こんなことを言ったら天罰が下りそうですが、大学時代まで教職は私にとって最もなりたくない職業のひとつでした。自分が教職に向いているなどとはとても思えませんでしたし、また、私自身、教職の大変さを生徒の立場から感じ取っていたからです。給料の方は、一応、地方公務員ですから、山形県では恵まれた方ではないかと思っていましたが・・・・・・。あともうひとつ、中学生のとき先生方が29分間のストライキをやっている姿を見たり、一部の先生が授業中に他の先生の悪口を言うなどという醜い姿を見たりして、私は教職に対する神聖さを感じなくなりました。とにかく、妹(小学校教諭)が最初から教員になりたくて教員養成学部に入ったことに比べると、私は本当に遠いまわり道をしたものです。

 大学生のとき日本育英会(旧称:現在の日本学生支援機構)から毎月12,000円の奨学金をもらっていました。国立大学の授業料が毎月3,000円の時代でしたから、私にとっては結構な金額です。卒業した次の年度から毎年28,000円ずつ返還し始めました。8年目すなわち海上自衛隊を退職するとき、退職金の中から残金92,000円をまとめて返還して、返還義務の288,000円を全額返還しました。まさか全額返還してから教職に就くとは夢にも思いませんでした。教職に就けば奨学金の返還が免除になると聞いていましたので、何とも皮肉なものです。

 それでは何が縁で公立高等学校に勤めることになったのかと言いますと、これまた話せば長い話です。私のことを「世渡りのうまい奴だ」と思う方がいらっしゃるかもしれません。結果的にはそう見えるでしょう。しかし、本人は現在の自分よりも新しい自分を常に夢見て、そのときそのときを一生懸命に勤めてきただけです。それに、こんなにすいすいと列車を乗り継ぐように仕事を変わるのは自分の力だけでは不可能です。よく言われるように、人との巡り合いがあったからです。

 自分で言うのも何ですが、私はつくづく運のいい人間です。私自身は天から見てそんなに立派な人物とは言えませんので、きっと先祖の生き方が善かったのでしょう。「子孫には財産でなく善い運勢を残せ」という意味のことがよく言われます。今まで見聞したことからすると、実際、そのとおりだと私は思います。ただし、自分は先祖の功績を食いつぶしているのでは・・・・・・と思うこともしばしばあります。

 

【 米沢工業高等学校 】

 私が米沢工業高等学校の電気科に常勤講師として勤めるようになったのは、ここの電気科に定年退職後も非常勤講師として勤務していたベテランの先生が2名いらっ しゃったからです。簡単に言えば、そろそろフリーになりたいということで、教諭または常勤講師のポストがひとつ空いたということです。運よく次の職にありつけたとは言え、まもなく私は「とんでもない世界に入り込んだものだ」と現実の厳しさを味わうようになります。一部の生徒を見ると、まるで刑務所とか動物園にでもいるような印象を受けたからです。

 平成2年4月2日、新任者打ち合わせのため米沢工業に初めて出勤しました。自分の立場を有り難いとは思いながら、その反面、別世界に飛び込む自分が少し不安でした。新しい仕事に慣れるまでまた大変な思いをするのか・・・・・・と思ったからです。晴天ではありましたが、雪がまだ積もっていました。通勤は列車です。山形駅西口に月極め駐車場を借りました。自家用車をそこに置いて、山形駅から米沢駅まで列車に乗り、米沢駅から学校まで徒歩で通いました。実は、当時の校長(社会)から電話で官舎の話もあったのですが、私は辞退したのでした。

 この1年間は、県教育委員会から助教諭の臨時免許状(工業)をいただいて、常勤講師として勤めました。不安定かつ微妙な立場です。正式な採用試験は、7月26日に山形大学小白川キャンパス (山形市)で第一次試験、9月20日に山形県教育センター天童市)で第二次試験を受け、最終的に10月19日付で合格通知をいただきました。

 ここで、第二次試験でのエピソードを紹介します。個人面接の後に集団面接がありました。集団面接では工業希望者が 数名ずつひとつの部屋に集められました。与えられたテーマについて議論しているとき、ある受験者が「私は工業高校出身なので、生徒の気持ちはようく分かります」と述べました。そしたら誰かが「私も工業高校出身なので、よく分かります」とか追従しました。私は内心、「そういうことが売り物になることもあるんだなあ」と思いました。確かに、工業高校には私のような普通科出身の者にはすんなり理解できない部分があります。自分はやはり普通科なんだとつくづく思うこともあります。収入を得るためとは言え、私はいわゆる職人にはなり切れないかもしれません。この辺にジレンマを感じるときがあります。

 ところで、採用試験と並行して私は東北大学工学部で「職業指導」4単位を聴講しました。その年の夏、7月に3日間(前半)、8月に5日間(後半)と分割して開講されました。 受講者は10名余りで、工学部、農学部、経済学部の学生ばかりでなく、仙台市内の工業高校で実習助手をしている現職1名もいました。この先生は、両親がともに置賜地方の出身で、本人は仙台市内の高校で学び、山形大学工学部を卒業してから会社勤務を経験したという話でした。講義よりも演習の多い講習会でした。この年の12月、県教育委員会に高等学校教諭一種免許状(工業)を出願し、翌年1月1日付で晴れて免許状をいただきました。これで一応、身分上の保証が得られました。

 高等学校教諭一種免許状(工業)を取得して実際に工業高校に勤務するとなると、どの学科に所属するのが妥当なのか困ってしまいます。というのは、私の卒業学科は工学部の応用物理学科なのですが、普通の工業高校には応用物理学科に該当する学科がないからです。このような事情から採用試験は、何となく自分に近い感じがする電気・電子の区分に応募することにしたのです。電気工学科や電子工学科を卒業して工業高校の教員になろうとする人が少ない時期でしたので、私でも何とか滑り込むことができたのでしょう。

 工業高校の教育職員は、基本的には教諭と実習助手から成ります。教諭の定員が満たない場合は、助教諭、常勤講師、非常勤講師で補うことになります。工業高校では、実習助手として何年か勤務すると、四年制大学の工学部を出ていなくても本人の希望により工業科の教諭に鞍替えする道も開けます。実際、山形県の工業高校には、そのようにして教諭になった職員が結構います。実習助手は学級担任にはなれません。なる必要がありませんと言った方が 適切かもしれません。現在、山形県では正式な職名は「実習助手」ですが、日常の職場では「実習講師」を経て、「実習教諭」という通称が使用されています。

 私は米沢工業で勤務するまでは、高等学校の教育職員はすべて四年制大学を卒業しているものとばかり思っていました。ところが、最終学歴が中学校卒業、工業高校卒業、短期大学校卒業、工業高専卒業、工業短期大学卒業、はたまた四年制大学中退・・・・・・と、学歴に関してはそんな単純なものではありませんでした。それとは逆に、大学院を出てまで工業科の教諭になるという人間もいます。どっちの方向にしても、良く言えば多様化というか規制緩和(?)というか、学歴なんて本当に必要だったのかと思ってしまいますね。それに、同じ高等学校の教育職員でも工業科の場合は、工業高校出身者が他の教科に比べて極端に多いです。実習助手はほぼ全員が、教諭、助教諭、常勤講師はほぼ半分が工業高校出身者です。いくら四年制大学の工学部を卒業しているとは言え、私のような普通科出身者にとっては、異民族(それとも異人種?)の世界に飛び込んで勤務しているようなものです。当然ながら、少なくとも私の場合は、心理的にはホームゲームでなくアウェーゲームです。

 この年の9月9日(日)、工業高校の運動会というものを初めて体験しました。会場は山形大学工学部グラウンド (米沢市)で、JR南米沢駅のすぐ隣にあります。1学年8クラスなので、科対抗という形式で縦割りに8チーム造っていました。競技もさることながら応援合戦もなかなか熱が入っていて、トランペット やトロンボーンによる楽器演奏も見事なものでした。私は久しぶりに気分が高ぶりました。よく言えば「青春の迸り」ということでしょうが、ときどき『塀の中の懲りない面々』を連想してしまう情景もありました。それはともかく、当日までの練習とか準備作業ばかりでなく、終了後の後片付けも大変でした。

 採用試験の結果が届いて1〜2週間後から、私は自家用車で米沢工業まで通勤するようになりました。列車通勤の場合は列車の出発時刻・到着時刻に束縛されるからです。車もカローラFX (TOYOTA)から 四輪駆動のシビックRTi(HONDA)に乗り換えました。 両方とも中古です。実は、叔父が蔵王自動車販売(山形市青田)に勤めていたものですから、私の車はいつも蔵王自動車販売から購入しています。自宅から学校までの通勤距離はちょうど50キロで、最高タイムはちょうど1時間でした。平均時速50キロということになりますか。つじつまが合わないかな? 国道13号線経由で米沢に向かうとき一番渋滞する場所は高畠町でした。ただし、自宅を出るタイミングにも依りまして、出発時刻が5分早いと10分早く学校に到着し、5分遅いと10分遅く到着します。雪の日はその傾向が大きくなります。

 「藩祖と中興 二公のやしろ ・・・・・・」という校歌の歌詞にも現れているように、置賜という地域性を考える上で旧藩主上杉氏の存在は非常に大きいです。上杉氏は会津若松から120万石の家臣団をほとんどそのまま抱えて米沢に移って来たので、住民に占める家臣団の人口比率が他地域に比べて高かったのです。そのことが置賜(特に米沢市周辺)の地域性を形成する大きな要因になったようです。しかし、現在、米沢市内には上杉家臣団の子孫がどの程度いるものなのでしょうか。

 この年の5月3日、さっそく「米沢上杉まつり」の武者行列に参加しました(学校から割り当てられました)。市内を行軍してから、松川河川敷で昼食を取り、午後からはクライマックスの「川中島の合戦」です。私は武田方の数名(生徒)を率いる 副将でした。穴山隊の一員でした。例により稲富流の火縄銃が河川敷に響き渡り、それに続いて武田方(高坂隊)の総反撃が開始されました。言わば大人のチャンバラごっこです。

 当時は、右図のように上杉神社のすぐ側に校舎がありました。 数年後に新校舎の建設工事が始まり、平成9年度からは新校舎に移転して授業が行われています。

 米沢市出身の代表的な海軍士官と言えば、あの南雲忠一海軍中将でしょう。真珠湾攻撃、インド洋作戦、珊瑚海海戦、ミッドウェー海戦、南太平洋海戦などの司令官として有名で、サイパン島陥落のとき自決して、死後、海軍大将に任じられました。南雲中将自身は上杉家臣団の子孫です。そのためかどうか、同じ米沢工業の教職員でも上杉家臣団に縁のある者は、さすがに海上自衛隊に対する認識が深いようでした。 逆に、私が大学を卒業して海上自衛隊に進んだことに対して首を傾げる職員や生徒もいました。そのような人間はもともと海軍士官のような世界には縁もゆかりもない原住民の子孫だったのか 知りませんが、とにかく、そのような世界は理解できなかったのでしょうね。

 部活動はアマチュア無線部を担当しました。今でも印象に残っているのは、3年生が大米工祭(文化祭)における展示品として八木アンテナの屋根馬を製作したことです。実際の機械工作については電子機械科の設備(フライス盤など)を使用しましたので、電子機械科の先生に指導していただきました。生徒は本当に校舎の屋根に屋根馬を取り付けるつもりで製作したのでした。しかし、この時期は風が強いので、屋根の強度を考えて生徒には断念してもらい、展示会場での展示に留めました。それにしても、そのチャレンジ精神は立派なものです。大米工祭の最終日、10月28日(日)、この日は校内一般公開でした。この日は米沢市内で県高校駅伝大会が開かれていました。アマチュア無線部の生徒は、米沢工業の職員が現場から無線で送って来る競技情報を受信して、展示会場の黒板に記入して校内見学者にサービスしていました。この年度はかなりのデッドヒートで、最終的に米沢工業が東海 大山形(略称:正式名称は東海大学山形高等学校)を1秒差で振り切りました。この頃、米沢工業の駅伝部は全盛時代を終えようとしていました。

 この年度の米沢工業にあった部活動で私の心に残ったものがあります。それはトレーニング部です。普通、運動部と言えば、各種大会に照準を 合わせて、競技を意識して日々のハードな練習に励みます。ところが、このトレーニング部は、基礎体力が劣る生徒の体力練成を第一目的として、柔軟体操とか基本運動をほどほどにするもので した。このような生徒の受け皿を造ることは、なかなか良いアイデアだと感心しました。なお、その13年後(平成15年度)に今度は教諭として赴任したときは、このトレーニング部はなくなっていました。惜しい気がしますね。

 ここで、現在の工業高校の位置をほのめかすエピソードを紹介します。この年度、職員仲間の宴会の席だったと思いますが、米沢工業OBの職員が隣の職員(米沢興譲館OB)に「最近、米工落ぢだど思わねがあ」と話しかけました。そしたら、その米沢興譲館OBは「前から落ちていましたけれどもね・・・・・・」と答えました。そう言われた米沢工業OBの職員は、一瞬、呆然として失望と怒りを顔に表しました。今になって思えば、笑い話のような話です。みなさんはどのように感じられますか? 米沢工業は山形県内では最初に設立された工業学校(旧制)です。全国でも11番目だそうです。このような経緯から、米沢市内の人(特に年配)は米沢工業のことを親しげに「県工」とよく呼びます。しかし、最近は米沢工業OBでも、歴史と伝統のある母校でなく米沢興譲館のような進学校に子供を入学させたいという傾向が強いです。どんな思いからでしょうか、電気科1年のある生徒が興譲館のことを柑子羊羹(こうじようかん)とか皮肉っていました。しかし、このような「かけことば」を思い付くだけでも立派なものです。

