今朝の朝日新聞の天声人語。
読んでない方はこちら。
この URL の付け方はちっとも URL になってないなぁ。経時的には全然
unique じゃなくて、この URL で目的の物が読めるのは今日、
2002 年 1 月 24 日だけで、明日になったらファイル名が変えられてしまうんだよな。
だっせー。上の URL で目的の天声人語に行き着かない場合は、
2002 年 1 月 24 日の物を探して下さいませ。
過去の天声人語をいつまでも掲載しとけ、とは言わないけど、せめて、
column-2002-01-24.html なんていう unique
なファイル名にしとけばリンクしやすいのに。アホくさ。
という話が本題ではありません。今朝の天声人語では雪印食品の牛肉詰め替え事件に
ついて述べています。まあ、それなりのことをそれなりに述べておりまして、
筆者の主張について特に異論はございません。
しかしながら、私が許せないのは最後の方にある「モー我慢できない」
であります。牛の話題だから「モー」です。はぁ・・・
犬の話題だと「ワンダフル」ですか? 猫の話題だと「ニャンとも」ですか?
ニワトリの話題だと「もうケッコー」ですか?
シリアスな事件についての論評でギャグかましたって、それはそれで構いませんよ。
でも、「モー我慢できない」はギャグではありません。
私の感性では呪文みたいなものです。
「モー我慢できない」と言われて、「ハッハッハッハッ」と笑う人が
日本中に何人いるのでありましょうか? 笑わないまでも、「モー我慢できない」
をギャグとして認めてくれる人は何割いるのでしょう?
多少なりとも不愉快に感じる人の方が多いような気がするのですが、
いかがなものでしょう? そこんとこ、朝日新聞はどう考えているのでしょう?
世の中の罪深いギャグとしては、しばしばおやじギャグがやり玉に上げられますが、
「モー我慢できない」はおやじギャグのレベルにすら達しておりません。
おやじはおやじなりに考えて、あるいは強い衝動に突き動かされておやじギャグを
発するのです。つまんないギャグですが、そこにはおちゃめさが感じられないことも
ありません。しかし、「モー我慢できない」には、共感できる部分が微塵もないのです。
ことは朝日新聞だけの問題ではありません。各新聞とも動物に関連した話題において、
「ワンダフル」「ニャンとも」「もうケッコー」といったダジャレと呼ぶことすら
出来ないフレーズを使用することは、ほとんど記者の義務であるかのごとく映ります。
犬に関連した記事を読みながら、出るぞ出るぞ、と思っていると、
やっぱり出ました「ワンダフル」です。オバケみたいなもんです。
いや、本当に不思議なんですよ。「動物関連の記事を書くときは、鳴き声に引っかけた
ダジャレを入れること」という規定でもあるんでしょうか?
もし私が記者だとしたら、そういうフレーズは絶対に使いませんし、
その記事原稿に赤ペンを入れられる立場だとしたら、
その手のフレーズはほぼ例外なく抹消ですからね。
規定めいたものがないとしたら、全く納得出来ないことです。筆者の感性や考え方、
それを校正する立場の人の感性、どちらも推し量れません。天声人語に
「モー我慢できない」と書かれていても、別に読者に実害があるわけじゃありませんが、
このようなカビの生えた呪文を義務のように常用している感性には、
真面目に恐ろしさを感じてしまいます。「そのギャグ、寒い・・・」
というレベルの問題ではなく、大げさに言えば、
新聞というメディアのおどろおどろしさを感じないでもありません。
もし、読者の方で新聞、マスメディア関係の方がいらしたら、「モー我慢できない」
的フレーズを義務的に使うことについて、メディアの側は何か明確な意図があるのか、
あるとしたらどうのような意図なのか、ご存じでしたら是非とも教えて頂きたいと
思います。
義務的でもなんでもなく、単に記者個人の感性によるものだとしたら、
それが義務的に映るということは、大多数の新聞記者の感性がアレということでして、
それはそれで大変に恐ろしいことであります。
天声人語といえば、大学受験の現代国語のモンダイの題材として使われることでも
有名ですが、今日の天声人語を題材にして、「『モー我慢できない』
というギャグらしきものについて論評せよ」なんていう問題を作ったらいかがかと
思うのでした。