の一角で息を吹き返しそうな深谷ねぎだとか、うこんやブルーベリーだとか、みんな健康な顔をしている。帰りにまた寄ってみようと先を急いだが、道の駅のパーキングで出会った人が篭原までの複雑な道を「後についてきなさい」と、寄り道をしながら案内してくれた。東京のベッド・タウン圏から少しはずれたくらいのところまでくると、人情もまた健全なのかもしれない。
そんな地域のそんなお二人と篭原の駅で合流した。元詩人仲間・現在フラダンス講師のIさんと、現在も詩のお仲間のY氏と漫画喫茶に行くためだ。インターネット・カフェと健康な野菜との取り合わせは両極端で面白いが、この新種のスポットは初めてという二人の反応も面白かった。いつの会にもフォト担当で、なくてはならない存在として記録を撮りつづけていらっしゃるY氏にHPを紹介して、写真をお借りできた。謝々。
3月19日 フランコフォニーとホテル・ルワンダ   
披露宴は大阪の新梅田シティの一角で執り行われた。折しも翌日の19日、フランコフォニーのフェスティバルが空中庭園のある隣の梅田スカイビルで行なわれるという情報が入った。
友人の山田かりんが出演するハイチの歴史をたどった劇「クリストフ王の悲劇」(エメ・セゼール作)が、早稲田の大隈講堂で催されたのは昨年のこと。それもフランコフォニー・フェスティバルのイヴェントだった。http://homepage3.nifty.com/fuuchichiku/fuuchi/kaze/journal/journal_3.htm
首尾よくいけば、前回出会った出版社の方たちやその他の人に会えるかと思ったが、前回に比べると小規模のもので、パネル展示と物産展・演奏と踊りがフロアーの一角で行なわれていた。
スカイビル名物の空中庭園とは空中に設けられた緑豊かな庭園かと思ったが、空中から庭園と化した展望を楽しむという意味なのか、空中を渡るエスカレーターを含めて巨大なオブジェに見える近代建築のことなのか。眼下にはたしかに「中自然」と呼ばれる庭園が見えるが、それら眼下の展望をはるかにこえて、逆光に光る大淀川の向こうには、瀬戸内海と、わたしが2ヶ月前に通った淡路島にかかる明石海峡大橋までが霞んで見えた。
午後からのフランコフォニー、つまりフランス語を話す世界52ヶ国のアソーシエイションのフェスティバルをのぞいて帰ろうと時間調整している間に、階下で上映中の映画「ホテル・ルワンダ」を見た。アフリカ版「シンドラーのリスト」だと言われるアメリカ映画で、2004年12月アメリカの劇場数館で公開されたが、またたくまに評判となり、翌月には2300館で拡大公開される大ヒットを記録したのだそうだ。わたしは観ながら珍しく泣いてばかりいた。
舞台は1994年のルワンダの首都キガリ。長年続いた民族間の争いが大虐殺に発展し、100日で100万もの罪なき人が殺される中、ツチ族の妻を持つフツ族の有能なホテルマン(ミル・コリン・ホテル)のポール・ルセサバギナという男が行き場のない難民と化した人々をホテルにかくまいはじめる。国連も見放す中で、家族を守ろうとした一人の父親が1200人を救うことになった実話に基づいているこの物語は、「この映画を日本でも観たい!」という20代の若者たちが立ち上がって、ネットで署名運動を展開。5000通もの著名を集めて日本公開を実現させたものだ。
2004年度のアカデミー賞ほか、2005年度にゴールデン・グローブ賞など、数々の賞に輝いた作品。
http://www.hotelrwanda.jp/intro/index.html
是非お薦めしたいが、この記事を公開する現在ではもう終了している映画館が多い。身近なところとして、これから上映される映画館は以下の通り。もっと広範囲な情報は上のサイトからも取得できる。

東京 下高井戸シネマ 5月27日(土)
神奈川 港南台シネサロン 5月6日(土)〜26日(金)
厚木テアトルシネパーク 6月17日(土)〜23日(金)

