おそらく今日のワイドショーは「雅子さまご懐妊!」で大騒ぎとなっている
ことでしょう。雅子さんの「元ご学友」にインタビューしたり、
「皇太子殿下、雅子さま、愛の軌跡」みたいなビデオを流したり、
番組の作りは大体想像が出来ます。
賭けてもいいですが(といっても賭けは成立しないと思いますが)、
その番組の中のどこかで、絶対に「静かに見守りたいものです」といったコメントが
付加されるに違いありません。
で、普通の感性の持ち主であるならば、そこで「これだけ騒いでおいて何が
『静に見守りたい』だ」とか「お前らが一番騒がしいんじゃねーか」
などと思うはずです。多くの方がそう思うことでしょう。私もそう思います。
どうやら、マスコミ関係者と我々一般人との間には、「静かに見守る」
ということに関して、決定的に認識の違いがあると思われます。
そこで僭越ではありますが、私が彼らの「静かに見守る」を定義して見たいと思います。
彼らにとって、「雅子さまご懐妊!」に関して好意的に報道すること自体は「静か」
であり「見守る」なんです。あり得ないことではありますが、仮に「やっと出来たのか、
誰も作り方を教えてなかったんじゃねーか?」とか、「とうとう人工受精でも
したんだろう」などと報道したら、それは「静かに見守る」からはずれるわけです。
また、これまたあり得ないことですが、芸能レポーターの突撃取材のようなノリで、
宮内庁病院で検査を受けて出てきた雅子さんに直撃インタビューを敢行すると、
それは「静かに見守る」ではないのです。しかし、同じ突撃インタービューでも、
宮内庁職員や雅子さんの一般人の関係者(同級生など)に対してなら、
「静かに見守る」です。
例えば、某独身大物女優の妊娠が発覚した場合、マスコミが誰に対してどのような
取材をして、どのように報道するか想像してみましょう。父親探しが始まります。
父親と思われる人には取材陣が貼り付きます。もちろん、本人にも貼り付きます。
両親や友人知人、病院の先生にも取材が殺到します。そして、報道の内容は
好意的なものばかりとは限りません。場合によっては「略奪愛」なんていう
言葉が使われたりもすることでしょう。
こういうケースと比べてみたら、今回の「雅子さまご懐妊」にまつわる取材や報道は、
「静かに見守る」と言えなくもないじゃないですか。
前回のご懐妊騒ぎの時は、宮内庁の正式発表を待たずに報道が先行してしまいました。
彼らはきっと反省したことでしょう。「発表前に騒がずに、もっと静かに見守る
べきだった」と。今回は、宮内庁の発表を受けての報道です。ほら、「静かに見守る」
ですよ。
ということで、マスコミ各位が「静かに見守りたいものです」と言ったところで、
それはそれで彼らなりの論理はあるのです。彼らとしては充分に「静かに見守る」
を実践しているのです。少なくとも彼らの定義では、今の状況は「静かに見守る」
なんですよ。
問題は彼らの定義と我々の常識が掛け離れていることですね。この問題を
突き詰めていくと、報道の自由の問題に行き着いてしまって面倒なので、
突き詰めませんけど、我々の常識はマスコミの常識とは限らない、
ということは事実でしょう。
取材とか報道とかを何でもかんでもいっしょくたにして、報道の自由とか
個人のプライバシーとか言い始めると、収集がつかない事態に陥ります。
報道対象となる事柄、取材方法、報道の方法、などなどを、緊急性とか公共性とか
重要性とか、あるいは個人の保護とか、そういった物指しで測って分類するような
試みはなされていないのでしょうか? で、分類がされれば、基本的には報道の自由を
保証しながらも、「こういったケースではこういう報道が望ましい」といった、
国民的なコンセンサスを伴ったガイドラインも作れると思うのですよ。
適当に考えた名前ですが「報道分類学」みたいな学問はあっても良さそうですが、
私は寡聞にして、そういった学問は知りませんです。どなたかご存じでしょうか?
それはともかく、もしそういったガイドラインがあれば、「静かに見守る」
なんていう抽象的なもの言いではなくて、もっと具体的なことが言えると思うのですよ。
例えば、今回の件は公共性は高いが緊急性は低いため、これこれこういうタイプの
取材はお断り、これこれこういうタイプの報道もダメ、というように。
マスコミ側にとっても、とかく批判されがちな取材、報道姿勢に対して、
きちんと自分達の正当性を主張できる根拠として、こういった分類とガイドラインは
役に立ちそうなものです。
まあ、そのガイドラインが国民的コンセンサスを得られるようなものなら、
マスコミ側が取材報道姿勢を見直さなければならない場合が、
圧倒的に多そうな気がしますけどね。