
平成14年の正月、何かに取り憑かれたかのように一気に大筋を書き始めたページです。まるで走馬灯のように次々と過去の情景が思い出されました。退職して既に20年を越えました。 再就職してから、勤務先の職員から「今の仕事と比べてどっちが良かったですか?」という意味のことをよく尋ねられました。何とも答えにくい質問ですが、ひとつだけ言えることは、今の職業よりは別の職業がよいのでは・・・・・と思ったからこそ転職したということです。
それにしても、一般人の自衛隊に対する認識の低さにはときどき呆れ返ります。それをほのめかすエピソードを紹介します。海上自衛隊を退職してから数年後、私が公立高等学校に勤務するようになってからのことです。ある勤務先の女子生徒から「自衛隊って給料もらえるの?」と尋ねられたことがありました。この生徒は自衛隊はボランティア活動のためにあるとでも思っていたのでしょうか。また、同じ勤務先の職員から「先生は下士官だったんだね」とか言われたこともありました。士官(幹部)と下士官(曹)の区別もできないのか・・・・・・と内心、残念に思いました。いや、それが現代日本の現状なのかもしれませんね。
大学も終わりに近づきたとき、私は就職先として海上自衛隊を選びました。秋に陸上自衛隊苦竹駐屯地(宮城県仙台市)で技術幹部候補生の1次試験を受け、 年が明ける前に2次試験を航空自衛隊松島航空基地(宮城県桃生郡矢本町:現在は東松島市)で受けました。合否の結果を待つのが長く感じられました。なお、民間企業に就職という大きな選択肢もありましたが、研究室の教授から「海上自衛隊を受けるのであれば、民間企業の方は受けないで欲しい」と言われました。教授の顔で学生を民間企業に受け入れてもらうので、相手先との信頼関係を壊すことになるからです。
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合格してから、4月4日、海上自衛隊幹部候補生学校(広島県安芸郡江田島町:現在は江田島市)に技術幹部候補生として入校しました。4月2日の深夜、山形駅から夜行列車で上野駅まで行き、3日の早朝、東京駅から生まれて初めて東海道新幹線に乗りました。広島駅で降りて、路面電車で宇品港まで行き、フェリーで江田島の小用港に着きました。 幹部候補生学校とは、防衛大学校を卒業したばかりの人間と私のような一般大学を卒業した人間が合流し、幹部自衛官になるために教育訓練を受ける学校です。 このコースは一般幹部候補生課程と呼ばれていましたが、陸海空のうち海上自衛隊だけは技術幹部候補生という募集区分がありました。 教育内容は一般的な基本教練、集団訓練と海事教育(実習を含む)が中心で、自分の大学生活は何だったのかと思いたくなるほど、肉体的にも精神的にも活性化したのを覚えています。 なお、海上自衛隊の幹部候補生学校には私たちのようなコースばかりでなく、部内幹部候補生課程(若手の海曹から)、幹部予定者課程(年配の海曹から)、飛行幹部候補生課程(航空学生から)があり、それぞれ入校時期と期間が異なっていました。 |
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幹部候補生学校の校舎は赤レンガで、海軍兵学校の校舎をそのまま引き継いだものでした。旧海軍時代は米国のアナポリス、英国のダートマスとともに世界三大海軍兵学校と呼ばれていました。1階が教室(普通の学校のHRに相当)、その真上の2階が二段ベッド(組み立て式)の寝室になっています。現代の日本でこのような全寮制の生活を体験できることは本当に希少価値だと思います。公式な場面で私たちは「**候補生」という呼称で呼ばれていました。辛いことも多くありましたが、集団生活を通して学ぶことが多く、自分が内面的に若返ったように感じられたものです。
参考まで、私と同期で入隊した技術幹部候補生は20名余り(日本全国でたった20名余りです)いましたが、最終的に卒業できたのは17名です。その出身大学を北から列挙しますと、北見工業大学、岩手大学、東北大学、上智大学、成蹊大学、東京農工大学、横浜国立大学、東海大学、静岡大学、名古屋工業大学、名城大学、同志社大学、大阪大学、九州大学、鹿児島大学です。そのうち大学院修了者が7名もいました。出身大学の名前を見ると、確かにある程度レベルの高い大学ではありますが、必ずしもトップレベルの大学ではありません。幹部自衛官は学者ではありませんので、ある程度の知的レベルばかりでなく基礎的な体力や健全な志操も要求されるのです。しかし、世が世であれば私のような程度の人間は採用試験で門前払いされていたことでしょう。
技術幹部候補生でない同期の主な出身大学または大学校(防衛大学校を除く)を私の記憶のままに列挙しますと、東京外国語大学、東京商船大学(現在は東京水産大学と統合して東京海洋大学)、早稲田大学、慶應義塾大学、法政大学、東京理科大学、中央大学、日本大学、芝浦工業大学、名古屋大学、金沢大学、京都大学、関西大学、神戸商船大学(現在は神戸大学に併合吸収)、広島大学、水産大学校などです。抜けている学校については、ご免なさあ〜い! 技術幹部候補生の同期と同じように、彼らの中にも途中で退職した者が何人かいます。
幹部候補生学校の生活は、マイナス思考をすれば「時間に縛られた生活」です。訓練や行事で集合するときも、その開始5分前には整列完了して待っていなければなりません。最初は生理的なリズムが合いませんでしたが、体のほうがだんだん慣れて来るから不思議なものです。 逆に、与えられた時間を有効に使う態度と要領が身に付きました。また、曲がりなりにも公的な意識が養われたと思います。教室での坐学(主として海事教育)、行進や銃操作などの基本教練、施設や練習船での実習だけかと思ったら、まるで体育学校のように訓練(漕艇、帆走、水泳を含む)が次々とありました。
俸給をいただきながら自分を鍛えてもらえるのですから、プラス思考をすれば若者にとってこれほど恵まれた環境はないと思います。しかし、町人的な感覚の人間から見れば、非人間的な世界に見えるかもしれません。実際、私自身、最初は刑務所にいる囚人のような気分で生活しました。 私が暗く沈んだ様子に見えたのか、どうしたら私の表情が明るくなるのか心配してくれた指導教官もいました。また、幹部候補生学校のことを修道院に喩えていた指導教官もいましたが、信仰 に基づいた教育ではありませんので、これは当たっていないと思います。
実は、入校した年の6月1日、江田島の古鷹山で大規模な山火事が発生し、私たち幹部候補生も消火作業の補助に駆り出されました。それから間もなくして、6月12日、東北地方では宮城県沖地震が発生し、私が2〜3ヶ月前まで大学生として過ごしていた仙台市では都市生活が麻痺するほどの甚大な被害が発生しました。この時期の印象的な出来事です。
夏期休暇のとき山形から幹部候補生学校に戻る途中、私は京都に立ち寄ることにしました。実は、それまで一度も京都を見物したことがなかったからです。このときは京都定期観光バスに乗ったお決まりコース(1日)で 、金閣寺、清水寺、西本願寺,、三十三間堂などを回りました。山形から米坂線経由 の急行列車で新潟に出て、北陸本線の特急列車で京都まで行きました。この特急列車で隣に座っていたおじいさんが私に話しかけてきました。私が京都見物に行く旨を話したら、このおじいさんは私に「お楽しみでんなあ」とか言いました。
他部隊での実習としては、江田島から神戸及び横須賀から江田島までの護衛艦実習、第二術科学校(横須賀 市)での機関実習、小月航空基地(山口県下関市)での航空実習、呉基地(広島県呉市)からの潜水艦体験航海がありました。小月航空基地では初等練習機KM-2(単発レシプロ機)に乗せられて、関門海峡の上空まで行きました。生まれて初めて乗った飛行機です。また、護衛艦実習の途中、神戸から電車で航空自衛隊幹部候補生学校(奈良市)に立ち寄って研修したこともあります。そのとき団体で薬師寺に行き、有名な東塔(三重塔)を見学しました。
幹部候補生学校に入校する前は、防衛大学校というと没個性の人間集団とばかり私は思っていました。ところが、実際はそうではなく、それぞれ個性的な人間でした。ひとつの人間集団が同じ制服(ユニホーム)をきちんと着ることは何も個性を無視することではありません。人間の個性というものは表面的な 外観ではなく、むしろ本人の内面的な性質なのです。そんな当たり前のことを私は実感しました。
実は、幹部候補生学校に入校する前に私は父と一緒に金勝寺(山形市山家本町:最上直家の菩提寺)に参拝しました。金勝寺には摩利支天(武士の守り本尊)が祀られていたからです。父としては 私の武運長久を願ってのことでしょうが、正直のところ、私は別に海上自衛隊で出世したいという気持ちはありませんでしたので、安全を祈願する程度の気持ちで父にお付き合いしただけのことです。参考まで、山形の最上氏は斯波兼頼( 羽州探題)を初代とします。斯波兼頼は斯波家兼(斯波高経の弟)の子で、南北朝時代に北朝方の切り札として山形に入部しました。