ルワンダという国はアフリカ中央部コンゴの東側に位置する小国だ。ウガンダとともに意識したのは、ニューヨークで起きた9・11の後にノーヴェル賞を取ったインド出身カリブ育ちのイギリス人、V・S・ナイポールの『A Bend in the River』を輪読していた時だった。長い歴史の中で、ブラックが人間以下にしか扱われない悲劇は今も続く。このルワンダ大虐殺もつい10年前の出来事である。

3月中旬〜 大事なことほど書きにくい 
2月は複数の原稿締め切りに追われていたが、3月に持ち越したものもあって首尾よくはかどるかと気になった。下の子の結婚式が半ば過ぎに大阪で執り行われることになっていたからだが、標題の通り、そんなことほど書きにくい。MYホームページはあくまでも私一個のもので、周りを巻き込みたくはない。現在進行中の某誌の「インターネット時評」を書きながら、ネットというものの性格をよく考える。思いがけないところに花粉のように飛び散り、本来なら花にも実にもなるはずのものが公害の代名詞にもなる。
大変だったでしょう……と言われるほどには何もしないまま当日を迎えたが、それならば大変だった人は他にいるはずで、それを心に留めておくぐらいしか出来なかった。
本人のイトコだけでも30数人いる親族の多いわが家の結婚式も、代を追うごとに形が変わっていく。形式よりも素地と本音で、というふうに。海外での挙式とレストランでの会食・人前結婚式などいろいろあった。特に変わったのはたぶん親世代が戦中・戦後生まれのあたりから。結婚式はともかく価値観の物差しがその代の前と後では変わった。親子で同じ方向を指向できた世代はそのぶん、双方ともに幸福だった……という意見もあるが、戦前に教育を受けた儒教的・封建的な考え方をもつ親世代と多少なりとも抗戦したのも今の親世代だ。そのときは良いと思ったことでも何を築いて何を壊したのか、ずっと後にならないと分からないことも多い。
ともかくも、「良かったよ」と言われた独創的な宴もその後の集まりも無事に終わって、この記事を書きこんでいる今は若葉の季節、思いはときどき二人が生活を始めた南アジアに飛んでいく。
3月2日 東松山〜青梅 
一ヶ月以上も書かないと、何があったのか忘れてしまう。
たどる頭も最近とみに覚束ない。しなければならないことも溢れているから、無理せずに。
無理をする人、という代名詞をいただいたこともあったけれど、もうほどほどにして無理せずに。
ついにわたしらしからぬそんな気持ちになるのは、ついに必然なのだろうか?
この日は、地域に住む二人のKさんを誘って、2月17日の記事に書いた丸木美術館奥の都幾川沿いのM宅に伺った。Mさんが池袋の芸術劇場の展覧会に出品した際、合流した仲間だ。会場入口のショーウインドゥに特別扱いで飾られていた黒地に帯地の縁取りをしたキャンバスに着物の端切れと紐を絵の具がわりに絵を描いたタペストリーは、M宅では吹き抜けの玄関の天井から下がっていた。
二階の仕事場から都幾川の流れをときどき眺めながら、持参した端切れをみんなととみつこおみつアレンジしてみた。土台にする地模様の黒地の着物地は、三つ紋の羽織をほどいたものだが、五三の桐がついているから祖母の遺品だ。真っ赤な羽二重は元は何だったのか分からない。十代のわたしの羽織になり、それから道行きに仕立て変えた。鴇色のラインの入った大島も良い味を出すにちがいない。後はMさんのセンスに任せることにして帰宅した。
一週間もしないうちに「出来上がった」という連絡があり、ご主人の車で古巣であるこの地域にいらっしゃることになった。置いてきた端切れは男モノの大島や他の布を添えて、二本のストールと小さめのマフラーになっていた。
譲り受けた先代の着物をこんな形にして、親族のだれかれにあげたいと思っていたが、来たる息子の結婚式当日、まずは還暦祝いのイトコにプレゼントしようと思う。
小学校の先生をしているご夫婦とも娘の卒業した大学の先輩で、そんな話に花が咲いた。
前回伺ったときにいただいた東松山元禄茶屋のみそだれは、湯がいただけの新鮮な春野菜によくマッチする。
後日、たくさん注文してこの春はとれたて野菜をたっぷり賞味した。