昨日は「仕事の会話のように」と申しましたが、
それはそんなに簡単なことではないのかもしれません。
男脳と女脳の差について語られるようになったのは、比較的最近のことだと思うのですが、
脳の差が明らかになる以前でも、我々はずっと昔から経験的に、
男と女の思考回路の違いのようなものは感じていたわけです。諺や格言に、それが現われています。
私は逆立ちしても男ですから、男回路で考えてます。女回路についての知識や考えはありますが、
自分の回路ではないので根本的には理解できていないことでしょう。男回路の立場で
「仕事の会話のように」と言うのは、どの程度の意義があるのか疑問だったりもします。
時に男女の会話は噛み合いません。平静な時はともかく、喧嘩しているような時には、
何でこんなに噛み合わないのか、と思うほどに噛み合いません。
基本的に、男の会話は「自分の主張を正しく理解してもらうこと」を指向しているのに対して、
女の会話は「自分の感情に共感してもらうこと」を指向していると思います。男の場合、
まずは自分の主張を正しく認識してもらって、それに対する賛成、反対はその次のステップ、
という考え方です。女の場合、事実関係の認識に多少不備があったとしても、
「楽しいよね」あるいは「悲しいよね」といった共感を得ることの方が大切のように思います。
平静時においてはこの二つの指向が重なり合う部分も大きいですし、
お互いに歩みよりもあるでしょうから、相互理解に大きな支障は来たさないことも多いはずです。
ところが、喧嘩したりすると、お互いの歩みよりはなくなる上に、感情が高まってますから、
感情に対する共感をベースとした会話と、主張を正しく理解してもらいたい会話が噛み合わないのも、
もっともなことです。
男の発言を女回路で解釈すると、冷たく無感情に感じたり、
言葉の端に自分に対する非友好的感情を発見したりするわけです。もちろん、
男はそんなつもりがあるはずもありません。自分の主張を理解してもらうために、
適切な言葉を選んでいるだけですが、その言葉は何らかの感情が表れたものと感じられるのでしょう。
女の発言を男回路で解釈すると、幹から枝が出たと思ったら、いつのまにか枝が幹になって、
その幹から枝が出て幹になって・・・以下繰り返しです。とりあえず、最初の幹の話をしようよ、
それが問題だったはずでしょ、ということになります。そう言うと「○○だって問題よ!」
となります。次々に現われる幹は、客観的事実関係の観点では全く別物ですが、
当人の感情という観点では同一カテゴリーに属するようです。
私が子供の頃、母親に叱られると、母親は過去の事をはてしなく持ち出してくるので辟易してました。
「それは全然関係ないことでしょ?」と言うと、「関係ある!」と怖い顔で言うのですが、
どう考えても彼女の主観の中で関係があるだけです。「屁理屈を言うな!」とも言われましたが、
今振り返っても、「それは全然関係ないことでしょ?」が屁理屈とは思えません。
そんなこんなで、男女の会話が噛み合わなくなるわけです。
夫婦喧嘩や恋人同士の喧嘩は、あまり他人の前ではしないことでしょう。
誰かが脇にいて見ていることは少ないはずです。でも、たまたま誰かが脇にいると、
面白い傾向があるように思います。
喧嘩のそもそもの話として、どちらが悪いかということではなく、
上に書いたように話が噛み合わないことに関しては、男はもちろん女性でさえも、
男側の味方になるようです。第三者の女性の立場でも「あなた、それは関係ないことでしょ」
と感じるようなのです。第三者ですから、
一般には当事者の女性との感情の共有関係が成り立っていないわけで、
そうすると「幹から枝が出て幹になって」はすなわち「幹から枝が出て幹になって」
としか思えないのでしょう。
因みに、会話が噛み合うようなプロトコルを定義するとしたら、
それは男回路の会話に近いものにならざるを得ないのではないかと思いますが、
いかがなものでしょう?
というようなことを、男回路で考えてみた次第です。