2001年2月24日 今月の努力目標


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私が小学生の頃は、各クラスで「今月の努力目標」なんてのがあって、 ホームルームの時間に、何を「今月の努力目標」にするのかを話し合い、 教室の前のほうにポスターを貼ったりしたものです。

「廊下を走らない」とか「忘れ物をなくそう」だとか、小学生の考えることですから、 微笑ましいというか、どうってことないというか、そういう目標が多いわけです。

で、具体的な目標を決めるに当たってはあれこれと時間をかけて話し合うのですが、 それをどう実現するのかということに関しては、意外と時間がかけられていなかった ような記憶があります。

それでも必ずあったのは「廊下を走った人はどうするんですか?」といった議論ですね。 つまり、なんらかの罰則を科すのかどうかということです。 で、大方の場合は「罰則で守らせるんじゃなくて、個人個人の自覚が大切だから」 といったことで、結局は罰則を設定することはしないんですよね。

私が小学生の頃は、こういうのが典型的な展開でした。今はどうなのか知りませんけど。

小学生の議論だからとバカにしてはいけないと思います。こういう思考回路は、 意外と根強く我々日本人の中に根付いているんじゃないかと思われるのです。

何かの決め事をしても、それをあるべき姿でまわしていくことに対しては、 意外に無頓着なのが日本人かなと思われます。

罰則が重要だと言っているわけではありませんよ。罰則であれ他の制度であれ、 その決め事を正しく運用していくためには、何らかのシステムが必要だと考えるのが普通だと 思うのですが、それをきっちりと考えることになにやら禁忌があるようなのですよ、 我々日本人には。決して罰則に対する禁忌ではないと思います。

決め事を守るのは個人の責任が重要で、守るようにするためのシステムは、 個人を信用していないことになるので、あまりあれこれと細かいシステムは失礼にあたる、 といったような感性が、小学生か、あるいはそれより下の年代から養成されているような 気がしてなりません。

医療ミスにしろ、政治家の汚職にしろ、警察や検察の不祥事にしろ、 決め事に沿った形で物事を進めるためのシステムの不在とか、あるいはシステムはあっても それに実効性がない状態になっている、ということが問題であることは明らかです。

で、そういったシステムの不在とか不備とかを考えるに、「廊下を走るのはやめましょう」 とだけ決めといて、それを実現するためのシステム(罰則などなど)については、 「個人の自覚が大切」という当たり前だけど何の根拠にもならないことを根拠にして、 まともに考えることを放棄してしまっている小学生の姿を連想してしまいます。

そういうシステムは性善説ではなく性悪説に基いて考えるべきなのは論を待ちません。 もちろん、ある人の個人的な価値観なり道徳感が性善説に立脚していたとても、 それとこれとは全くの別問題なのですが、別問題だと分かっていなからこそ、 「個人の自覚が大切だから、罰則はなし」的な論理がまかり通るのでしょう。

小学校の「今月の努力目標」は、日本社会に意外に大きな影響を与えていると思います。 いや、正確に言えば、日本人のもっと奥深いところに根本的な原因があるのでしょう。 でも、「今月の努力目標」はそれを矯正するための好機であるのに、 そうと気付かずに放棄してしまっているのでしょう。

そもそも「努力目標」という言葉も良くないかもしれませんね。その目標は「努力」 によって実現される、というイメージになるじゃないですか。もちろん、 努力を否定するものではありませんが、それだけじゃうまくいかないのが社会というものです。







                        
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