マンション・アパティア・12

「リキ」
呼ぶ声でリキは目覚めた。
目の前にイアソンの心配そうな顔があった。
心配そう?
リキはベッドに横になっていた。
身体がひどくだるくて、目もよく見えない。
重い手をあげて、イアソンの髪に触れる。
「あんた、どうしたんだ、この髪」
声がかすれる。喉の奥に何かつまって声すらうまく出ないようだ。
リキが触れたイアソンの髪。
そこには見事なブロンドに混じって、一房の銀髪があった。
「ふふ、この数日でこうなった。私も焼きが回ったらしい」
「そう言えば、ラボのラウールがあんたが走査に来ないと嘆いていたな」

リキが寝ている部屋は、アパティアではなかった。
窓の外には緑の庭が広がっている。
クルクルと昔風の散水栓が回って、芝生に水を送り込んでいた。
これはイアソンがリキのために用意した郊外の立派な一軒家だった。

リキは数ヶ月前に大病を患いカルガーの病院に入院した。
しかし、あらゆる施術に関わらず、もはや先行きは見えたとあって
家に帰ることを許されたのだ。
イアソンの苦しみがどれほどであるか、誰にも計り知れなかった。

こうして、リキは我が家で過ごしながら、
いつしか夢と現実の狭間を行き交い、眠り続けるだけの生活となった。
今日は意識が戻ったと聞いて、イアソンが市庁から帰ってきたのだ。
とはいえ、リキの意識は混沌としているようだった。
しかし、一時期見えなくなっていたはずの瞳は不思議にイアソンの髪の色を見分けた。

「リキ、具合はどうだ」
イアソンが寝台の端に腰掛け、リキのほうに身体をかがめ
顔をのぞき込むようにして聞く。
「ああ、夢を、夢を見ていたみたいだ。あのときの」
「あのとき?」
イアソンはリキの体温を計るかのように、頬をリキの顔に押しつける。
汗で額にこびりついていたリキの白髪をかきあげる。
そう、リキはすでに額にしわを刻む年齢に達していた。
「リキ・・・」
リキの身体を抱くイアソン。
「どうしたんだ、イアソン。なんだってんだ急に」
「リキ」
イアソンは身体を起こし、リキを見つめた。
「私は以前、お前には選択肢はないと言った。
だが、このままではお前はお前の嫌いなコールドスリープ行きだぞ」
イアソンの目は笑っていない。
リキはようやく自分の今の立場に思い及んだようだった。

いやいや、と首を振るリキ。
「いやなら私を止めることだ」
リキはそれもいやだ、と言う風に首を振る。
「イアソン」
かすれた声でリキが呼ぶ。
「あんたには十分な罰を受けてもらう。オレをペットにして支配した罰だ。
あんたの記憶装置は確かだから、オレが逝っちまったあとも忘れることはないだろうからな」
イアソンはゆっくり瞬きをした。
「私に一人で生きろと?」
低く、落ち着いた声だった。
リキは唇を動かしたが、もはや言葉にはならなかった。
イアソンの髪に回されていた手に少し力が込められた。
イアソンはリキのなすにまかせた。
リキはひとしきり髪を弄んだ後、イアソンの額に頬に唇に触れてきた。
イアソンの感触、イアソンの容貌をしっかり刻みつけるかのように。
人工体は涙を流すことはない。
だが、イアソンはひりひりと瞼が痛むのを感じた。
イアソンはリキに顔を寄せて、その乾いた唇を吸った。
イアソンの肌に触れているリキの頬はすでにいつもの温かさを失っていた。

ドアがノックされる。
扉がそろりと開いて、この家のファニチャー役を務める男の子が覗く。
「リキ様にお花が」
「どこからだ」
「ケレスの学校からです」
そう言うと、ドアの中に滑り込んで花束を置いて出ていった。
リキが作った学校はケレスばかりではなかった。
いまとなってはそれがリキのライフワークとなった。
ケレスには小学校はもとより、市民権不問の大学までが誕生していた。

「オレにしちゃできすぎだよ」
リキはそう言っているようだった。

やがてイアソンの髪に回されていた手はゆっくりとベッドに落ちた。

廊下では、ラウールが幾人かの研究員を従えて待ちかまえていた。
「イアソン、どうする?今ならまだ間に合う」
イアソンは軽く手を横に振ると、ラウールの側を通り抜け、立ち止まることなく
玄関のドアを押し開けて外へ出た。
道路にはラボが用意した移送車両が止められている。
それを無視してイアソンは庭へ向かう。
まぶしい太陽が照りつけ、ここがあの喧噪のタナグラであることを忘れさせた。
風で方向を見失った散水栓の水がイアソンに降り注ぐ。
芝生に小さな虹が生まれる。
やがては消えて行くが
いまこのときは太陽を映して見るものを感動させずにはおかない。
しとどに濡れたイアソンの髪から滴が、頬を伝い落ちていった。
「イアソン」追いかけてきたラウールの声だ。
「リキはラボへは運ばないのだな。では、セメタリーでの諸手続を・・・」
事務的な言葉が続いてゆく。
「それでいい。詳細はお前に任せたい」
イアソンは振り返ることなく、ラウールの言葉を途中で遮った。
ラウールは背後にいた研究員に目で合図を送った。
研究員はリキの搬送のために急ぎ、戻って行ったようだ。
「で、どうする?」
ラウールが続ける。
「お前のラボに出向くとしよう。随分、長く走査を受けていないからな。
それから、新しいプランを提供しよう」
「新しい?」
「ああ。帝国も同盟も実質的なリーダーを失っている。この商機を逃す手はない・・・」
イアソンはラウールを振り返る。
その瞳はいつもと変わらぬ深いアイスブルー。
新たなプランに着手する冷徹な帝王のものであった。

つづく