マンション・アパティア・9

☆
「リキ、下だ」
イアソンが言う。
リキが大きく咳き込む。
炎がひどく、煙が充満してきたのである。
イアソンはリキを掴んで、亀裂の淵を覗く。
下は暗くて何も見えない。だが、間違いなく火の手だけは及んでいないようだった。
上からその様子を眺めていたオリヴィエが叫んだ。
「そこは深いから危険です!」
☆
その言葉が聞こえたのか聞こえなかったのか
イアソンはあの斧を床の亀裂から落とした。
炎の弾ける音に混じって
斧が下階の床にぶつかるカーンという音が響く。
少なく見積もって5m、6m、いやもっとありそうだった。
リキは青ざめる。
「イアソン」
「リキ、ほかに道はない」
イアソンはリキをかばうように抱きかかえると
その亀裂に躊躇なく向かった。
☆
イアソン・・・。
リキは飛んだ瞬間に気を失ったようだった。
炎がゆらめき、イアソンの金色の髪がキラキラと光った。
ゴォォォォと瞬間的な風の音も聞いたような気がする。
同時に、二匹の金色の獣も舞い降りた。
☆
「リキ!」
頬をしたたか打たれてリキは気がついた。
目の前にイアソンがいる。
炎のはぜる音も聞こえる。
「リキ、しっかりしろ」
心なしか、イアソンの声音がかすれているように聞こえる。
まさか・・・。
リキは飛び起きた。
暗がりの中で
イアソンの後ろにはあの宝石商と見慣れぬ男が寄り添うように立っていた。
「レヴィ、よけいなことに首を突っ込むからこういうことになる」
太い声が響く。
その声には責めているというより、
面白がっているような余裕の調子が含まれていた。
金色のたてがみの様な髪、尊大な態度。
男は、このような状況下にあっても至って冷静のようであった。
オリヴィエはいつもと少し違って見えた。
真っ黒と思えた髪には所々金の房が混じり
闇の中でも瞳が輝き、口元には犬歯が光った。
「オリヴィエ?」
「リキ、お別れです。
私たちは闇の一族。もう二度とお会いできませんが、楽しかった」
オリヴィエはそう言うと、
少し哀しげな微笑みを残し、金色の男と姿を消した。
まるで、夢の中のできごとのようだった。
☆
仰ぎ見ると遙か上に炎が見える。
この高さから落ちて無事であったのは奇跡か、
それとも人外の者たちに助けられたのか。
「リキ、行くぞ」
イアソンの言葉にリキは今度こそしっかりと我に返った。
☆
ラウールのラボで。
寝台にまるでくくりつけられたかのようなイアソンを
リキは哀しげな瞳で見つめていた。
唇はかなりの裂傷を負い、イアソンの身体内部のひどさを象徴していた。
「イアソン」
「なんだ」
内部の洗浄は完璧に行われたが、ラウールが細部まで完璧なメンテナンスを主張したため
イアソンは期限なしのドック入りを余儀なくされることとなった。
「もう、やめろよ。あんなプロジェクトは」
「ほお、なぜ」
「金持ち相手の商売なら今ので十分じゃないか。人の命を操って、恨みを買うなんて損だ。
人間の命を延ばしたところで、あんたには何の得もないだろ?もっと他のビジネスにしろよ」
「人間の命。これほど最強のビジネスはないだろう」
「オレは気に入らねぇ」
「総てお前のためだ」
イアソンの言葉に、リキはみるみる顔色を変えた。
リキはその一言を恐れていたのだ。
「そうだ、総てはお前のためだ。
お前が私を一人にするなど許せない。
最期の瞬間にコールドスリープ装置にぶち込んでやるさ」
独り言のようにイアソンは言った。
「イアソン!」
リキの声は悲痛だった。
まさかと思っていたことこそ、真実だったのだ。
一生おもちゃから永遠にペットにされようとしている。
そんな拘束はまっぴらだ。
「リキ、以前言っただろう?お前に選択肢はないのだ」
イアソンは声音を変えることなく続けた。
「コールドスリープ装置にぶちこまれたくなければ、阻止しするしかない」
落ち着いた声で言うと、
イアソンはどこに隠し持っていたのか、手のひらのカプセルを見せた。
そして、ゆっくりと腕を持ち上げて、リキに手渡す。
「いざとなったら使え。あいつらが使ったヤツと同じ成分だ。なかなか効いたぞ」
イアソンはベッドに横になったまま、笑ったような気がした。
「・・・」
生きても、死んでもイアソンからは逃れられないリキ。
ベッドごとラボの特別室に運ばれるイアソンをリキは声もなく見送った。
☆