 年が明けてから、私は空き時間を利用して電気科管理室の隣の実習室で古い実習装置(実習テーマから既に外れていた発電機とか電動機)で実験するようになりました。この年度しか米沢工業にいないかもしれないと予感し、今のうちに古い実習装置を研修しておこうと思ったのです。この分野を私はあまり扱ったことがなかったからです。工業高校の教員をやっていると、このように空き時間に専門的なことを勉強できるという恩恵も享受できます。これは私が工業高校の教員になった動機のひとつです。私は大学生のとき、教養部では「物理学実験」と「化学実験」、学部に進んでからは「応用物理学実験」 という具合に、工業高校の実習に相当する授業科目は履修しました。しかし、私の卒業学科(応用物理学科)では電気計測に関する実験項目は少なかったです。

 あの頃、私は専門学校から工業高校に移って勤務経験がまだ浅かったこともあり、私にとって最も親近感を感じる分野はプログラミングでした。しかし、実は、まだ自分のパソコンを持っていませんでした。そこで、専ら電気科にあるパソコン(OSはMS-DOS)を用いて文書作成や表計算をしていました。プログラミングについては、当時の職員から依頼されて、専門学校で勤務していたとき覚えたC言語を用いて少し実用的なプログラムを作成したこともあります。

 3月20日、校長室で人事異動の内示を受け、私は長井工業高等学校の電子科に行くことになりました。常勤講師なので正式採用になったら別の学校に行くのが原則です。とは言え、ようやく慣れてきたと思った学校を去るのは誰でも寂しいものですね。米沢工業は私にとっては高等学校の教員として「母親の胎内に宿った地」のようなものです。

 それから4年後の平成6年度には電気科創設50周年記念事業がありました。そのとき記念誌『米工高電気科の半世紀』が編集され、私にも旧職員として原稿依頼が来ました。あの頃のことをなつかしく思い出しながら原稿を書きました。

 

【 長井工業高等学校 】

 平成3年3月30日、長井工業高等学校に異動書類を持参し、校長(理科)とも会いました。その当時、長井工業は1学年5クラスでした。米沢工業が1学年8クラスでしたので、生徒数も職員数もかなり違います。ただし、工業科の職員は米沢工業と人事交流で行き来しているので、私としてはあまり違和感を感じませんでした。とは言え、同じ置賜地方でも米沢市長井市とでは地域性が少し違います。長井市は米沢市に比べて歴史の重みのようなものは感じませんが、職人的で進取の気風が強く、小粒ながらピリッと辛いものがあります。

 長井市を含む西置賜地域のことを「置賜のサブディレクトリ」などと冗談半分に言う職員もいました。もちろん、地元出身の職員はそんなことは言いません。私が長井工業に赴任した頃、パソコンのOSはWindowsでなく、まだMS-DOS花盛りでしたので、サブディレクトリという発想が自然に湧いたのでしょう。確かにローカルのローカルであることは間違いありません。

 余談になりますが、この年度(平成3年度)の7月に初めて自分のパソコンを購入しました。NECのノートパソコン(白黒液晶ディスプレイ付き)です。それ以来、ノートパソコンとデスクトップパソコンを何回か買い換えましたが、いずれもデンコードーから購入しています。

 4月1日、県庁まで行き、辞令交付を受けました。私の身分証明書(山形県職員証)は平成3年4月1日付で発行されたものですが、貼ってある写真は今も同じものです。15年以上もそのまま携帯しているので、写真の表面が色あせてきました。現状と食い違いが出てきたので、そろそろ身分証明書の顔写真を更新する必要がありますか?

 通勤は自家用車です。赴任したばかりの頃、山形市白鷹町を結ぶ国道348号線のトンネルがまだ工事中でしたので、私はその側の旧道を通っていました。その年の8月、片方のトンネル(白鷹トンネル)が開通したので、冬の難所は小滝峠(上山市狸森と南陽市小滝の間)だけになりました。翌年にはもう一方の境小滝トンネルと棚林トンネルも開通し、新しい国道348号線が晴れて全面開通しました。自分のために開通したのではないか・・・・・・などと思いながら通勤していました。ちょっと問題かな? 長井工業は私の自宅から見ると白鷹山の反対側にあります。国道348号線の終点は荒砥ですが、長井工業で勤務するまでは荒砥と白鷹の包含関係が分かりませんでした。すなわち、白鷹町大字荒砥ということが分からなかったのです。

 山形県ではこの年度から正式に初任者研修が開始されました。山形県教育センターに行っても大学を卒業して2〜3年以内の人間がほとんどで、私とは約10年も年齢差があります。同じ世代ならば、もう少し楽しみがあったと思います。この年齢になってからの新規採用ですから、それなりに精神的な抵抗があるのは当然かもしれません。私なりにちょっと驚いてしまったことは、山形県教育センターの玄関から入ってすぐの便所は、換気扇もなく、ちょうど銭湯の男湯・女湯と同じ感じの配置で、男女の仕切りの壁が天井まで届いていなかったことです。

 この年の7月2日、小国高等学校で地区別研修があったとき、そこの校長が何と高校時代の恩師(数学)でした。時の流れを感じさせられました。私の場合、初任者研修会は高等学校での研修が中心ですが、その他に義務教育(小学校・中学校)や特殊教育(養護学校)の現場を垣間見る機会もありました。例えば、米沢養護学校やまなみ学園分教室(長井市)での研修は今でも印象に残っています。なお、現在は「特殊教育」の代わりに「特別支援教育」という用語が使われるようになっています。

 長井工業に赴任したばかりの頃、電子科のある若手職員が電子科管理室で私に聞こえるように「回路の計算できないんだってさ」とか「山形東高にもこんなに優秀な人がいるんだね」などと嫌味ったらしく言ったことがありました。その職員は工業高校出身とは言え、電気系学科の卒業ではなく、また、大学は地方私立大学で電気系学科ではありませんでした。私と同じく電気系学科の先生の成り手がないから電子科にいたのでしょう。私の方は、こんなことを言われても意外と気にも留めず、恨みもせず、「そんなことを言う暇があったら、本気で電気の勉強でもしていろ」と思いながら、淡々と自己啓発を継続していました。新しいことを吸収するための基礎的な素養と柔軟な適応力はまだまだ充分にあったのです。その積み重ねは、次の勤務先で免許・資格の取得として花開きました。

 また、悪いことをする生徒のことが話題になったとき、この職員は私に「悪に染まる要素がないなんて**先生ぐらいなもんだね」などと言ったことがありました。よくもまあ口数の減らない御仁だなあと思いながら、「要素のない人間なんていないでしょう。要素がないなんてキリストだけですよ」と私は応答しました。なお、「**先生」とは、この職員と同じ担任団(学年団)を構成 していた職員のことです。もちろん、私自身にも悪に染まる要素は多分にあり、悪の誘惑を断ち切れない悲しい立場にある人間です。線香臭い言葉を使えば、たとえ刑事や民事など法律的な罪がなくても、宗教的な罪の中で葛藤して生きている人間です。むしろ、それが偽らざる人間の姿でしょう。自分自身に罪(法律的な罪crimeでなく宗教的な罪sin)があるのに「自分には罪がない」と思って他人を裁いている人間は、文字どおり偽善者そのものです。

 長井工業に来て良かったこと、そのひとつとしてスキーを覚えたことがあります。

 長井工業では年が明けると、時間割の中で体育の時間を続けて取ってスキー授業がありました。長井市内のスキー場で週1回、体育の授業を行うのです。そのため、夏と冬では時間割が違いました。白山森スキー場とか導照寺平スキー場のような長井市内の小規模なスキー場ばかりでなく、Asahi自然観天元台高原栗子スノーパークのような本格的なスキー場にも行きました。悪天候のため天元台のリフトが動かない場合は、当日、米沢スキー場に変更されることもありました。また、学校行事として白山森スキー場(長井市川原沢)で クラス対抗の形式でスキー大会も行われました。

 ということで、特に学級担任になったりすると引率のためスキーを覚えざるを得ないのです。実は、それまで私はまともにスキーの指導を受けたことがなかったのです。そのため、スキー授業に引率として参加したとき、私は体育科の先生に基本的なことを教えてもらいました。

 長井工業でスキーを習い始めた頃、私は帰宅の途中に白鷹町営スキー場白鷹町)に立ち寄り、スキーの練習をした時期がありました。ロッジで軽く食事(カレーライスとかラーメンなど)をしてから、1時間ほど適当に練習し、「県民の森」(山辺町)を経由して自宅に帰りました。また、地元の人間でありながら、私は長井工業に勤めるまで蔵王温泉スキー場で滑ったことがありませんでした。平成5年1月、電子科の新年会(1泊2日)で初めて滑りました。競技でなく遊びとしてならば、スキーは老若男女を問わず誰でも楽しめる生涯スポーツかもしれません。

 長井工業の近くに「あやめ公園」があります。春と秋には放課後、学校周辺で恒例の全校奉仕活動がありました。活動場所はクラス単位で割り当てられ、「あやめ公園」もそのひとつでした。赴任した年の秋、私は「あやめ公園」であやめの株を何本か譲ってもらいました。越冬のため株を選別作業している人から、好意により不要な株を譲ってもらったのです。私の自宅では今もその株が繁殖して花を咲かせています。

 全校奉仕活動を含めて、いわゆるボランティア活動については考えさせられることが多くあります。本来、ボランティア活動というものは報われることを期待して(見返りを期待して)行うものではありません。ボランティア活動を生徒に奨励するのは結構なのですが、その動機付けが「進学や就職に有利になる」とか「地域社会から表彰される」などということに置かれているのは何とも遺憾に思えます。「生徒に外部でボランティア体験を発表させて学校の実績として宣伝する」などに至っては、偽善者の行為と言わざるを得ません。たとえ他人から見られていなくても常に天(あるいは神仏)が自分を見守っているという意識が根底になければ、ボランティア活動は単なる売名行為に落ちてしまいますね。こんな理屈はともかくとして、ボランティア活動のように他人ために活動して他人から感謝されると、自分の存在意義を実感できることだけは確かです。マザー・テレサの言葉にもあるように、人間は誰かに関心を持たれ、誰かから本当に必要とされていると思えなければ、心の底から生き甲斐を感じられない存在のようです。

 ところで、公立学校には教職員組合というものがあります。高等学校と義務教育では別組織のようですが、私自身は「公務員は組合を作るべきではない」という信念のもとに、採用されてから今日まで組合に加入したことはありません。それに、組合はその活動方針が左翼的なので、私はますます入る気が起こりません。残念なことに、管理職 や指導主事になったときの折り合いを考慮して組合内で足場を固めておき、教務主任や学年主任のような主任クラスになってから組合を離脱する職員が多いです。しかし、それではあまりにも打算的な組合加入ではないでしょうか。教育現場の管理職はおろか教育委員会、さらには文部科学省までが、一部の心ある職員を除いて日教組化しているのです。組合に密着していた職員が管理職や指導主事になるのですから、教育現場や教育委員会が組合の言うままに振り回されるのは当然のことです。このような悪循環を断ち切らない限り、教育現場を根本的に改革することは期待できないと思います。平均以上の生活水準を保証された公務員が左翼的(反日的)な組合活動に走るというのは、少なからず問題だとは思いませんか? 教職員の待遇が今日のように大幅に改善され、また、このような組合活動が許されるのも、組合が反対している自由民主党の政権だからです。何とも皮肉なものです。

 この年度(平成3年度)は、校長(理科)と教頭(社会)がともに定年退職しました。実は、私が米沢工業で常勤講師として勤務した前年度(平成2年度)も校長(社会)と教頭(工業)が定年退職しています。2年続けて同じパターンを経験しました。

 2年目(平成4年度)の夏休み、8月18日(火)から21日(金)までの4日間、私はメイテック(愛知県名古屋市)で全国工業高等学校長協会主催の夏季講習会を受けました。前日の8月17日(月)、開業して間もない山形新幹線に初めて乗りました。その日は昼過ぎに名古屋に着くように山形を出ました。実は、この年のNHK大河ドラマが『信長 KING OF ZIPANGU』だったので、ぜひ熱田神宮に行ってみたかったのです。参拝してから神宮近くの店で名古屋名物の「きしめん」を食べてみました。何だかサナダムシのような麺でした。最終日は昼過ぎに終わったので、東根工業の先生と一緒にタクシーに相乗りして急いで名古屋城に行きました。私だけその場で降ろしてもらいました。新幹線の発車時刻の関係で約30分間しか見物できませんでしたが、それでも満足でした。 「名古屋大学に入学する手もあったかな」などと密かに思うほど、名古屋は全体的に清潔で快い印象でした。何だか物見遊山にでも行ったように思われるかもしれませんが、本来の目的(AD及びDA変換技術の研修)はちゃんと果たしましたよ!