| 余談になりますが、室町幕府で三管領家(足利氏から分家した順番に細川氏、畠山氏、斯波氏)の筆頭だった斯波氏(斯波高経の流れ:斯波武衛家とも呼ばれる)は、足利一門の中では足利将軍家と同格とみなされるほど高い家格でした。実際、足利一門の中で鎌倉時代に幕府から足利氏嫡流と同等に扱われたのは、この斯波氏と吉良氏だけで、かつ、斯波氏は室町幕府が開かれるまでは足利姓を通していました。最上氏は斯波氏の分家筋に当たり、最上直家は最上氏の二代目です。戦国時代末期に足利将軍家と斯波武衛家が滅んだとき、清和源氏足利流(その時点では清和源氏の嫡流)の正統な血筋を受け継ぐ戦国大名は山形の最上氏だけになっていました。徳川幕府が最上氏を改易した理由のひとつは、実はこの辺りにあったのかもしれませんね。山形市には最上氏の業績を顕彰して最上義光歴史館が建てられています。また、山形市香澄町(山形駅東口)の街灯や馬見ヶ崎川の千歳橋には、最上氏が誉ある足利一門であることを示す「二つ引き両」の家紋が付いています。 |
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入隊した翌年の3月20日、幹部候補生学校の卒業式で三等海尉(昔で言えば海軍少尉)に任じられました。幹部候補生としても短期間の護衛艦実習はありましたが、卒業したその日から練習艦に乗り込み、 実習幹部として約1ヶ月間の国内巡航です。
瀬戸内海・・・豊後水道・・・太平洋(奄美大島付近まで)・・・ 豊後水道・・・瀬戸内海・・・関門海峡・・・東シナ海(佐世保まで)・・・対馬海峡・・・日本海(宗谷海峡まで)・・・津軽海峡・・・太平洋(伊豆諸島の南方まで)というコースで、北は宗谷海峡から南は奄美大島付近まで時計周りに日本列島を一回りしました。もちろん、その途中、いくつかの港に寄りました。この時期に鳥羽港(三重県)にも入り、伊勢神宮を団体で参拝しました。宗谷海峡まで行ったものの、冷戦時代でしたので練習艦はオホーツク海までは入りませんでした。
振り返って残念に思うことは、沖縄に寄港しなかったこと、暴風のため稚内港(北海道稚内市)に接岸できず引き返したこと、嵐のため海が大きく荒れていて予定されていた硫黄島付近まで南下できなかったことです。あともうひとつ、国内巡航の期間、日記をつけなかったのが今となっては悔やまれます。ただし、 両親が他界してから判ったことですが、私が寄港地から両親に出していたハガキを両親は大切に保管してくれていました。ありがたいことに、これが日記の代わりになります。
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3月から4月にかけての日本近海は南北の気温差が大きく、さらに、海面がうねっていて船の揺れが非常に大きいです。非番のとき実習幹部寝室の三段ベッドで横になると、まるでハンモッグで揺られているようでした。しかし、うねりのない静かな日には右の写真のようにロマンチックな夕暮れを体験できます。 |
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国内巡航が終わったら、次は6月15日からの遠洋練習航海に備えての準備活動です。練習艦は石川島播磨重工業東京第一工場(東京都江東区)のドックに入って約1ヶ月間の特別整備です。この間、私たち実習幹部は練習艦で寝起きしていました。 この時期の5月14日、香取神宮(千葉県佐原市:現在は香取市)を団体で参拝しました。練習艦の名前「かとり」は、この香取神宮から来ています。練習艦がドックを出てからは再び練習航海で、太平洋・・・紀伊水道・・・瀬戸内海というコースで横須賀と呉(広島県)を往復しました。
遠洋練習航海を間近に控えた6月7日、白い長袖の制服を着て正装し、靖国神社に団体で参拝してから皇居を見学し、高松宮殿下(終戦時に海軍大佐)にもお会いしました。靖国神社参拝については国内外でいろいろ論じられているところです。A級戦犯が祀られていることに対して批判もあります。しかし、現代日本の平和と繁栄は過去の戦争で心ならずも戦死した先人の犠牲の上に成り立っているということだけは忘れてならないでしょう。それに、戦犯というのは戦勝国が「勝者の論理」に立脚して敗戦国の人間にレッテルを貼ったものに過ぎません。A級戦犯とされた人たちは「敗戦の責任者」であり、「戦争犯罪人」ではありません。そもそも敗戦国に対して戦勝国が事後法により裁判をすること自体おかしいことです。 事後法により裁くのであれば、欧米列強のそれまでの人種差別的な侵略行為こそ裁かれるべきでしょう。日本に対する極東国際軍事裁判(東京裁判)が偽善と言われる所以です。これは敗戦国に対する単なる報復に過ぎませんね。実際、形式的な(一方的な)裁判により現地で処刑されたB級・C級戦犯が数多くいるのです。
参考まで、米国は1836年、メキシコ領内の砦に不法に立てこもる自国の守備隊をメキシコ軍に攻撃させ、その犠牲により自国民の愛国心を高揚し、現在のテキサス州をメキシコから奪い取るための戦争を引き起こしました。今は美談として映画にもなっている「アラモの砦」の話です。その手口は1941年の “Remember Pearl Harbor!” とまったく同じです。米国は第二次世界大戦に参戦するために日本を追い込んで真珠湾基地(ハワイ州)を攻撃させ、これによって参戦の世論を高揚したのです。これは現在では一般的に認められていることです。実は、日本を追い込んで米国との戦争に向かわせたのは、米国政府の中に巣食う共産主義者( ソビエト連邦のスパイ)の高官だったという事実も明らかになっています。すなわち、ドイツ軍がソビエト連邦の首都モスクワに迫る勢いで進撃していたので、背後(極東)に不安を感じていた ソビエト連邦のスターリン首相にとっては、日本が米国と戦争状態に突入してもらいたかったのです。このことは米国のルーズベルト大統領にとっても都合が良かったので、結局、ハル・ノート(ハル国務長官の対日交渉案)は 、この高官の進言により日本がとうてい受け容れることのできない強硬な内容に作り変えられたのです。
さらに、2001年9月11日、米国の世界貿易センタービル(ニューヨーク市)や国防総省(ペンタゴン)を襲った同時多発テロは、米国政府が自作自演した陰謀という説があります。この点に関しては、ベンジャミン・フルフォ−ド氏の『暴かれた9.11疑惑の真相』 (扶桑社)、『9.11テロ捏造−日本と世界を騙し続ける独裁国家アメリカ』(徳間書店)という著書がありますので、興味のある方は読んで下さい。
さて、脇道から本筋に戻って、遠洋練習航海に出発する直前の6月9日には東京で旧海軍OBによる壮行会がありました。その懇親会の席で歌手の石野真子がゲスト出演して私たち実習幹部の前で歌ってくれたのを今でも覚えています。国内巡航のとき携帯ラジオで「私の首領(ドン)と呼ばせて下さい〜〜〜」と彼女が歌っているのを聴いたことがありました。壮行会のときは聴いたことのない別の歌でした。
6月15日は横須賀(神奈川県)から遠洋練習航海に出発した日です。不思議に今でも覚えています。両親は前日の夜行列車で上京し、その日の朝、横須賀まで見送りに来てくれました。両親もまだ若かったのです。自分にとっては初めての海外、しかも、飛行機でなく 船で海外に出発しようとしていました。そんな自分が信じられなく思われたものです。いや、今となっては本当にそんなことがあったのかと思えるほどです。
| 横須賀を出てから約10日間の航程で米国のパールハーバー(ハワイ州)に向かいました。太平洋という名前のとおり海面は非常に穏やかで、国内巡航での大揺れが嘘のようでした。6月22日、日付変更線を東回りに通過しました。したがって、私たちにとって6月22日は2日続きました。右の写真は、6月26日、オアフ島がはっきり見えるようになったとき、私が撮影したものです。私にとっては初めて目にする外国の陸地ですので、正に記念すべき写真と言えるでしょう。太平洋に出てから陸地を見ることはおろか商船とすれ違うこともほとんどありませんでした。 |
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その間、何をしていたかって? 豪華客船の乗客のように優雅に行きたいところですが、私たち実習幹部(対外的な呼称は Officer Trainee)は練習艦の各部署で当直につきながら実習していたのです。軍艦には、砲熕、水雷、航海、通信、電測、水測、機関、電機、応急、経理、補給、衛生などいろいろな部署があります。砲熕(ほうこう)とは大砲関係のこと、水雷とは魚雷関係のこと、電測とはレーダー関係のこと、水測とはソーナー関係のことです。これらの部署名は海軍関係の業界用語です。夜間の当直は2時間ずつの三交代でした。
パールハーバー(ハワイ州)・・・マンサニーヨ(メキシコ西海岸)・・・アカプルコ(メキシコ西海岸)・・・バルボア(パナマ)と寄港しました。もちろん、寄港地では歓迎行事(レセプション)、交歓行事、研修、見学があるほか、乗組員には交代で上陸(外出のこと)が許可されました。アカプルコは映画や音楽にも出て来る有名なリゾート都市です。あの支倉常長(伊達 政宗の遣欧使節) も長い航海の途中に寄港しました。アカプルコからバスに乗って団体でタスコという銀山の町に行くこともできました。なお、メキシコシティに行ったグループもありました。タスコにするかメキシコシティにするか希望がとられ、私はタスコを選んだのでした。
