1999年3月23日 チン○の法則、マン○の法則


昨日の空メールは連打率が非常に高かったですね。

ガリレオの話で連打という訳じゃなくて、きっと文学者をファースト・ネームで 呼ぶことに関しての連打なんでしょうね。

あれってやはり、他人事ながら、聞いていてあるいは読んでいて、恥ずかしい というか気持ち悪いというか、キザったらしいというか、背中がざわざわするというか、 そういうもんですよね?

昨日、あれを書いてから、色々と考えてみたのですが、あの呼び方に関しては、 さらに深く考察すべき点が残っているような気がします。

つまり、どういう文学者がファースト・ネームで呼ばれるか、ということです。

例えば、太宰治を「治」と呼ぶ人はいないように思います。「太宰」という人が 大部分でしょう。

一方、森鴎外はほとんどの場合「鴎外」と呼ばれます。夏目漱石もファースト・ネーム ですね。島崎藤村もそうです。

三島由起夫はどうでしょう。どちらもありそうな気がします。三島全集とか三島文学 とか言いますが、「由起夫」という人もいます。川端康成の場合も、同じような状況 でしょう。宮沢賢治もそうかな。

これらの例から導かれる仮説として、私は「チンコの法則」を提唱したいと思います。 漢字で書くと「珍呼の法則」です。

すなわち、姓と名のうち珍しい方で呼ばれる、ということです。

森はありふれた姓だけど、鴎外は珍しいので、ID としては鴎外のほうが役に立つ、 したがって鴎外と呼ぶ。

太宰は珍しい姓だけど、治はありふれているから、彼の呼び方は太宰になる。

姓名ともありふれていたり、珍しさの程度が同じくらいの場合は、どちらも混在する。

これが「珍呼の法則」です。

うん、でっち上げにしては説得力あるなぁ。

でもでも、こんなことで終わらせては面白くもなんともないですね。さらに 遊びましょう。

私はここで、もうひとつの法則、「マンコの法則」を唱えたいと思います。 漢字で書くと「満呼の法則」です。

ここで、「満呼の法則」を説明する前に、ちょっと違った観点から考察してみましょう。

純文学と大衆文学という分類があります。私はこういう分類にさしたる意義は 見出さないのですが、「純文学側」の人たちはかなり気にしたりします。

で、とりあえず純文学と大衆文学に分けて考えてみると、どう分けるかという問題は てきとーにごまかしておいても、明らかに、「ファースト・ネームで呼ばれるのは 純文学側の作家である」ということが分かります。

団鬼六を「鬼六」と呼んだり、菊地秀行を「秀行」と呼んだりはしないでしょう。 例外は江戸川乱歩くらいかな。これは、「珍呼の法則」が強く働いた結果でしょう。

いずれにしろ、ファースト・ネームで呼ばれる作家の多くは、純文学側である ことには異論はないでしょう。

そして、そういう呼び方をしている人たちのほとんども、いわゆる「純文学側」の 人たちなのです。

つまり、彼らは純文学を純文学たらしめ、いや、正確にいうと自分のやっていることが 純文学側に位置していることを自分や他人に納得させるために、作家をファースト・ ネームで呼ぶのです。

自己満足です。自己満足以外の何者でもありません。

そうです。これが「満呼の法則」です。つまり、自己満足出来るような呼び方をする、 ということです。

因みに、自己満足度は「珍呼の法則」に逆らうほど高いことが知られています。

すなわち、夏目漱石を「漱石」と呼んでも、満足度は高くないのですが、宮沢賢治を 「賢治」と呼ぶことは、かなりの満足をもたらします。太宰治を「治」と呼ぶことは、 最上級の満足が約束されることでしょう。

もちろん、彼らの感じる自己満足度と、我々が感じる「恥ずかしい度」あるいは 「ぞわぞわ度」は完全な比例関係にあります。

おお、我ながら素晴らしい!

「珍呼の法則」と「満呼の法則」によって、すべてが明らかになったではないか。

自分でも天才じゃないかと思うですよ。








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