 3年目(平成5年度)、私は新入生の学級担任になりました。その頃、クラス編成は機械科2クラス、電子科2クラス、化学工学科1クラスでしたが、私は電子科の片方のクラス(EA)を受け持ちました。全クラスが定員割れの学年でした。実は、平成3年度から宮内高等学校と赤湯園芸高等学校が統合して、新たに南陽高等学校がスタートしました。この学年は入学時からそのマイナスの効果(?)をまともに受けた学年で、3年間で中退者が30名近くも出ました。 そのうち半分は機械科です。それぞれ事情があったのです。私のクラスは中退者が2名に留まりましたが、何も問題がなかった訳ではありません。問題を抱えて苦しみながらも、何とか卒業まで持ち堪えたのです。

 普通、「担任」と言えば学級担任のことです。中には「担任」のことを「担当」と言い間違える保護者もいました。これでは刑務所の担当官(受刑者の世話をする看守)になってしまいますね。

 私が長井工業に赴任したばかりの頃は、学校の便所は職員用、生徒用ともまだ水洗化されていませんでした。3年目の晩秋から水洗化の工事が始まり、年が明けてから使用できるようになりました。水洗化される前は、バキュームカーが来ている日はさすがに芳ばしい香り(?)が校舎内外に漂っていました。これはこれで一興でしょうね。私のクラスのある生徒が授業中に「ワイルドな香り」とか表現していたのを今でも覚えています。また、合宿のとき、校内にある合宿所の便所で排便した男子生徒が、とんだ「おつり」をもらってしまったという笑い話を聞いたことがありました。

  4年目(平成6年度)の6月、自家用車をシビックRTi(中古)から新車のシビックフェリオRTSi(HONDA)に乗り換えました。自分にとっては初めての新車です。良く言えば経済的に余裕が出て来たということ、悪く言えば心に贅肉が付いてきたということですね。この車は丸6年間 で17万キロを越えるまで走行しました。

  この学年の修学旅行(平成6年度)は平成6年11月14日(月)〜18日(金)の4泊5日で、神戸1泊、奈良1泊、京都2泊でした。往路は東北新幹線(福島〜上野)と東海道新幹線(東京〜新大阪)、復路は北陸本線(京都〜新潟)を利用しました。電子科が団体で見学した主な場所は、大阪の松下電器技術館、神戸のポートピアランド北野異人館、奈良の法隆寺東大寺春日大社、京都の日産車体京都工場(現在は跡地)、清水寺二条城平安神宮です。翌年の平成7年1月17日、例の阪神淡路大震災がありました。 あの頃は小型ビデオカメラを持っている人は珍しく、また、今では広く普及しているデジタルカメラもありませんでした。私自身も普通のカメラ(しかもオートフォーカス)を持参しての引率でした。修学旅行文集を読むと、あの頃のことが懐かしく思い出されます。

 5年目(平成7年度)、私のクラスも卒業年度を迎えました。この学年はまだ就職には恵まれていました。ただし、専門学校を除いた進学希望者は少なく、四年制大学に進んだのは学年全体でたった1名(日本工業大学)でした。電子科では例年6月頃、3年生の工場見学がありました。八幡原工業団地(米沢市)などの企業を見学した後、亀岡文殊高畠町)に立ち寄って大願成就を祈願するのが通例でした。

 この学年は学年主任が国語の先生ということもあり、文集のようなものを作るのが好きでした。3年生のときには「学年だより」の最終号として卒業記念親子文集『長工・われらが日々』 が発行されました。私も3年間を振り返って原稿を提出しました。

 また、この年度は長井工業が山形県情報技術教育部会の事務局に割り当たっており、私はその事務局員になりました。この年度に限らず毎年、研究発表会が事務局校を会場にして行われます。毎年感じることは、「生徒にどのように教えるか」という議論に乏しく、生徒を表向きにした 職員のものづくりコンテスト、あるいは、生徒の教育とは懸け離れた単なる個人的な研究になっている場合が多いことです。これが果たして本当に生徒の教育レベルなのか、山形県の情報技術教育の高さを示すのか・・・・・・と考えさせられます。実際、工業高校では「大鉈を使って鉛筆削りをする」とか「新幹線のレールを敷いて蒸気機関車を走らせる」とか、そのような比喩で象徴される学習教材が結構あることも事実です。

 長井工業の生徒会誌の名称は『清流』でした。清流とは、学校のすぐ近くを流れる野川(置賜野川)の清らかな流れのことです。例年、3年生の学級担任は原稿を書くことになっていました。私も平成7年度に原稿を提出しました。

 工業高校は、同じ学年でも複数の学科から構成されているのが普通ですから、見方によっては多民族の自治区から構成されるモザイク国家のようなものです。そのため、学習内容(実習を含む)や指導重点は学科により大きく異なる場合があります。長井工業の電子科では、生徒はほとんど毎週、実習レポートを書き、その実習を担当した先生に提出していました。電気・電子の実習テーマは1回(3〜4時間)で済ませるものが多く、2回以上に分けて行うような実習テーマがあまりないからです。しかも、生徒は実習レポートを科の教材管理室(実質的に科の職員室)に持って来て、その実習を担当した先生から記載内容の点検と簡単な口頭試問を受けることになっていました。それを通過して初めて受け取ってもらえるのです。「レポートの電子科」と呼ばれる所以です。

 今だから言えることですが、一部の電子科職員による実習レポートにかこつけた独善的かつ高圧的な生徒指導がとんでもない事態を引き起こしたことがありました。端的に述べさせていただきますと、他学科ばかりでなく他校の生徒も絡む複雑な事件があった中で、こともあろうに同じ科の学級担任を陥れようとしてクラスのある生徒に圧力を加え、逆に、該当生徒の保護者から県教育委員会まで訴えられて、あわや裁判の一歩手前というところまで発展したのです。訴えられた電子科職員は、教諭2名、実習助手1名の合計3名でした。その首謀者格の職員にとってはそのような指導方法(気に食わない職員を陥れる手口を含む)でそれまで通用して来たのでしょうが、この件の場合は怒らせた相手が悪かったと言えます。いや、そのような保護者であることを知っていたからこそ、学級担任を苦しめようとしてそのような行為をしたのです。実際、後で判ったことですが、狡猾にもその職員は該当生徒の保護者に「***さんとはツーカーの間柄なんだ」などと親しげなことを言って、学級担任に非があるようなことをいろいろ示唆していたそうです。学級担任が訴えらるように仕向けていたのに、その思惑が裏目に出て、結局、その矛先が自分自身に向いたばかりでなく、同僚2名も巻き添えにしてしまったのです。

 卒業式が終わってしばらくした頃、その年度末に校内放送で他の職員2名と一緒に校長室に呼ばれたときのこの職員の狼狽ぶりといったら、もう勧善懲悪の立派なドラマですね。該当生徒の保護者も馬鹿ではなく、息子から本当のことを聴いて、その職員の狡猾な手口と卑劣な人格に憤りを感じたのかもしれません。 実は、この職員は愚かにも、卒業式が近くなった頃から、「***さんは近いうちに裁判を起こすらしいよ」などと学級担任を含めて他の職員に吹聴していたのです。蓋を開けてみたら自分に矛先が向いたため、この職員は「汚いことするなあ」などとぼやいていました。実際のところ、汚いことをしたのは、むしろ、この職員の方と言うべきでしょう。この職員の盲点は、高等学校は基本的に教科担任制であるにもかかわらず、権利を主張するときだけ教科担任で、自分が引き起こした不始末に対処する義務は学級担任に負わせようとしたことです。いや、この職員はそのことを承知の上で、保護者が分かっていないことをいいことに、狡猾にもそのように仕組んだのです。生徒指導主事として「日本は法治国家だから」などとうそぶきながら、陰では他の職員を陥れようと謀っていたのです。しかも、この企みが成功(?)した暁には、置賜地区の生徒指導協議会で事例研究として発表するつもりでいたといいますから、呆れてものが言えませんね。

 悲しいかな、数年後、別の勤務先で再び一緒になったら、その職員は「喉元過ぎれば熱さを忘れる」でした。 相変わらず、特定の生徒に対して執拗に質問攻めをして、実習レポートの受け取りを頑なに拒否するのです。もっとも、本人は「質問するのは生徒に勉強させるため」とかうそぶいていましたが、端から見ていても明らかに異常でした。今までその手口で気に食わない職員(卑劣にも、多くの生徒を抱える同じ科の学級担任)を窮地に追い込んで来た快感が忘れられないのでしょう。 実際、その職員のひどい仕打ちを証言する電子科職員(旧職員を含む)もいました。

 実際の教育現場には、このような醜いことが結構あるのです。皆さん、信じられますか? 蛇足になりますが、愚かな人間は、たとえあの世に行ったとしてもなかなか目が覚めないどころか、逆に、生前の社会的な抑圧がなくなるので、ますます本来の性質を露呈するものらしいです。そのような人間に限って自分の愚かさを自覚していない場合が多いものですから、尚更、性質 (たち)が悪いのです。生きている間に心の底から悔い改めて償いをしなければ、馬鹿は死んでも直らないのです。

 長井工業ではひとつだけ光る思い出があります。初めての卒業生を出した次の年度(平成8年度)、私は視聴覚部の部長になりました。部と言っても、私を含めて専属2名、学年から学級担任1名ずつという構成です。例年どおり、山形放送のラジオ番組「スカットいい汗さわやか甲子園!」に応募しました。校内に放送視聴覚委員会というものがあり、その生徒たちが 野球部や学校周辺で取材し、視聴覚室でオーディオ編集したのです。それが何と県最優秀(26校応募)に輝いてしまったのです。作品が完成したとき私も満足なものに仕上がったとは思いましたが、まさか県最優秀になるとは〜! 本校の作品がラジオで放送された夜、一応、カセットデッキで放送を録音しました。この頃はまだオーディオテープで作品を保存していました。長井工業を出るときコピーをいただき、現在、CD-Rに焼いて音楽CDとして大切に保存しています。 痛ましいことに、そのとき制作のチーフだった生徒(電子科3年)は、卒業してまだ1年目の正月、自家用車を運転中に交通事故で死亡しました。

 6年目(平成8年度)の秋、私はインターネットを始めるためにWindows95のデスクトップパソコン(富士通のFMV-DESKPOWERシリーズ)を購入しました。それまでMS-DOSとWindows3.1が走るカラーノートパソコンを持っていましたが、自分のデスクトップパソコンを持つのはMS-DOSからWindows3.1の時代を含めてこれが初めてでした。インターネット接続のプロバイダに加入するため、このときから自分のクレジットカードを持ちました。インタ ーネットを始めた動機ですか? これは低い次元から高い次元までいろいろです。共通しているのは、自分の世界が広がるということではないでしょうか。「諸刃の剣」ですね。

 長井工業でもやはり運動会がありました。科対抗という形式で縦割りに5チームなのですが、機械科と電子科は2クラスずつあるので、同じ科を半分に分けなければなりませんでした。私個人としては、ひとつの科に2クラスというのは好きではありません。ところで、当然、準備段階で応援練習がありました。長井工業に来て面白いと思ったことは、応援の発声練習をするとき「はっせ〜いれんしゅう〜〜」と大声を上げて練習することです。

 運動会やスキー大会では会場に放送機材(マイク、スピーカ、アンプ、ケーブルなど)を設営します。平成8年度は視聴覚部の私が担当することになりました。ところが、どのような放送機材をどこに配置し、どのように接続するとか、設営 要領が文書として残っていませんでした。そこで、前年度まで経験した3年生の放送視聴覚委員に確認しながら、設営要領を文書(図解入り)としてまとめました。これがあれば、担当職員が変わっても比較的すんなりと移行できます。放送機材の設営に限らず、担当職員が転任したら何もできなくなるような事態は避けたいものです。世の中には自分しか対応できないことに自分の存在意義を感じている人間もいますが、これには困ったものですね。

 部活動はサッカー部を担当しました。最初の1〜2年間は生徒とともにグラウンドでボールを蹴って遊ぶ気にもなりましたが、だんだん億劫になりました。 私が高校生のときは(少なくとも山形東高では)、部活動はあくまでも生徒が自主的に行う課外活動でした。ところが、高等学校に勤めるようになって初めて、部活動でもやらないと高校生活が成り立たないような生徒がいることを知りました。何となく侘しいですね。「小人閑居して不善を為す」とは、大人の世界にだけ当てはまる言葉ではありません。2年目の春に長井市で審判講習会を受け、4級審判員になりました。しかし、その上の3級を欲しいとは思いませんでした。実績としては、最後の年度(平成8年度)にコーチ(事務次長)の力量もあって県新人大会に出場してベスト8になったことくらいでしょう。勝敗よりも生活指導の方が大変だったような気がします。

 さて、現在の長井工業は新校舎になっています。平成13年度から正式に新校舎に移ったようです。実は、私が長井工業を出る2〜3年前から校内に新構想検討委員会 が設けられて、学科改編と新校舎建設を念頭に置いた準備活動が行われていたのです。私も微力ながらその一員に加えられていました。しかし、新校舎建設については私自身、心の中では夢物語かなと思っていました。予算的には優先順位が低いように思われましたし、また、人口3万3千人かつ減少傾向の長井市内に2校(長井高等学校と長井工業高等学校)も必要なのかという疑問もあったからです。長井工業を出て1年ほどしてから、長井工業の職員から電子メールで県から新校舎建設が認められたことを知らされました。

 優先順位から言えば、米沢工業に次いで歴史のある山形工業が郊外に移転して新校舎を建設するのが順当と私には思われました。しかし、結果的には、新校舎建設に積極的だった長井工業に予算を奪われた形になりました。管理職を含めて山形工業の職員が移転するのに消極的だったのか、それとも、 同窓会が変な意地を張って現在の場所に居座ろうとしたのか、その舞台裏については部外者の私は知る由もありません。いずれにせよ、県から肩叩きされたときに行動しなければ、「鳶に油揚をさらわれる」という結末になります。

