もう何年も前の話です。その日、私は仕事を終えて帰宅する途中、
とある蕎麦屋さんで食事をとることにしました。どこの何と言う蕎麦屋さんかは覚えていませんが、
この話はグルメ情報ではありませんので、どこの蕎麦屋さんであっても関係ありません。
蕎麦屋さんにありがちな、狭い四人席に一人で座った私は、納豆蕎麦かカツ丼セットか、
そういったものを注文し、それが出てくるのを待つ間、
たまたま持っていた雑誌を読んでいました。
しばらくして蕎麦が出てきて、私は雑誌を閉じてそれを食べ始めました。
雑誌はテーブルの上の、食べるのに邪魔にならないところに置いときました。
すると、店内が混んで来たのか、お店の人が来て「相席をお願いしてもよろしいですか?」と。
私が蕎麦をずるずる啜りながら頷くと、ほどなく私の正面に、
私と同世代と思われるスーツ姿のサラリーマンが座りました。
認めたくはありませんが、多分、私よりはいい男です。
ところがです。いい男ってのとは関係ありませんが、その彼、注文を済ませると、
テーブルの上にあった私の雑誌を手にとって読み始めてしまいました。
もちろん、彼としては、その雑誌は店のものだ、と思い込んでしまったわけです。
私はそれを見た時、ずるずるが一瞬止まってしまったかもしれません。でも、
何事もなかったかのように蕎麦を食べ続けました。私の雑誌ですが、
人に読まれても減るもんじゃなし、「まいっか」です。
彼が私の雑誌を読むのはいいのですが、問題は、私が蕎麦を食べ終わり席を立つ時に、
どのような状況になっているか、です。もし、その時に彼の注文した蕎麦が出てきていて、
彼は雑誌を閉じてテーブル上に置いていたとしたら、
私はそしらぬ顔でその雑誌を回収して立ち去ることが出来ます。
私は微妙に食べるペースをゆっくり目にしました。その甲斐あってか、
私が食べ終わる直前に、彼の蕎麦が出てきました。
私はそれを見て、ほっとしたのですが、世の中はそうそううまく行くものではないようです。
彼は蕎麦を食べながらも雑誌を読み続けたのです。
間もなく、私は蕎麦を食べ終わりました。お茶を飲みながら、必要以上に時間を過ごしました。
でも、彼は私の雑誌を読むのをやめません。
まさか彼が食事を済ませて帰るまでねばる訳にもまいりません。
私は意を決して立ち上がり、彼に言いました。
「済みません、その雑誌・・・」
「・・・・は?」
「それ、私のなんですが・・・」
「・・・・・・・???」
「この店の雑誌じゃなくて、私が買ったものなんですよ」(笑顔のつもり)
「・・・・あ、あぇ、ああ、ど、どうも済みません」
とまあ、彼もえらく焦って恐縮してしまいまして。たかだか雑誌を持ち主に無断で読んだだけなので、
それも、店の雑誌だと思い込んでいたわけですから、そんなに恐縮するほどのことじゃないのですが、
まあ、気持ちは分かります。
彼はえらい恥ずかしかったことでしょうね。彼と同じ立場になったら、
誰もがむちゃくちゃ恥ずかしい思いをすることでしょう。
でも私だって恥ずかしかったんですよ。彼に「私の雑誌なんです」
と声を掛けることも多少は恥ずかしいのですが、決定的に恥ずかしい理由は別にありました。
その雑誌が、オヤジ向けの大衆低俗エロ雑誌だったからです。