練習艦に乗り組んで外洋を航海していると、陸地の見えない日が何日も続きます。浮世離れしたこのような航海の中で楽しみと言えば、艦内の食事と入港して上陸することです。艦内で出される食事はさすがに栄養もメニューも申し分ありませんでした。寄港地では自由行動のとき親しい仲間と一緒にレストランや酒場に行くこともありました。日本では自分から進んで酒場などに行くことがなかった私でしたが、私も少しは自分の殻を破ることができるようになったということです。私の好きなカクテルは「マルガリータ」でした。パナマの酒場には隣国のコロンビアから出稼ぎに来ている年若い女性がたくさんいました。スペイン系と思われる暖かで素朴な美人が多く、貧しさの中にも何か健気な感じがしました。私は年を尋ねられて “Veinte y quatro.” などと片言のスペイン語で答えたことがありました。この時期、パナマはもともとコロンビア領だったということを初めて知りました。また、3Cという言葉も初めて知りました。要するに、美人の産地としての中南米3ヶ国(Costarica、Colombia、Chili)のことです。
艦内生活のひとこまとして、散髪があります。練習艦には当然、民間の床屋さんは乗り組んでいません。そのため、航海中にボランティアで散髪をしてくれる実習幹部が何人かいました。私もこの遠洋練習航海で何回か散髪してもらいました。
パナマ運河を出てからは、カリブ海・・・ウィンドワード海峡・・・バミューダ海域というコースで、米国のノーフォーク(バージニア州)に向かいました。首都ワシントンの近くにあり、日本で言えばちょうど横須賀に相当する軍港です。バスに乗って団体でワシントンに見学に行きました。アーリントン墓地(日本で言えば靖国神社に相当する墓地)ではケネディ大統領の墓を目の前で見ました。また、国立航空宇宙博物館(スミソニアン)には旧海軍の 戦闘機が展示されていました。この博物館でもうひとつ印象に残っているのは、第二次世界大戦の交戦国のうち米国、英国、ドイツ、日本の軍服だけが並んで展示されていたことです。フランスやイタリアのように途中で簡単に降伏した国とは違って最後まで戦い抜いた国として一目置かれているのだなあと、戦死した軍人に敬意を感じるとともに日本人として誇りに思いました。世界の国々から本当に尊敬される国とは、単なる工業技術が進んでいる国とか、自国の経済的な豊かさだけを追い求める国ではないのです。
ノーフォーク(バージニア州)を出てからは、10日間の航程で英国のポーツマスに向けて大西洋をまっしぐらです。だんだん空気もひんやりしてくるのが感じられました。ポーツマスに入港する前日、入国手続きのため港外に仮泊したときは、辺り一面が湿っぽい濃霧に包まれていました。
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ポーツマス(英国)・・・ドーバー海峡・・・北海・・・キール運河・・・キール(西ドイツ)・・・バルト海・・・ストックホルム(スウェーデン)・・・バルト海・・・デンマーク海峡・・・スカゲラック海峡・・・北海・・・ドーバー海峡・・・ブレスト(フランス)・・・大西洋・・・ジブラルタル海峡・・・地中海・・・ナポリ(イタリア)というコースで、欧州5ヶ国を訪問しました。ロンドン、パリ、ローマにも団体で見学に行きました。ロンドンとローマにはバスで、パリには寝台列車で往復でした。 右の4枚の写真は、8月20日、キール運河で私が撮影した写真です。キール運河はパナマ運河、スエズ運河とともに世界三大運河と呼ばれています。入口と出口に水門はありましたが、パナマ運河とは異なり ます。運河に入ってしまえば普通の大きな河川を航行しているようなもので、周囲には田園風景が広がっています。キール運河を出てバルト海に入ると、まもなくキールに到着しました。 第二次世界大戦中に潜水艦を通じて旧海軍とも縁のあった軍港です。まだ夏なのに曇り空になると少し寒いのは、緯度が高いからでしょうか。 |
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当時は冷戦時代でしたので、ドイツはまだ東西に分裂した状態でした。私たちが立ち寄った国は、もちろん自由主義陣営の西ドイツですよ。 ここでの研修として、キールからバスに乗って団体でリューベックという国境の町に行き、そこで東ドイツとの国境線を見ることができました。西ベルリンに飛行機で行ったグループもありました。確か、西ベルリンにするかリューベックにするか希望がとられたと思います。また、自由行動の日には私も含めて三三五五、列車でハンブルクに行くこともできました。キールにもハンブルクにも、俗に「飾り窓」と呼ばれる場所を含む歓楽街がありました。西ドイツには外国人労働者が多いので、彼らの相手をさせるためだという話を聞きました。キールに限らず寄港地では乗組員に自由行動の日が交代で割り当てられました。ところで、第二次世界大戦で日本はドイツと同盟関係にありましたが、ユダヤ人全体を抹殺しようとした当時のドイツ人が日本人(非白人)を本当に信頼していたのでしょうか? 私は疑問です。
| キールからストックホルムに向かってバルト海を北上しているとき、ソビエト連邦の哨戒艇が私たちに接近したこともありました。日本の軍艦がバルト海に入ることなど旧海軍の時代から海上自衛隊までほとんどありませんので、向こうも様子を見に来たのかもしれません。欧州方面の航行は国際海峡の連続でした。右の写真は、9月14日、ジブラルタル海峡を通航しているとき、アフリカ大陸側を私が撮影したものです。練習艦の進行方向から見ると右舷側後方の風景です。 この写真のすぐ右側(左舷側後方)にはイベリア半島があります。 |
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ドーバー海峡もジブラルタル海峡も信じられないほど狭くて、これらの海峡を諸民族が渡ることにより歴史が展開したのも何となく分かるような気がします。ところで、あれから20年以上も後の話になりますが、協栄生命はどうしてジブラルタ生命という名前になったのでしょうか ? 誰か教えて下さい。
| 地中海のナポリに入港したのは9月18日でした。横須賀を出港してから既に3ヶ月が経過していました。今回の遠洋練習航海はナポリが山場だったような気がします。ナポリからバスに乗って団体でポンペイに行き、その遺跡を見学することもできました。ポンペイはナポリから見てヴェスヴィオ火山の反対側にあります。西暦79年、ヴェスヴィオ火山の大噴火により古代都市は埋没しました。右の写真はナポリ港外で仮泊して入港を待っている早朝、私が当直明けに朝焼けのヴェスヴィオ火山を撮影したものです。 |
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その当時、私はイタリアに対してはあまり良いイメージを持っていませんでした。文化・芸術・科学・技術の面はともかくとして、第一次世界大戦でも第二次世界大戦でもだらしない国と思えたからです。ナポリの街を歩いて驚いたことは、交差点に信号があっても、その「青」、「黄」、「赤」など関係なしに自動車が通行していたことです。 自由行動の日、親しい実習幹部と一緒にタクシーに乗り、運転手に博物館に行きたい旨を伝えたら、ナポリ国立考古学博物館に 連れて行ってくれました。入館したら、有名な「アレクサンドロス大王の戦い」というモザイク画が展示されていました。ポンペイの遺跡から発掘されたものです。私は美術の教科書などで写真を見た記憶がありましたが、この博物館にあるとは知りませんでした。
ナポリ(イタリア)・・・イオニア海・・・メッシナ海峡・・・チレニア海・・・アレキサンドリア(エジプト)・・・スエズ運河・・・紅海・・・バブ・エル・マンデブ海峡・・・アラビア海・・・コロンボ(スリランカ)というコースで、インド洋を目指しました。
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アレキサンドリアでは、バスに乗って団体で首都カイロまで行き 、エジプト考古学博物館でツタンカーメンの「黄金のマスク」を見たり、郊外の砂漠にあるピラミッドとスフィンクスを見学したりと、若年の私にとっては夢のような体験をしました。しかし、実物というものは目の前で見ると意外と平凡に感じるものです。ところで、同室の実習幹部の話によると、「宇宙戦艦やまと」に出て来るイスカンダルとはアラビア語でアレキサンドリアのことだそうです。 右の3枚の写真は、10月3日、スエズ運河で私が撮影した写真です。スエズ運河もキール運河と同じように大きな川という感じです。しかし、その周囲は見渡す限り不毛の砂漠でした。私たちが航行した頃には日本の建設会社が運河の拡張工事をしていました。