 やっと脂が乗って来たかなあ〜と思ったところで、平成9年3月、校長室で人事異動の内示を受け、東根工業高等学校の電子制御科に転出することになりました。平成3年度から平成8年度までの6年間でした。最後の年度には、教職5年経験者研修も済ませていただきました。そういう意味では、長井工業は私にとっては高等学校教員としての「揺籃の地」のようなものです。母乳と離乳食を充分にいただきました。蛇足になりますが、職員送別会で いただいた餞別を含めて合計136,000円も餞別をいただきました。本当にお世話になりました。参考まで、海上自衛隊に勤務しているときは餞別という習慣はありませんでした。また、学校と違って人事異動は定期でなく必要に応じて随時行われ、定年退職も年度末でなく本人の誕生日に発生します。

 3月31日から長井工業ではサッカー部の福島遠征(2泊3日)が始まりました。その日、最後のお勤めとして練習試合で審判をしている間にも、私は長井工業と東根工業に対する思いが入り乱れて 気分がすっきりしませんでした。その日の夜、私はもうひとりの顧問とコーチに後事を託して、小雪の降る中、宿舎(飯坂温泉)からトンボ返りで山形に戻りました。明日から本当に気持ちを切り換えられるかどうか不安でした。

 

【 東根工業高等学校 】

 平成9年4月1日、新任者打ち合わせのため初めて東根工業高等学校に出勤 しました。東根市を含む北村山地域は、行政上の区分では村山地方に分類されますが、高等学校の区分では最上地方とともに北学区(最北地区)に分類されます。新庄市を中心とする最上地方(1市4町3村)は、面積では村山市を中心とする北村山地域(3市1町)とは比較にならないほど広いのですが、実は、人口では北村山地域とほぼ同じなのです。

 ただし、公立高等学校の東学区(村山地区 )と北学区(最北地区)は実質的に同じ学区になっています。何とも北村山というのは曖昧な地域です。後日、東根工業の職員から「北村山は草刈り場だ」という話を聞いたことがあります。当たらずとも遠からずです。要するに、北村山地域の学業成績が良い中学生は、山形市内の高校に進学する傾向が強いということです。

 江戸時代の上杉氏を通じて一体感のある置賜地方については、「置賜はひとつ」ということがよく言われます。それに対して、歴史的に見て「村山はひとつ」とは言えませんし、また、住民にそのような意識もないと思います。村山地方が政治的に統合されたのは、明治時代になる前では戦国時代末期から江戸時代初期にかけて最上氏が統一した短期間だけです。少し補足させていただきますと、明治9年(1876年)に現在の山形県になるまで、村山地方と置賜地方が政治的に統合されたことはありませんでした。同じ山形県の山形市よりも隣の福島市(福島県)に目が向いている米沢市民が多いのも分かるような気がします。

 北村山地域(特に尾花沢市大石田町)の代表的な食物として「ぺそら漬け」があります。 スーパーでは「ぺちょら漬け」と商品表示されている場合もあります。簡単に言えばナスの漬物ですが、普通のナス漬けのように色は濃紺でなく、くすんだ薄茶色です。味の方も普通のナス漬けとは違い、ぴりっとした辛味があります。食べているうちに口の中が熱くなります・・・・・・としか、私は食べ具合を表現できません。キムチ(韓国の漬物)ともまた違った辛味です。勤務先の職員によると、それぞれの家庭に秘伝(レシピのようなもの)があるそうです。

 東根工業で勤務していたとき、弁当を持参していなかったりコンビニに弁当を買いに行く時間が取れない日には、「ヤクルトラーメン」というクロレラ入りの緑色のインスタントラーメンを自分で煮て食べていました。これは電子制御科の職員から紹介してもらったものです。いわゆる「ヤクルトおばさん」にダンボール箱単位で注文するのです。ささやかな料理ながら、今になっても忘れられない思い出の味ですね。

 私が高校生のとき、東根から山形まで列車で通学している同級生がいました。随分遠い所から来るものだなあ〜と思ったものです。その頃、私の交通手段は自転車か近距離の乗合バスで、列車に乗る機会などほとんどありませんでした。生活圏がその程度の広さだったのです。私が専門学校に勤務していたとき東根工業から入学した学生も何名かいましたので、東根工業という学校の存在は知っていました。しかし、北村山地域は私にとってどちらかと言えば未知な地域でした。

 東根工業は自宅から見ると前任校とは反対の方向にあります。通勤距離は約15キロも短くなりましたが、通勤時間は5〜6分しか短くなりません。東根工業までは信号待ちで停車する時間が 長く、国道348号線のようにドライブ感覚で運転することはできません。

 長井工業から東根工業に転勤してみると、米沢工業で一緒だった先生(社会)1名と長井工業で教頭だった校長を除いて見知らぬ職員ばかりでした。米沢工業から長井工業に来る場合とは大きく違い、私にとっては職員環境からして別世界です。

 私が来る前に電子制御科で定年退職された先生がおり、そこを私が埋めたという形です。このような職員の人事交流は、良い意味でも悪い意味でも職員にとって刺激になります。

 校舎は、管理棟と体育館だけが新しく、その他は長井工業の校舎とほぼ同じレベルでした。校舎全体が迷路のように複雑に入り組んでいるというのが最初の印象です。電子制御科は、昭和63年度からの学科改編により電気科と電子科を併せて再編成した学科ということでした。

 東根工業に赴任してすぐ、私は新入生の学級担任になりました。学級担任は別に構わないのですが、まだ気心の知れた職員がいない中で学級担任をしなければならないのは少なからず辛く思えました。その頃、クラス編成は機械システム科2クラス、自動車科1クラス、電子制御科2クラス、家政科学科1クラスでした。私は電子制御科の片方のクラス(4組)を受け持ちました。今回もまた全クラスが定員割れでした。学年主任 (女性)は前回(長井工業のとき)と同じく国語の先生でした。

 私と同じ年度に東根工業に赴任した職員の話によると、「6年ぶりに東根工業に戻って来たら、動物園になっていた」ということでした。確かに、全校集会は生徒の私語でガヤガヤ、しかも、まともに注意する職員もなし、生徒の服装・頭髪は乱れっぱなし、生徒の万引きは頻繁に発生・・・・・・という具合に、とにかく数年前には考えられないような学校の状態だったそうです。おまけに、年度末(終業式の日)には、大掃除のときクラスの生徒ロッカーを次年度の自分たちの教室に移動するという学校行事(?)が設定されていました。何のためかは想像にお任せします。実は、学習面でも平成9年度末は第2学年の進級判定会議を再度、やり直さなければならなかったほど大量の成績不良者が出ました。このような学校になった原因のひとつは、「生徒が喜ぶぞぉ」という 台詞に象徴されるように、生徒の歓心を買うことに偏って生活規範の徹底を疎かにしたことにあります。その極め付きは、私が東根工業に赴任する直前、3月21日の夜、卒業したばかりの本校生徒が自動車を運転中に速度を出し過ぎ、ハンドル操作を誤って碁点橋(村山市)の欄干を突き破り、同乗していた他校の卒業生2名(男子1名、女子1名)とともに、遥か15メートル下の最上川に自動車もろとも転落して、3名全員が死亡したことです。保護者にとって痛恨なことに、その自動車は同乗していた男子生徒の父親が所有していたものでした。

 「長井工業の方がまだマシではないか」というのが、私が赴任したときの正直な感想でした。実際、長井工業の生徒は少ない選択肢の中で長井工業に入学するのに対して、東根工業の生徒は選択肢がもっと多い中で東根工業に入学するのです。そのため、東根工業の場合は、良い方向にも悪い方向にも、濃縮度(?)が高くなる傾向が生じるのです。原子爆弾の濃縮ウランに喩えれば分かるのではないでしょうか。このような状態から正常に近い状態に回復するまで数年間を要しました。

 高等学校に限らず学校には教職員の親睦会があり、それぞれの部署から幹事が選ばれて、幹事団が歓迎会、忘年会、送別会などを企画・運営します。面白いことに、米沢工業では「同僚会」、長井工業では「職員クラブ」、そして、ここ東根工業では「親和会」という具合に、その名称は学校によっていろいろです。ただし、「親和会」という名称は、医療法人や社会福祉法人ばかりでなく暴力団の名称としてもあるようですから、ちょっと気を付けた方が良いかもしれません。

 2年目(平成10年度)の夏休み期間中に、全国情報技術教育研究会第27回全国大会(山形大会)が天童ホテル天童市)で開催されました。東根工業が事務局に割り当てられ、私はその事務局員のひとりになりました。私の担当は発表機材、企業展示、 座席配置など発表会場関係の総括でした。このような全国大会に関わる仕事をするのは私としては初めての経験であり、準備活動を通じて新たに覚える事柄が数多くありました。 この時期は、余計なことも考えず、やる気満々でしたね。

 この学年の修学旅行(平成10年度)は何と沖縄でした。平成10年11月18日(水)から21日(土)までの3泊4日です。修学旅行で沖縄に行くのは東根工業としては初めてのことです。私自身も沖縄は初めてでした。もうひとつ私にとって初めてのことがあります。実は、民間の旅客機に乗るのは初めてでした。右の3枚の写真は、私がデジタルカメラ(Nikon CoolPix900)で撮影したものです。撮影した写真はもっとたくさんあるのですが、プライバシー保護のため人間が写っていない写真だけを選びました。何の写真か見当が付きますか?

 東根工業の電子制御科には修学旅行のお土産として科に「お面」を買ってくるという伝統がありました。私たち(4組と5組の担任)は沖縄のシーサー(獅子のこと)の「お面」を現地から電子制御科に宅配便で送りました。最終日の21日(土)は、夕方、仙台空港で大型バスに乗り移るとき 、めっきり冷え込んでいました。案の定、関山峠を越えて東根工業に着いた頃には結構な雪が地面に降り積もっていました。本当に「浦島太郎」の気分でした。

平和の礎(いしじ) 沖縄海洋博覧会記念公園からの眺め
沖縄の墓 修学旅行文集

 沖縄は戦後ずっと米軍の統治下にありましたが、昭和47年5月15日、ついに本土復帰を果たしました。その当時の首相は佐藤栄作氏で、後にノーベル平和賞を受賞しました。「太平洋戦争で日本は沖縄を犠牲にした」などと近視眼的なことを述べる人たちが今でも多くいます。しかし、本当にそうでしょうか? 実際のところは、沖縄が日米双方にとって戦略的に重要な地点だったので、日米間で争奪の激戦地になったのです。そうでなかったら、終戦後、米軍はいつまでも沖縄に駐留などしていません。いや、江戸時代末期にペルリ提督が黒船で来航した頃から、米国は沖縄に目を付けていたのです。

 3年目(平成11年度)、いよいよ私のクラスも進路決定の時期を迎えました。この頃にはバブルも完全に崩壊しており、以前のように希望した会社にすいすい進むという訳には行きませんでした。もちろん、えり好みさえしなければ、どこにでも就職はできます。進学では、女子1名が山形大学工学部Bコースに推薦で合格できました。私にとっては2回目の学級担任にして初めてのことです。何となく学級担任も成長したような気分になるから不思議です。ただし、東根工業からは推薦枠内でなかったら合格はまず無理です。進学する四年制大学は、ほとんど私立の三流大学です。該当する大学の名誉もありますので、具体的な学校名は省略させていただきます。

 大学の推薦入試については、私自身、考えさせられるものがあります。2008年、米国で大統領選挙が行われたとき、民主党の予備選挙でヒラリー・クリントン上院議員側の女性 顧問(元副大統領候補)が対立候補のオバマ上院議員に対して「オバマ氏の優位はオバマ氏が黒人だからだ」という意味のことを述べたと報道されました。山形大学工学部Bコースにおける工業高校生の推薦入学枠は、ある意味ではこれと共通したものがあるかもしれません。実際、東根工業の近くにある楯岡高等学校(普通科のみ)の生徒は、東根工業の生徒よりは基礎学力が高く、学校での授業内容もレベルが高いのですが、大学入試センター試験を経由して山形大学工学部に一般入試で合格するのは容易ではありません。したがって、見方によっては「逆差別」とも受け取られかねない制度です。

 東根工業の電子制御科にも工場見学や施設見学がありました。平成11年度の夏、3年生(2クラス)は6月に東北電力の女川原子力発電所(宮城県牡鹿郡女川町)を見学し、原子力発電について大いに認識を深めることができました。大型バス2台で朝8時に学校を出発し、夕方6時半頃、学校に戻りました。 私自身は原子力発電所としては、海上自衛隊で実習幹部として国内巡航していたとき、寄港地の舞鶴港(京都府舞鶴市)から団体でバスに乗って、研修として関西電力の美浜発電所(福井県三方郡美浜町)を見学したことがありました。

 この年度の山形県情報技術教育部会は寒河江市技術交流プラザ(寒河江市)で行われました。県内の各工業高校から職員が数名ずつ集まって研究発表会を行うのですが、今回は私が東根工業の代表となり、『課題研究におけるプログラミング学習のひとつの試み』と題して研究発表を行いました。 私が外部でこのような研究発表を行うのは、公立高等学校に勤務するようになってから初めてのことです。一度は経験しておいた方が良いかもしれません。

 この学年の卒業式は例年どおり3月3日で、午後から卒業祝賀会が花の湯ホテル東根市)で行われました。祝賀会では各クラスから余興の出し物があります。私のクラスは、保護者 からの発案で「戦争を知らない子供たち」というフォークソングをみんなで歌いました。ほとんどの保護者が戦後数年して生まれた世代でしたので、この曲を選ぶことになったという話です。

