| サンキュー・ハザード |
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顔文字論争も一段落したのかどうか、まあどっちでもいいんですが。 私は顔文字よりも、サンキュー・ハザードのほうがずっと気になります。 サンキュー・ハザードというのは、車を運転していて道を譲ってもらった時などに、 「ありがとう」の意思表示として、ハザード・ランプを何回か点滅させる行為です。 全然関係ないじゃねーか、と思われるでしょう。はい、全然関係ありません。 でも、広まり方という意味では、両者には共通性が感じられます。 つまり、誰かが使っている(やっている)のを見て、「ああ、こういうのが あるんだ」ということで、マネをして自分も使う(やる)。そして、それを 自分に受け入れるにあたっては、無批判と言うか無邪気というか、その意味なり 長所・短所なりを熟慮しない。 何事においても熟慮が必要であるわけもなく、「顔文字を使う前に熟慮しろ」 なんてことも、もちろんないのですが、少なくとも、受け入れる側の心理としては、 かなり近いものがあるのではないかと思います。 顔文字を使ったからといって、誰が迷惑するわけでもありませんが、サンキュー・ ハザードの場合は、極論すれば人の命に関わる問題です。もうすこし熟慮が あってもしかるべきだと思います。 さて、サンキュー・ハザードの何がいけないのか? まず、車を運転していて「ありがとう」の意思表示は必要なのか、ということ を考えてみましょう。私は「必要ない」と思います。車線変更等の際には、 事前にウインカーで合図して、充分な安全マージンをとることが重要なのであって、 車線変更が終わった後に「ありがとう」の意志表示をする必要なんて、 これっぽちも感じません。 サンキュー・ハザードが広まったせいで、サンキュー・ハザードを出さない人に 対して、「何だこいつ、礼儀知らずだなぁ」なんて感じる人が出てきているかも しれませんが、その考え方は本末転倒であります。 私が運転免許を取ったころには、サンキュー・ハザードなんてものはなく、 ウインカーの補助として軽く手を上げることはあっても、事後の「ありがとう」の 合図なんてありませんでしたから。 そして、実態としては「ありがとう」ではなく、「無理に割り込んでごめん」と いう意思表示にサンキュー・ハザードが利用されることが多いことからしても、 「ありがとう」の意思表示を必須と考える必要のないことは明らかだと思います。 もちろん、その意志表示は「してはならない」といった性質のものではないのですが、 基本的にはしないのがデフォルトと考えるべきでしょう。「俺はありがとうの意志を 表明したい」と考える方もいらっしゃるでしょうが、それは交通の円滑かつ安全な 運行に関しては、実質的には何も関係ないこと、そしてそういう意思表示の手段として、 ハザードの点滅が妥当かどうかを考えて頂きたいものです。 サンキュー・ハザードを出すタイミングは、例えば車線変更直後であり、その多くは 定常的な交通の流れに「乱れ」が生じた直後ですから、前後の車との車間距離が 短くなっていたり、また周囲には車線変更に気付いていないドライバーがいるかも しれず、一般に危険度が高い状況です。 一方、ハザードのスイッチは一般に、ウィンカーなどのスイッチに比べて、操作 しにくい位置にあります。操作するためには、視線をスイッチにやらなければ ならないことも充分にありえることでしょう。 危険度が高い状況で、わざわざ視線をはずしてハザードを点滅させるだけの メリットが、サンキュー・ハザードにはあるのでしょうか? そもそも、ハザード・ランプというのは危険を知らせるためのものですから、 サンキュー・ハザードが乱発されている状況では、狼少年的な危険も生じます。 つまり、車線変更直後に危険を察知して、それを後続の車に伝えるべくハザードを 点滅させたのに、後続の車はそれをサンキュー・ハザードと解釈して、危険の察知が 遅れて事故をまねく、ということです。 確率的には決して高くはないでしょうが、無視できるほど低い確率ではないでしょう。 「俺はありがとうと言いたいし、視線をはずさなくても操作出来るから、サンキュー・ ハザードを止める気はない」 という考え方の人もいるかもしれませんが、私は上記の理由により、サンキュー・ ハザードは完全になくしてしまうべきものだと思います。 「ありがとう」の意志表示というのは、多分に情緒的かつ自己満足的なものです。 「ありがとう」の意志表示をされると嬉しくて、されないとムッとするとしたら、 そう感じる方に問題があります。そういう感情よりも、合理的な危険性の方に 目をむけるべきでしょう。 普通の日常生活ではなく、凶器になりうる車を運転している状況では、「ありがとう」 による心の交流よりも優先すべきことがある、ということです。
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