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映画『十戒』の中に紅海の海水が海底まで裂けて、その裂け目を通り道にしてイスラエル民族がエジプト王国の追手から逃げる場面があります。スエズ運河を出たばかりのときは、本当にそんなことが起こったのかとか、起こったとしたらどの辺で起こったのかとか、そんなことを思い巡らしながら海を眺めていました。
| スエズ運河を出て紅海に入っても 、海の色はぜんぜん紅くなりませんでした。風もなく蒸し風呂のような紅海を出たら、目の前にアデン湾が涼しげな風とともに広がって来ました。右の写真は、10月7日、バブ・エル・マンデブ海峡を通航しているとき、アラビア半島側(南イエメン側)を私が撮影したものです。これは練習艦の進行方向から見ると左舷側の風景で、反対側(右舷側)ではアフリカ大陸に夕日が沈みかけていました。 |
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実は、当初の計画ではイランのヴァンダル・アバス(ペルシャ湾の入口)に寄港することになっていました。しかし、ちょうどホメイニ師が台頭した時期でしたので寄港できず、コロンボ(スリランカ)に計画変更されたという経緯があります。イランに行けないのは残念ではありましたが、イランにしてもスリランカにしても私にとっては初めて(しかも国費で)訪れる国でしたので、あまり拘りはありませんでした。 ということで、アデン湾を出てアラビア海をスリランカに向けてまっしぐらです。
コロンボ(スリランカ)・・・ベンガル湾・・・アンダマン海・・・ポートケラン(マレーシア) というコースでマレー半島に着きました。ポートケランに寄港中は毎日、夕方、一時的に雷雨がありました。ポートケランからはバスに乗って団体で首都クアラルンプールに行くこともできました。この 時期になると、私の心の中には、やっと日本に戻ることができるという安堵感と、これで航海が終わってしまうのかという名残惜しさが混在していました。
ポートケラン(マレーシア)・・・マラッカ海峡・・・南シナ海・・・バッシー海峡・・・太平洋というコースで 北上し、11月8日、横須賀港外に仮泊しました。通関手続きをするためです。翌日、正式に入港しました。海図どおりに航海してちゃんと同じ場所に戻って来るのですから、やはり地球は丸かったのですね。地球が自転する方向に、すなわち、東回りに航海したので、時刻帯変更に伴い1日が23時間の日が 連続して何日もありました。その代わり、日付変更線を通過した6月22日は2日間ありました。逆に、もし西回りに航海すれば、1日が25時間の日が続くことになります。
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今回の遠洋練習航海は私にとって5ヶ月間の修学旅行でした。それに比べると、高等学校の修学旅行など侘しいものです・・・・・・と言いたいところですが、 どんな旅行でも本人の受け止め方によっては違ったものになります。ただし、旅客機に乗って国外に旅立つことは現代では珍しいことではありませんが、船に乗って数ヶ月を費やして世界を回ることは、どこの誰にでもできるという体験ではありません。「楽しい」とか「つまらない」とかを超えた感動的な体験でした。世界旅行の原点は航海(船旅)であり、船でなければ本当の意味で世界一周したとは言えないと思います。
今回の遠洋練習航海で私はサッカーの交歓試合に全試合フルタイム出場させていただきました。英国、西ドイツ、スウェーデン、エジプト、マレーシアのチームと対戦し、0勝1分4敗の成績でした。スウェーデン とマレーシアから大差で敗れた以外は接戦で、試合内容もそれなりに充実したものでした。私のポジションは最後列のひとつ手前でした。海上自衛隊のグアルディオラ(?)とまでは言われませんでした。言われたとしても、時間的な前後関係が合いませんね。西ドイツとの試合では、終了時に相手チーム(地元の新聞社)の9番が私にユニホーム 交換を誘いました。私は予備のユニホームがない旨を彼に伝えたのですが、彼はそれでも構わないと言って私にユニホームをくれました。私たちに交換用のユニホームがなかったことを今でも残念に思います。幹部候補生学校では背番号12(希望を取って決めた番号)でしたが、遠洋練習航海では背番号4でした。「栄光の背番号」ならぬ「遠航の背番号」なんて駄洒落を言っていました。
11月10日午後、私たち実習幹部は練習艦を退きました。3月20日、練習艦に乗り込んだときは小雨でしたが、この日は結構な雨に打たれながらの退艦でした。2週間の休暇が与えられたので、その日の夜行列車で山形に帰りました。
遠洋練習航海が終わったと思ったら、私を含めた技術幹部17名は11月26日から翌年の1月12日まで海上自衛隊岩国航空基地(山口県岩国市)で航空実習です。ずいぶん長い新人教育ですね。普通の企業でこんなこと考えられますか。
| 岩国航空基地は海上自衛隊と米国海兵隊が同居しています。敷地は非常に広いです。三角(みすみ)町二丁目官有地という住居表示のとおり、大きな三角州の中にあります。基地のゲートから海上自衛隊の隊舎まで約4キロもあります。海上自衛隊は海側のいわゆる「すべり」を使って対潜飛行艇PS-1と救難飛行艇US-1を運用していま した。この実習中に両方とも体験搭乗しました。右の写真は対潜飛行艇PS-1です。旧海軍の傑作機「二式大艇」の技術を引き継いだものです。 |
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この航空実習では、航空部隊の組織・編成・運用とか航空機の整備技術について、その概要を学びました。私たち技術幹部はいわゆる技能職員になるのではありません。建設省(旧称)や通商産業省(旧称)の職員のように監督官として業者を使って仕事をするのです。今回、私たちは基地内の隊舎(組み立て式の二段ベッド)で寝泊りしました。夜間、海兵隊の航空機がタッチ・アンド・ゴーの訓練を繰り返すので、その騒音がうるさいです。しかし、意外と気にせず子守唄のようにゆったりと眠れました。人間の話し声の方がよっぽど耳障りです。ところで、基地内の自動販売機で売っていた「ハワイアンパンチ」という缶ジュースのことを今でも覚えています。遠洋練習航海を懐かしがらせる味でした。まだ遠洋練習航海のほとぼりが冷めていなかったのです。
| この時期の思い出として、テレビゲームがあります。遠洋練習航海に出発する頃には既に単純なインベーダーゲームが流行し始めていました。日本に戻ってみると、どこに行ってもゲームセンター花盛りでした。しかも、ゲームの種類が多様化し、その内容も洗練されていました。私も
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Coin というゲーム機のメッセージに誘われて100円玉を使いまくったものです。コンピュータとはこんなに面白いことができるのかと感激しながら熱中していました。これが私がコンピュータを勉強する気になった最初の動機です。私もレベルが生徒並みでしたね。 今回の実習が終わりに近づいたある日、私たちは指導官に引率されて錦帯橋まで保健行軍(遠足のこと)しました。本当に3時間ほど歩きましたよ。途中で雪がぱらつき始めました。錦帯橋はアーチ状のお江戸日本橋がいくつか連なっているような感じでした。帰りはバスで帰らせてくれました。 基地のゲートから海上自衛隊の隊舎までは、滑走路を南に迂回した堤防沿いの道路を通って行きます。この道路はまた持久走のコースにもなっていました。 |
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航空実習が終わったら、私たち技術幹部は職種に応じて横須賀地方隊(神奈川県横須賀 市)、呉地方隊(広島県呉市)、下総航空基地(千葉県東葛飾郡沼南町:現在は柏市に合併)の3つに分かれて、1月16日からそれぞれの部隊で技術実習することになりました。私を含めた8名(武器技術)は横須賀地方隊に行きました。8名のうち私を含む6名は6月30日まで横須賀で艦艇武器技術について実習しましたが、2名は航空武器技術の研修のため3月から第三術科学校(下総航空基地)に移りました。宿舎はいつもの二段ベッド(組み立て式)です。横須賀は横浜に電車で30分と近く、また 、米国の海軍基地があるので、独特の雰囲気があります。
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いつになったら国家にご奉公させてくれるのかと思いましたが、このような立場を最大限に利用しない手はありません。勤務時間が終わってから自動車学校に通うことにしました。実は、まだ運転免許証を取っておらず、少なからず肩身の狭い思いをしていたのです。1月19日、久里浜中央自動車学校(横須賀市)に入校しました。平日はいつも午後7時10分からの教習車になりました。4月5日、何とか卒業検定に合格し、自動車学校を卒業できました。4月12日、二俣川