 卒業生を出した次の年度(平成12年度)、私は情報管理部の部長になりました。私以外の専属職員2名が具体的な仕事をしたので、私自身はあまり存在感がありませんでした。私が直接に担当したことで印象に残っていることとしては、ExcelVBAで作成された通知票作成プログラムの更新があります。ExcelVBAのような今までとは違った世界に触れたという驚きがあったと同時に、他人が作成したプログラムを読み取って目的とするものに手直しすることの難しさを改めて実感しました。もちろん、新規にプログラムを作成すること自体が大変なことも事実です。外注したソフトウェアを利用する場合と違って、職員がボランティアで開発したソフトウェアの場合は、人事異動や配置転換でその担当者がいなくなると保守が大変 なのです。この種の仕事に限らず、同じ学校にいながら後任者に対する協力を拒否する意固地な職員がどこの学校にもいます。何とも醜いというか、偏狭な世界ですね。学校の 先生は、学校を卒業してすぐに「先生」呼ばわりされる人間が多いためかどうか、自分自身のことを「一国一城の主」みたいに無意識に思い込んでいる場合が多いようです。

 この年度は山形県情報技術教育部会の理事になりました。県内の工業系学科を持つ高校から1名ずつ理事が選出されることになっていましたので、東根工業からは情報管理部長の私が自動的に任じられたのです。理事はその年度の『山情技報』に自校の情報教育について事務局に原稿を提出することになっていました。私も『校内ネットワーク化について(近況報告)』と題して事務局(この年度は寒河江工業)に原稿を提出しました。

  卒業生を出して気分一新、5月に自家用車をシビックフェリオRTSi(HONDA)からフォレスターS/20(SUBARU)に乗り換えました。今回からオートマ車にしました。また、この年度は私にとって無線従事者国家試験に挑戦した年でもあります。この頃になると高等学校の勤務にも慣れてきて、国家試験に挑戦する余裕が出来てきたからです。平成13年1月の二日間、仙台市で第二級陸上無線技術士を受験し、何とか合格することができました。私としては電気・電子の教員として何らかの証が欲しかったのです。4つの試験科目のうち「無線工学の基礎」は、学校で教えている「電気基礎」と「電子回路」を併せたような内容です。資格と実力は別問題でしょうが、合格すると少なからず自信が付きますね。

 5年目(平成13年度)になりました。私は再び学級担任です。ただし、今回は学科改編されて科名が変わった電子工学科の新入生を受け持つことになりました。機械システム科、自動車工学科、電子工学科、デザイン工学科、生活クリエイト科それぞれ1クラスの学年で、全クラスが定員どおり40名でした。入学時に定員どおりのクラスを受け持つのは今回が始めてです。学年主任は前回と同じく女性でした。学級担任になると、何となく「先生している」という気分になるから不思議ですね。

 この学科編成は、定員削減(1学級減)に伴う学科改編により平成11年度入学生から始まったものです。新しくデザイン工学科が設置されました。しかし、その数年後、さらに1学級の定員削減があり、自動車工学科とデザイン工学科を募集停止とし、両方の半分ずつを併せた総合技術科の半分(デザイン専攻)としてデザイン関係は残ることになりました。製造業にデザイン感覚は確かに必要ですが、デザインの意義を過度に強調したことにそもそも無理があったと言えます。実際、東北芸術工科大学山形市)のような学校にAO入試や推薦入試で進学することはできても、デザインだけで身を立てるのは普通の人間にとって容易なことではありません。奥山清行さん(山形県出身の世界的な工業デザイナー)のような特別な才能を持った人間 を引き合いにして考えるべきでないでしょう。教育の世界にも自分の栄達に結び付けるためには手段を選ばない人間がいるのです。最近は少子化ということもあり、東北芸術工科大学を含めて2〜3流の私立大学は、入試方法の多様化ばかりでなく、農業高校、工業高校、商業高校との高大連携など、生き残りのため学生募集に必死なのです。一方、同時に半分(自動車専攻)になった自動車工学科も、自動車整備士の合格率が私立の蔵王高等学校山形市)にも劣っているという実態があったのです。

 山形県内の公立高等学校で「工業高等学校」と名の付く学校は、この当時、8校ありました。そのうち、米沢工業山形工業鶴岡工業の3校は旧制の工業学校として戦前から存在していました。それに対して、ここ東根工業を含む5校は昭和30年代後半に高度成長時代に合わせて設立された学校です。現在は高度成長時代ではなく、かつ、少子化ということもあり、定員削減とか分校化、それでも 追い付かない場合には発展的統廃合など、これらの5校は公立高校再編の対象になりやすい学校でもあります。実際、新庄工業は新庄農業と発展的に統廃合して、平成15年度から新庄神室産業高等学校になり、また、酒田工業も近いうちに近隣の他校とともに発展的に統廃合されることが決まりました。したがって、長井工業が「工業高等学校」という名前が付いたまま平成13年度から新校舎で単独に生き残っていることは、本当に幸運とも奇跡とも言えます。

 それでは、どうして長井工業が全面的に新校舎となり、東根工業はそのままなのか? 長井工業の場合は、長井工業OBを中心とする地域住民が「自分たちの地域を 支えてくれるのは長井工業の卒業生しかいない」という強い危機感を持って、新校舎建設のために期成同盟会を結成したからです。要するに、「長井工業の生徒は自分たち地元の住民が育てるしかない」という意識が高まったからです。それに対して、東根工業の場合は、研究発表会とか 各種大会で入賞することが学校存続に繋がると勘違いしている傾向があります。実際のところ、そのような実績は学校と地域のためというより、管理職を含めた教職員の個人的な名声とか栄転に結び付いて終っている場合が多いように思えます。そうであれば、何も東根工業それ自体は存続する必要はないのです。公立高等学校の教職員は基本的に地方公務員ですから、長井工業でも東根工業でも、いつかは人事異動とか定年退職により学校からいなくなります。しかし、地域住民はその地域にずっと居すわって生活しなければならないのです。そこがポイントでしょう。

 話は変わって、この年度(平成13年度)に私は教職10年経験者研修を受けました。その中に、村山地方の小学校・中学校・高等学校に所属する教職10年経験者全員が村山総合支庁山形市)に集められて行われる研修がありました。そのとき同じグループになった小学校の先生 から、「先生は小学校向きですよ」と言われたことがありました。そう言われてみればそうかなあ・・・・・・などと、妙に納得してしまったのを今でも覚えています。また、この年度で日本工業大学(埼玉県埼玉郡宮代町)における免許法認定公開講座(6単位分)をすべて修了し、専修免許状(工業)も取得できました。高校教員として形式的にはひと区切り付いたという感じです。

 東根工業に来て5年間はサッカー部を担当しました。山形県はサッカー後進県です。その中でも最北地区は全体的にレベルが高いとは言えません。日曜日のある日、本校グラウンドで村山地区4部のチームと練習試合をしたことがありました。本校が惜敗したのでしたが、終わってから私は相手方の顧問と雑談していました。そのとき、「うぢ ぃ、どんけつの4部なんだっすぅ」と言われてしまいました。笑っていいのか怒るべきなのか、何とも複雑な気分で苦笑いしたのを覚えています。しかし、たとえ県大会で優勝したとしても、あくまでもアマチュアとして活動しているのですから、自分にとって何が本業なのかということを常に思い起こすべきでしょうね。生徒にしても、部活動を熱心にやってさえいれば他の生活面は大目に見られるというのは、本末転倒というものです。好きなことをやるだけなら、どんな人間でも熱心にやるでしょうから・・・・・・。

 それに、教職員の実績とは何なのでしょうかね? 大会入賞や研究発表など個人や学校の名前を上げるような働きだけが実績として評価されるとしたら、泥沼のような日常業務で苦しみもがいて地獄の思いをしている教職員たちは浮かばれないのではないでしょうか。特に、底辺校と呼ばれる高等学校では、学級担任になっているというだけで相当の精神的重圧が加わります。もちろん、真摯に取り組めばの話です。これに限らず、教職員の仕事には表面的な結果からは見えない苦労もあるのです。教職員に対する勤務評定(人事考課)の難しさはこの辺にあると思います。

 産学官連携の理工系大学院はともかくとして、学校は基本的に企業ではありません。民間企業に1〜2年ほど勤めた経験のある教職員が企業人ぶった意見を述べているのを聞くと、私は首を傾げてしまいます。そのような教職員は、ただ単に適性がなくて辞めて来たというだけに過ぎないのではないでしょうか? 単なる産業廃棄物と見ることもできます。そもそも製造業界やプロスポーツ界でも通用するような技術・技能を持っている人間であれば、わざわざ未成年(高校生)を相手に自己満足に浸っているような仕事には就いていないと思います。実際、ここ東根工業のある年度の校長は、 あまり名前を聞かない私立大学を卒業してから、(本人の公言によると)民間企業で一年間だけ不本意ながら営業の仕事をし、その後、私立の工業高校で教員として勤務してから公立に鞍替えした先生でした。「民間企業に勤めた経験」を自慢気に引き合いに出す先生でしたが、聞いて呆れますね。

 企業については、前任校で勤務していたとき、ある職員が「現代の大名は企業ですからね」などと述べていたことがありました。果たして本当にそうでしょうか? ご存知のように、大名とは一万石以上の石高を 有する武士のことです。あくまでも武力を持った為政者としての武士なのです。それに対して企業とは、利潤の追求を第一目的とする商人や職人の人間集団です。現代の企業は、江戸時代以前の組織で言えば、多くの商人や職人を抱えた豪商のような存在ではないでしょうか?  現代において大名に相当するものがあるとすれば、それは国会議員、その中でも衆議院議員かもしれません。

 6年目(平成14年度)は剣道部の顧問になりました。東根工業の武道館には「香取大神宮」と「鹿島大神宮」の掛け軸が掲げてあります。私が剣道部の顧問になったのは、前年の夏休みに参拝した香取神宮(千葉県香取市)と鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)のお導きなのでしょうか 。しかし、剣道の世界は少し堅い感じがし、一般人には敷居が高すぎるような気がします。それに、「面〜」とか「胴〜」が決まっても、特別な人(剣道の達人と言われる人)にしか技の有効性を判定できない面があります。素人考えながら、オリンピック競技になれない理由のひとつがその辺にあるように感じました。礼を重んずる日本古来の武道ではありますが、スポーツとしてはあまり普及性がないように思います。あともうひとつ、大会会場に立ち込める剣道着の腐ったような生臭い匂い、これは慣れていない人は我慢ができないでしょうね。

 後日、ここ東根工業から転任して米沢工業で勤め始めたとき、ある職員が「剣道の達人は人生の達人だがらなあ」などと述べると、それに対して剣道部の顧問が「そうですね」とか頷いたことがありました。これを傍で聞いていて、私は首を傾げてしまいました。確かに、相手の出方を予想したり、相手の裏をかいたり、相手との「駆け引き」という面を見れば達人かもしれません。ただし、それはこの世ですべてが終わりであればの話です。すべてがあからさまで「駆け引き」など必要のない世界に行けば、そのようなものは何の価値もありません。このことを自覚した強い剣士であれば、本当に「達人」と言えるでしょう。

 まあ、こんな評論家みたいなことばかり言っても仕方がありません。剣道部の顧問になって良かったと思うことがひとつあります。それは、本校チームの生徒が試合しているとき、床に正座して見守らなければならないことです。せいぜい20分程度ですが、この年令になっても結構、精神修養になります。平成15年正月からNHK大河ドラマで『武蔵 MUSASHI』が始まったというのも、何かの巡り合わせでしょうか。

 平成14年(2002年)の夏、日本と韓国の共催で第18回ワールドカップ・サッカーが開催されました。その前年の暮れ、私はこの大会の試合放送を録画すべくDVDビデオレコーダー (Panasonic DMR-HS1) とBSデジタルハイビジョンチューナー(SONY DST-BX300)を購入していました。ちょうど20年前、私がまだ海上自衛隊に在籍していたとき、第12回大会(スペイン大会)をVHSのビデオレコーダー (SHARP製)で録画したことを思い出すと、世の中の進歩を感じますね。

 6年目(平成14年度)の夏休み、7月29日(月)から8月1日(木)までの4日間、私は10年ぶりに全国工業高等学校長協会主催の夏季講習会に参加しました。今回の講習会名は「自動制御の基礎とビル管理システム」で、最初の3日間は山武ビルシステムの湘南研修センター(神奈川県横須賀 市)で行われました。フィードバック制御に関する内容です。最終日は東京都立蔵前工業高等学校(東京都台東区)に移動し、設備工業科の空調実習装置を見学しました。視野が広がるとともに、自己啓発するための良い刺激が得られた講習会でした。ところで、横須賀ではタイムマシンに乗ってに戻ったつもりで懐かしさに浸りたかったのですが、私の心に残っている過去のイメージとは整合しない風景が多く見られました。新しい道路や建築物など、都市の再開発が進んでいたからです。

 東根工業に来て2回目の修学旅行(平成14年度)は韓国(大韓民国)でした。平成14年11月19日(火)から22日(金)までの3泊4日です。期間の関係で、見学地はソウル市の他は扶余など百済王朝に縁のある地域に限られました。 右の3枚の写真は、私がデジタルカメラ(Nikon CoolPix900)で撮影したものです。印象に残ったことを修学旅行文集に載せました。

