1998年9月3日

そんなに見つめないで


昨晩のことです。時計はもう 12 時を回っていました。

私は帰宅のために電車に乗っていました。車内はそこそこに混んでいて、私は 吊革に掴まって立っていました。

私の後ろには女性が立っていて、雑誌を読んでいました。その雑誌の端っこが 時々私の脇腹にあたって、ちょっとくすぐったい思いをしていましたので、 その女性のことが気になりだしました。

私は窓に向って立っていて、窓に映っている車内の様子が見えます。 でも、その女性は私のかげに隠れるような位置に立っていて、なおかつ雑誌を 読むためにうつむいていましたので、茶髪であることと、やや派手目のワンピース を着ていること以外は、顔も年齢もわかりません。

そうなると更に気になるもので、私は体をちょっとずらして、彼女の顔を確認 しようと試みましたが、なかなかうまくいきません。もちろん、振り返れば 見えるのですが、そんな不自然なことも出来ず、どうにかして窓を鏡替わりに して見ようとしていたのでした。

そうこうしているうちに、私はあることに気が付きました。彼女の後ろで 彼女に背を向けて立っている男がいたのですが、その男は 「まわる男」だったのです。

彼女とその男の間には多少の間隔があったため、さほどの被害は受けていない ようでしたが、それでも彼が大きくまわったときには、彼女に軽く体当たりを する格好になり、彼女はその男のことを気にしている様子でした。

結果的には、その男のおかげで、私は彼女の顔を確認出来ました。体当たりされた 彼女が、「何するのよぅ」という感じで顔を上げて、立ち位置をちょっとずらした ため、私の位置からは窓に映った彼女の顔がはっきり見えたのでした。

おそらく 30 歳前後だと思います。ややきつめの顔立ちで、ちょっとおみず 入ってます。とびきりの美人とはいえませんが、なかなかに色っぽい。

彼女は首を回して、まわる男をちらっと睨んでなにやら口の中でブツブツ。 そして、正面に向き直ったとき、窓に映った彼女を見ていた私と、窓を経由して 視線がバッチリ合ってしまいました。

直接に目が合ったわけではないのですが、私はちょっとびっくりしてしまい、 視線をはずそうとしたのですが、彼女はじっとこちらを見つめています。 そうなると、私も目をそらせなくなってしまいます。1 秒、2 秒、3 秒・・・・

じっとお互いを見つめる私と彼女。そして、単に見つめるだけではなく、 彼女はなんと、視線はそのままに、ニコリともニヤリともとれる笑みをうかべる ではありませんか。

「おいおい、ナンパする気かよ・・・?」

などと都合の良いことを考えていたら、彼女はすっと視線をそらしました。

さて、当然のごとく、私の心の中は「今のは何だったのだろう?」と?マークで いっぱいになります。どう考えても、電車で乗り合わせただけの男をナンパする わけはないのですが、あの笑みに意味がないとも思えません。

もしかしたら、私の社会の窓が開いているのかとも思いましたが、そうでは ありません。どこかで会ったことのある人かというと、そんなこともありません。

などと考えていると、さらに刺激的なことがおこりました。彼女は顔をやや横に 向けた状態でこちらに視線を合わせました。つまり、流し目状態で見つめる形です。 そして、「ううん」というような感じで顎をちょっとだけ突き出したり、唇の端 に笑みを浮かべたりしています。

もちろん、視線は窓に反射して、私の目に合っているのですよ。

さあて、大変なことになりました。これはもうナンパされてるとしか思えません。 今が 8 時か 9 時位なら、「夜景でも見ながらカクテルはいかがですか」なんて 誘ったりも出来るのですが(←ほんとだな?)、既に終電に近い時間、明日も 朝から仕事、さっき家に「これから帰る」と電話したばかり、と悪条件が重なって いますので、なんとも身動きのとりようがありません。

おねえさん、そんなに見つめないで下さいよ。今日は無理ですけど、明日なら お付き合いしますから。

などと言い出せるわけもなく、ただただ立ち尽くす私でありました。ただし、しっかり と視線はそらさずに、ときどきは愛想笑いなどもまじえて。

しばらくすると彼女は視線をそらしたりもしますが、それでもその 1 分後には、 流し目攻撃が始まります。そんなことが何回か繰り返された後。

なななんと、彼女は私に目を合わせたままにもかかわらず、自分の髪型を直し 始めたのでした。あたかも洗面所の鏡の前に立っているかのように。

そうです、これまでの彼女の行為は、全て窓に映った自分との会話だったのです。

と、思いますよね、普通。私も思いました。

「なんだ、勘違いか。紛らわしいことするなよな」

「それにしても、窓に映った自分に流し目して何が面白いんだ?」

なんてことを思いました。しかし、真相はそんなことではないのです。

賢明な読者諸氏であれば、おかしな点に気付いたことでしょう。

私と彼女は目が合っていたのです。つまり、私は(窓を経由して)彼女の目を 見ていて、彼女は(窓を経由して)私の目を見ていた(正確には、というように 私には見えていた)のです。

光学の原理によると、入射角と反射角は等しく、光線の方向を逆に辿ったときもまた、 ・・・・・・・。えと、面倒なことは省略しますが、早い話、目が合っていたのです から、彼女の視線は窓に映る自分ではなく、窓に映る私に向いていたことになるの です。

従って、これまでのことが彼女の一人芝居だとしたら、彼女は自分ではなく、 あさっての方向(たまたまそこに私の目があった)を見て、一人芝居をしていた、 というおかしなことになるのです。

我々が「目が合った」と感じる精度はかなり高いと思います。ですから、彼女が 窓に映った自分を見ていたとしたら、その視線と、窓に映った私を見つめるための 視線との角度の変位 Δ(α、β、γ)は微少かもしれませんが、私は目が合ったとは 感じなかったでしょう。

さらに言えば、彼女や私が体を動かした時に、視線が「合っている」状態を保つべく 移動するわけですが、その移動過程においてまで(Δの時間偏微分です)不自然さを 感じさせないほど一致するとは思えません。

ここまでの話から導かれる結論はひとつしかありません。

彼女はやはり私をナンパしていたのです。でも、うまくいかないということを 悟り、それまでのナンパ行為をカムフラージュするために、視線をそのままにして 髪を直して、私に勘違いさせようとしたのです。

なかなかやり手です。しかし、彼女の誤算は、私が光学の原理に精通していた ということでした。(なんかちょっと違うかもしらんが、まあいいや)

さて、今度彼女に会ったら、どうしよう。






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