の運転免許試験場で神奈川県公安委員会の試験を受け、晴れて運転免許証を取得することができました。当日はほかほか陽気で、電車の窓から桜を眺めながら安堵して横須賀に帰りました。 久里浜中央自動車学校に通っていたときのエピソードを紹介します。待合室の椅子に座って教習車を待っているとき、隣に座っている小柄で年若い女性(少女?)が私に話しかけたことがありました。「どんな仕事をなさっているのですか?」と彼女は私に言いました。私は「何だと思いますか?」と問い返しました。そしたら彼女は「学校の先生だと思いました」と答えました。よくよく話を聞いてみると、彼女は地元の農業短大を卒業し たばかりで、4月から団体職員として就職するということでした。花も恥らう二十歳だったのです。今となって思えば、その時から10年後の私の職業を暗示しているようなひとコマです。 |
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もちろん、どこかの高校生のように自動車学校にうつつを抜かしていた訳ではありませんよ。今回の技術実習は、OJTのようなものから課題研究、企業見学、関連部隊での研修まで盛りだくさんでした。また、5月から6月にかけての3週間は下総航空基地(千葉県東葛飾郡沼南町:現在は柏市に合併)に航空武器技術の研修に出向き、対潜哨戒機P-2Jと掃海ヘリコプタV-107に体験搭乗しました。
技術実習のとき聴いた多くの講話の内容で心に残っていることのひとつは、「業者は私たち技術幹部の顔に札束が貼ってあるから親しげに近付いて来るだけなのだ」ということです。それを自分そのものの人間的価値と思うところに過ちがあるのです。確かに、後日、私が部隊に配属になって業者を使って仕事をするようになってから、自分の父親とか叔父くらいの年齢の業者が私のところにぺこぺこして仕事を請け負いに来ました。
この時期、『ぴあ』という隔週刊のエンタテイメント情報誌が出回っていました。私はこの雑誌に何か新鮮な印象を受け、横須賀市内の書店 からよく購読して、休日には横須賀市ばかりでなく横浜市や東京23区の映画館などに通ったものです。私が都会生活の楽しさを心から味わえるようになったのは、この時期からだったように思います。今までの自分が嘘のようでした。
ある日曜日の朝のことです。私は目を覚まし、寝室の二段ベッド(組み立て式)から降りて、隣の便所に用足しに行きました。ところが、便所の出入口に着いたら、ムッとする臭いが漂って来ました。10メートルほど奥の方に目をやると、大便器のドアのひとつが閉まっており、水を流す音がジャーとしました。誰かが大便をしていたのかと思ったら、ドアがぱたりと開き、一緒に実習している**(本人の名誉のため氏名省略)が満ち足りた表情をして出て来ました。「**、ここまで臭うぞ」と私が彼に言ったら、彼は既成事実を否定するかのように「ち・が・う・よぉ」とか言いながら、ほのぼのとした様子で私の側を通り過ぎました。幹部候補生学校のとき、“One drop, One push” と指導されていたのですが、きっと彼は溜め込んでから一度に流してしまったのでしょう。便所全体に自分の臭いを充満させて「我が世の春」を謳歌するなんて、ちょっと自己主張が強すぎますよね。
私たちが技術実習している時期、この職場では週一回、海軍基地の中佐夫人 Mrs. B***** を招いて英会話学習会がありました。ボランティアで来てくれたのです。本人の話によると、アイルランド系の姓だそうです。参加者が足りなかったせいでしょうか、私たちも研修の一環として2〜3回、出席させられました。その年の6月15日、汐入学院(横須賀市)で英検2級の一次試験を受けました。幹部候補生学校と遠洋練習航海では外国人と英語で話す機会はあったものの、どちらかと言えば私はこのような検定試験には無頓着でした。その翌日に人事の内示があり、私は大湊地方隊(青森県)に行くことになりました。本当は慣れた横須賀にもう少し長くいたかったのですが、曲がりなりにも特別職国家公務員ですから命令には従わなければなりません。ということで、しばらく都会からおさらばです。英検2級の二次試験も青森県で受けなければならなくなりました。7月20日、浪打中学校(青森市)で面接試験を受けて、余裕で合格しました。
6月30日の寝台列車で上野駅から大湊に向かいました。私の他に同期の技術幹部2名も一緒です。野辺地駅で大湊線に乗り換えて下北半島を陸奥湾沿いに北上したときには、 正直言って「寂しいところに来たなあ」と思いました。大湊線の途中に横浜(陸奥横浜)という駅があったのも何となく皮肉でした。あまりにも都会に馴染んでしまった自分に気付かされました。思えば入隊してから既に2年3ヶ月が過ぎていたのです。
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宿舎として独身寮を希望していましたが、満杯でしたので空くまで待つことにしました。独身寮と言っても半分は単身赴任者(中間管理職)が入っていました。この年の8月末にやっと独身寮に移ることができました。部屋は広さ6畳の個室(和室)でした。 「陸の孤島」という言葉があります。下北半島はこの言葉がぴったり当てはまります。近くに有名な恐山があるほどですから実感を伴います。むつ市は大湊と田名部(たなぶ)に大きく分けられます。合併して「むつ市」になったという話です。田名部の方が中心で、市役所とか商店街があります。着任して最初の日曜日 、さっそく田名部からバスで恐山に行きました。硫黄の臭いが一面に立ち込めていました。 大湊は漁港でもあり、海の幸が豊富です。着任してまもなく、駆潜艇の船体磁気測定のため大港湾に出たことがありました。休憩のとき潜水士が海底からナマコを取ってきて、ナイフで切り刻んで私に食べさせたことがありました。気持ち悪がって私が渋っているのを見て、みんな笑っていました。我慢して一切れだけ口にしたところ、思ったより硬い歯ざわりでした。滋養強壮の食物として宴会でもよく出ます。 |
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入隊してから初めての実務ということで、最初はかなりストレスが溜まりました。部隊と業者の間に入った仕事なので、若年の私には苦しく感じたのです。都会的なストレス発散はここではできません。そこで始めたのがサウナ通いでした。週末になると田名部に出て、サウナに入り、マッサージをしてもらいました。マッサージ師が驚くほど首や肩が凝っていました。
大湊には夏に「大湊ねぶた祭」というものがあります。着任した年は8月1日に開催され、私もハッピ姿で参加しました(部隊から参加させられました)。綱を引きながら市内を巡回し、所々で酒とかおにぎりが振舞われました。大湊は山形に比べて夏らしい期間は短いです。逆に、冬は長いです。この年の初雪は11月8日でした。近く に釜臥山スキー場もありました。しかし、その頃、私のスキーは我流で、とても走行を細かにコントロールできるレベルではありませんでした。それまで私はまともにスキーの指導を受けたことがなく、また、中学生の時から大湊に来るまでスキーを履いたことがなかったからです。
海上自衛隊の職場でも一般社会と同じように職員旅行がありました。着任した年は、10月の土日を利用して武器部の親睦旅行(1泊2日)がありました。この年は、黒石温泉郷に泊まり、2日目に弘前城を見物しました。この辺りは津軽地方と呼ばれている場所です。青森県の天気予報は、津軽下北(つがるしもきた)地方と三八上北(さんぱちかみきた)地方に分けて報道されていました。
年が明けてから直属の武器部長に、3月4日から4ヶ月間、 第二術科学校(横須賀市)に入校することになった旨を伝えらました。私にとっては晴天の霹靂(へきれき)でした。術科学校とは、自衛隊で仕事をするために必要な知識や技術を身に付けさせる隊内の学校のことです。何を勉強しに行くのかと思ったら、コンピュータという話でした。私にとっては千載一遇のチャンスとも思われました。まさかこんなに早く横須賀に戻るとは思いませんでした。自衛隊では隊員の経歴管理が充実していて、このように仕事をしては研修という繰り返しが多いです。ただし、今回は転勤ではありませんので、4ヶ月が終了したらまた大湊に戻るのです。
私がいない穴を埋める職員もいる訳ですから、後ろ髪を引かれる思いはありました。しかし、第二種情報処理技術者を取るつもりで勉強しようと決心して横須賀に向かいました。この4ヶ月のうち、3月16日から6月23日までは陸上自衛隊通信学校(横須賀 市久里浜)に宿泊して、そこの設備を使ってコンピュータを勉強しました。言わば異民族の世界に入って勉強したのです。みなさんは自衛隊と言えば陸上でも海上でも航空でも同じと思うかもしれません。しかし、部内の人間からすると別世界です。
大湊に戻ってまた事務所で働き始めましたが、私にとっては初めての仕事が多く、それなりに大変でした。仕事の内容は退職後も守秘義務があるため、ここでは省略させていただきます。ところで、大湊に戻ってから私には仕事以外にふたつの目標がありました。ひとつは情報処理技術者試験(第二種情報処理技術者)に合格することです。大湊に戻ってからは分厚い問題集で本格的に準備学習していました。この年の10月18日、仙台工業高等学校(仙台市)で受験して苦戦しながら何とか合格できました。第二術科学校で勉強できたことを今でも感謝しています。ただし、ひとつ気になったのは、その合格証書が通商産業省(旧称 :現在は経済産業省)から海上幕僚監部の援護室を経由して勤務先に届いたことです。「これで再就職しろ」という意味だったのでしょうか? いずれにせよ、後日、これが私の再就職に結び付いたことは事実です。