 修学旅行で外国に行くのは東根工業としては初めてのことです。私自身も飛行機で外国に出るのは初めての経験なので、夏休み中に初めてパスポートを申請しました。同時多発テロなど不穏な世界情勢ではありましたが、とにかく無事に日本に戻ることができました。行きも帰りも仙台空港です。

 電子工学科と学科名が変わっても修学旅行で科に「お面」を買ってくるという伝統は変わりません。今回は、見学地の定林寺址の売店で両班の「お面」を購入しました。魔除けになるそうです。両班(やんばん)とは李朝時代の貴族のことで、日本に併合される前は支配階級でした。かつて韓国の反日感情を煽り立てたのは、主として、自分たちの地位と面目を潰された両班の人たちです。

大韓民国の太極旗 平和の鐘閣
自由の橋 ナンタ劇場の正面

 なお、家族に対する私的なお土産としては、国立民俗博物館ソウル市)で両班のお面を購入しました。鑑定書まで付いている高級なお面です。本当はそのペアとして女性のお面も購入すべきだったと後で気付いたのですが、これは別の機会に何らかの方法で購入したいと考えています。

 それにしても、東根工業に限らず、どこの学校にも問題行動を起こす生徒がいるものです。彼らに共通していることは、「権利を主張するときは大人、義務を果たすときは子供」という何とも都合のよい行動原理です。そのような生徒は、たとえ無事に卒業できたとしても、遅かれ早かれ社会的な試練や制裁を体験するものです。面談を通じて生徒の言いたいことを聴くことも大切ですが、たとえ言い分はどうであれ、学校側の生活指導方針に反することはあくまでも悪いのだということは譲ってはならないと思います。 狡猾な生徒の場合は、先生の機嫌をとりながら自分に都合のいいことばかり述べまくる能力があるからです。心理カウンセリングによる精神療法は、道徳的な価値観など通用しない人間に対して行う最後の手段であり、普通の健康な生徒にとっては有害な場合もあります。

 私自身も含めて学校の先生というものは、とても聖人君子とは言えません。大抵の場合、その人間的な欠点は学校の先生に限ったことではありませんので、お互いに心証を害する程度で済みます。問題はそれが生徒の教育に関わる場合です。信じられないことですが、どこの学校にも職員の中には生徒の前で陰に陽に他の職員(ひどい場合は同じ科の学級担任)の悪口を言ったり、悪い噂を言いふらしたりする者が実際にいます。保護者の前で他の職員の悪口を言う者もいるから呆れてしまいます。このような心ない行為は、生徒と職員の信頼関係を損なう大きな原因となります。私自身も生徒や保護者の前で他の職員の悪口は言わないように注意しています。「家庭では子供さんの前で先生方の悪口は言わないで下さい」とは、どこのPTA会長も保護者に対してよく挨拶する言葉です。その意味するところは意外と深いです。

 生徒に対する教育と患者に対する医療(例えば外科手術)では大きく違います。外科手術の場合、患者は医師に自分を全面的に委ねるしかないのに対して、学校の場合は先生の指導に対する生徒の受け止め方が大きな比重を占めるということです。要するに、学校の生徒は先生のプログラムで忠実に動作するロボットではなく、「自由意志」がある存在だということです。生徒に「自由意志」があるということは、好き嫌い、得意・不得意など理由(言い訳)はどうであれ、自分自身が出した結果に対してある程度は責任が伴うということです。高校生になっても先生の強制力でしか学習に取り組めないのであれば、人間として何の進歩もなかったということになります。最近、工業高校を卒業して会社に入っても伸びない生徒が多いと言われているのは、自学自習の習慣がほとんど身に付いていないためと思われます。

 「学校の生徒は工業製品ではない」ということを述べさせていただきたいと思います。工業製品の場合は、同じ材料を同じ条件で加工すれば同じ製品を造ることができます。しかし、学校の生徒の場合は、他の学校と同じ教科書を使って同じ授業時間で学習したとしても、結果は必ずしも同じにはなりません。生徒のレベルあるいは発達段階に応じた適切な指導方法が必要になります。そこを勘違いしてトップレベルの高等学校に合わせても、同じ結果が出ないのは当然です。それに、人間は努力の量に比例して直線的に成長するものではなく、水に熱を与え続け た場合、固体(氷)、液体、気体(水蒸気)と変化するとき潜熱があるように、見かけ上は温度(成長度)が変わらない辛い時期があるものです。

 生徒はどちらかと言えば、植物に喩えるのが適切と思われます。生徒は自分に与えられた環境に拘束された中で時間を掛けて育つものですから、まさに植物と同じような立場ですね。植物に対するのと同じく、生徒に対しても遠くから暖かく見守りながらじっと成長を「待つ」ことも、ある意味では重要なことです。 「ものづくりを通した人づくり」とかいうキャッチフレーズもあります。しかし、同じく「もの」を造るにしても、工業製品よりは農産物(植物、家畜など)を扱う方が人間的な血が通っている感じがしますよね。

 もうひとつ心に引っ掛かることは、学校には生徒にただ単に何か便宜を図ってやったということだけで自己満足に浸る職員がいることです。 しかし、これは感心できるものではありません。例えば、不登校の生徒が中退して他校に転学する場合に、ある学習科目の単位認定をしてやるにしても、その学習科目の系統性も考えずに温情的に単位を与えるのは考えものではないでしょうか? 継続性のある学習科目の場合は、結局、理解不十分な本人が次の学校で苦しむことになってしまいます。喩えてみれば、赤ん坊の骨や歯の成長も考えずに、赤ん坊に甘いものばかり与えて自己満足に浸る独善的な祖父母のようなものです。

 さらに述べさせていただければ、「教育は愛」などともっともらしい発言をする生徒指導担当の職員がいました。この文句自体は、確かに一面の真理でしょう。ただし、問題は、その愛が「何に基づいた愛なのか」ということです。生徒を自分に引き付けておくことを動機とした不純な愛では、本当の意味での清い愛とは言えないのではないでしょうか? これまた喩えてみれば、老後の見返りを期待して自分の甥姪を可愛がる打算的なダメ叔母のようなものです。

 東根工業の生徒会誌の名称は『戸隠升麻』でした。戸隠升麻(とがくししょうま)とは、御所山、葉山など北村山地域の山に自生する高山植物のことです。校章も戸隠升麻の花を図案化したものでした。学級担任は毎年、原稿を書かなければなりませんでした。平成9年度平成10年度平成11年度平成13年度平成14年度と、短文ながらも生徒会誌に原稿を提出しました。

 6年目の3月20日(木)、人事異動の内示がありました。校長からお呼びがあり、米沢工業に転出することになりました。 「米工よねこうか、悪くないな」と心の中で思いました。米沢工業には顔見知りの職員が多いからです。正直言って、校長から内示を受けたときは、サッカーで言えばセリエBからセリエAに移籍するかのように思いました。現実はともかくとして・・・・・。私には「新しい道路ができると転勤する」というジンクスがあります。長井工業に行くときは新しい国道 348号線、東根工業に行くときは新しい県道山形朝日線、そして、今回は東北中央自動車道の東根インターから山形上山インターまでが開通しました。それに、国道458号線の 山形市長谷堂と上山市久保手を結ぶトンネルが工事中でした。この トンネル(長谷堂トンネル)は平成16年6月30日から通行できるようになりました。

 東根工業で勤務した6年のうち、3年+2年=5年は学級担任でした。できれば、自分のクラス (2年生)が卒業するまで東根工業にいたかったです。それが心残りと言えば心残りです。この6年間は教科内容に関係する免許・資格を精力的に取得したり、全国情報技術教育研究会第27回全国大会(山形大会:平成10年度)の事務局員になったり、県メカトロアイデアコンテスト(平成13年度と14年度)の実行委員になったりと、工業高校の職員としては充実した期間でした。それに、修学旅行で学級担任として沖縄(平成10年度)と韓国(平成14年度)に行 くことができて幸運でした。いろいろ辛い思いもしましたが、このような充実した体験をさせて下さった東根工業には改めて感謝したいです。

 

【 米沢工業高等学校 】

 平成15年4月1日(火)、米沢工業高等学校に新任者打ち合わせのため初めて出勤しました。大会議室(2階)に集まった顔ぶれは、かつて一緒だった職員が多くて、私自身は懐かしさで一杯でした。全日制、定時制を問わず、長井工業で一緒だった職員が多かったです。米沢工業の古い職員からすると、「また来たのか・・・・・・」という感じでしょう。奥州平泉に落ち延びた源義経もきっとこのような気分を味わったのではないでしょうか。 それでは、誰が藤原秀衡で、誰が藤原泰衡に相当するのか? 冗談はここまでにすることにして、13年前(平成2年度)と比べて大きく違うと感じたのは、常勤講師が非常に多いことです。13年前は私を含めて2名だけでした。

 どうせ私は「世捨て人」なのですから、肩に力を入れたり、逆に卑屈になっても仕方がありません。前任校で数名の職員が私のことを「管理職候補」とか「校長候補」などと私に言ったことがありました。本気でそう言ってくれたとしたらその職員には申し訳ありませんが、本人はそんな野心は一切持っていません。正直言って、私は管理職というものに魅力を感じません。在任中に職員の不祥事などがなく、無事に校長を務め終えれば、晩年に国からの叙勲が待っているようです。しかし、叙勲などあの世では戒名 (法名)と同じ程度のもので、通行手形にもなりません。また、勝手なことを言わせていただければ、現代の工業高校で管理職となるよりは、自分の母校で平職員として勤務できる方が私にとってはこの世の名誉と思われます。それからもうひとつ、管理職と定年間際の平職員とでは俸給がほとんど同じという現状では、「馬鹿らしくて管理職などになっていられない」というところでしょうね。

 今回は13年前に赴任したときとは違い、八幡原工業団地のすぐ近くに移転した豪華な新校舎です。バブルが完全に崩壊する前に建設されたためか、今となっては贅沢に過ぎると思われるほど敷地も広く、校舎も立派です。正面玄関側(東側)の境界には、「うこぎ」が植えられています。このような点にも、上杉鷹山(中興の祖)の精神を受け継ぐ米沢を感じることができます。

 通勤は自家用車です。登録している通勤経路(最短経路)は、自宅から国道458号線に出て南下し、国道13号線に合流してそのまま米沢市まで南下するものです。このコースで米沢に向かうとき 最初に渋滞に出会う場所は、上山市中山から南陽市川樋までの区間です。

  この年の秋、国道13号線が事故のため通行できなくなった日がありました。その日は上山市楢下(ならげ)、高畠町二井宿を経由して学校に行きました。この経路は地元で「歴史国道」と呼ばれている道です。国道13号線を経由するより4キロも遠回りですが、通行車両が少ないので、所要時間はむしろ 短いくらいです。ドライブコースという観点では、峠を含めて適当な起伏と旋回があり、自然の景観も素晴らしく、私にとっては最高の部類に入ります。二井宿では道路から野性の猿をときどき見ることができます。

 この年の7月から私は米沢スポーツプラザ(米沢市金池)にあるアスレチックジムに通うことにしました。このジムには指導員もいますので、効果的に体力アップ(それとも維持かな?)ができます。私は毎月9,500円の会費でフルタイム会員にな りました。酒などの嗜好品を少し我慢すれば、月に9,500円くらいは何とか捻出できます。指導員から作成してもらったメニューをまともに実行すると、最初から最後まで2時間近くもかかります。アスレチックジムに通うようになってから、高めになっていた血圧も正常に戻りました。ある程度の年令になると、飲み食いでストレスを発散するのは健康に良くないようですね。また、学校の仕事がうまく進まなくて落ち込んでいるときにも、体を動かせば憂鬱な気分も一時的とは言え、少しは解消されるものです。実は、10年ほど前まで私はウェルサンピア山形(その当時の呼称は 「山形厚生年金休暇センター」)にあったアスレチックジムで週末に運動していたのですが、平成15年3月31日を以ってアスレチックジムが閉鎖されたのです。

 そうこうしている間に、冬の季節を迎えました。米沢工業では各系ごとに冬季体育行事(スキー授業)が2日あります。紹介が遅れましたが、私の所属は電気系です。13年前は各科ごとに2日でしたので、基本的に学校行事としてずっと踏襲しているようです。長井工業を出てから一度もスキーを経験していないので、引率として参加するのは少し不安だったのですが、スキーの感覚は体がしっかり覚えていました。しかし、自分から積極的にスキーをしたいという気持ちには今でもなりませんね。この年度は13年前と同じく天元台高原栗子スノーパークでした。

 米沢工業には研究紀要『アルファ』があり、隔年で発行されています。平成15年度はその発行年度に当たっていました。この年度の2月、私は「自己啓発としての資格取得」と題して『アルファ 』第20号に投稿しました。長井工業東根工業を含めて、勤務先の研究紀要に私が投稿するのは今回が初めてのことです。実は、平成16年1月期の無線従事者国家試験で念願の第一級陸上無線技術士に合格することができました。それを記念して文章にまとめたものです。自分が今まで工業高校で無為に過ごして来たのではないことを示したかったからです。

 他人の参考になることを含めて自己を正当に表現することは別に問題はないと思います。むしろ、謙虚さを装った自己卑下やもったいぶった態度での自慢の方が、他人に対する嫌味な自己主張と言えるでしょう。実際、そのような職員がここにもいました。その職員は娘が浪人して東北大学に入学し、数年後に卒業したのですが、どの学部なのか私が本人に尋ねても、「恥ずがしくて言えねえ」などと自己卑下するのです。そのくせ、病院とか何かとかそれらしきことを自慢気に周囲の職員に吹聴するのでした。これは正に「謙虚さを装った自己卑下」の典型的な例でしょうね。「自己卑下も自慢のうち」とはよく言ったものです。そもそも2〜3流の私立大学しか出ていない父親にとっては、娘が東北大学に入学したというだけでも上出来と言うべきです。恥ずかしくて言えないのは、むしろ自分自身の学歴ではないでしょうか?

