| 終戦記念日に思う |
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8 月 15 日。終戦記念日である。いささか言葉を飾っているが「終戦」ではある。 12 月 8 日、8 月 6 日、8 月 9 日、そして 8 月 15 日。これらの日が、何の日か 全て言える人は、今の高校生の何パーセントだろう。 毎年この時期になると、マスコミは原爆や太平洋戦争を取り上げる。他の時期は どうした、という声もあるが、とりあえず話題にすること自体は悪いことでは ないと思う。ただ、年々、そのトーンが落ちてきているように思うのは、気のせい だろうか。また、12 月 8 日の前後には、今の時期ほど、戦争に関連した話題が ないのは何故だろう。 あの戦争は「侵略戦争」だったのか、そうではなかったのか。二者択一で答えよ、 と言われれば、私は「侵略戦争」だったと答える。私自身はもちろん、あの戦争を 体験していないが、私がこれまで見聞きしていた色々なことから判断して、 「侵略戦争」という認識をしている。 ただし、日本が 100% 悪くて、他の国々(日本に侵略された国や連合各国)は 100% 正義か、というとそうとばかりも言いきれないところは、あるかも知れない。 いや、おそらくあるだろう。 そういう議論はあって然るべきであろう。ただし、それは歴史学とか純粋な歴史 評価であって、外交とは別物であろう。外交において必要以上に卑屈になる必要が ないのはもちろんだが、必要以上に居丈高になる必要もない。歴史的事実が重要で あることは無論だが、ある特定の歴史的事実だけを振り翳しても、外交には ならないことは言うまでもない。 あの戦争は侵略戦争ではなかった、と主張する人々がいる。その主張には耳を 傾けるべきことも含まれているかもしれない。ただ、そのような人達、あるいは その一部の人が主張する、ある 2 つの論理はどうしても受け入れられない。 曰く、
あれが侵略戦争だとしたら、お国のために戦って散った英霊に申し訳が立たない。曰く、
子供達に、みなさんのおとうさんやおじいさんは侵略者です、とは教えられない。 そんなことでは日本という国に誇りが持てなくなる。なんと稚拙で非論理的な思考であろうか。日本の病根を見る思いがする。 英霊云々に関しては、2 重 3 重の意味で、異議を唱えたい。まず、霊魂の存在 である。霊魂の存在を否定するなら、こういう考えが成り立たないことは言うまでも ない。仮に霊魂の存在自体を認めたとしても、現世の我々の社会のことを決めるのに、 なぜ霊魂に遠慮、あるいは配慮する必要があるのか。さらに、配慮が必要だとしても、 侵略を認めないことが、何の配慮になるのか。嘘に嘘を重ねる侮辱にしかならない のではないか。 英霊云々を言う人は、結局、怨霊の祟りを恐れているとしか思えない。霊魂に 対して「あなたのしてきたことは侵略のお手伝いです」と言って、祟られるのを 恐れているだけだ。そうでなければ、英霊の御機嫌伺いをしているか、そういう ものを持ち出すことによって、自分の理論を正当化しているだけだ。 「侵略」が客観的事実であるならば、それをきちんと伝えることこそ、 英霊に対しての真の敬いであろう。ただし、彼等が考えるような形で「英霊」が 存在するのなら、であるが。 史料を調べた結果、「侵略戦争ではない」と主張するのは良い。しかし、英霊云々は、 あまりにも稚拙な論理であることを知るべきである。 子供達への影響をしたり顔で主張する連中は、結局のところ、自分が侵略を認め たくないだけである。侵略を認めることで、自分の中の色々な価値観が崩壊する のであろう。 だからといって、子供達もそうだ、とはどうして言えるのか。むしろ、過ちを 潔く認めない醜さを晒すことのほうが、大人や日本という国に対する不信感を 生む原因となるだろう。 神聖で高潔で清廉潔白で、という概念を、天皇にしろ国家にしろ、自分の上位 存在として持たないと、自分の存在意義を確認出来ないのであろうか。国家だろうと 天皇だろうと、過ちがあること、いや過去の過ちを認めることが何故許されない のか。 過ちがあったとしたら、それを認め、その再発を防ぐためには、観念論や道徳だけ ではなく、具体的な政策や法律として、何をどうすればいいのかを、考えさせ教える ことが必要であることは、議論の余地のないほど自明のことに思える。 繰り返すが、客観的事実の積み重ねによって、「侵略戦争ではない」と主張するのは 良い。しかし、侵略をある部分で認めながら、あるいは認めざるを得ないと認識 しながら、それを作為的に隠すことは、英霊に対しても、子供達に対しても、 極めて不敬であると言わざるを得ない。 国会議員、それも閣僚でさえ、カビが生えて非論理的で狭隘な価値観に基づいた 発言をする輩がいる。戦後生まれの人にもいる。何故、彼等は救いようもなく 愚鈍に見えてしまうのだろう。彼等の依って立つ価値観が、世界標準からも 日本の多くの国民の標準からもかけはなれた、シャーマニズム時代を連想させる ものだからであろうか。
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