もうひとつは防衛大学校の理工学研究科に進むことです。私たち技術幹部はほとんど希望していましたが、これは無試験ではありません。しかも、海上ばかりでなく陸上と航空からも受験するのです。この年の8月24日から25日まで防衛大学校(横須賀市)で選考試験を受けました。第 一日目は筆記試験で、外国語が2科目選択(私の場合は英語とフランス語)、専門科目が2科目選択(私の場合は応用数学と物理学)だったと思います。第二日目は身体検査と面接試験でした。実は、その前日の23日、台風による豪雨のため特急列車が花巻駅(岩手県花巻市)から先に進めなくなりました。一時は受験を諦めかけましたが、私たち技術幹部3名(同期生)は花巻駅から仙台駅までタクシーで行き、仙台駅から夜行列車で上野駅に向かったのでした。こんな綱渡りの経験をしたものの、3人とも何とか合格できました。
既に情報公開が許される年数が過ぎたと思われますし、しかも、悪い話でありませんので紹介させていただきますが、実は、直属の武器部長が海上幕僚幹部の人事課から聞いた話によると、私は筆記試験でトップ(しかも断トツ)だったそうです。私自身は、「こんな所でトップになっても仕方がない。人事異動に伴う一種の事務手続きに過ぎないのだから・・・・・・。とにかく横須賀に戻れればいいんだ」という程度の感覚でした。しかし、素直に受け止めれば面目躍如とも言えます。筆記試験の問題そのものは、私が大学時代に教養部(当時)で受けた定期試験の問題と同じ程度のレベルでした。同じ大学院相当と言っても、このように 出身大学によって格差があるという ことを示すひとつの例でしょう。
ということで、翌年4月から横須賀に最低でも2年間いられることが保証されました。大湊地方隊に在籍したのは1年9ヶ月でしたが、そのうち4ヶ月は横須賀にいましたので、結局、前後併せて1年5ヶ月しかいなかったことになります。今になって振り返りますと、もう少し心に余裕を持って大湊の生活を楽しめば良かった思います。ここで自家用車を持てば、もう少し行動範囲が広がったかもしれません。また、春から初夏にかけて第二術科学校(横須賀市)で過ごしたので、大湊の春を体験できなかったのが今となっては心残りです。
4月1日、防衛大学校(横須賀 市)に着校しました。研究科とは一般大学の大学院に相当するもので、その前の4年間のことを本科と呼んでいます。研究科には理工学研究科と社会科学研究科がありました。私は応用物理学教室で水中音響を研究しました。海上自衛隊の技術幹部には経歴管理の一環としてこのような研修機会が多く与えられています。
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防衛大学校は小原台という高台にあり、私は研究科学生舎に入りました。4人部屋でした。大学院生のように聴講と輪講と実験に励む日々が訪れたのです。ここでは陸上と航空の人とも交流できましたので、視野も広くなり、有意義な生活を送ることができました。 防衛大学校の本科学生も入学したときは普通の高校生とほとんど変わりはありません。4年前に幹部候補生学校で会った本科を卒業したばかりの人間と比べると、その違いがよく分かります。入校前は先入観を持っていた自分も、防衛大学校に対する見方が変わりました。 この時期の思い出として、サッカーがあります。昼休みに研究科学生と職員の有志が集まって、同好会のようにサッカー場で運動しました。正味15〜20分ほどです。もともと小原台クラブという同好会があったのですが、私が来た頃は最盛期をとっくに過ぎていて、人も集まらなくなったという話でした。1年目の初夏に第12回ワールドカップ・サッカー(スペイン大会)があり、このとき初めて自分のビデオデッキ(VHS:SHARP製)を購入しました。この頃は、VHS陣営とベータ陣営がまだ互いに競い合っていました。 |
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第12回ワールドカップ・サッカー(スペイン大会)にはアルゼンチン代表も出場していました。アルゼンチンは公用語がスペイン語なので、スペイン系の住民が主体と私は思っていました。ところが、アルゼンチンはイタリア系の住民が最大勢力で、アルゼンチンは「第二のイタリア」とも呼ばれていることをこの時期、初めて知りました。
この時期のもうひとつの思い出として、富士通電算機専門学院(東京都大田区)のプログラミング応用コース(夜間)で学んだことがあります。理工学研究科の1年目に指導教官から許可をいただき、 9月5日、編入試験を受けました。10月から3月までの半年間、馬堀海岸駅(京浜急行)から電車に乗り、途中で国鉄(当時の呼称:現在のJR東日本)に乗り換えて通学しました。授業は午後6時から9時までの3時間でした。夕食は国鉄の蒲田駅に着いてから駅前のロッテリアでチーズバーガーなどを軽く食べ、授業が終わってから帰りに駅前の屋台でラーメンを食べることが多かったです。このラーメンは澄んだ汁におろしニンニクと生卵が入っており、さっぱりとしておいしかったです。この時期の思い出の味ですね。
無理して夜学に通ったのは、理工学研究科にいる間に第一種情報処理技術者に合格したかったからです。ちょうど100日間の授業にすべて出席 し、3月30日の修了式で皆勤賞と優等賞をいただいたものの、肝心の国家試験は2回とも不合格でした。時間的な余裕があれば合格できるというものでもないようです。合格したのは理工学研究科を出て2年目の国家試験です。出て1年目の国家試験は勤務の都合で受験できませんでしたので、結局、三度目の正直で合格したことになります。実は、理工学研究科にいる間に、この夜学の他にも日本情報処理開発協会の通信教育を受講していました。授業のない土曜日に有給休暇をいただき、世界貿易センタービルディング(東京都港区)の情報処理研修センターでスクーリングを受けました。試験の合否とは別に、自分の殻を破り、刺激を得るという意味では有効なスクーリングでした。
2年目になると、私の研究室に前任地の大湊で同じ武器部にいた職員が研究科学生として入校しました。彼とは研究室で同じ部屋になったので、彼が 来たばかりの頃、積もる話で数時間も雑談したことがありました。その中に話題として、武器部で一緒だったある職員が八甲田山スキー場にスキー訓練(希望者のみ)に行ったとき、滑降しているとき誤って窪みに転落して、首の骨を折って全身不随になり、神奈川県内の病院に入院し ているという話を聞きました。彼が病院にお見舞いに行ったとき、入院しているこの職員は「人生、もう終わりですよ」とか彼に呟いたそうです。
研究室の生活はのどかなもので、勉強の合間に同僚と雑談することがありました。その頃、「時をかける少女」という映画が街で上映されていましたので、そこから話が弾んで、「長い髪の少女」、「木枯らしの少女」、「時をかける少女」という具合に少女で語呂合わせが始まりました。私はつい悪乗りして、カップラーメンにお湯を注ぎながら「お湯をかける少女」などと駄洒落を言ってしまいました。ところが、その3〜4年後、私が海上自衛隊を退職して専門学校に勤め始めようとする頃、テレビで本当に「お湯をかける少女」が曲に乗って出て来て、カップラーメンの宣伝をしていたから驚きです。今になって思うと不思議な体験です。
「長い髪の少女」は、知る人ぞ知る、ザ・ゴールデン・カップスを有名にした曲です。 他の曲では、「愛する君に」という曲がほのぼのとした感じで私は好きです。私が中学生から高校生にかけての頃、「巨人の星」というテレビアニメが流行していました。その中にオーロラ三人娘とかいうキャラクターが登場して、「アイ・ラヴュウ・アイ・ラヴュウ・フォアエヴァ・モア・・・・・・」とかいう歌詞の曲を歌っていました。私はその曲は「巨人の星」のオリジナルと思っていたのでしたが、後日、海上自衛隊に入隊して実習幹部として遠洋練習航海に出ていたとき、同室の親しい実習幹部から、その曲名はザ・ゴールデン ・カップスの「クールな恋」であることを知らされました。
私たち幹部自衛官は身分証明書を提示すれば米軍基地にも入ることができました。この時期、理工学研究科の親しい仲間と一緒に横須賀の海軍基地に入り、将校クラブ(Officer's Club)のレストランやバーで何回か飲み食いしたことがあります。横須賀の海軍基地では、通貨としてドルばかりでなく円も使えました。あの頃は、「外出したら何かいいことがあるのでは・・・・・・」と期待したり、何をやっても楽しく感じられたものです。