 2年目(平成16年度)になりました。4月1日から私は携帯電話をN207SからD252iに同番号機種変更しました。実は、N207Sは私にとっては初めての携帯電話で、東根工業に勤務していた時期の平成11年5月22日に購入したものです。新しい機種はディスプレーがカラーで、パソコンと同じ感覚でメニュー操作できるばかりでなく、写真も撮影できます。しかし、私は単なる電話としてしか使っていません。いろいろ豊富な機能が備わっていても、ほとんど使う必要性を感じないからです。

 また、同じく4月1日から私はアスレチックジムを米沢スポーツプラザからトップロード山形市香澄町:山交ビル6F)に乗り換えました。休日に自宅から米沢に通うと、交通費(ガソリン代) をいたずらに浪費するばかりでなく、往復するのに2時間半も要するからです。さっそく1日の夕方からトップロードで体を慣らしました。その翌日(2日)にオリエンテーションと体力測定を受けました。米沢スポーツプラザで鍛えた甲斐があって筋力と柔軟性は高まっていましたが、平衡感覚とか敏捷性のような神経系統はあと一歩でした。やはり普段のアルコール摂取を控える必要があるのかな?

 さて、本業の方は、2年目(平成16年度)に電気系2年の片方のクラス(3組)を受け持つことになりました。そのクラスの学級担任が他校に転任してしまったからです。前任校の2回目は2年次まで受け持って転任となりましたが、今回は逆に私が引き継ぐ立場となりました。野球で言えば、リリーフ・ピッチャーというところでしょうか。学級担任になったばかりの4月、3年生の生徒数名から「担任おめでとうございます」と声を掛けられました。しかし、学級担任になる者にとって現実は厳しいですよね。ところで、工業高校はどうしてクラス替えもなく、学級担任が原則として持ち上がりなのでしょか? 全クラス普通科の進学系の高等学校ならばクラス替えなど当たり前なのですが、校種による教育事情の違いですかね。

 参考まで、教務主任、学年主任、生徒指導主事、進路指導主事、工業科の学科主任(科長)にはいわゆる「主任手当」が支給されますが、学級担任には担任手当(?)なるものは支給されません。ただし、教職員組合に加入している職員の場合、この主任手当は教職員組合から半強制的に吸い上げられているという話です。もちろん、職員本人の意思により教職員組合に拠出(上納?)したという形にはなっているようですが・・・・・・。

 5月3日(月)、14年ぶりに「米沢上杉まつり」の行列と合戦に副将として参加しました。「川中島の合戦」は今回は上杉方の安田隊でした。言うまでもなく、出陣式にしても行列、合戦にしても、戦国時代を偲んでお祭りとして演技しているのです。 本物らしい方が本物よりも観衆には良く受けるものですからね。実際はこんなものではないと思います。また、上杉氏に限らず誰でも自分の方が正義と思っているから、命を懸けてまで戦うのです。この意味で戦争はお互いに独善的と言えなくもないです。自分が戦勝祈願している神仏は、自分と戦う憎い相手が戦勝祈願している神仏と同じ存在(呼称は違っても)であるということを、誰でも忘れてはならないでしょう。それはともかく、「米沢上杉まつり」に本校が参加するためには、私のように武者として参加する生徒・職員ばかりでなく、事前の立案・調整から当日の運営(着付け・テント設営・弁当・誘導・救護など)まで多くの生徒・職員がボランティアで活動しています。正直言って、14年前はそこまでは考えが及びませんでした。

 7月11日(日)、いつも通っていた床屋で右足首を捻挫し、それから3週間、その治療のためアスレチックジムに通えませんでした。捻挫はしっかり治療しないと、その部分が再び捻挫しやすくなるそうですから、念入りにリハビリする必要があります。どうして捻挫なんかしたかって? 年甲斐もなくのぼせ上がって、椅子に座るとき上の空でいたからです。見方によっては、浅はかで愚かなことかもしれません。いや、私はそのとき「心ここにあらず」だったのでしょう。前年(平成15年)の8月末から9月末にかけても1ヶ月間、風邪のためアスレチックジムに通えませんでした。両方とももったいない話です。

 私にとってアスレチックジムは、肉体面ばかりでなく精神面でも健康管理のため欠かせない存在になっています。 気分が良くない日や体調がすぐれない日でも、アスレチックジムに通える日は、せめてストレッチだけでもやることを心掛けています。また、このような会員制のアスレチックジムはお互いに見ず知らずの人が集まっているのですが、別に会話などしなくても、お互いに棲み分けて活動していますので、自分の居場所がないという苦痛はありません。もちろん勤務先には職員の愛好会(米沢工業ではゴルフとスキー)とかレクリエーション大会などが懇親会を含めてありますよ。しかし、何となく職場の延長という束縛感があり、私の場合は今ひとつ発散できません。

 夏休み期間中の8月5日(木)〜6日(金)、公立学校共済組合の東北中央病院(山形市)で人間ドックに入りました。前回は平成12年10月でしたから、ざっと4年ぶりです。前回までと同じく一日目の昼食と二日目の朝食は検査の都合により禁止だったのですが、前回までと違って今回はその分、検査が終わってから「軽食」と称するものが出ました。また、二日目の朝一番に行われた採血の検査結果(仮報告書)がその日の昼過ぎには配られ、食堂で看護 師による解説(健康講話)が行われました。私の場合、血液検査に関しては今回はすべての検査項目が規定値に収まっていました。アスレチックジムで運動している効果を実感させてくれますね。アスレチックジムに通うのは健康管理という消極的な動機ばかりでなく、実は将来に備えた積極的な動機もあるのです。別に長生きしたいからではなく、この世にいる間、何かもう一花咲かせたいという思いがあるからです。「憎まれっ子世にはばかる」とか言いますから、本人の意に反して長生きしたりして・・・・・・。

 健康管理と言えば、運動ばかりでなく食生活も重要な要素です。食事で不足する栄養素はサプリメント(健康補助食品)で補う必要があります。私も10年ほど前から自分の年齢を意識して、何種類かのサプリメントを摂取するようになりました。最初の頃は山田養蜂場宝仙堂などいろいろ試してみましたが、現在は主として植物と魚介類から抽出した栄養素です。毎朝、「高麗人参濃縮液」ひとさじ(添付の小さなスプーン1盃分)ずつ、お湯に溶かして飲んでいます。体調や精神状態が良い日にはほんのりと甘い味がしますので、自分のコンディションを客観的に知る指標にもなっています。参考まで現在の主な購入先を列挙しますと、サントリー健康食品AFCサンエイトです。何を注文するかは個人の健康事情によると思います。ただし、私はバイアグラに類するものは試したことはありません。

 平成16年11月14日(日)〜18日(木)の4泊5日、関西方面の修学旅行に学級担任として参加しました。修学旅行で関西方面に行くのは、私にとって長井工業(平成6年度)以来、10年ぶりのことです。大阪2泊、京都2泊でした。往路は山形新幹線(米沢〜東京)と東海道新幹線(東京〜新大阪)、復路は東海道新幹線(京都〜東京)と山形新幹線(東京〜米沢)を利用しました。

 この学年は機械系、電気系、マテリアル系、建設系それぞれ2クラスずつあるのですが、系によってコースが異なります。電気系が団体で見学した主な場所は、大阪のATCグリーンエコプラザ海遊館松下電器技術館ユニバーサル・スタジオ・ジャパン、奈良の薬師寺東大寺春日大社、京都の平等院です。右の3枚の写真は、私がデジタルカメラ(Nikon CoolPix5200)で撮影したものです。

 どんな旅行にもお土産は付きものです。私の場合、どうしても仕事柄、職場に対する公的なお土産と家族に対する私的なお土産があります。今回、私的なお土産としては清水焼団地(京都市山科区)で清水焼の能面(若女)を購入しました。自宅で部屋の壁に飾っています。

ユニバーサル・スタジオ・ジャパン 東大寺大仏殿
平等院鳳凰堂 修学旅行文集

 また冬を迎えました。同じ山形県内でも米沢市山形市に比べて積雪量が2倍はあります。スキーが好きな人にとって豪雪はたまらない魅力でしょうが、私はどちらかと言えば情緒的な小雪の方が好きです。いや、それより も三浦半島(神奈川県)のような海に面した雪のない温暖な地域が好きです。海上自衛隊時代の大半を横須賀 市(神奈川県)で過ごしたせいしょうか? テレビ番組「オーラの泉」ではありませんが、私の前世は鎌倉時代に幕府に仕えた御家人だったのかもしれません。もちろん、これは冗談ですよ! 今年の冬も昨年と同じく、スキーをしたのは冬季体育行事(スキー授業)の2日だけでした。普段からアスレチックジムで体を伸び縮みさせているので、スキーをやった後で筋肉や関節が痛むということはありませんでした。特に、毎回、ストレッチを念入りにやっている効果は大きいです。

 米沢市では毎年、2月の第2土曜日とその翌日に松が岬公園一帯で「上杉雪灯籠まつり」が催されます。米沢工業も学校として雪灯籠つくりに参加しています。平成17年2月は電気系2年(自分のクラスを含む)が成形作業を割り当てられました。この時期、山形県内では各地で雪祭りが行われています。

 毎度のことながら、年度末になると人事異動の季節を迎えます。別れと出会いの季節です。毎年、出会っては別れ、別れては出会うことの繰り返しですね。少なくとも私にとっては精神的に最も不安定な季節です。餞別が飛び回るのは構わないのですが、餞別に対する「お返し」まで飛び回るとなると、ちょっと時代錯誤に思えてしまいます。例えば、お菓子は返さなくてもよい時代なのでは? 現代は「飽食の時代」なのですから・・・・・・。 また、人事異動は大抵の場合、組織の若返りになるようです。しかし、現在は若いと言われる職員も、いずれは年配(老人)になるということだけは忘れてならないでしょう。肉体的な若さは永遠ではありません。

 3年目(平成17年度)になりました。4月26日(火)、創立記念式典が本校体育館で行われました。第108周年記念です。最近は山形県内でも工業高校を希望する中学3年生の割合が減少していますので、歴史と伝統のある米沢工業といえども、108という数字が「除夜の鐘」にならないとも限りません。ひとつの可能性として、米沢商業と統合して米沢実業(仮称?)になるという選択肢もあります。もちろん、そのような構想が県教育委員会から出たら、米沢工業の同窓会(鶴城工親会)は大反対することでしょうが・・・・・・。ところで、例年どおり式典に引き続いて記念講演がありました。今回の講師は堀井学さん(元スピードスケート日本代表選手)で、演題は「夢への挑戦」でした。参考まで、平成16年度はピーター・フランクルさん(数学者であると同時に大道芸人)が講師で、演題は「人生を楽しくする方程式」でした。

 どこの高校でも定員割れについては、その原因と対策をいろいろ議論するようです。しかし、中学生がその高校に入学したいかどうかは、表向きの志望動機ではなく理屈抜きという面もあるのではないでしょうか? 独り善がりのお役所的な対策をいくら学校側が講じても、あまり効果は期待できないと言えます。ただし、入学して卒業してしまえば、志望動機はどうであったにせよ、本人にとっては母校であることに変わりはありません。中学生の子供さんをお持ちの高校教員に対して私は、「あなたは自分の子供を自分の勤務する高校に入学させたいと思いますか?」と尋ねてみたいです。それに対する答えがすべてを物語っていると私は思います。

 自分のクラスも3年生になり、進路決定しなければならない時期になりました。進路決定は最終的には生徒本人と保護者の合意に基づいて行われます。しかし、その生徒自身に明確な志望先がなかったり、目標実現のため学習面とか生活面で努力する意思がない場合は、いつまでも決定できなくなります。これは、どこの学校でも、また、いつの時代でも事情は同じです。進路を選択することは、自分の可能性を限定する(収束させる)ことであり、場合によっては辛い決断が伴います。しかし、いつまでも煮え切らない態度では「可能性の缶詰」のままとなり、結局、何も可能性がなかったことと同じになります。

 これまでの10数年間、私は工業高校でいろいろな生徒に出会いました。いつも残念に思うことは、自分のやる気のなさを「教える先生が嫌いだから」とか「学級担任が悪いから」とか、あるいは「周りの生徒から悪影響を受けるから」とか、一方的に他人のせいにする生徒が一部いることです。確かに、先生と生徒あるいは生徒と生徒、お互いに相手があっての話です。しかし、そのような生徒に私は次のように言いたいです。「小学校や中学校であなたの先生や級友が良かったとしたら、あなたは現在の自分以上になっていたのですか?」と。別の表現をすれば、自分の入学動機を自分自身で否定している生徒がいるということです。工業高校の場合、入学試験における学力検査の成績よりも、自分が学校で貴重な体験をしているということを生徒が感謝の気持ちで受け止められるかどうかが運命の分かれ目ではないかと私は思います。

 3回目の年が明けて、平成18年(2006年)になりました。平成18年は「戌年いぬどし」です。そのためでしょうか、1月2日〜3日に『里見八犬伝』というテレビドラマが放映されました。例により、「孝」の玉を持つ犬塚信乃戊孝など、それぞれ仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の玉を持つ八剣士が登場します。 なかなか感動的な内容でした。かなり昔の話になりますが、昭和48年から昭和50年にかけて、NHKで『新八犬伝』という連続人形劇が放映されていました。知人の話によると、戦前の旧制中学校では、クラスの名前が1組、2組、3組のような連番でなく、仁組、義組、礼組のように称したところもあったそうです。

 平成18年3月3日(金)、自分のクラスがやっと卒業式を迎えました。学級担任として卒業式を迎えるのは通算3回目です。長井工業で1回、東根工業で1回(2回目は 入学から2年次まで)、そしてここ米沢工業で1回(2年次から卒業まで)です。今までの卒業生を数えてみたら96名でした。残念ながら、ディズニーの『101匹わんちゃん』にはなりませんでした。3回とも定員割れのクラスだったからです。最近は官公庁に対する風当たりが強く、公立高等学校の卒業祝賀会も午後の明るい時間帯(勤務時間帯)は自粛するようになっています。米沢工業でも平成16年度 と平成17年度は卒業式そのものが午後から行われ、卒業祝賀会は夕方から行われました。

 3月25日(土)の夜、米沢駅前の「ゆあーず」で学級教護会役員のお別れ会が夫婦同伴で行われ、私もその席に招待されました。「教護会」とは聞き慣れない言葉かもしれませんが、米沢工業におけるPTAのことです。この2年間は、教員として新しい発見や感動があった反面、成績会議のときは死刑判決を待つ囚人のような心境になることもありました。しかし、卒業式が終わって教室に戻った生徒の晴れ晴れとした表情を見て、学級担任を引き受けて良かったと思いました。これも結局は自己満足でしょうかね?