この時期、自分にとって少しは世のためになったと思われることがあります。それは献血です。私が初めて献血に応じたのは昭和54年1月12日のことで、場所は幹部候補生学校です。その後、理工学研究科に来るまで通算4回やりました。理工学研究科に在籍中の2年間では11回やりました。海上自衛隊を退職する昭和61年3月末までには、通算で27回やりました。200t×27回=5.4ℓで、一升瓶(1.8ℓ)で言えばちょうど3本分に当たります。昭和59年12月22日には20回目の献血を済ませたので、日本赤十字社から献血功労賞(金賞)のバッジをいただきました。
現在、防衛大学校では本科(4年間)を卒業すれば学士、研究科(2年間)を修了すれば修士 の学位が得られます。私が理工学研究科に在籍していた頃は、本科も研究科も学位が与えられませんでした。私個人としては学位が必要な訳でもなく、また、別に修士の学位を欲しいとは思っていませんでした。 極言することを許していただければ、国のために命を捧げる立場の人間には、博士、修士はおろか学士さえ必要ないと言えるのではないでしょうか? なお、防衛大学校の本科卒業者が一般大学の大学院に国内留学させてもらって、博士の学位を取得する場合もありました。しかし、学士を持っていない人間が博士の学位を持っていてもあまり意味はないと思います。実際、世の中には学士が基礎資格になっている職業は多くありますが、博士がないと就けない職業などほとんどないからです。喩えてみれば、脚のない幽霊のようなものです。
とは言っても、研究科では修士論文に相当するものが課せられましたし、私自身、日本音響学会で研究発表する機会もありました。私の発表テーマは「偏波面保存ファイバを用いた単光路ハイドロホン」でした。この期の理工学研究科修了生は57名で、2月22日〜24日、3日間にわたって大教室で修了生の論文発表会が行われました。私の番は最終日でした。そのとき発表会予稿集が作られました。あの頃は日本語ワープロはまだ普及しておらず、私を含めてほとんどの修了生は論文、発表会予稿とも手書きで作成しました。
実は、私の研究は特許申請されました。光ファイバーなど研究に使用した実験材料の一部がスポンサー(住友電気工業)から提供されたこともあり、私と指導教官(助教授)とスポンサー側の技術者1名の合計3名から成る連名で申請されました。申請手続きはスポンサー側の技術者がしてくれました。私が実験装置を組み立てて実際に測定し、また、その新しい測定原理の根拠を論述したとは言っても、そのテーマは指導教官から与えられたものですから、私自身は特許申請について執着はしていませんでした。
| 私たち技術幹部は研究者になるのではありませんから、理工学研究科はあくまでも技術幹部としての資質を向上させるための研修という位置付けです。この2年間は私にとって多方面で充実した生活でした。右の写真は、3月18日、防衛大学校の卒業式で撮影されたものです。校長から私が 修了証書を受け取る瞬間です。本科の卒業生と研究科の修了生がひとりひとりが順番にこのタイミングで撮影されました。プライバシー保護のため、私(中央)以外の学生は顔をカムフラージュしました。内閣総理大臣(この頃は中曽根康弘氏)、防衛庁長官はもちろんのこと、各国駐在武官夫妻も臨席した中での卒業式ですので、その厳かさは半端ではありませんよ。内閣総理大臣が入場・退場するときは、「威風堂々」という曲が音楽隊により演奏されていました。 |
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卒業式の少し前、2月24日に次の勤務先が内示され、私は横須賀地方隊(横須賀 市)に行くことになりました。4年前、技術実習でお世話になった部隊です。なお、サッカーの方は幹部候補生学校から遠洋練習航海までチームメートだった同期生の誘いを受けて、ときどき助っ人として東京都の3部リーグに出場していました。しかし、それは理工学研究科にいるときまでで、ここを出てからは練習する時間もなく、チームメートの足を引っ張るような状態でしたので出場を辞退しました。借りていたネイビーブルーのユニホームも返しました。
研究科修了と同時に研究科学生舎を出て、馬堀海岸(横須賀市)のアパートに移りました。馬堀海岸駅(京浜急行)からは線路に沿って北西方向に富士山の頂上部分が小さく見えました。さて、仕事は大湊では水上艦艇を扱っていましたし、ここ横須賀でも最初は水上艦艇を扱っていました。ところが、この年の 8月から潜水艦を扱う科に配置転換になる旨を直属の上司から伝えられました。その前に川崎重工業神戸造船工場(兵庫県神戸市)で約2ヶ月間の会社研修を受けなければならないという話でした。理工学研究科を修了したばかりなのに、また研修なのかと思いました。 研修できるのは有り難いと思う反面、何となく周囲に申し訳なく感じたものです。
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何の研修かと思ったら、深海救難艇(略称DSRV)のソーナーシステムについてでした。米国のスペリー社(現在はバロース社と合併してユニシス社)がシステムを統括している輸入品です。儀装員(就役
する前の乗組員)数名と一緒にスペリー社の技師
Mr. Bowen(米国人)に付いて研修しました。この深海救難艇は川崎重工業で儀装中だったのです。研修期間は6月13日から8月10日まででした。 神戸は今回が初めてではありません。国内巡航のとき寄港したことがあります。東の横浜と並び称される港町ですが、横浜とはまた違った味わいがあります。 この研修中、私は造船所の会館(個室)に泊まっていました。日本の潜水艦は、この川崎重工業神戸造船工場と三菱重工業神戸造船所でしか建造することができません。両方とも有名な大企業ですので、私は神戸に来るまでは華やかなイメージを持っていました。しかし、造船所の従業員が昼休みに食べる給食弁当は驚くほど質素なものでした。 |
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この会社は既に週休二日制でしたので、当然、土日は研修がありません。そこで私は週末を利用して京都の神社仏閣を中心に近畿地方の名所旧跡を訪ねることにしました。私が初めて京都見物をしたのは、ちょうど6年前、夏期休暇のとき山形から幹部候補生学校に戻る途中です。あのときは京都定期観光バスに乗ったお決まりコース(1日)で したが、今回は自分で場所を選んでゆっくり見物できました。高校時代になかった関西方面の修学旅行をここで埋め合わせた感じです。この当時、まだ明石海峡大橋はありませんでしたので、明石港からフェリーで淡路島に渡りました。淡路島ではバスで鳴門海峡まで行き、福良港から観潮船に乗って有名な渦潮を見物しました。
| 6月16日(土) | 姫路城(兵庫県) | ||
| 6月17日(日) | 平等院、三千院、寂光院 | ||
| 6月23日(土) | 大阪城(大阪府) | ||
| 6月24日(日) | 比叡山 | ||
| 7月 1日(日) | 仁和寺、竜安寺、等持院、妙心寺 | ||
| 7月 8日(日) | 神護寺、西明寺、高山寺 | ||
| 7月15日(日) | 東寺、鞍馬寺、貴船神社 | ||
| 7月21日(土) | 淡路島(兵庫県) | ||
| 7月22日(日) | 大覚寺、直指庵 | ||
| 7月26日(木) | 醍醐寺、観修寺、随心院 | ・・・・・・ 25日(水)〜27日(金)、会社は休みでした。 | |
| 7月28日(土) | 高野山(和歌山県) | ||
| 8月 4日(土) | 石清水八幡宮 |
このような遠出ばかりでなく、平日の夕方や休日でも遠出しない日には神戸市内の名所旧跡も訪れてみました。生田神社、湊川神社、北野異人館、神戸ポートアイランドなどです。
この会社研修中、7月1日付で私は一等海尉(昔で言えば海軍大尉)に昇任しました。この2ヶ月間で得た貴重な体験に精神的な満腹感を味わいながら、すがすがしい気分で私は神戸を去りました。横須賀に戻ってまもなく、私は潜水艦を扱う科に配置転換になりました。結局、そのための会社研修だったのです。潜水艦に対してみなさんはどのようなイメージを持っていますか? 仕事の内容は、これまた守秘義務のため触れないことにします。なお、この深海救難艇は潜水艦救難母艦「ちよだ」とともに海上での性能試験、運用試験等を経て、その1年半後の早春、正式に就役しました。
横須賀の職場でも職員旅行がありました。着任した年の12月、やはり土日を利用して武器部の親睦旅行(1泊2日)がありました。この年は、修善寺温泉(静岡県)に行きました。 この辺りは源頼家(鎌倉幕府の二代将軍)が幽閉された場所です。2日目の朝、ホテルを出る前に同僚2名とともに近くの指月殿を参拝しました。晴れの日でしたが、空気がひんやりとしていました。2年目の11月には保健行軍(遠足のこと)という名目で武器部の親睦旅行(日帰り)がありました。東京湾フェリーで久里浜港(横須賀市)から金谷港(千葉県富津市)まで渡り、そこからバスで清澄寺(安房郡天津小湊町 :現在は合併して鴨川市)に行きました。清澄寺は日蓮上人に縁のある寺という話でした。
そうこうしている間に理工学研究科を出てから2年になろうとしていました。この期間は実務としては最も充実していました。大湊でも同じですが、事務所でデスクワークばかりしていた訳ではありません。造船所やその下請け会社に中間検査のため行ったり、完成検査に伴う海上試験(潜航を含む)に立ち会ったりと、なかなか盛りだくさんで した。ときどき部隊から事務所に突発の故障連絡が電報または電話で入ったりします。
2回目の年が明けてから2月上旬、私は上司に退職の意思表示をし、退職の手続きを開始しました。しばらくして海上幕僚監部から退職が承認され、3月31日付で正式に退職しました。横須賀地方 隊には2年間の在籍でしたが、そのうち2ヶ月は会社研修でしたので、実務は1年10ヶ月ということになります。海上自衛隊には幹部候補生学校から数えてちょうど8年間、在籍したことになります。そのうち実務に就いた期間は(1年5ヶ月)+(1年10ヶ月)=3年3ヶ月でした。
【 おわりに 】
かつてテレビCMで、中年男性が小指を突き出しながら「私はこれで会社を辞めました」と視聴者に語りかけるものがありました。私の場合は別に小指のために辞めた訳ではありません。前々から山形に戻れそうな機会を狙っていたのです。この時点で辞めることを決断しないと、山形での再就職も難しかったかもしれません。この場では紹介できないことがこの他にもたくさんありますが、それは守秘義務とプライバシーに関わりますので省略させていただきます。こんな感動的な体験をさせて下さった海上自衛隊には今でも深く感謝しています。
実は、人間関係で辛い思いをしたり、自分の存在意義を感じられなくなったり、海上自衛隊を辞めたいと思ったことは何度もありました。しかし、 古くなった自宅の建て替えや耕地整理の賦課金など、私は両親に送金しなければならない立場にあったため、すぐには退職する訳に行かなかったのです。実際のところは、両親の喜ぶ姿を思い浮かべられたからこそ、 このような精神的な辛さにも何とか耐えられたのでしょう。具体的には、毎年40万円ずつ両親に送金しました。幹部候補生学校に入校中は俸給(俸給表に載っている金額)が10万数千円で、幹部になってから号俸が少しずつ上がり、退職する時点の俸給は20万数千円でした。いくら独身者とは言っても、送金と自分の生活費を差し引いた残りの金額はそんなに ありませんでした。
いずれにせよ、ここまで育ててくれた海上自衛隊に対して申し訳なかったことは確かです。また、海上自衛隊にはいろいろな意味で借りがあると私は感じています。しかし、私は将来を嘱望されていた訳でもありませんから、「食い逃げ」の色合いはあるにしても、海上自衛隊を裏切ったことにはならないと思います。8年間を振り返ってみますと、勤務成績の方は必ずしも自慢できるものとは言えません。むしろ、それまでの自分に足りなかったことを気付かせたり、埋め合わせたり、人間として (それとも男として?)自信を持たせてくれたり、そのような8年間だったと言えます。高級幹部(将官)まで昇任したいなどという高い意欲があれば、また別だったのかもしれません。しかし、正直のところ、私は将官の姿を見ても「馬子にも衣装」という印象で、自分も将官になってみたいなどという気持ちは湧きませんでした。
海上自衛隊を就職先に選んだことは、自分にとって一種の冒険でした。それだけは確かに言えます。しかし、縁もゆかりもない人間にとっては、なかなか理解できない世界だと思います。私の父方の祖父の実弟(故人)は、戦前、東京都目黒区で近衛輜重兵(このえしちょうへい)として勤務していました。そのような縁からでしょうか、小学生の頃から私は父に防衛大学校に進むように勧められていました。結局は一般大学に進みましたが、大学時代は何か精神的に満たされないものを感じていました。何か新しい自分を求めて海上自衛隊を選んだのでした。私はどう見ても民間企業で働くタイプではないと思いませんか? 落ち着くところに落ち着いたということではないでしょうか。しかし、結局、8年間しか在籍しないで山形に戻ってしまいました。いや、世の中には民間企業に就職して1年以内に辞める人もいるようですから、それに比べれば踏ん張った方かもしれませんね。
明治時代から旧海軍は武家社会の良い伝統を引き継いでおり、海上自衛隊もまた旧海軍の良い部分を取り入れています。古き良き時代の旧海軍には、大言壮語したり、空威張りしたりすることを極端に嫌う雰囲気があったそうです。これに関しては、新潮カセット講演 (新潮社)の『海軍を語る−人事・組織・教育』をお聴きになると分かります。作家の阿川弘之氏によるものです。
もちろん、海上自衛隊に在籍している間、私自身、海上自衛隊には悪い側面があることも感じていました。既に20年以上も前のことになりますが、実は、こんなことがありました。ある勤務先では、ある三等海佐の幹部が地元の修理工事業者(鉄工所)にバーベキューコンロを製作させて、それを海上幕僚 監部にいるかつての上司(一等海佐)に贈呈していました。その製作費用は艦船修理の追加工事費に計上するよう業者に電話で公然と指示していました。この三等海佐は最後は海将まで昇任してい ます。ところが、この三等海佐の配下で働いていたある防衛庁技官(当時の職名)は、海上幕僚監部に転任になって数年後、ある大きな不正行為が発覚して懲戒免職となりました。これは私が既に山形で再就職してから報道された事件で、私はテレビのニュースでこの防衛庁技官の氏名と顔写真を見て驚いてしまいました。それと同時に、無理もないな あ・・・・・・とも思いました。 また、別の勤務先では、ある三等海佐の幹部が、新年の挨拶回りに来た営業マンから「お年玉」と称して差し出されたのし袋を淡々と受け取っていました。以上の例は氷山の一角に過ぎません。あの当時は、受注業者による営業接待など当たり前のような時代でしたので、感覚が麻痺して慣例のようになっていたのでしょう。それぞれ既に時効に当たるとは言え、官民の癒着には呆れてしまいますね。
世の中には「護憲」という美名のもとに「自衛隊の活動は憲法違反である」と断じている人たちが今なお多いです。現行の日本国憲法を表面的に見れば、確かにそう言いたくもなるでしょう。しかし、彼らはその憲法がどのようにして成立したものなのか分かっているのでしょうか? そもそも現行の日本国憲法は、終戦後、日本人が主体的に作成したものではなく、当時の占領軍が日本を骨抜きにするため作成したものです。しかも、憲法改正の条件を厳しくし、日本人が簡単には憲法を改正できないような仕組みにしました。また、一説によると、連合国の一部が天皇制廃止を主張するので、日本の国体維持のためマッカーサー元帥が拙速に憲法を制定させてしまったという話もあります。ところが、冷戦時代に入ると今度は米国は日本に実質的な軍隊を持たせたので(この辺がまだ占領政策そのものです)、日本国内ではそれが憲法違反かどうかという事態になったのです。この辺は、英国とフランスが中東に人工的な国境を設定して、支配地域の人間が一致団結しないで内部分裂するように仕組んだのと同じで、欧米列強一流(?)の占領政策と見ることもできます。ソビエト連邦(旧称:現在のロシア)との間に北方領土問題、韓国との間に竹島帰属問題が残されたのも、結局、極東が内部分裂することを狙った戦略的なものではないかとさえ思われます。
何やかんや言っても、結局、国防は憲法よりも優先するのです。国家が存在しなくなったら、どんなに崇高な理想を掲げた憲法があっても意味がありません。だからこそ、昭和25年(1950年)に朝鮮戦争が勃発したとき、日本国憲法に抵触することなど承知の上で米国は日本に警察予備隊(自衛隊の前身)を発足させたのです。「戦争を放棄する」と憲法で宣言すれば戦争がなくなるなどという都合のいい話は、現実の世界にはありません。これは、現行の日本国憲法を日本に押し付けた当の米国側が歴史的にいやというほど痛感している事実です。そもそも、国際的な常識では 、現代でも軍事行動は国際問題を解決するための重要な手段なのです。 ロシアのプーチン大統領に至っては、「核兵器を持たない国は主権国家ではない」とさえ言い放っています。
永世中立国のスイスでさえ正式な軍隊を持っているのです。日本が現行の憲法をいったん無効とし(憲法改正では現行の憲法が有効であることを認めることになります)、 大日本帝国憲法を改正するという形で新しい憲法を制定して自衛隊の存在を正式に認知し、これまでの戦後政治を総決算して本当の意味で独立国になることは、国際的に見れば何ら問題ないと思います。それを問題視するとすれば、日本の軍事力を歓迎しない近隣諸国か日本国内の進歩的(?)な左翼勢力だけでしょう。 日本国憲法問題については、渡部昇一氏と南出喜久治氏の共著『日本国憲法無効宣言』で具体的に述べられていますので、興味のある方は読んで下さい。ビジネス社から出版されています。
最後に、現在の自衛隊は、外国に対して積極的に攻撃できるような軍事力を持ちあわせていないばかりか、有事に際しての法律も充分に整備されていません。たとえそのような軍事力を保有しているとしても、それを戦術的でなく戦略的な視点から使い切れる人物は残念ながら現在の日本には育っていないと思います。戦術は訓練によっていくらでも身に付けることは可能ですが、戦略(国家戦略を含む)は単なる知識や技能を超えた人物の問題です。ここに本当の意味でのエリート教育の必要性があります。