 米沢工業の生徒会誌の名称は『鶴声』です。上杉氏の居城が舞鶴城と呼ばれていたことから、この「鶴」の文字が用いられ たと思われます。また、敷地内にある同窓会館も「鶴城会館」という名称です。例年、3年生の学級担任は原稿を書くことになっています。私も平成17年度に短文ながら原稿を提出しました。

 4年目(平成18年度)になりました。実は、ここ2〜3年は若年退職(定年になる前に退職すること)を意識していました。精神的に疲れてしまい、一年間くらい何もしないで暮らしたい気分だったからです。端からは「そんなに仕事をしたのか?」と疑問を持たれるかもしれません。私自身はそんなに仕事をしたとは思いませんが、教職員の仕事は、いわゆる「労働価値説」によっては正しく評価できないことも確かです。実は、最近は職業人としての自分に希望を見出せなくなり、仕事に対して力が入らなくなることがありました。私も一種の更年期を迎えたのでしょうか?  いや、人間は自分の存在意義を見出せないと、年齢に関係なく生きる活力が湧かないものです。

 米沢工業に勤務することについては、職員や知人から「遠距離の通勤、大変ですね」という意味のことをよく言われ て、同情(?)されます。しかし、ちゃんと通勤手当は支給されますし、私自身は自家用車による通勤が苦になるどころか、春夏秋冬、ドライブとして前向きに楽しんでいます。それに、米沢工業に来てから山形工業寒河江工業東根工業のような自宅に近い工業高校に転勤希望を出したこともありません。実際、自宅から離れた場所で勤務する方が公私の区別も付き易く、何かと気楽な面があります。ただし、忘れ物をしたり、急用が発生したり、あるいは、残務整理のため遅くまで学校に居残る場合は、時間的な面で不利なことは確かです。

 最近、「ものづくり」という言葉をよく耳にします。物(工業製品)を造って外国に輸出し、生活必需品を輸入しなければ国民を養えない宿命にある日本を象徴する言葉です。しかし、「人はパンのみに生きるにあらず」であることも確かです。収入が少なく貧しい生活でも内面的に幸福な人間もいれば、衣食足りても幸福を感じられない人間もいます。「ものづくり」に役に立つ人間をいわゆる「役に立つ人間」と考えるのは、ちょっと早計と私には思えるのですが、いかがなものでしょうか? 人間は「物を造るようになった猿」ではないと私は思います。また、世界の国々から本当に尊敬される国とは、単なる「ものづくり」が進んでいる国とか、自国の経済的な豊かさだけを追い求める国ではないことも事実です。

 平成18年度は高校生ものづくりコンテスト山形県大会「電気工事部門」の事務局が米沢工業に割り当てられ、私はその事務局長に任じられました。前年度末の段階では別の職員が担当する予定だったのですが、その職員が他校に転任したため私に役が回ってきたという経緯があります。この大会は山形県電気工事工業組合山形県電気工事高等職業訓練校から大幅な協力・支援を受けて、6月18日(日)、雇用・能力開発機構山形センター山形市)で行われました。 この時点で私自身は電気工事士の資格を持っていませんでしたし、また、苦手意識の強い分野でしたので、引き受けたばかりの頃は正直のところ不安でした。しかし、準備活動を進めて行くうちに、何とか乗り越えられると思えるようになりました。今はこのような機会を学校側から与えられて私個人としては良かったと思っています。電気工事に対する親近感が向上したからです。

 6月23日(金)、思いがけないことが発生しました。自宅にいわゆる「振り込め詐欺」の電話が入ったのです。それまでは他人事のように思っていましたので、ちょっと驚いてしまいました。結局、不当な示談金は振り込まないで済みました。帰宅してから、その電話を受けた母から話を聴きました。勤務先の教頭と称する者から被害者の父親、弁護士と称する者まで、いろいろな人物が電話に出る劇場型(?)の詐欺です。一応、勤務先の管理職に経過概要を報告しました。

 この年度は2年ぶりに学級担任から離れました。その分、いろいろな仕事を体験でき、視野が広くなり、学級担任とはまた違った意味で充実感を味わうことができました。学校には校務分掌と呼ばれる役割分担があり、今年度、私は保健部に所属することになりました。平成2年度から公立高等学校に勤務するようになって以来、初めての経験です。また、米沢工業には隣接する地区教護会(通学地区ごとのPTA)をいくつかまとめたブロック研修会というものがあります。7月9日(日)、ハイジアパーク南陽南陽市)で東置賜ブロック研修会が行われました。熊野大社宮司と校長の講演が30分間ずつ、それに引き続いて懇親会もあり、なかなか有意義な研修会でした。7月24日(月)の夜には、地区教護会の巡回指導という中で保護者と一緒に熊野大社南陽市)の例大祭を初めて見物することができました。

 平成18年度の夏休みは感動的なことがありました。日大山形(略称:正式名称は日本大学山形高等学校)が山形県の高等学校としては初めて夏の甲子園でベスト8に進出したことです。ベスト8を決める3回戦の対戦相手は今治西(愛媛県)でした。延長13回裏まで攻防が続いた感動的な試合でした。野球に限らずいつも思うことは、いくら平凡な校歌でも強いチームの校歌は良く響くということです。また、 ユニフォームはデザインの良し悪しではなく、強いチームのユニフォームが良く見えるということです。

 夏休みでなくても、大抵の高等学校には宿題というものがあります。生徒に出す宿題が多いことを自慢気に話す進学校(受験校)の教職員もいます。しかし、宿題を与えなければ生徒が勉強せず、大量の宿題で生徒を鞭打ち、そこそこのレベルの国立大学にやっと合格させるような高等学校では、本当の意味で一流の学校とは言えないと私は思います。難関国立大学や一流私立大学の合格者数という単なる数字からは見えない学習力の差があるということです。サッカーの試合でよく「スコア以上の差がある」とか言われますが、これと同じことだと思います。

 5年目(平成19年度)になりました。早いもので、私が海上自衛隊を退職して山形に戻って来てから、 平成19年7月で21年になりました。専門学校のページ(その最後の部分)でも述べましたように、当初、私は工業の教員免許を土台にして玉川大学通信教育部で数学の教員免許を取得し、普通科に鞍替えし、できれば自分の母校(過分な欲望かな?)に勤めたいと考えていました。ところが、工業高校に勤務している中で、それなりに充実感を味わっていましたので、いまさら普通科に無理して鞍替えする必要もないのでは・・・・・・と思うようになってここまで来たのです。いや、もっと正確に言えば、いろいろな面で新しい課題が次々と発生したので、鞍替えなどを考える余裕がなかったのです。また、工業科の教員にはいわゆる産振手当(「産業教育振興法」に基づく手当)が支給されますので、中途採用のため同じ年代より3〜4年分も号俸が低い私にとっては、特に採用されたばかりの頃は経済的に助かった面もありました。しかし、所詮、私は普通科出身の人間です。工業高校には馴染めない部分が多くあります。それに、農業高校、工業高校、商業高校は「高等学校」という名前は付いているものの、実質的には「職業訓練所」と称した方が適切ではないかと私には思えます。実際、工業高校は四年制大学の工学部を卒業していなくても、実習助手としてしばらく勤めれば教諭に鞍替えできる職場ですから・・・・・・。

 新年度になってまだ間もない4月、転任して来たばかりの事務部次長が中途退職しました。引き続いて6月には、同じく新任の司書が中途退職しました。公務員としての不祥事 によるものではないようです。さすがにその内部事情については校長から公表されていません。さらに驚いたことに、翌年の3月末には電気系の若手職員が急死しました。こちらは休日に自宅周辺で運動しているとき に起きたという話です。このように、平成19年度は本校職員に異変が多く発生した年度でした。実は、その直前の平成18年度末には、数ヶ月間ずっと出勤していなかった若い女性の助教諭(工業科)が正式に退職しています。それぞれ個人的な事情があったのでしょうね。

 実は、年度途中ではありましたが、平成19年7月31日付で公立高等学校を依願退職しました。女子生徒との不適切な関係が明るみに出て身を引いたとか、飲酒運転あるいは公金横領が発覚して懲戒免職になったとか、そのようなものではありません。父が平成18年12月11日、引き続いて母が平成19年3月27日に相次いで他界したこともあり、私としては仕事を続けて行く張り合いがなくなってしまったからです。いや、もっと正確に言えば、母が小学生の私を不甲斐なく思って悲しんでいることがすべての始まりでしたので、両親が他界したら急に糸の切れた凧のような心理状態になってしまったのです。今後の生活ですか? ご心配なく! 勝算があっての決断とまでは言えませんが、今までどおりの水準で生活しても、燃料タンク(?)は私が年金を受給できる年齢まではぎりぎり持つでしょう。山形に戻って再就職してから毎月の給料とボーナスの半分以上は両親に預けていたのですが、両親はほとんど手を付けずに山形銀行とかJAバンクに貯蓄してくれていたのです。思えば、公立高等学校で勤務した期間は、平成2年度から通算すると17年4ヶ月なのですが、これは16年16ヶ月と見ることもできます。また、米沢工業で勤務した期間は、旧校舎(平成2年度)を含めると5年4ヶ月、すなわち、64ヶ月でした。

 「いつまでもあると思うな親と金」という言葉があるとおり、誰でもいつかは両親の死に直面しなければなりません。私の場合、両親は二人とも老衰でなく病死でした。しかし、世の中には死亡の原因も公表できないような死に方をする人間がいるものです。実際、親族がそのような死に方をした職員がここでもいました。その職員は「察してくれ」としか職場に伝えようがなかったそうです。 恐らく変死だったのでしょう。それに比べたら、私の両親はまともな死に方をしてくれた方だと思います。

  私は必ずしも自分が教職に適しているとは考えていません。そもそも「先生」と呼ばれるような立場には自分自身、少なからず違和感を感じています。私は今までの経験を活かしてそこそこの収入を得ながら家業にも従事して、この世での残りの日々(何年あるかな?)を静かに生活したいです。公立高等学校を退職しても、私にとって失うものなど何もありません。私はそんなに期待もされていないようですし、「駄目でもともと」という楽観的な受け止め方です。それに、共済組合に属した勤務期間が平成18年度で通算27年(8年3年1 6年)になりましたので、年金に関してはそんなに欲張る必要もないと言えます。必要以上に年金をもらっても、余った金をあの世には持って行くことはできませんからね 。海上自衛隊(8年)、専門学校(3年3ヶ月)、公立高等学校(1年+16年4ヶ月)とそれぞれ多彩な夢を見させていただきました。中国の故事に「一炊の夢」というものがありますね。私は盧生という青年のように富貴を極めてはいませんが、何となく今まで夢(甘い夢も辛い夢もあり)でも見ていたという感じでした。

 これまでを振り返りますと、我ながら工業高校の電気系学科でよくここまで勤められたと思います。私自身は高等学校が普通科で、また、大学の卒業学科は工学部の応用物理学科です。私の卒業学科に該当する学科を持つ工業高校は少なくとも山形県内には存在しません。このような立場の中で自己啓発しながら何とか勤めて来た17年余りでした。言わば異民族(それとも異人種?)の中に飛び込んで生活したようなものです。プラス思考で受け止めれば、授業(実習を含む)を行うに際して必要に迫られて多くの知識・技能を身に付けたばかりでなく、関連する多くの免許・資格を取得することもできました。また、授業時間ばかりでなく生徒 、あるいは、その保護者といろいろな場面で接することを通じて、生徒を指導する立場でありながら、自分自身の足りないところを気付かせられたりして、自分自身も人間として成長を促された17年余りでした。さらに、各勤務先の教職員からもいろいろな面で刺激を受け、自分にとって啓発されることが多かったと思います。このような多彩な体験をさせて下さった公立高等学校には心から感謝したいです。

 

【 退職してからのこと 】

 このまま続けて記述するとページが長くなりますので、「退職してからのこと」のページに別枠で記述させていただきます。